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映画『ユリシーズの瞳』に登場する一場面をめぐって

2022-05-21 16:39:29 | 日記




エンツォ・トラヴェルソ著『左翼のメランコリー 隠された伝統の力 19世紀〜20世紀』を読んでいたらテオ・アンゲロプロスの『ユリシーズの瞳』という作品が取り上げられていたので、これはと思った。

私も姉貴との手紙のやり取りで刺激された映画だったからだ。
映画は、バルカン半島を主人公ユリシーズ
が旅を続け横断する。そこにダニューブ河を船に積み上げられ解体されたレーニン像がゆっくりと通過するシーンがある。ダニューブ河は、19世紀の“怪物“共産主義を生みだしたドイツに流れる。

映画『ユリシーズの瞳』では、ダニューブ河岸では、解体された巨大なレーニン像が通過すると地にひれ伏す者や十字を切りながら手を合わせる者といった群衆による喪の作業が展開する。

まるでレーニン像を通じた社会主義の葬送がそこで繰り広げられるような映像。
その映像の中に次のセリフがある。
「わが終わりにわが始めあり」

著者トラヴェルソは、その厳かで短い映像とセリフに、この映画にかけるアンゲロプロスの思いが集約されてていると。

「T.S.エリオットから借用されたセリフにある。『わが終わりにわが始めあり』。ギリシャ悲劇のデュオニュソスのように、レーニンは再生するかもしれない。それら勝利の予告ではない。すべてが再構築されねばならないという考えに基づく社会主義の賭けである。」(p129)

このトラヴェルソの言葉はとても重い。
たしかマルクスの『共産党宣言』だったかに、その「わが終わりに始めあり」というような言葉があったような気がする。
1847年のドイツ革命の敗北に触れたときだったか。
ブルジョアジーが自らの足かせとなっている絶対君主制の打倒勢力として登場する事もある。その限りでプロレタリアートも共同して君主制打倒を掲げるが、ブルジョアジーとの敵対的な対立について明確な意識を労動者のあいだに作りだす事が共産主義者にとって大切だと。そして、君主制が打倒された後の民主主義革命(ブルジョア革命)は、労働者階級が主人公となる社会の序曲だと触れていたと思う。(『共産党宣言』が手元にないので後で正確な内容は調べ直したい)

私たちは工場、会社でも主人をはき違えて働かされている。まるで奴隷主と奴隷のように。そして号令一下、すべての責任を負わされ過労死やらパワハラを受け病気に貶められたり不当な解雇を受ける。しかし、私たちはロボットや部品ではない。その極端な例を戦場にかり出される兵士にみる。

その終わりとは、奴隷が「奴隷ではない。人間だ」と立ちあがり、奴隷主と闘いがはじまる事からはじまる。例え「敗者」になろうとも時代の「始まり」を用意する行為としての奴隷制度に反旗を翻す自覚せる奴隷たち。農民もそうだ。
「始まり」の主人公として奴隷や農民がが自らの存在を歴史に登場させたことで「奴隷制度」や身分制度という前史の「終わり」があった。
同時に労働者という「始まり」のルーツがそこから始まる。
資本主義社会においても、それは同じ「わが終わりにわが始めあり」を用意すること。その理想に燃える戦略の工場としてロシア革命という「理想」はあったのではないか。

共産主義、社会主義社会を様々な理由で時代遅れとと言うにはまだ早いのではないかというのが、この間の私の実感だ。
自然災害、コロナ禍の中での医療崩壊やトヨタの史上最大黒字の一方の失業者の増大、ロシアとウクライナの戦争などの社会矛盾は違う社会ビジョンを示す時にきていると思うが故にである。

立ち止まることなく、杓子定規にこれと言える社会は未だ未完であり続けている。しかし、それは未完であるがゆえの実験と失敗であり続けるということでもあるのだと思う。

追記)1918年のフェイスブックの過去記事で、姉とふとした事でやり取りする事のある手紙に、ギリシャのテオ・アンゲロプロス監督の映画『ユリシーズの瞳』について書いてあったことをおもいだしていたのでその記事もコピペしておきます。
フェイスブックページはログインしないと見れないみたいですが。↓


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