深夜、ダイニングルームの灯りの下でコミックを読んで息抜きをしている娘。
何を読んでいるのかと思ったら、わたくしが買い揃えてやったおかざき真理のコミック。
『雨の降る国』の入っている本は、キッチンのコミック棚にはない。
わたくしの書斎の一角にある。まだ早いかなあと思っていたけれど、
『セックスのあと、男の子の汗は、ハチミツのにおいがする』の世界も、もうじき等身大の自分の世界として読み込んでいくのかもしれない。すでに、娘も、
「孵化する前」の≪少女≫の世界の住人なのだもの・・・・。
おかざき真理という漫画家の描く世界は、
わたくしにはとても優しく感じられて、たまに開いて見る。
≪女性が見た少女の世界≫である『雨の降る国』のような作品は、
大島弓子の世界と同じ空気の匂いがする。
萩尾望都や竹宮恵子といった漫画家は、≪男性が見た「少女」≫の像と世界を描いて違和感を覚えないらしい女性漫画家たちと一線を画す意味で、彼女たちがどうしても描きたい世界を描くとき、それは≪少年≫に仮託されるしかなかったのだろうけれど、それって、きっと時代の流れだったのかもしれない。
高校生だった頃、萩尾望都や竹宮恵子といった漫画家が描く主人公の≪少年たちの世界≫は、≪永遠の少女≫の只中にあったクラスメートたちを興奮させたけれど、わたくしは一抹の寂しさをどうしようもなく抱いた。理屈で了解しつつも、感覚的に、なぜ、わたくしは少年という形で描かれなければいけないのかしら・・・といった思いといえばいいかしら。
≪少年の永遠性≫は、≪永遠の少女たち≫の中にこそあったから。
そうした時代の作品とおかざき真理の作品は、明らかに異なる。
娘が、こうした作品に引き込まれることを幸いに思い、
活字を読むことを自粛している身ながら、深夜だというのに、『雨の降る国』を読み直してみた。
何度読んでも、ここの台詞にドキリとする、嬉しくて。
この後で描かれる空が、とてもいいのだ・・・
彼女の絵柄は、イマイチ好きではないけれど、
この『雨の降る国』のような作品には、やはり心惹かれる。
同じだろうか、いや、やはり違うだろうなあと思い、
ある本を開いてみた。林静一の画集。
殿方の描く≪少女≫の世界は、少女の雰囲気十分なれど・・・・、やはり、
≪殿方の見た少女≫の像であり世界なのだなあ、と改めて思う。
だって、≪永遠の少女≫の世界は、殿方が決して入れない世界なのだもの。外から眺めるしかないのだ。
そこに惹かれる人は、それを愛惜し、愛でる人は愛でるのだろうが、その一瞬を永遠性の中に止めたいという衝動に促されたならば、そうなるのかもしれないけれど、ぎりぎりゲージュツに走っても、ロリコン犯罪に走ることのないように願いたい。
「孵化する前の少女たちは、とても壊れやすい」から。