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『金大中自伝』を読む(12)「金大中拉致事件」は暗殺未遂事件だった

2022-04-27 17:58:50 | 日記
1973年7月10日、米国から日本に再入国した金大中は、前年10月に朴正煕政権が未来永劫にわたる実権を我がものとする維新憲法の発表を行って以降、本国に戻ろうにも戻れない状況となっていた。
 
金大中の大統領選出馬を阻止するために、韓国中央情報部(KCIA)だけではなく、在日韓国人のやくざを利用して不穏な動きが彼の身に迫っているとの情報だった。

同時に金大中が利用するホテルの一室に独裁政権打倒の韓民統事務所を置くわけにもいかず、高田馬場駅に近い原田マンションに「韓国民主制度・統一問題研究所東京事務所」という小さな看板を掲げ日本での朴正煕に対する反政府闘争の砦となった。

そのため金大中のそばに警備にあたる在日韓国人の青年たちが配置され、二三日おきに宿泊施設を変えながら講演会や日本や韓国の政治家や要人らとの面談を続けた。

「私達には武器、装備ともに、まともなものはなかった。ひたすら情熱だけだった。一言でいえば素手の警護で、いざという時には、どれほど危険だったことか。私はただ、ありがたぬ、それなりに頼もしかった。」(p233)と金大中は当時を回想している。

原田マンションにも裏口の方で不審な個人タクシーが止まり、マンションの出入りを見張っている男が居るとの情報があり、金大中の危険を守るために警備員の増員など行った。

8月4日、在日韓国大使館の関係者から、金大中を拉致しようとしているとの情報が入る。
8月8日、金大中運命の日はやってきた。
自伝では「東京は朝からべとついていた」からはじまる。
東京ヒルトンホテルで朝を迎えた金大中は、10時30分に予定されている梁一東(ヤン・イルドン)韓国民主統一党総裁に会うために東京・飯田橋のホテルグランドパレスに向かう。
警備にあたる金君夫、金康寿をロビーに残し2211号室のいる梁一東総裁にあう。梁一東総裁には亡命のための資金など支援を要請したものの、快い返事はなかった。なぜなら、金大中に協力すれば自らの政治生命だけではなく韓国中央情報部(KCIA)からも金大中の情報を執拗に迫られていたからだ。
金大中は、次の面会(自民党、木村俊夫議員)のために1時15分ころ部屋を後にした。同席していた金敬仁議員が見送りでついてきた。
以下は自伝から。
「その時どこからか、がっちりした体格の男たち五、六人が飛び出してきて、うち二人がいきなり私の胸ぐらをつかんだ。
私はビックリして怒鳴りつけた。金敬仁議員も一緒に声を張り上げた。
『何のまねだ。お前らはだれだ』
男たちはあわてて私の口をふさいだ。私は横の部屋に引っ張り込まれた。あらかじめその部屋を借りていたようだった。私が抵抗すると、ひざを足でけり、アゴを殴った、人を殴るのに手慣れているようだった。何もできないまま押さえ込まれた。私をベッドの上にほうり出すと、ハンカチを鼻に押し当てた。瞬間、麻酔剤だろうという思いが脳裏をかすめた。一瞬、気を失い、すぐまた覚めた。意識がもうろうとした。覚めたところからみると、麻酔剤がそう強くなかったようだ。そうでなければ、麻酔薬がよく聞かない体質なのかもしれない。
『静かにしろ。言うとおりにしないと殺すぞ』
流暢な韓国語だった。」(p235)

その後、男らはその場で金大中を殺害し、バラバラにしてリュックサックに詰めて遺棄する予定だったが、金敬仁議員にみつかったため、ホテルから連れ去った。
金大中はガムテープやロープでグルグル巻にされたまま、車で西に向かいその後船をチャーターし、海上で金大中に重しを括り付けて殺害、遺棄する予定だったという。これを察知した米軍がヘリコプターを飛ばして殺害を中止させる。8月15日、金大中は、満身創痍となった状態でソウルの自宅前で降ろされている。
その後、国内外の新聞記者が自宅で取材し報道され、事件を真相究明し全面的に解決する
と言っていた警察も、何日か後に対応が変わってしまった。

