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首領日記。

思い出の味はいつもほろ苦く、そして甘い

そして、眠れぬ夜と孤独な昼下がりのために(4)

2008年11月19日 03時07分47秒 | 文章。
「俺に言えるのは可能性と蓋然性の話だけだ。言語の存在は俺でない『他者』の存在の証明にはなっても、お前がその『他者』の一人であり、ゆえに俺の妄想の産物でないという証明にはならない」
「それでいいわ。聞かせて」
「いいだろう。雑に言えば結論は二つで、どちらが正解らしいかの確率も判断できない。要するに、お前があのとき俺が『喰』った『キィエルテディス』かどうかということだが」
頬はつかまれたままだ。
「この問題を便宜的に身体と意識という二つの観点から整理してみようか。さっきから仄めかしているように俺は心身二元論否定派だが、それは今は置いておこう。一つ目。『身体も意識も同一である』。これならお前は紛れもなく『キィエルテディス』だということになる」
続けて、と眼が言う。
「二つ目。『身体は同一だが意識は同一でない』。この場合お前は『キィエルテディス』と同じ身体を持った別の個体ということになる」
「……待って。アンタの言う『身体』は何を指してるの?」
聡いね。
「お前の元の体は確かになくなっている。現状に即するなら『同一』と言うより『連続している』と言うほうが正確だな。つまり以前の俺が信じていたようにお前の体を分解し情報化したと考えるのではなく、単に俺の内部に物質的に取り込まれたものと考えて、そこに『自分はキィエルテディスだ』と勘違いした意識がある場合になるか」
吐く息が白い。
「ここで問題が出る。『単に俺の内部に物質的に取り込まれる』とはどういうことか、ということだ。言い換えれば、通常の食事と俺の『喰』との間の差異として、俺の『喰』に対象の生物的連続性の担保機能を認められるかどうか、ということだな。一つ目の場合にもこれは同様に当てはまるが、ここで議論は行き詰まる。心の証明と同様、生物的連続性の証明も不可能だからだ。それらしさの推測は可能かもしれないが」
「同じ生き物かどうかなら、アレが使えるんじゃないの? えー、……ディー……ディー……DHA?」
それは魚類に多く含まれる不飽和脂肪酸だ。
「DNAか。そのあたりは詳しくないが、確かあれは生物の構成要素の配置パターンの記録として機能する分子と理解すればよかったはずだ。つまりDNA型鑑定は生物としての構成の同一性検証には有用だが、そこ止まりだ。初期構成が同一な別個体である一卵性双生児の事例を考えればいい」
「何で急に腸詰めの話になるのよ」
「ソーセージじゃねぇ。……あれだよ、すげえよく似た双子いるだろ。あれだよ」
「だったら始めからそう言いなさい」
負けた気分になった。何故だ。

そして、眠れぬ夜と孤独な昼下がりのために(3)

2008年11月17日 01時40分31秒 | 文章。
「論理的に、筋道が通るように、間違わないように、……お前に言わせれば『まどろっこしい』やり方で考えてみた」
考えられる程度には、気付くことができた。
「お前たちに、……お前に、何故二度目を与えて良いのか。本当に与えて良いのか。与えられるのか。そうであっても、そうでなくても、俺に何ができるのか。何をしていいのか。
そう考えると、まず考えなければいけないことがあるとわかった。“今の”お前たちは何なのか、ということだ」
「今も昔も私は私。それじゃいけないかしら」
「だめだ。俺が言いたいのは、分類の問題、属性の問題だ。そうだな、ちょっと問い方が悪かったか。俺が求めたいのは、『今のお前たちは“どう”なのか。それによって“何”と呼べるのか』ということ、だな」

続けて、と彼女が目で促している。いつものように。
嗚呼。

「さっきの話の発展になるが、生物を、意識存在を『身体』と『精神』に分けられるというのは間違いだ。おそらく俺たちの指先から心までのすべてはひとつながりのものだと考えるのが正しい。身体と精神の二分は、喩えるなら枝と葉を二分するようなもので、つまりそれらは一連のグラデーションの中で違う位置にあるというだけ、と考えるのが妥当だ。
だから俺は、昔の俺を否定する。俺の血族の伝説を否定する。死んだ肉体から生きた魂だけを分離させて抜き出すなど、机上の空想だ。魂だけを選別して文字のように保存しておけるなんて、戯言だ。
お前たちは、俺が死んだお前たちの肉から『喰い出して』とっておいた魂の情報などではない」

これで、俺一人になった。
ここからは俺一人だった。
もう誰も俺を無条件で認めてはくれない。

「自分で歩け」と、そう名付けてくれた母に俺は感謝している。


「ではお前たちは何なのだろう」
これは残酷で、だから、優しい言い方なのでは、と俺は思う。
「お前たちは、『お前たち』から、お前たちのもともとの存在から俺が食い千切ってきた残存物か。
それとも、それによって変質した別の新たなお前たちなのか。
……それとも、『お前たち』はあのときやはり死んでいて、今のお前たちはただ俺が作り出した、妄想の人格なのか」
「私がアンタの妄想、ね」
彼女は嘲るように(何を?)呟き、サングラスを外して胸のポケットに入れる。俺を見る。
「そうね、例えば、私はアンタの知らないことを知っているはずだけど」
「それは何の証拠にもならない。俺が忘れたつもりになっているだけの知識を、お前を通じて自分自身に思い出させているという可能性もある」
「私はアンタの考えを何度でも裏切れる」
「同じく、俺が考えつかないつもりになっていればそれも許容範囲だ。雑に言えば自我として『俺』と自己認識する意識と、無意識下の潜在物まで含めた総体としての《俺》がある程度区別できるならいい」
「『本当の俺』?」
唇から漏れる嗤い声。
「違う。そういう情けない願望ではなく、可能性と蓋然性の話だ」
「起こりうるか否か。そしてどの程度起こりうるか?」
「そうだ」
「で。『本当の俺』は居そう? 居なさそう?」
「わからん」

彼女はその答えに笑うと思ったが、違った。
また俺の心を。

「好きで読んでるんじゃないわ」
「それも読んでるから言える台詞じゃ――」
「私はね」
遮ったのはいつもと変わらない眼差しだった。

「アンタの答えが聞きたいの」
こちらに歩み寄った彼女は――身長差で見下ろされる形になる――、俺の頬に手を添えた。顔をつかまれたと言ったほうが正しいかもしれなかった。てのひらが冷たかった。視線がこわかった。それが俺は嬉しかった。

そして俺は、
「答えなどない」
お前に嘘はつかない、と言った。優しい嘘くらいつけばいいのにと自分でも思いながら。

梔子。――Metal (in 「エジュー・グラフィティ」)

2008年01月18日 11時53分57秒 | 文章。
「終わったの?」
「ああ、終わった。ようやくというか、あっけなくというか……」
執務室の机に突っ伏しながら、まるで老爺が風呂に浸かるときのような声で答える。

疲れた。
言葉の中身だけでなく、その襞や届け方、そして身振り手振り、目線。
表出する全てに気を張れ、というのは、なかなかに暴力的な要求だ。
『領主シュアリー』、ね。

