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港cafe〜☕️

2024/09/01 父のこと

昨晩寝る時に,日付を見て父の命日を思い出し。
この数日、頭に入っていたものの,その時にはすっかり忘れていた。

特にこの数年、私には色々あって、いつも父にお願い事というか、心の中で話しかけていたことが多かった。
父は、私を・家族を大切に思ってくれていたと思うけど,私のことを本当はどう思っていたのかはわからない。怒られたことはほぼないし、褒められたこともほとんどない。ただ温かく見守っていた みたいな立ち位置である。

兄に障がいがあるため、私への期待値 というか、自立心を求める気持ちは高かったと思う。
やりたくもない習い事や、小学校低学年からの塾に行かせる(塾など行かなくても勉強できたのに)のはいつも母で、私はそんな母の半ば言いなりのようだったし,愛情深い人ではあるけど気性が激しくて振り回される私のことを、時折 可哀想だな という目で見ていたこともなんとなくわかった。

でも父は教員で忙しく,子供のことは母に任せていたんだと思う。

父が教育委員会→教頭→校長という時期は,私も思春期真っ只中で、あんまり気にかけたことはなく,体調が悪くて入院したことや手術をしたあたりはうろ覚え。
仕事をしながら一日4度の透析をし,大変そうだなとは思っていたものの,死に関わるような大病だとは思ってなかった。
医師に塩分の少ない食事を勧められて,一時期、夕食は父だけ 届けられる専門食のお弁当を食べていたことがある。うちは、もともと母が料理嫌いで,私が中学校に上がったくらいからは仕事が忙しくなってきて、テーブルにはいつもお惣菜が並んでいたし,父に合わせて特別に料理をすることなどなかった。

正直に言えば,私は,母の作るご飯を、美味しいと思ったことは一度もない。だから"お袋の味"というものがない。
毎日の給食を美味しいなと思っていたくらい。

でも、私と同じO型の父は、食べることが好きで、美味しいものに目がないためにお弁当をすぐにやめて、好きなものを食べることにしたようで、もしかしたら病気には良くなかったのかもしれないが、好きなものを食べて死にたい と思う父の気持ちはよくわかる。
ストレスのたまる仕事だったこともあるんだろうけど、もはや透析がある以上、自由には動きまわれない父にとっては、美味しい物を食べることくらいしか楽しみがなく。食べることを我慢する という制限を捨てた父は、もしかしたら、寿命を数年伸ばして普通に死ぬよりもちょっとは幸せだったのかも、と思う。思いたい。

そんなわけで、父は、夏休み中の8月半ばに家で倒れ,夏休みが終わる8/31に容体が急変し,新学期の始まる9/1に亡くなったのである。
最後まで学校のことと仕事のことを気にかけておりました。
定年退職まであと2年,でした。

亡くなる3日前に見舞った時には,寿司が食べたいと言った父。
2日前には,私を看護師さんだと思って、暑いので着替えさせてください と言った父。
点滴を抜いてしまうので手をベッド柵に縛られていた父。
9/1の早朝に駆けつけた時には,心臓マッサージを受けていた父。


父の1番の気がかりは,やっぱり兄のことだっただろうなと思う。だから、私は、母と兄のことは見捨てちゃいけないと思っている。でも、私にとっての1番は私の子供達であり、そこは今年に入って折り合いをつけて、母と兄の全てを抱え込むのではなくやれることだけ にする と決めた。
父もわかってくれると,確信している。

そしておじいちゃんに会ったことのない私の子供達と、笑い合って過ごしているその瞬間瞬間に、感謝が生まれる。
父がいたから、いまがある。


ちなみに、お恥ずかしながら,私は父のことを"パパ"と呼んでいた。だから、

パパありがとう😊😊😊


季節が落ちついたら、お墓参りに行きます。
真夏のお墓は、とてもじゃないけど行きたくない(笑)




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