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書道家柊雲のABC版

古いブログからの移行保存ブログです。
その内に改変して正式なものに!!!

(第57回全日本実業団対抗駅伝競走大会)を動画で見る

2013-01-02 11:12:00 | 映画、映像関係


カメラメーカー: SONY
カメラモデル: SLT-A77V
レンズ: 70-300mm F4.5-5.6 G SSM
撮影日時: 2013-01-01
焦点距離: 300mm (35mm 換算焦点距離: 450mm)
絞り値: f/5.6
露出時間: 0.0020 秒 (1/500)
ISO 感度: 320
露出補正値: なし
測光方式: マトリックス
露出: プログラム (オート)
ソフトウェア: Adobe Photoshop Lightroom 4.3 (Windows)


ニューイヤー駅伝2013in群馬は、平成25年の元旦9時10分に前橋市の群馬県庁をスタートして、約5時間後に又この群馬県庁に戻ってくるという100キロの全日本実業団対抗駅伝である。
群馬というと雪深い山という感じがするのだが、この前橋、高崎などを見るとおり雪のかけらもなく、晴天日々。但し、前橋から伊勢崎方面というのは「赤城颪」という冷たい強風に煽られる。
そんなわけで、元旦の朝9時といえども思いっきり寒い。そこでニューイヤー駅伝のスタートを待つというのも結構大変である。
それで通過するというのはあっという間なので、いつも拍子抜けする。
そして、最近は1秒間に10枚程度撮れるから連写をしていたのだが、これがおもしろくない。
そういうわけだから、今回は動画にしてみた。



そして、編集はいつもの通りCyberLink PowerDirector 11 Ultra。
編集画面で見るとおり、今回はかなりシンプルになっている。実を言えば編集する時間がなかったというだけ。

http://youtu.be/Whrrt2rZaRM

 



写真で撮っていたものを動画にするというのもたまにはよい。
使用機材は、
SONYα77 SLT-A77V
PENTAX K-01
SONY DT16-50mm F2.8 SSM SAL1650
SONY 70-300mm F4.5-5.6 G SSM SAL70300G
Pentax smcDA16~45mmF4EDAL

ここで動画にはSSMという超音波モーターを使っているレンズにしているのは、普通のレンズではAFの動作音が入るからである。
そして、主にDT16-50mm F2.8 SSMの方で撮っており、望遠が効かないというのが難点である。


1590年・小説「水の城」「のぼうの城」の舞台・忍城攻防戦3

2012-05-07 07:50:54 | 映画、映像関係

「のぼうの城」の舞台・忍城攻防戦の実行指揮者を探る

1590年・小説「水の城」「のぼうの城」の舞台・忍城攻防戦3




カメラモデル: RICOH GX200
焦点距離: 8.3mm
絞り値: f/3.1
露出時間: 0.010 秒 (1/100)
ISO 感度: 64
露出補正値: なし
測光方式: マトリックス
露出: 絞り優先 (セミオート)
ホワイトバランス: オート
フラッシュ使用: いいえ (強制)
ソフトウェア: Adobe Photoshop Lightroom 4.0 (Windows)


●武州の忍城(埼玉県行田市)は、城主成田氏長が小田原城攻防戦に小田原城に籠城中で留守であった。
そんな中、ボンクラの役立たずであった成田長親が、忍城城代を努め攻防戦の中心となっているとされていた。
その攻防戦には石田三成を総大将とし、大谷吉継、長束正家の軍勢を加えて約20,000の軍勢で押し寄せ、水攻めで落城しなかった。
そこへ悲惨な結末に終わった八王子城の落城のあと、この攻防戦に参加していた真田軍が投入された。そこで約50,000の大軍で力攻めにする。
特に強力な真田軍は、石田三成がわざと無防備にして置いた持田口に「逃げ口は不必要」と攻撃を仕掛け、この戦闘では互いに大損害を出すも真田軍は撃退される。
本来貧弱な防備と強力な軍団がいないはずの忍城には、強力で機動性を持った実戦部隊が存在して誰がその総指揮を執ったのかは歴史資料の上では不明のままになっている。

この行田市は今では新しい真っ直ぐな道が出来てあまり迷うことはないのだが、今から50年近く前では、中々思ったところに行く事が出来なかった記憶がある。
それは、秩父鉄道の行田駅から持田方面へ行こうとすると必ず水城公園に出でしまう。
又、持田方面から行田駅(秩父鉄道)へ行こうとするとこれも又水城公園にでると言う有様だった。

●この故意に総指揮官の名前が消され、歴史上にも出てこないというのはかなり意図的であると言うのは瞑々白日である。
そこでこの忍城周辺を調べてみれば非常に妙な建物を見つけることが出来る。
それは、大きな長屋門である。
30年前までは国道17号の熊谷パイパスから見ることも出来たのだが、今は町並みの中で全く見えない。
この長屋門の前には、以前巾4m近くあった深い堀が廻っていた。今ではその堀は埋められて、川は公有水面(公有地)であるからと道になってしまっている。

そして長屋門の前の堀には跳ね橋があり、修理のために跳ね橋が上がっていたこともあった。(その内に石の橋になった。)

その家とは、小宮家である。
その小宮家に関する著書があって、昭和18年頃の小宮家全景が見て取れる。
そしてこの小宮家の土地というのは、農地解放までは吹上駅まで他人の土地を通らずに行けたと言うほどの広大なものであった。

又、昔入手した銅版画に明治時代の小宮家の見取り図が書かれていてある程度のものが判る。この小宮家の見取り図には、不思議と描かれていないものも沢山あって多少追記をしたものの書き切れていない。