はいはい、お疲れ様、俺。
ああ、お疲れ様、私。

キィエは部屋の開け放った窓枠に腰掛けて、雪景色の城下を眺めている。
寒いので早いとこ閉めて下さい。


国内のどこに敵が潜んでいるかわからぬ、ということで布かれていた戒厳令も既に解かれている。解いた。町は革命の熱をどこかに浅く帯びたまま、それでも急ぎ足に混乱の収拾をはじめようとしている。
彼らには生活があるからだ。

俺にも積み上げられた灰のようなこの書類と仕事の群れが残されている。
元通りになるはずなどない。

すべてが変わってしまった。
すべてが変わっていくだろう。形は目に見えなくても。
すべて変われ。それが俺の望み。


突っ伏した机の、積み上げられた書類の隙間に、視界の端に、ずっと彼女が映っている。
荒事の匂いを嗅ぎつけたのか、革命が起こってからずっと、彼女はこの執務室で何かを待っているようだった。俺の中では待ちきれなくなったのだろう。
だが革命は、戦闘事態に突入する前に終わってしまった。ご愁傷様。
「……」
すいません、マジすいませんでした。横目で睨まないで下さいすいません。

はぁ、と溜息が聞こえた。

「そう焦らなくとも、始まったら呼んでやったのに」
呼ばなければ怒るから。
彼女は何も答えない。

さて、さっさと片すことを片すか。
やることをやって後顧なく眠りたい。しばらく何も考えたくない。
『先のことをどうするか』。ときどき忘れながらでなければ人は生きていけない。
先にあるものなど決まっているのだから。




6月12日。戦火の爪痕に、梔子の花が咲いた。
蟻を呼び寄せる、と嫌われる花だが、初冬にひび割れぬ実をつけ、熟した果実は黄色や青の染料となる。
梔子(クチナシ)の語源はこのひび割れぬ実から。つまり口無し。
あるいは、クチナワナシから変化したという説も。

クチナワのナシ。
蛇くらいしか食べない果樹。

野火。木枯らし。そして病は着々と ――Tempest‐ego

2007年11月27日 05時30分51秒 | 文章。
(注)
外間に書いたらIFに消されたアレです。
つまりその程度にはアレなアレなので反転で書いとく。
読むときはその旨了承してな。










《戦況……周りの様子はどうだ?》
《ぐちゃぐちゃね》
脳裏に問うた言葉への答えは簡潔だった。
《しばらく歩いて見たけれど、どっちがどっちだかわかりゃしないわ》

むべなるかな。
簡易テントの薄暗がりで、地図に書き込まれた動線は絡み合って判別するだけでも一苦労。自身で正門に一撃離脱してきた際にも見たが、戦場はもはや何がなんだかわからぬ有様だった。
少し駆け足過ぎたかな、と思う面もあり、だがこれ以上進軍を遅らせるわけにはいかなかったとも思う。いや、問題はむしろ別のところか?

《揃いの軍服を着て、火を投げている方がわかるか?》
《黒っぽい服のほう?》
《それが味方だ。間違えるなよ。お前のほうはウチの軍服だから、誰から見てもわかるはずだが》
それにしてもおとなしく軍服を来てくれたのには助かった。妙な面倒に巻き込まれずに済むし、妙な面倒を起こされずにも済む。
《ただ嫌いじゃなかっただけよ》
だから心を読むな。

ともあれ。
デルフィナが諸島を支配下にして日は浅い。
軍服など作っている暇はなかったろうし、聞いた限りでの内情を鑑みるに……作っていても着る人間は少なかろう。
少なくともこれで、この子と味方が同士討ちになるような間抜けは避けられる。

テントを出て、遠方の主戦場に眼をやる。
ジャピトス‐ディアルゴ境界線からジャピトス側に下がること数里。高台に張った凍牙遠征組の陣からは、主戦場となったディアルゴがおおよそ一望できる。
戦火の群れと、遠い怒号に包まれた島々。

こうして見れば……恵まれない土地だな、あそこも。
まぁ、あまり人のことは言えないが。



《向こうの大将の言葉じゃないけれど……酷いわね。少なくとも観光に来たい場所じゃないわ》
脳裏に響く、特に抑揚も無い彼女の声に、
《「美しい砂浜」?》
声に出してさえいないのに、言葉に笑いが雑じるのがわかる。
何だろうな、これは。

《死体。死体。死体。折れた鉄屑。腕。死体》
彼女が呟く。
《波打ち際にはあまり寄りたくないわ。服がべっとりになりそう》
《他には?》
《もっと聞きたいの? こんな言葉が》

ああそうだとも。

《……は。気が知れないわね》
彼女はわかっているくせにそんなことを言う。

《――いいわ。お望みどおりに致しましょうとも。
羽が片方もげたオスが寄って集って斬られてる。目まで潰れた相手に4人も必要ないと思うけれど。腕が落ちた。海の中に倒れこんで、ああ終わったわね。私の後ろで火の玉をずっと投げ続けてるオスはなかなか上手いわ。もう10人は焼いた。おかげでこのあたり全部焦げ臭くて酷いけどね。あの腐った竜のと混じって鼻が焼けそう。地面中に穴が開いて歩き難いったらありゃしないわ。ときどき上から人間が落ちてくるんだけど落ちた拍子に海の飛沫がかかりそうになって本当に嫌になる。そこの子供は体中に湧く蛆を喚きながら払い続けてる。肌がもう残ってないからなんだか肉達磨が踊ってるみたい。さっきからずっと私の周りをうろついているメスがいるんだけど、あの子に自分の顔の場所を教えてあげたほうがいいかしら。隅に落ちてるメスの死体には裸がやけに多い。片足を落としたまま男たちに引きずられてるのもいるわ。戦場で人間のメスは悲惨ね。と、何か黒いものが飛んできa??a・。・/,,,,,,,,,,,,,,,》

偏頭痛のようなノイズが入って、俺は思わずこめかみを押さえた。



「どうかなされましたか?」
心配顔の兵士が傍らから覗き込んでくる。
「……いや、大したことは。少し頭痛がね」
「お疲れなのではないですか? テントの中でお休みになられては?」
「ありがとう。大丈夫だよ」
彼に手のひらを軽く掲げて、脳裏に声を投げる。


《キィエ、無事か》
《――まったく。私が歩いてたあたり全部消えちゃったわ。あんにゃろう》
無事らしい。
相手は重力系か消失系か。
《勝てそうか? アレなら逃げろ。こっちで回収してもいい》
《冗談でしょう?》

左様ですか。


《なら息の根を止めろ》

そして、眠れぬ夜と孤独な昼下がりの為に(2)

2007年06月03日 14時20分16秒 | 文章。
――2007/05/26。

開国から、八十八日。
既に五月も終わろうとしているのだが、ブーツの裏側をつつく感触は未だに霜柱のそれだった。
眼下の景色では白以外の色が三割にも満たない。
白雪で出来た山道はそれ以外と区別がつかず、脇に立つ、一年のほとんどを葉を纏わずに過ごす木々が唯一の道標である。
幸い今は雪が降ることをやめているが、少しでも強い風が吹けば巻き上げられた雪片を遮るものはない。
視線を上げれば、灰色の空と白染めの山々が、うすぼんやりとした稜線を十重に描いている。
吹き曝しの、傾斜の緩くはない坂道を、俺はキィエと歩いていた。