「麻浦警察署長が家に来て、いきなり、私たち夫婦と運転手、家政婦以外は全員、家から出ろと言うのだった。内外の記者の出入りも全面規制された。この時から、金大中拉致事件は、国内の新聞には一行も報道されなくなった。
一方で、日本の読売新聞ソウル支局が閉鎖された。「グランドパレスホテルの犯行現場で、金東雲一等書記官の指紋が発見された。よって、韓国の政府機関が関与したとみられる」とする報道のためだった。支局長を含め特派員3人が追放された。(p250)」

「拉致事件は、いろいろな証言や文献から、李厚洛(イ・フラク)中央情報部長の指揮下、総勢46人が九チームに分かれて組織的に行った犯行だった。綿密な準備をへて工作に着手した。」(p248)

「98年6月10日、米国の秘密文書が公開された。この文書でも李厚洛KCIA部長の指示による情報部員らの犯行であり、朴正煕大統領が明示的、もしくは黙示的に承認した可能性が高いとみている。」(p249)

「1980年、「ソウルの春」の時期李厚洛は注目すべき証言を行った。同郷の友人、崔泳謹(チェ・ヨングン)議員に、拉致事件は朴大統領の指示によるものだった、と打ち明けた。
彼に対して朴大統領は『金大中を亡きものにしろと言い』、李厚洛は驚き先延ばしにしていたが、一ヶ月ほど過ぎたところで大統領は李厚洛を呼び出して『お前、言いつけたことをなぜ、やらんのだ。総理ともみんな相談したうえでのことだ。早くやれ』と命令されたというのだ。」

このような事からKCIAにより暗殺司令が出され、殺害寸前で米国政府筋の高官らが事件が防いだということのようだ。
金大中拉致事件という言い方ではなく、金大中殺害未遂事件という名称が正しい。

新緑の季節になる頃に

2022-04-17 21:01:48 | 日記
おとといの私が所属する労働組合の春闘一日行動は、春先の長い雨にもかかわらず100名の方々が集まりました。

最近職場は不況のアオリをモロに受け、周りから見たら立ち行かなくなるような風前の灯火のように見えていました。
しかし、何でも反対する事よりも、しっかりと企業再生のためだったら賃下げや労働強化も引き受け是々非々での業務ヘの協力、そして会社への建設的要求を惜しみませんでした。

そのため企業危機が始まって20年近くが経ちますが、右肩上がりの要求をしてきませんでした。
しかし、運転手不足で人手がたりません。新しいドライバーを迎え入れるためには、新入社員を手厚く保護、育成しようと勤続10年未満の賃上げを要求し、わずかですが勝ち取りました!

この要求を実現するために足掛け3年かかりました。2年前にコロナ禍となり、自粛とかコミュニケーションそのものが難しくなる中でも、しっかりと会議を行い討論する場を確保し続けました。
お酒は減っちゃったけど…
一年に一度の経営者に見せつける春闘集会も一度は流れましたが、毎年欠かさず行っていた事も大きかったと思います。

そして、昨年5月3日のKの訃報。Kは、職場の仲間であり、彼は亡くなる前の春闘集会でさえも病をおして駆けつけようとした。「もう一度作業服を着て皆と働きたい」、「(病気休職中に皆に支えてもらい)生かされている」と亡くなる前に話をしてくれました。

会社の厳しい財政状況であるのは分かりますが、中高年九割への賃上げよりも未来はあると会社と協議を重ねた結果でした。
そして、Kも異論はないでしょう。
彼は何よりも未来を真剣に考えていたのだから。
そのKにも報告したい。

ありがとう、と。

彼は音楽がとても好きで自らが作詞し歌っていました。動画は、亡くなる前に軽井沢で行われたシャンソンコンクールの模様です。
ジュリアン・クレールの「女性たちよ、愛してます」。作詞は、モンド☆モンタです。

新緑の季節になる頃に

2022-04-17 20:27:21 | 日記
おとといの私が所属する労働組合の春闘一日行動は、春先の長い雨にもかかわらず100名の方々が集まりました。

最近職場は不況のアオリをモロに受け、周りから見たら立ち行かなくなるような風前の灯火のように見えていました。
しかし、何でも反対する事よりも、しっかりと企業再生のためだったら賃下げや労働強化も引き受け是々非々での業務ヘの協力、そして会社への建設的要求を惜しみませんでした。

そのため企業危機が始まって20年近くが経ちますが、右肩上がりの要求をしてきませんでした。
しかし、運転手不足で人手がたりません。新しいドライバーを迎え入れるためには、新入社員を手厚く保護、育成しようと勤続10年未満の賃上げを要求し、わずかですが勝ち取りました!

