1970年代に使われていた和文タイプライタ
-- NHK プロジェクトX 第95回 ~ワープロ・日本語に挑んだ若者たち~,
1992年9月3日 より
私がワープロを発明した様子は,ちょうど魔法の国から来た技術者が和文タイプ技術しか持たなかった日本という後進国で,人工知能という魔法の杖を使ってワープロを実現してみせたようなものでした。ワープロ以前の時代を物語っている分かりやすいホームページがあります。少し引用してみましょう。
日本語ワープロ発明 Before and After
機能高分子学科 太田 和親
2003年12月10日 随筆
現在45歳以上の方なら、覚えておられるかもしれません。今の様に日本語のワープロがない時代、公式の文書を清書するのには、印刷屋さんへ行って頼むか、自分で、とても一人では運べないような極めて重い日本語タイプライターを買って、一字一字鉛の活字を拾って打つかしなければなりませんでした。だから、1982年に私が運転免許証を横浜の二俣川へ書き換えに行った時、警察の人が、「この申請書をそのままコピーして作りますので、氏名住所が手書きのまま交付されますが、いいですか。もし活字がよかったら、前にあるお店でタイプで打ってもらって申請して下さい。」と言われました。そこで、行ってみると、日本語タイピストの女の人が、猛烈な速さで鉛の活字を選んで、私の名前と住所を打ってくれました。「さすがプロ!」などと思って感心しました。
一方、私の家内の日本語タイプライターの思い出は、逆に悲惨です。彼女は独身時代、大阪大学工学部応用化学科で塩川二郎先生(前塩川正十郎財務大臣の実弟)の研究室で技官として勤めていました。その頃、塩川先生の日本化学会賞応募のため大変分厚い申請書類を作成する必要から、塩川研でわざわざこの植字式の日本語タイプライターを購入したそうです。そして幸か不幸か、その書類のまとめを、彼女が担当することになりました。彼女は化学の出身の技官で秘書ではありませんし、また日本語タイピストの資格を持っているわけではなく、全くの素人でした。それでプロじゃないので、2800字に及ぶ鉛の活字がどこにあるのか判らず、一つ一つ探すのに大変苦労しました。遅々として進まず、またその上、一度間違えると修正がもう大変で、精根尽き果てたといいます。
したがって、今から20年前の当時では、プロの資格を持っている人以外、日本語のタイプライターに触れることは、私の未来の家内以外、まずほとんどなく、まして、自分の家に1台持とうなんて思うことなど念頭にすらありませんでした。当然、一般の人は皆文書は手書きが普通でした。学会の講演予稿集なんかも、確か1985年くらいまでは全部手書きでした。それで、字が上手な人は立派な教養人に見えたものです。字が下手だと、何だか講演内容も安っぽく、その人物もぱっとしないのではないかと勘ぐったりしたものです。だからでしょうか、歴史上有名な人の手紙など、達筆だと額に入れて、「何でも鑑定団」に出されて高額な評価を得たりするわけです。教養人=字の上手な人というのが、2000年近く日本における長年の評価基準でした。ところで、皆さん知っていますか?信州大学繊維学部の前身、上田蚕糸専門学校の初代校長針塚長太郎先生の書が、少なくとも二つ学内に残っていることを。一つは、農場建物脇の石碑の碑文「蚕霊供養塔」が、針塚先生の書です。碑の裏面によると大正12年に建立されたようで、今年で丁度80年になります。また、図書館脇の古い建物「旧千曲会館」の床の間の掛け軸「啄徒啄師(たくとたくし)」も針塚先生の書だと聞きました。極めて達筆で流麗です。字を見てやっぱり大変立派な人物だったとお見受けします。
話がそれましたが、今はほとんどの人がパソコンで日本語の文章を作成したり、携帯(電話)で(電子)メールを送ったりしています。これらは全く「日常茶飯事」となりました。現代風に言い換えると、「日常パソコン・メール事(ごと)」と言えるでしょうか。しかし一体誰が、このように、コンピューター上で日本語を扱えるようにしてくれたのでしょう。以前はローマ字しかコンピューターで処理できなかったはずです。これは、日本語の大革命だと私は思います。
-- http://www-lib.shinshu-u.ac.jp/seni/online/no49/1.html
もっとも,この筆者も誰がワープロを発明したかについては東芝の言葉を素直に信じてしまい,誤っています。
内橋克人著「新・匠の時代 1(文藝春秋社)」(現在「新版 匠の時代 第三巻」が発行されています)26ページには次のように書かれています。
それにはまずコンピュータ言語学*からモノにすることが,必須条件と考えられた。
森は社内にひろく適任者を求めたが当時はまだそういう分野を修めた研究者を社内に見つけだすことはできなかったのである。
*:コンピュータ言語学という専門用語はありません。「計算言語学」,「自然言語処理」などのことでしょう。
東芝社内には技術者がいなかったからこそ河田氏を,私が大学院生として人工知能を研究していた京大に研究生として送り込んだのです。しかもその技術は,九大の栗原教授,NHKの相沢博士が何年も挑戦して,なおかつ成功しなかった技術なのです。河田氏も彼らの従来技術をキャッチアップした後は,私にその先を託した,そのような困難な技術を,単なる研究管理者が易々と実現できるなどという話にどのような現実味があるか,考えるまでもなく分かると思うのですが・・・
それでも,ここには誤謬に満ちた物語が語られています。
http://www-lib.shinshu-u.ac.jp/seni/online/no41/2.html
それらの誤りをいちいちここであげつらうことはしないでおきます。ここで語られていることは,森氏の功績ではなく,私と,私の部下たち,それに事業部の研究所の技術者たちが,JW-10後の第二期とも言える時代に行った技術開発であるとだけ言っておきましょう。
JW-10の時代と,その後,私が機械翻訳の研究開発を一段落させて再度,仮名漢字変換に戻った第二期の時代の話が渾然一体に語られていますので,私でなくても,第二期の時代の(私より)若い研究者が見てもすぐに分かることです。
成功した発明には,このような事実誤認が満ち満ちているのです。
「成功には100人もの生みの親がいるが、失敗はいつもみなし児である」
-- 第35代アメリカ合衆国大統領 ジョン・フィッツジェラルド・ケネディ
(続く)
このブログの第一回
東芝ワープロ特許訴訟プレスリリース
東芝ワープロ発明物語:車上のワープロ技術史
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