「覚えがあるわ。この道」
体と腕を伸ばしてぎりぎり届かない程度に先行した彼女が、向かいの山の側面とその麓の谷に視線を遣って呟く。
風に暴れるのを嫌って、クセのあるその黒髪は後頭部のあたりに纏め上げてある。
そのせいか、肩のストール越しの横顔に顎のラインがくっきりと見えた。

なんとかというブランド物のゴツいイエローのサングラス、カラフルなストール、男物の白いブルゾンに暗色の巻きスカート、デニムに女物のサンダル。
もう俺の眼にはセンスがあるんだかただ派手なだけなんだかよくわからない格好だったが、この女が着ているだけでサマになってしまうから困る。
結局のところ重要なのはバランス感覚ということなのか。
しかし、いずれにせよ山に登る格好ではなかった。
こいつにとってそんなことはどうでもいいのだろうが。

「二度目だからな」
そして、今そうであるように、何かあるたびに軍服に頼ってばかりの俺には、彼女の服に何かを言える筋合いがない。

手元の地図に目を落としては、それに示し合わせるように周囲を確認する。視界が遮られているときには『風読み』も使うが、基本は目視。
測量はまず間違っていまい。それはわかっている。
しかし、地図で見るのと自分の眼で見るのでは情報の質量が違う。
以前一度訪れているだけに、先入観をもって臨んでしまうのも怖かった。
いつだってそんな過ちが全てを決めてしまう。

「何か感じるか?」
歩きながら前方のキィエに尋ねる。
「そうね――」
彼女は俺に背を向けたまま立ち止まり、顎を上げて目を閉じる。鼻に冷たい風をゆっくりと吸い込む。
そして同じく立ち止まった俺へ鷹揚に振り向き、
「きれいになったわ」
「何が?」
「色々」
色々、ね。

再び俺たちは歩き出す。
霜を踏み潰す音が辺りを支配している。振り向けば二人分の足跡が白く延々と続いている。

*

少し開けた場所に出た。
山並みの隙間から、赤い屋根ばかりの村落が遠く見えた。建物はまだどれも壁の色合いが新しい。『粛清』後に住み着いた者達の家だ。
ちらりと視界に入った色に目を凝らすと、お揃いの黄色い鞄を背負って歩いている子供達が見えた。多分兄弟。時間を考えれば、おそらく学校からの帰りなのだろう。

学校。
現状、国内制度は軍備と法制に手一杯で、その他の分野はほとんど置き去りに近い形になっている。
富国強兵を考えるなら、教育にも早いうちに手を付けなければならないだろう。
初等教育から大学まで、科目と制度と予算と、何より教員が要る。魔術に関しては特別な学府が要るだろうし――

ふと。視線を戻すと、キィエが何かほんの少しだけ意外そうな顔で俺を見ていた。
「ん? 何?」
いいえ、と彼女は前置きして、
「アンタが、政治家みたいなこと考えてるから」
「みたいっていうかそれそのものなんだがどんだけ適当な理解だよお前……」
「別に興味ないもの」
ああ、いつもながら……。

*

それからまた半刻ほど歩いて、
「ここも、二度目」
「ああ」
エボト山の背から足までを延々と埋め尽くす剣墓の群れ。
大小長短から纏うオーラまでさまざまの剣たちが、墓標代わりに白い山肌に突き立てられている。
ラピスアイズ政権、あるいはそれ以前から存在するとも言われる、“剣の峰”と呼ばれる場所だった。
カイゼルオーンの戦士たちは死してここに眠り、ここに共に眠るために死ぬ。
『「剣の峰で会おう」というのが死地に向かうカイゼル戦士の合言葉なのだよ』、とか知り合いは言っていたっけ。
まぁ色々な裏話を聞き出すためにべろんべろんに酔わせたあとの話だったので、酒の勢いで適当なことを言っていただけなのかもしれないが。

いずれにせよ、何度見ても壮観――あれ?
「……びみょーーーだけど減ってね?」
「何が?」
同じく墓標の剣を眺めていたキィエが尋ねてくる。
「いや、剣が。前来たときはもうちょっと多かったような……」
「そうだっけ?」
無関心に返してくるキィエを置いて墓標の群れに向かう。
それから、群れの中でなんとなくあたりをつけ、しゃがんでそっと地面の雪を払う。
ここは違う。
少し歩いて、またしゃがむ。
ここも違う。
少し歩いて、また払う。
んー、ここも違うか。

「何してるの?」
のんびりと追いついてきた彼女が尋ねる。
「跡探し。誰かが抜いたのなら地面に穴が残ってるはずで……」
「アンタの尻の下のは?」
「……」
しゃがんだ姿勢のまま右足を一歩下げて――あった。
「良かったわね」
俺はゆっくりと腰を上げ、
「……うん、超ありがとうね」
「どういたしまして」
せめて微笑みながら言ってくれ。

*

それから周囲を同じように探して、地面に開いた剣跡を3箇所見つけた。
探した範囲が剣墓のある地域全体に占める割合を考えると、全体で約60本が無くなっている計算だった。
まぁだいぶ適当な計算なので全く当てにはならないが、本数が減っているのは確かだ。

確かに、戦士が自分の墓標に頼むくらいだから、ほとんどは眠っている彼ら自身の愛剣だったのだろうし、持ち出して売ればそれなりの値も付こう。
あるいは、縁ある誰かが形見に持っていったか。

いずれにしてもこのまま放置はできない。
ただでさえ人員不足なのだが、誰か墓守を任ずるしかないか……。

「これ、墓なのね」
剣の一本に指先を滑らせながら、キィエ。
「ああ、カイゼル兵のな」
彼女はそのまま指先で剣の鍔をなぞり、柄にてのひらを絡ませて、
「人間って、どうして墓を作るのかしら」
きしりと地面から抜いた。

「ここには死体の無い墓もあるんでしょう?」
「ああ」
むしろ体の一部でもあるほうが稀だ。魔力行使を前提とした戦闘が発達してから後は、兵士の死体はあまり原型を留めなくなった。
「ならこれは、何?」

墓場の意味は。

「人間は、人間を肉体と精神、あるいは霊魂という二つか三つの要素に分割できると考える。そして肉体が失われても、精神や霊魂はそのままか、もしくは多少の変化を受け入れつつ世界に留まり続ける、と。
墓地はその肉体を失った精神や霊魂が収まる場、そしてその霊魂と生ける人間の接触が図られるべき場として製作されてきた」
あるいは、
「機能面から言えば、生きる人間の死への恐怖を和らげる意味もある。もちろん墓地は死んだ人間のことを思い出し、悼む場だが、生きている人間はそれを見て『自分も死ねばここに収まるのだ』と説得させられる。それは間に疑念を挟んでもなお、死後という未知を仮初の土で埋めてくれる」

