中学生ホームレス暴行死事件の犯罪心理
報道によると、
「他(の少年)がやるので悪いとは思ったが、殴ってしまった。死ぬとは思わなかった」
と少年達は供述しており、警視庁では集団で襲ったことで特別な集団心理状態になり、暴行がエスカレートしたのではないかと見ています。
今回のようなケースは、集団心理、あるいは「群集心理」と呼ばれています。ここでは、一般的な群集心理について簡単に考えてみましょう。
*
匿名性:
自己の言動に対する責任感と個性がなくなること(無責任性)。
被暗示性:
暗示にかかりやすくなる。人に言われたり、その場の雰囲気にしたがった行動をしてしまう。また、人の思いがまるで伝染するように、共通した考えや感情を持ちやすくなる。
感情性:
感情的になる。論理的に考えられなくなる。
力の実感:
自分達が強くなったような気がする。
*
このような群集心理が、悪い方向に働いてしまうと、暴力や、パニックになるわけです。少年事件で言えば、女子高生コンクリートづめ殺人事件なども、集団の力が働く中で、暴力に歯止めがかからなくなった事件といわれています。
しかし、群集心理がいつも悪いわけではありません。一人では何もできないけれど、みんなの力でなにかできると感じたり、みんなで映画を見れば、一人でみるよりずっと楽しいといった良い面もあるのです。
集団心理・群集心理についてみなさんも調べてみてください。
報道によると、
「他(の少年)がやるので悪いとは思ったが、殴ってしまった。死ぬとは思わなかった」
と少年達は供述しており、警視庁では集団で襲ったことで特別な集団心理状態になり、暴行がエスカレートしたのではないかと見ています。
今回のようなケースは、集団心理、あるいは「群集心理」と呼ばれています。ここでは、一般的な群集心理について簡単に考えてみましょう。
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匿名性:
自己の言動に対する責任感と個性がなくなること(無責任性)。
被暗示性:
暗示にかかりやすくなる。人に言われたり、その場の雰囲気にしたがった行動をしてしまう。また、人の思いがまるで伝染するように、共通した考えや感情を持ちやすくなる。
感情性:
感情的になる。論理的に考えられなくなる。
力の実感:
自分達が強くなったような気がする。
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このような群集心理が、悪い方向に働いてしまうと、暴力や、パニックになるわけです。少年事件で言えば、女子高生コンクリートづめ殺人事件なども、集団の力が働く中で、暴力に歯止めがかからなくなった事件といわれています。
しかし、群集心理がいつも悪いわけではありません。一人では何もできないけれど、みんなの力でなにかできると感じたり、みんなで映画を見れば、一人でみるよりずっと楽しいといった良い面もあるのです。
集団心理・群集心理についてみなさんも調べてみてください。
(箱から出てくる物事の最後に“希望”が出てくるらしのですが)できる事なら一刻も早くパンドラの箱を閉じたいものです。何しろ本当に抜き差しならぬ所まで来ているのですから・・・・(何だか最後はキレイ事で締め括っちまったな。でも、この方がいいよな・・・)
果たして<近代社会>は人を封建社会からの服従から解き放ったのだろうか?