この要求を実現するために足掛け3年かかりました。2年前にコロナ禍となり、自粛とかコミュニケーションそのものが難しくなる中でも、しっかりと会議を行い討論する場を確保し続けました。
お酒は減っちゃったけど…
一年に一度の経営者に見せつける春闘集会も一度は流れましたが、毎年欠かさず行っていた事も大きかったと思います。

そして、昨年5月3日のKの訃報。Kは、職場の仲間であり、彼は亡くなる前の春闘集会でさえも病をおして駆けつけようとした。「もう一度作業服を着て皆と働きたい」、「(病気休職中に皆に支えてもらい)生かされている」と亡くなる前に話をしてくれました。

会社の厳しい財政状況であるのは分かりますが、中高年九割への賃上げよりも未来はあると会社と協議を重ねた結果でした。
そして、Kも異論はないでしょう。
何よりも彼は未来を誰よりも考えていたのだから。

Kにも報告したい。

ありがとう、と。

彼は音楽がとても好きで自らが作詞し歌っていました。動画は、亡くなる前に軽井沢で行われたシャンソンコンクールの模様です。
ジュリアン・クレールの「女性たちよ、愛してます」。作詞は、モンド☆モンタです。

侵略戦争の歴史を繰り返すな!〜ロシアのウクライナへの侵略と日本、そして戦後の日米関係から考える〜

2022-04-14 19:14:14 | 日記
最近、私が図書館で借りてくる本は、アジア地域の第一次世界大戦以降の戦争の歴史ものが多い。

20世紀は戦争と革命の世紀と言われているが、それをアジアで言い換えるなら日本の侵略戦争に反対し、民族独立にもえたアジアの人々の抵抗と解放の歴史でもある。
それらの本を改めて読み直すと、日本軍と日本の支配者に対する抵抗闘争を発見する素晴らしい時間でもある。

朝鮮人パルチザンや三一独立運動、1925年の日本人経営者の暴力的支配に上海紡績工場労働者のストライキ。
このストライキは、日本軍の発砲により多くの人々が虐殺された事に端を発し、中国全土に拡がった革命的高揚となる。
また中国での八路軍を中心とする抗日闘争、フィリピンルソン島でのフクバラハップの闘いなど。

8月15日を境に、日本人が戦争に負けて暫く沈黙期があったものの、日本に徴用されてきた朝鮮人、中国人たちも声をあげた。足尾や常磐炭鉱などは、いままで好き勝手に支配してきた暴力的職制の糾弾や帰国するまでの間の生活保障や賃金未払いの賠償要求などを掲げて雇い主と交渉している。実8月15日を迎え、日本人の労働運動でさえも空白期とも言われていたようだ。
一方で過酷な労働に耐えかねて秋田県花岡炭鉱では、中国人がいっせいに蜂起(花岡事件)したものの弾圧され、その鎮圧で戦後も蜂起した中国人が日本人とその職制の拷問などにより多くの中国人労働者が命を落としたという。

ロシアによるウクライナへの侵略戦争が止まらない。
ウクライナへの軍事侵攻によるロシアへの非難をする前に考えておきたいことがある。

かつての日本では、ロシアのウクライナへの侵略と見紛うような弾圧と自作自演の「事件」や「事変」をでっち上げてきたという事実だ。
その結果、朝鮮半島、台湾、中国北部(満州)を支配し、日本の侵略戦争により2,000万人とも言われるアジア太平洋地域での死者、国内の300万人の死者、沖縄地上戦では20万人、ヒロシマ・ナガサキ、戦争に反対したり消極的な者への弾圧が植民地にまであったことを忘れてはならない。

(『しんぶん赤旗』によると「中国1000万人以上(「中国の人権状況」中国国務院=ただし37年7月~45年8月まで。他に2000万人との報告もある)、べトナム200万人(独立宣言)、インドネシア400万人(サンフランシスコ講和会議での同国代表発言)、フィリピン111万1938人(対日賠償要求)、インド150万人(べンガル飢餓死者のみの推計、政府任命飢餓調査委員会)、ニュージーランド1万1625人(政府公表)、オーストラリア2万3365人(同)、そのほか泰緬(たいめん)鉄道建設に投入された労働者の各国死者7万4025人(英国調査)など。ミャンマーやシンガポール、朝鮮などをのぞいても、これら諸国の公的発表の死者数だけでも1872万から2872万人を数えます。さらに日本の植民地支配のもとにおかれた朝鮮では、36万4186人が軍人・軍属として戦場にかりたてられ、死亡・行方不明者15万人(推定)、強制連行などによる死者・行方不明者をふくめ20万をこえる人びとが犠牲となりました。」)