彼女は抜いた剣を胸前に捧げるように持ち、刃を見つめながら、
「死んだ人間のタマシイは、冥界に行くんじゃなかったっけ。アンタたちの考えでは」
「そう考えている人間もいる。その視点からは冥界軍の門番などが証拠として上げられることが多いな。だが、」
風が吹いて、俺は瞼を細めた。
吹き上げられた雪がちらちらと舞っている。
「――だが、俺は正直懐疑的だ。魂が冥界に曳かれる、ということについてはな」
「どうして?」
「客観的な証拠が無い。『冥界の門番に知った名の者がいる』というが、それは本当に生前のその人物と同一なのか、これは証明できない。倒すと奴らは雲散霧消してしまうし、機械や魔術による分析のアプローチにも成功例はない。
また、魂とはなんなのか、人間の前にそれがどう現出するのか、それも説明しえない。魂を見る能力を自称するものは多いが、個人的な、そしてそれゆえに他者との間で非対称的な能力で共通の言葉を語ることはできない。
その割に、魂が冥界に曳かれるという言説が一般化しすぎている。それがかえって怪しい」
彼女は剣から俺に視線を移し、
「……布教者がいる?」
正解。
「『論理によって実証できない言説への信頼』。迷妄の危機を省みらずにはいられないな、俺なら」

キィエは無言で、続きを促す。
「一方で、」
俺も従う。
「心身二元論と今言ったような墓地の概念も矛盾している」
「?」
「まず、人を『外部=身体』と、『身体と一定の繋がりをもちつつも他者から観測されない、当人のみによって体験される内界=心・精神・霊魂』に二分するのが心身二元論だ。ここまでは?」
彼女は無言で促す。
「では続けよう。俺たちの日常的実感からこの理論は実に的を射ているように見える。『あいつの体は俺にも見えるが、あいつの心は俺には見えない』。魔術の多くもこの精神の単独観測性を根底に置いているんだが、まぁ今は置いておこう」
彼女は無言で促す。
「さて、心身二元論によれば、心は身体と区別された内界であるから他者からそれは確認できない。……ならば心があるとはどういうことだろう?」
彼女は少し考えてから、空いていた手を胸に当て、
「私のこの、これがあるということでしょう? ……まあ、今は違うんだけど」
薄く苦笑したくなる台詞だ。
「今は仮にお前が生きているとしようか。そうすると、まぁそう考えるのが普通だな。お前のそれと似たものが、」
俺はこめかみを指先で叩き、
「俺のここにも入ってる、と、俺は実感している。お前にも同じような実感があるだろう?」
「そうね」
だが、
「それが罠だ。……お前、俺の心の存在を証明できるか?」
彼女は眉根を微かに寄せて訝しみ、
「証明も何も、ときどきアンタのほうから漏れてくるあれは――」
声を止める。

「そう。『それは本当に俺の心である』と証明できるか」
不可能だ。

「心身二元論はそうして、『他者の内界の存在は不可知である』という結論を招く。さて、ここで墓地の話に戻ってみれば、墓地は在るのか無いのかもよくわからない霊魂を祭っている、ということになる」
「間抜けね」
「そうだ。墓地は霊魂の存在を前提としているのに、人間を身体と霊魂に分割すると、霊魂の存在/非存在が知りえなくなる。ここでも理論の跳躍が起きている。『あるのかないのかはわからんが、あるものと信じる』、というな」
本当は心身二元論自体がもう破綻してるんだが、ま、説明めんどいのでそれはまた今度だ。

雪の覆う地面を明暗の境界が走る。太陽が雲に隠れてゆく。

「じゃあ」
彼女は無表情に尋ねる。
「アンタは墓場をどうでもいいと思ってるの?」
「いいや」
俺は彼女がさっきやったように、手元の墓標に触れ、
「アニミズム的な他者論を排除しても、墓地には意味がある」
それは

「死と記憶への敬意だ」

*

「死と過去と言っても良い。それは翻って生への敬意となる。非常に単純にまとめれば、最終的な死が生を裁断し決定することは、実は生に一回性を与えることによって生を尊厳の対象たらしめている」
「『命は一度きりだから尊い』?」
「安っぽい言い方だと、そうなるわな」

「それなのに」
彼女が判別のできない笑みを浮かべる。
「アンタは、私に“二度目”を与えようとしてる」

いつかは向き合わなければいけない問いだった。

愚かしく、そしてありがちなことに、
俺がそれに気付くまで、あれから五年も経ってしまったのだ。

そして、眠れぬ夜と孤独な昼下がりの為に。

2007年06月03日 14時19分12秒 | 文章。
――2007/05/19。

開国からもう80日。
とは言えど、あっという間だったというほど何もしなかったわけでも、時間の流れを意識できないほど多忙だったわけでもない。
自分なりにやってきただけだ、と自分では思っている。

 自分なり。……ハ。


生活はすっかり変わってしまった。
住所は変わっていないが、自宅に帰るのは良くて二週間に一度。カイゼルとサンライオでは、日帰りには少し遠い。
留守番は使い魔たちに任せている。伝言は彼女たちが伝えてくれるので、その点については問題無い。まぁ気がかりといえばカティがまだナルルゥとケンカしていないか……いややっぱりどうでもいいか。
低密度とはいえ、使い魔を複数同時に、三週間は遠隔で維持できるようになった。
俺は確かに進歩している。
ただ、この速度で間に合うのか。この速度のまま行けるのか。どれだけ時間を注いでも足りない気がする。
焦る無意味さがわかっていて、それでもこんな迷いがいつまでも忘れた頃にやってくる。
そういう意味では進歩が無い。


家に帰らずどこに泊まっているかというと、王城(名称はまだ決まっていないが、『アイゼンレーゲル』が有力だ。『鉄の掟』の城。悪くはない)内の執務室を半私物化している。その執務室にも三日に一度はいないのだが、そういう日は……ええと、忘れた。
都合の悪いことは忘れるに限る。

食事は自分では作らない(というか何かの呪いのように作れない)。
俺は人生のすべてを他人の手で作られたもので走っている。
昔は毎日同居人が料理の腕前を揮ってくれていたのだが、彼女は既に去っている。

今は、執務室に泊まる日は兵舎の食堂を。そうでない日は、それなりに。
買い食いと慣れない味の手料理。その繰り返し。

もう一度あの味が食べたい。絶対に叶わないと知っているが、それでも。
違う。愛しいのは味ではない。

郷愁を恥だと思うのは正しいのだろうか。
そう思っていた自分がいたのに、今はそれもわからない。
正しさの証明はどこにも落ちていない。
煙草の匂いがほんの少し香る気がするあの刀。あの刀をまだ俺は捨てられない。
陽光の香り。摘み取った実の甘み。羽根の色。あの時間を、まだ俺は捨てられない。

炎の向こうに捨て去ったつもりで、思い出は捨てられるものではなかった。
忘れたいと願うほど心は自らを刻み付ける。
忘れまいと願っても、気を抜くとどこかに奪われている。

あの日何故今の俺がいなかったのだろう、と。

いつもそうだった。いつもそう思う。
これまでも。これからもそうだろう。
せめて懐かしむことを肯定できればいいのに。

*

ふと目を開けて時計を見る。
時刻、午前5時。白み始めた空が、俺の執務室を染めるように浮かび上がらせている。
突っ伏していた執務机から身を起こし、背凭れに身を任せて背後の窓へ腕をかざした。窓枠に切り取られた空に手のひらの影が加わっただけだった。光が弱すぎて何も透けない。
透けるような赤を自分が持っているのかわからなくなる。