19世紀にJ.ベンサムが考察した一望監視施設に関するM.フーコーの考察がある。
この施設は監獄などに使用されるのだが、その構造は中央に高い監視塔、それを少し離れて円形に取り巻く形で独房が配置される。塔と独房には互いに向き合った窓があり、それぞれの窓は監視塔からは房の内部が見通せるが、独房からは監視塔の内部が見えないようになっている。囚人からは監視人がいつ見ているのかわからない。
これは四六時中監視されているのと同じ効果をもたらし、囚人はしだいに監視人の視線を内面化し、ついには自らを監視・従属させるようになる。つまりは、自己規律に従う事になり、主体化されるのである。
この場合、具体的な監視の内容は何でもよく、最終的には実際に監視人も要らなくなるのだ。支配-服従の関係は抽象化され、囚人の「監視されている」という“自意識”によって“自動的に”作動する事になる。
これほど見事な<近代社会>を表した例示もない。この例は近代社会における主体化が、実は新たな形の従属であるにすぎず、支配から自由になるのではなく、一段と抽象的な支配に服従するという事を示している。
近代的主体は共同体からは自由になるが、精神の自由、感性の純粋性、欲望の自発性といった内面世界の自律性が、実は共同体を越えた新たな共同体=国家という外的な模倣・強制によって実現される、というより可能になる。なぜなら近代文学、科学、学校、工場、軍隊、病院等の近代諸制度が、一望監視施設の機能と同じ役割を果たしている為である。この点において、個人と近代国家、個人主義と全体主義は対立するようで実は同じ源に由来している事がわかる。
そして、これほどストーキングという異常犯罪の効果を表現した喩えもない。ストーカーはこの心理を利用してターゲットに己の存在感、もしくは存在価値を宿らせようとしているのだ。そして、それはターゲットに自分の存在を受け入れてもらいたい、認めてもらいたいという要求にも捉えられる。もっとも、それをする事によって本来なら依存による劣等感に起因するものを優越感と勘違いすることで満足を得ようとしているのだが…(それを考えれば、集スト加害者も看守という立場に自分たちを置き換え、勘違いしているだけの囚人といえる。)
被害者の皆さん、どうかうろたえないで下さい。あなた方は大なり小なり自分達でも気付かない内に加害者の目を心に植え付けています。その意識に気付けば少しはハラも据わってくるし、相手の次の手も見えてくるでしょう。しかし、私には集スト達のあまりの頓珍漢(トンチンカン)な言い分ややり口にうろたえてしまうのだが…(あれじゃ正味な話、笑うことも呆れることもできん。)
もう一つ、要因にふれてみよう。
人々がなぜファシズムに熱狂したのか?様様な理由が挙げられるが、E.フロムは、ナチズムの支配下にあって、これに社会学的な一つの答を出した。
共同体の束縛からの解放は、一面では人に自由を与えるが、他方には人を孤独や不安の中に突き落とす。新たな近代化(ワイマール共和国)と共に興ったブルジョワジーは与えられた自由に充実を見出すことができたが、プロレタリアートには不安や無力を掻き立てられる以外になかった。(例えば、思想の自由は積極的な思想を持たない者達には何の意味もないどころか、主体となる自分独自の思想を持つことを強制されている。)
これの限界を超えると、人は超越した権威の対象に“同一化”や“積極的な献身”をすることで不安や無力を紛わそうとする。この「自由からの逃避」がファシズムの人間的基盤であった。同じ事はマッカーシズム(赤狩り)にもいえる。この場合ファシズムとは少し違い、仲間・集団や世論に対する承認と指針を求め、それらへの“過剰同調”に主な特徴がある。
そしてこれは集スト加害者・加担者の特徴に著しく一致する。見方を変えれば、麻薬(主義・主張を元にしたアイデンティティー)で頭を狂わせられ、鼻先にニンジン(実行グループ内での自己実現と称する不可解な満足)をぶら下げたウマの如く走らされているのだ。
近代に乗り出した動機は、間違いなく普遍的に開かれた社会を目指すことであった(共産主義もまた然り)。しかし、この普遍性もまた新たな共同体の要請を招き寄せてしまう。共同体は共同体である限り、どんな普遍的な理念を掲げても“閉じた社会として外部を排除”する(この点に集ストの基本構造と類似する点があると言ってもいい)。この開放と閉鎖の間でどんな関係が可能なのか?それが近代社会の未解決の謎である。こじつけのように見えるが、この“近代の見えない枠”は大なり小なり私達、現代社会の住人の精神構造に深く組み込まれているのだ。群集心理・集団心理を語る上で、基盤を担う大きな要因である事は否めない。
それにしても大体から集ストって、あんなにも大掛かりな展開・ある種の冒険をしておきながら内面は病的なまでに矮小ってどういう事なんだ?そこら辺の引き篭もりの方がよっぽどある意味で外交的だし、第一まともだ!?