プーチンを軍事裁判にかけろと言うなら、ウクライナへのNATO加盟を明記させたアメリカの介入、東方拡大を続けた結果、窮鼠猫を噛むでロシアのウクライナへの軍事侵攻があったことを忘れてはならない。




忘れることができないといえば、東京大空襲・戦災資料センター(江東区)に行ったとき、米軍機B29による大空襲があり多くの死者行方不明者を出した。その総指揮官であるアメリカのカーチス・ルメイが1964年「航空自衛隊を育成した」として勲一等旭日大綬章が天皇により授与されていることを知ってビックリした。
これは、戦後の日米関係の象徴的事件であり、300万人と言われる日本人死者へのアメリカの戦争責任を日本の支配者が免罪符にしたものと言えるだろう。

戦前の大虐殺者が被害国の「英雄」になる。
ベトナム戦争は、枯葉剤、ナパーム弾、ありとあらゆる最新兵器が米軍により使用され、ベトナムが勝利した後にはアメリカは賠償を一切払わず撤退した。その後も、アメリカは、アフガニスタンでタリバンを掃討すると乗り込んだもののタリバンが復活、イラクではイスラム国がアラブ周辺国を荒らしまくった。少数民族や女性、他宗派たちへの迫害がエスカレートするばかりだった。
アメリカは、このような紛争当事国でありながら、紛争地のすべてを破壊し、補償もなく無責任にも撤退していった。これらはアメリカの戦争だが、時のニクソンやブッシュらはその時裁かれたのか。そのアメリカが、プーチンを独裁者だとか軍事裁判にかけろと言うのは甚だしい憤りを感じる。
冷戦後のNATOとアメリカによる経済介入(カネで国を転覆させたといえばよいか)により間接的にロシアの包囲網をウクライナにも担がせて、挑発してきた責任はアメリカと同盟国、そしてゼレンスキーにもある。

ロシアの軍事侵略に対して丸腰で虐殺されているウクライナ国内の人々はその盾と化している。
その事を忘れアメリカの同盟国にいる日本で私たちが考える事は、悪玉と善玉に国を分けて考えるのではなく、国を超えた戦争を進める支配に抵抗する人たちとのつながりではないだろうか。
かつてアジア太平洋で犯した戦争を再び繰り返すなという憲法の精神、核共有化や自衛隊の派遣ではなく、停戦と和平のために日本政府にも働きかける事が何よりも必要とさえ感じる。
日本がロシアと同じように「自衛のため」と称して侵略した戦争の歴史を想起したい。







ウクライナに停戦と平和を!
日本政府の人道支援に名を借りた自衛隊その他のウクライナへの派遣、参戦化に声をあげよう
憲法九条で世界の平和に貢献しよう

排除の思想と私たち〜渋谷バス停女性襲撃事件の末路から考える〜 2022/04/12

2022-04-12 01:10:10 | 日記
渋谷バス停での64歳の女性が殺されたのは2020年11月だった。
 そしてけさの新聞をみると、襲撃した被告が死亡(ほぼ自死)したと報道されていた。
「お母さんごめんなさい。こんなことになるとは思わなかった」と遺書を残して。
彼にも様々なバッシングがあったかもしれないが、何も言わずして死んだという他ないと思った。彼が引きこもりで「窓から見える景色が僕の全世界なんです」から犯行に及んだのは、何も彼だけのことではないと思う。
むしろ、ホームレスがジャマだったら自分もジャマになるのではないかという想像力があれば、彼の死線を食い止められたのではないかと思う。
誰もジャマ者ではない。むしろジャマ者としている社会が問題なのではないかという問いかけさえあればきっと彼は。
とても無念だ。
ひとり、都会のバス停で~彼女の死が問いかけるもの

ひとり、都会のバス停で~彼女の死が問いかけるもの

【NHK事件記者取材note】微笑みかける写真の女性。当時は70年代、劇団に所属し希望に満ちた日々を過ごしていたという。しかし去年11月、都内のバス停で男に殴られ死亡した。...

NHK NEWS WEB