土に馴染んだ手だった。
斧に馴染んだ手だった。
血に馴染んだ手だった。

どれも自分だった。
今となっては思い出すのも難しい。


姿勢を前に戻し、なんということもなく廊下への扉に右手を掲げる。
“起動”。
右手は既に槍を掴んでいる。

モデルとするのはヘルハン時代に先達から譲り受けた「氷姫の宝槍」。
物質顕現も魔術である以上、使い慣れたイメージしやすいものが良い。
もちろん手元に出した槍の質は量産品級でしかないし、色もあの美しい薄青ではなく、鋼のような黒だが。

もう槍を手入れする時間も必要ない。
あの身体に作業を任せて物思いに耽る時間は、好きだったような気もするのだが。


そういえば、あれも先輩に倣ってまた別の後輩に譲ってしまったのだっけ。
もう顔も名前も覚えていないが、どこにでもいる女の子だった気がする。

彼女、まだ生きているだろうか。


残っていたりいなかったり。
どれが大事でどれが違うのか。
自分で選んだようでいて、何もかもがただ流されているだけだとしたら。

……だとしたら、俺たちはどうやって選択を手に入れられるのだろう。

彼女の雨模様。(3)

2007年03月23日 04時55分15秒 | 文章。
少女がつぼみのような唇を水色のパイプに押し付けて息を吐く。
大小の泡が飛ぶ。
雨に押しやられてできた弱い風に乗って泡は樹の葉の隙間や雨の間隙に飲み込まれる。
そして私の下へも。
だが今度は届かずに散る。

見つめる私に気づいたのか少女がパイプを咥えたままこちらを見た。
前は眉の上で横は耳を隠す長さの赤みがかった栗色の癖毛。
淡いグレーの瞳と桃のような頬。
少女がもう一度泡を吐く。
音にならない吐息で笑っている。
私は肺に湿った空気を詰め込んだ感覚になる。

「それ何?」
私は疑問をそのまま口にした。
少女はもう一度ゆっくりと泡の玉を浮かべてから言った。
「それ?」
「お前が咥えてるの」
少女は首を傾げるようにしてから、
「シャボン玉」
「しゃぼんだま?」
「シャボン玉」
「……全然玉って感じじゃないわね」
少女は人間の言う『きょとんとした顔』をしてから可笑がるように言う。
「違うよ、お姉ちゃん。飛んでるのがシャボン玉。これは――」
少女は水色に塗られたパイプを見つめてから私に視線を向け、
「……えと、シャボン玉、を飛ばす、やつ」
知らないのか。
本当の名などなんでも良かったので私は「そう」とだけ返した。

少女はシャボン玉を飛ばすやつの先を片手の皿に浸してもう一度吹く。
息の吐き方は子供が戯れに蜘蛛の巣に吹きかけるのと似ている。
無数にシャボン玉が飛ぶ。
灰色の泡の表面に私の顔が映っている。
雨空に撃たれて泡は消えていった。

少女はパイプの先を皿に浸してまた吹く。
吹き飛ばすよりも弱く。押し出すよりも強く。
無数の泡がもう一度私を映し出す。
無数の金色の眼。
熱の色に喰い融かされた陽炎。
束縛の証。
束縛の私。
雨粒に穿たれて私の群れが消える。


もう一度飛ばすのかと思ったが少女は次の泡を飛ばすのをやめてベンチの上で膝を抱えた。
そして少女は膝の頭をもじもじと擦り合わせ始める。
ときおり手のひらに息を吐きかける。

雨も止まないので私は手元の雑誌を再び読み始める。

*

言いたいことはわかる。

*

読み終えた。
若さとは良いものだ。
殊に肉体的な面では。

ふと目をやるとさっきの少女がまだいた。
さっきよりも小さくなってさっきよりもじもじしている。
吐く息は変わらずに白い。

雨が降っている。

「帰らないの、お前」
暇になったので声をかけてみる。
少女は白い息の向こうで答えた。
「待ってるから。お母さん」
そう。
みんな似たようなものね。

「あげるわ」
私はマフラーを取って少女に投げる。
「え、……でも」
どうせ貰い物なのだ。
まだそうではないが私が強気に出れば坊やはどうせ引くので同じことだ。

何も言わない私を見て少女は
「ありがとう、お姉ちゃん。……何か、お礼できることあるかな?」
礼?

ああ。そうか。
そういうことになるのか。

「じゃあそれ貸して。シャボン玉のやつ」
少女は少し意外そうな顔をしてから、
「これ? うん、いいよ」

私は少女の傍まで歩き寄って座りシャボン玉のやつを手に取る。
想像より軽い。
さっき見た通り先のほうが太くて先端の縁がぎざぎざ。
わざとそうしてあるということはぎざぎざのほうが玉が綺麗に出来るのだろうか。
やってみればわかることか。
少女がやっていたようにパイプの先をベンチの上の皿に浸す。
かすかに匂いがする。石鹸。
皿から放してそっと口づける。吹く。

シャボン玉。
私のシャボン玉だった。

少女がやったより数は多いが小さな泡だ。
「お姉ちゃんへたー」
少女が楽しそうに笑う。やかましい。
息が強すぎたか。
もう一度。
今度は上手く出来た。
少女は横から私を楽しげに見ている。
もう一度。
慣れれば簡単じゃない。
もう一度。
所詮子供の遊びだわ。
もう一度。
もう一度。
もう一度。
もう一度。

強まった雨に空気が止められて樹の下に風の層が出来ていた。
私の作ったシャボン玉がいくつも浮いている。
浮いたままのシャボン玉が視界を遮りそれでも私は吹くのを止めない。
もう一度。
葉の隙間から雨粒が落ちて私の頬を濡らす。
シャボン玉がいくつか割れる。
だからもう一度。
吹いて作ろう。新しく。同じものを。違うものだけれど。
もう一度。

視界を埋め尽くした泡の群れになお私は新しい泡を吹きかける。
泡の表面にはやはり私が映っている。
無数の金色の瞳。
無数の金色の眼。
無数の金色の私。
無数の金色の夢。

泡のほうが私を見ているような錯覚に陥ってきた。
瞳がたくさん。
眼がたくさん。
私がたくさん。
夢。
追憶。

影が映った。
無数の私の中の影。

――これ、

鈍い玉虫色の揺らぎに何かが垣間見える。
雨。
雨のあと。
琥珀の瞳の私。
私?
白黒斑の岩。
見覚えのある朝焼け。
陽だまりの残像。
爪の裏側で泥の小塊を押し潰す感触。
くすんだ闇を見透かした宙。
飴色の雲。
星の灯り。
 空ろなものなど何一つなく。
胸に吸い込んだ空気の藍色。
残照。
白雲の隙間に身体を浸した冷たさに肌が粟立った思い出。

  痛み。


記憶がうまくいかなくてのたうっている
    なだらかな坂道。爪の裏の砂。
■れ損ねた断片
    花を踏んだ匂い。音楽。
覚えていないでしょう?
    尾に集る蝿を何度も何度も追いまわし。
ずっとどこに
    茜空にたなびく雲の色。はばたき。
これ、知ってる。
    祈る女。肉のゆるい味。虹に酔った日。
そっと
    草の苦み。潮の匂い。逆巻く血の熱。
これ、わたし、
    春の終わりの嵐。
まって
    遠景。
……は
    冷たい月。
――
    硝子の檻



私は、花の名前も知らぬまま。



「キィエ」

声に視線を合わせると――坊やがいた。魅入られた男。
「探したぞこのやろう」
見回すまでもなくシャボン玉の群れはどこかに消えていた。
雨が坊やの持つ赤い傘に落ちて音を立てている。
「そろそろ帰ろ。少し早いが、潮時だ」
早いのだろうか。
空模様も手伝ってなんだか時間の感覚が曖昧。
「その傘、どうしたの?」
「もらった」
「誰に?」
「朝入った店の子」
またこの男は。
「お前のその、シャボン玉のやつは?」
「もらった」
というかアンタも名前を知らないのね。
「誰に?」
「そこの――」
振り向くと誰もいなかった。

葉の隙間から落ちてきただろう雨の粒がベンチを一様に少しずつ濡らしていた。
「……そこにいた人間の子」
借りたのだったかもしれない。まぁどちらでも良い。
「あらそう。俺のマフラーは?」
「そこにいた人間の娘にあげた」
「……へぇ、そーか」
(キィエちゃんが人間と接触持つなんてめずらしー)
「私の勝手でしょう」
言いながら私は立ち上がる。
「だから心を読むな」
答えながら坊やは私を傘に入れて歩き出す。


心。
こころ、ね。
この頭の裏に浮かんでくるような声は本当にこの男の心なのだろうか。
断片のような言葉が真実だとしても。
想い考えることをすべて掻き集めれば心にできるの?

私の垣間見た私の断片。
私の痛み。
私の苦しみ。
私の喜び。
私のからだ。血。熱。つながり。
私の言葉。叫び。
懐かしいなにか。

砂のように散らばった私を掬い集めて――



でもそれは、
まだ私でいてくれるのかしら。

彼女の雨模様。(2)

2006年12月30日 02時18分05秒 | 文章。
男を置き去りにして歩くこと数刻。
雨の匂いは強まるばかりで今にも降り出して来そうだ。
一方で温泉は一向に見つかる気配が無い。
しばらくは道の脇の店や道行く人間たちを眺めていたがそれにも飽きた。
路傍の店で甘いものを買おうにもやはり金は無い。
何故人間がああも金に執着するのか改めてわかった気がする。
あれは自然に生えてこないのだ。

人間の街というのは思ったよりわかりづらく出来ているらしいことを案内がいなくなって初めて気付いた。
歩いていればわかるという考えが甘かったのか。
天気と風が微妙に淀んで鼻が利かないせいもあるのだろうが。

このまま無闇に歩いても埒が明かない。
しかしこの体ではそこらの小猫のように脇道に入って当ても無くともいかない。
人間の街には人間の体では過ごし難い場所が多いのだ。
可笑しな話だが。

引き返して坊やに金をせびりついでに道案内させるか。

やめた。
何か無性に腹の立つ台詞があの口から出てきそうな気がする。
せっかくたまにあれから離れたのだ。
もう少し独りの時間を満喫すべきだろう。
たとえそれが仮初めの独立であっても。

*

開けた場所に出た。
今の私が両の前足――人間として表すなら両腕で抱きついても幹の半分も巻けないような太さの樹。
もちろん樹に抱きついたりなどという真似はしないが。
私は虫とは違う。

その周りに円形の木製ベンチ。
人間のメスの子供が一人座っているそこは休憩所なのだろう。
それを中心に道は大きな十字路になっていた。

もうどっちが温泉なのか見当も付かないし考えたくもない。
既にだいぶどうでも良くなっていたのだがこれで温泉を今日の予定から外すと決定した。

やはり坊やのところに戻ろうかと一瞬考えたがすぐに思い直した。
温泉を目指していようがいまいがあれが何か腹の立つ言葉で喋りかけてくるのは変わらないだろう。

『あぁやっぱり戻ってきたか。ほれこれ金と地図。……何、やめた?
……ははーん、なるほどな。わかったわかったキィエちゃん。それじゃあ俺も一緒に入ってや――』

もういい。
想像するだけで腹が立ってくるとは私も迂闊だった。

円形のベンチに座る。
頭上の樹は葉のいくらかを紅く枯れさせて冬に備えている。
ベンチの上には落ち葉が溜まっていて風が吹くたびにいくらかが転げ落ち新しい落ち葉と入れ替わっていった。
ざわざわと弱く鳴る音は雨の訪れを予言している。
これ以上歩き回っているうちに降られるのも癪だ。
幸いこの樹は今の私の体くらいなら雨宿りさせてくれそうなので止むまでここに待つことにする。
横になって眠るのも良いかと思いかけたが、

『その格好でその辺で寝るのはやめておけよ?』

といつぞや妙に真剣な表情で言われたのでその忠告に従って置くことにする。
私は知らないが人間なりのルールがあるのだろう。
人間が妙なことに拘るのは少なくないことだ。
私にしてみれば良いこととあまり意味の無いことのどちらもあるが当の人間どもにしてみれば違うらしい。
とにかく面倒がって面倒を避けるとより面倒になるのが人間という生き方だ。
まあ私は甘い菓子と美味い茶と気分の良くなる服とプロレスを悪くないと思うのでその文化という奴を否定はしない。


ざわざわと木葉が鳴る。
頬に当たる生温い風がよく湿り気を含んでいる。
木の葉の揺れる隙間から雲空を眺めるのにも飽きたのでベンチの上に放っておいた枯木色の紙袋を手に取った。
紙袋を引き裂いて中身を取り出す。
適当に破れた紙袋は適当に捨てた。
私は知らない。

*

水の臭いが強くなった。
雨が降り始める。

*

『シルヴェスタン・タイフーンことマガラ・マギル、齢44にして遂にNNL三冠を達成ッ! もう誰もこの台風を止められないッ!!』
まで読んだところで82頁写真のロープの上に白鳥立ちしてベルトを舌で掲げたマガラの雄姿の上に妙なものが飛んできてすぐ弾けた。

泡?

視線を上げて見回すと私の右後ろのほうに座っている人間のメスの子が咥えたパイプから泡を吐き出していた。
人間が咥えるものと言えば煙草か棒付き飴かおしゃぶりのどれかだと思うのだがどうも違うらしい。
煙草と棒付き飴とおしゃぶりは味と臭いと噛み心地が違うだけで要するにどれもメスの乳首の代わりだ。
あのメスの子は吸わずに吐いているのでその類ではない。

彼女の雨模様。(1) (『芸都にて』 Another word)

2006年11月23日 22時56分59秒 | 文章。
人の臭いが染み付いている。
街。

私は靴を履いた後ろ足で。

*

店を出てどちらに進むか迷った時点で道がわからないことに気付いた。
それを聞くために戻るのも面倒だったのでなんとなく北に行ってみることにする。
温泉は独特の臭いがするらしいので近くに行けばわかるだろう。

息を吸うと雨が近いのか水の匂いがする。
霧とは違う苦みのある匂い。
空気が明るくないのでそれまであまり時間もないのかもしれない。
この身体だと目や鼻が鈍い。

その姿だと似合わないと言われたので走りはしなかった。
店先のガラスに映った自分の姿を横目で見る。
今日は黒のショートトレンチと赤いチェックのスカートにした。ベロアは良い。
身体の割に低くない目線にはもう慣れた。

確かに走るよりも歩く方が似合いだろう。そんな身体だ。
“坊や”もボウヤのくせに同族のメスを見る目はある。
あれが相手にしたメスはいつも不満そうにしているけれど。

私は歩き続けた。
首よりも目を動かして道路脇の店たちを眺める。
いらぬ誤解を招くのでそういう目は止めろと言われたが知らない。
まるで発情期のオスのように首を振る方がみっともないに決まっている。

左に喫茶店。
チーズとクリームとチョコレートと紅茶の匂い。
こんな空気でなければもっとよく香るだろうに。
この2年ほどで人の作る菓子や茶が自分の舌に合うことに気付いた。
その点ではこの姿を作ってくれた“御主人様”に感謝しないでもない。

花屋。
色々な色の花の匂いや葉の青臭さが入り混じって独特な匂いを作っている。
ごちゃごちゃした匂いが移ると嫌なので近づかないでおく。

靴屋と鞄屋。
動物の皮となめし油と薬の臭い。
靴屋と鞄屋が皮を剥いだ後の肉は誰が食べるのだろうか。
まさか捨ててはいまい。

肉屋。
ああ隣はここに肉を売っているのか。
それともこの店が隣に皮を売っているのか。
疑問が解けたのでどちらでも良い。
何故牛と羊と豚と鶏はあるのに犬や鳩はないのだろうと前は謎だったが今は違う。
要は味の違いなのだ。

本屋。
奥に座っている枯れた柿のような老人が店の主なのだろう。
私は他に何人か客のいるその店に立ち寄って見た。

*

わざわざあの小さい文字を読んでまで人間の知識を得ようとは思わない。
私の興味は一つだけだ。
店の表と奥から見渡せるように立ち並ぶ棚の群れから雑誌の棚を探す。

ややあって棚を見つけた。
しかし目当てのものがあるだろうか。
最近は売り上げがあまり好ましくないらしいので置いていない本屋も多いそうだ。
私にはあんな面白いものに興味が無い連中のことが理解出来ない。

棚の中身を一番上から順に目で追っていると横から視線を感じた。
横目でそちらを見る。
どこにでもいるような若い男が私を見ていた。
目線の高さが私より上なので人間にしては背の高い方だ。
「あ、あの、きみ何を探してるの?」
変に顎を引き妙につっかえながら男が私に訊く。
視線を棚に戻して無視しようかと思ったが思い直した。
つまり代わりに探してくれるということなのだろう。
男に何の得があるのかわからないが便利なことには変わりない。
人間臭いのも店に入った時点で多少は覚悟している。
私は男に横目を向けて答えた。
「月刊ネバーランドプロレス」
男は何故か一瞬呆気に取られたようだった。
そして「あ、あぁあぁ」と妙な呻きを漏らしてから私の横にまで近づいて棚を必死に探し始めた。
人間臭いので一歩下がる。
後はこいつに任せれば良いだろう。

案の定男は私の目当てを探し出してきた。
この店の品揃えは悪くなかったらしい。
「これだよね?」
男が言いつつ差し出してきたものを受け取る。
表紙は最近売り出し中の新人レスラーだった。
若いのに空中戦技術が高くしかもヒールという私の期待の星。
早速“坊や”に買わせようとしたところで今は一人だったことに気付いた。
考えてみれば私一人で街を歩くのはあまり無いことだ。
当然金など持っているはずもない。
周りを見ると店の中で本を読んでいる人間がいくらかいた。
私もその真似をして気になる部分にだけ目を通しておくことにしようか。
「ど、どうしたの?」
私の様子を疑問に思ったのか男が何か焦りながら訊いてくる。
面倒だったが何かまた気の利く事をしてくれるかもしれないと思って答えた。
「お金が無いの」
男は私が探している雑誌の名前を言ったときと同じような顔をした。
しかしすぐに嬉しそうな顔をして私に言う。
「良かったらその、僕が買ってあげようか?」
実に気が利く男だ。
私は頷いて男に月刊ネバーランドプロレスをよこした。
男はすぐに私の雑誌だけを持って会計場に行った。
自分は何をしに来たのだろうか。
別に興味も無いが。

男はやけに急いで会計を済ませてきた。
「はい、良かったね」
言いながら薄い紙袋に包まれたそれを差し出してくる。
良いも悪いも自分が金を出しただけだと思うけれど。
ともあれ目的のものが手に入ったので文句は無い。
私は男の手からそれを受け取り踵を返した。
温泉に着くまでに雨が降り出さないかが問題――
「ちょ、ちょっと待って!」
男が私の前に回りこんで来た。
もう用は無いのだけれど。
「お、お礼くらい言ってもいいんじゃないかな?」
男は妙に引き攣った笑顔で言った。
自分でやっておいて礼を求めてくるとは思わなかった。
心の貧しい男だ。

“坊や”に面倒を起こすなと言われている。
少し不快だったがこの場合は仕方無い。
一応ものを奢ってもらっているわけだからそのくらいは我慢することにする。
「ありがとう」
礼は言った。
脇を抜けようとすると男がそのまま着いて来ながら言う。
「あの、もし良かったら、い、一緒にお茶でもどうかな?」
どうもこうもない。

お前は豚と一緒にブッシュドノエルが食べられるの? 私は違うわ。

すんでのところでその言葉は止めておいた。
面倒を起こさないことがこんなに面倒だとは思わなかった。
引き離そうと早足で歩き始めるとまだついてくる。
「い、いいじゃないちょっとくらい。僕別に怪しい奴ってわけじゃ――」
まだついてくる。
「もしかして恥ずかしがってるのかな? 心配しなくても大丈夫だよ」
殴ってやろうかと思った。
まだついてくる。
「ぼ、僕美味しい店を知ってるんだ。ちょっと行ったところのカフェで」
さっき行った。

「ね、ねぇちょっとくらい良いだろ!?」
男が後ろから腕を掴もうとしてきた。
……街中で良かったわね。私がたまたまスカートだったのも。
私は身を回して男の手をかわしながら男の進行方向に爪先を出した。
引っかかって無様に転ぶ姿が見えた。
一拍遅れでくぐもった下手糞な悲鳴。

しばらく呻いたあと男は尻を地に着けた姿勢のままこちらを見上げてきた。
その無様な表情を初めてちゃんと見て私はやっと気付いた。
つまり私に気があったのか。
人間をそういう対象として見たことがないから気が付かなかった。
“坊や”だってメスを口説くときにはもう少し上手くやっていた。

面倒だが面倒にならないように断らなければならない。
男の微かに怯えの入った顔を見下ろしながら少し考えた。
「あ、の――」
情けない声を聞いて思いついた。
要するにこの男は情けない男なのだ。
「私のマフラーが見える?」
「見、えるけど……」
マフラーに触れながらしなを作って言ってみた。

「――これ、私の御主人様からお借りしたの。こうして身に付けていると御主人様の匂いがして、彼が傍にいるような気がするのよ」

嘘は言っていない。

芸都にて。――be spite

2006年11月23日 22時56分28秒 | 文章。
「……ふう、ひとごこち」
赤い屋根の喫茶店、窓際の席。
俺は壁を背にして座る。コートの襟元を弛め、マフラーは向かいの席の背もたれに掛けた。今のところ、誰かが座る予定は無い。

入国審査でつっかえそうになったせいで(勿論初めての出来事だった)変に汗ばんだ首筋を撫でながら、メニューに目を通す。
軽食を無視してドリンクとデザートの欄へ。バニラプリンとカフェラテを見つけたので、ウェイトレスを呼んで適当にオーダーを済ませた。

そのままなんとなく眺めていたウェイトレスの薄い背中が見えなくなってから、柔らかい木目のテーブルに頬杖をついて、窓の外に目を向ける。
可も不可も無く、といったところの空模様だった。

表通りを歩く人々は、それが不可にならないうちに、と無意識に足早になっているように見えた。

ああこりゃ、どこかで傘を調達しなきゃダメかもしれん。
『創って』も良いが、それにはまず人の居ない場所を探さないと。

視線を通りに固定したまま、店内に感覚を張る。
店の中には男女4人ずつに子供が2人。
通りと店の中には入店前に探りを入れているし、これから入ってくる客にだけ気をつければ問題は無い。


今回は、中にどのくらい居られるのだろうか。
三日も居られれば万々歳なんだが。


……はぁ。

溜息が、出た。


……。

……プリンまだかな。


……。
……。
……うお、あの爺さんすげぇ筋肉。

……。



……うーん。
間が持たん。


見るものも考えるべきものも特に無かった。
他の客にわざわざ話しかける気分でもないし、
……ああ、しくじった。初めからララか誰かを連れておくんだった。

忙しなく働いていたウェイトレスがようやくこちらにやってきて、注文の品と伝票、それから笑顔を置いて行った。
「ありがとう」と微笑を返して前を向くと、


「追加よ店員。チョコレートサンデーとダージリンティー。ダージリンは薄めで」


“彼女”が座っていた。
……お前。

呼ばれて振り向いたウェイトレスは、いきなり現れた女に驚きつつも、注文を復唱してから奥に戻って行った。

前の椅子に座るキィエは、自分の肩越しに背凭れへ手を伸ばして、掴んだマフラーをそのまま首に巻いた。
いやそれ俺のだろ。

クセの強い、獣毛のような長い艶やかな黒髪。
金属性の琥珀のような瞳。
無駄にセンスの良い服。

見慣れたはずのその容姿で。いつもの無表情で。
彼女は俺を見つめている。


……ああ、くそ。
なんて言えば良いんだよ。



散々逡巡した挙句、

「……悪かったよ」

出たのは多分、二番目に最低な台詞だった。

*

「何が悪かったのかわかってから口にしなさい。そんな言葉は」
彼女は依然、値踏みするような目を俺に向けている。

何が悪かったのか。

時間にすればきっとごく短い間だったのに、色々なことがあった。ありすぎたと言って良いくらいに。
知らなかった何かを知って。どうしようもなさを認めて。
言葉を創り続け、先の見えない足場の上をただ走って。
見届けて。
――そして心を汚したさ。

何が悪かったのか?
そんなのは決まってる。


俺が■■■■■■したことだ。


俺の心を読んだのだろう、彼女は眼をすぅっと細めて、
「……アンタ、馬鹿ね。――今更だけどさ」
そのまま、ほんの少しの間だけ瞼を閉じた。




……なんというか。
どうにかこうにか、お許しを頂けたらしい。


……難儀なことばかりだ、本当に。




キィエは窓の外に顔を向け、指先でマフラーの先を弄りながら、
「それで? ここはなんて国?」
なんだか、随分懐かしい台詞を口にした。
それが正しい道だったのか、否か。俺にはもうわからなかった。
いつだって、何一つわからないまま。

「芸都シルヴェスタだ」
彼女は一瞬、ほんのわずかだけきょとんとして、
「……ゲイとシルべスタ?」
「お前いま一瞬でシルヴェスタの全国民を敵に回したぞ」
なんて才能だ。全然羨ましくないけど。

「一応言っておくが、芸術の都で『芸都』な」
「ふぅん。で、どういう国なの?」
『ふぅん』に全然感情が入っていない辺り、割とどうでも良いらしい。まぁいつものことだが。

と、ここで彼女が頼んでいた品がやってきた。
ウェイトレスが器を彼女の前に並べ、キィエはそれが当然といった表情のまま。俺が視線と表情で礼を言う。
構図として何か間違っているような気もするが、そうでもない気がする。
段々慣れてきた自分がいるのがなんか恐い。

ウェイトレスが離れていくのを眺めてから、
「まぁ名前通り、芸術が盛んな国なんじゃねぇの? よく知らないけども」
キィエは不機嫌と諦めの間にありそうな微妙な表情をして、
「……ま、アンタにはそういうところ、私ももう期待してないけど」
お気に入りの弱小プロレスラーが10連敗を達成したときみたいな声を出した。

「これから知れば良いさ、どんな国かだなんて」
言いつつ、思う。
以前は少し警戒していたが、入ったら二度と出られないような国家など、もうどこにもないのだ。

既に、PONには仮想敵すら存在していない。

「それじゃ、アンタはなんでこの国に来たの?」
確かに当然の疑問だが、
「この国、王座は女王様でな」
「だから?」
「色白な美人で好みだから、一目見てみたくて」

彼女は疲れたように「はぁ」と息を吐いて、
「……オスの考えることって変わらないわね」
地味に傷つくことを言った。


「ああ、そういえば温泉があるらしい」
ここに来るまでに、街中の看板を目にした。
「温泉……って、あの熱い水が湧くやつ?」
「おう」
「……」
……あれ、よく見るとなんか嬉しそう?

「じゃあ早速その温泉とやらに行くわよ」
と立ち上がるキィエ。
「いや待て待て、俺まだ全然食べてないし」
「何でまだ食べ終わってないのよ。私より先だったくせに」
いやお前だって、と言い掛けたが、彼女の皿を見てやめた。
空だった。
コイツいつの間に……。

「ほら、早く立ちなさい」
「いや、だからまだ俺ァ食ってるとゆーとろーがよ。そんなに行きたきゃ先に行ってなさいよ。どうせ一緒に入るんでもなし」
彼女は一秒くらい動きを止めて、
「……それもそうね」
妙に納得してから、さっさとドアのカウベルを鳴らして店を出て行った。なんだこれ。

……ま、いいか。
今回は、国を追い出されるまで宿と喫茶店でのんびり過ごすとしよう。だるいし。
ダメ人間寸前なことを思いながら、俺はカフェラテでのんびりと喉を濡らし始めた。