この小宮家の見取り図を見るとどう考えても普通の農家とも思われないところが多い。
その第一は、全て自給自足出来る様になっている。
魚は、屋敷の前の堀やその堀から取り込んだ内部の生け簀。そして畑。
裏山には竹藪があって春にはタケノコが取れるのだが、一旦入り込むと出で来られないという迷路になっていて一回迷ったことがあった。
そして、渡し船くらいの大型の船は長屋門に、小型の船は長屋門と米倉、裏屋など全部で5-6艘もあった。

母屋は40年くらい前に取り壊されて新しくなった。そこで出て来たのがなんと城の敷石だった。
端的に言えば、昔の城郭だったところに母屋が建てられたことになる。
こんなふうに見ると、この小宮家の家の作りや沿革というのがどうも怪しい。



●この小宮家の菩提寺というのは、「真言宗 智山派 医王山 遍照院」という寛仁年間(1020年)の草創といわれる。
遍照院で調べると、
「慶長9年(1604年)徳川家康により薬師堂領として25石の御朱印を賜り、重層唐破風総ケヤキ造り7間四面の重圧な本堂は、本尊薬師如来座像を祀ることから薬師堂と呼ばれ寛政5年(1793年)に再建されたもの。」
という風に書かれており、これもどうも怪しい。
この遍照院の隣の「臨済宗 妙心寺派 鷲峰山 大蔵寺」は、「文政6年(1823年)子孫の松平忠堯(タダタカ)は忍(行田)に移封された際、駒形の遍照院の南隅に寺を移し、現在に至る。」

成田氏は水上公園北の「曹洞宗 平田山 清善寺」

この遍照院に実のところ小宮家の草創からの墓がある。
その墓地は2区画あって初代は小宮忠昌(源左衛門)であり、寛文12年壬子9月3日卒とある。
この小宮氏の姓は関東における小宮姓の元だと言われている。こんなことも非常に妙なことで次回種々の謎について推論してみたい。


小説「のぼうの城」、「水の城」の舞台・忍城攻防戦の秘密

2012-05-05 08:24:51 | 映画、映像関係

小説「のぼうの城」、「水の城」の舞台・忍城攻防戦の謎の人物の真実

●小説「のぼうの城」、「水の城」は、天正18年(1590年)の豊臣秀吉の小田原攻めに端を発し、関東の北条方の城を豊臣方が攻略するという舞台での出来事である。


その中の武州の忍城(埼玉県行田市)は、城主成田氏長。この成田氏長は約500の手勢を連れて小田原城攻防戦に参加して小田原城に籠城中で留守にしている。
時の情勢は、既に太閤秀吉に帰して関東の北条方の城は瞬く間に落ち、残るは小田原城と忍城と言うことになった。
この忍城は、豊臣秀吉が石田三成に北関東の上州・館林城、武州・忍城を攻略するように命じられた。
この中で石田三成は、大谷吉継、長束正家の軍勢を加えて約20,000の軍勢で上州・館林城(軍勢約5,000)を2日で落城。
残すは武州・忍城という小さな城を落とすだけになった攻防戦である。
この忍城というのは、周囲を沼などの湖沼で取り囲まれた「浮き城」の異名を持つ難攻不落の名城である。
ここで石田三成は、忍城の籠城戦にたいして「水攻め」を行うように指示されてその水攻めを実行する。
この攻防戦で城主成田氏長とその旗本の主力部隊は小田原へ出かけて不在、忍城城代の成田長親はボンクラで役立たずというのが「のぼうの城」の「のぼう」‥でくのぼうの城である。
ところが実際の忍城攻防戦では、少人数の戦闘部隊しかいないはずの忍城に農民軍が入り約2,600の戦闘部隊を結成し統制の取れた強力な戦闘を繰り返す。
水攻めは、この忍城守備隊によって破られ湖沼地帯の戦闘では大部隊の展開ができない。
最後には、八王子城攻防戦に参加していた真田軍が投入され、約50,000の大軍で力攻めにする。それでも忍城は落ちず、強力な真田軍の持田口の戦闘では互いに大損害を出すも攻撃軍は攻めきれない。

こう言う状況で忍城よりも先に小田原城が落ちてしまうと言う事態になった。
その小田原城落城によって忍城が開城して攻防戦が終わる。

●この二つの小説もそうだが、忍城攻防戦に関しての郷土史にもなぜ忍城に強力な守備隊が存在したのか?
そして、「水の城」でも石田三成の言葉として書かれている様に
「あの城には誰がおるのだ。城兵たちが頼りにし、その人の顔を見るだけで心強くなる男は誰なのだ。‥‥」
小説「水の城」では、短期間に農民を訓練して実戦部隊にしたと言うことにしている。しかし、ほんの僅かな期間に、常備軍である豊臣軍のプロ軍団に対抗しうる農民軍を作ることは不可能である。
何と言っても、弓矢、鉄砲、槍その他が使えなくてはならないし、集団行動を行うのにはやはり実戦経験を積んだプロ集団の農民軍である必要がある。
そして、その農民軍には有力な指導者と参謀、実戦指揮官がいる。

ところが、小説で出てくる様に成田一族は実戦ではほとんど無能。そして当然留守部隊の重臣にもそんな力がない。

●要するに歴史から意図的に消された人物がいると言うことである。
実のところ、その人物というのはこの忍城の持田口と小説「水の城」に出てくる吹上(JR吹上駅がある)の清右衛門という百姓と偶然に重なる部分がある。
小説では、清右衛門は百姓を訓練して短期間に実戦部隊にして、その侍大将となって一軍を指揮する。そして、持田口での真田軍との戦いで戦死することになっている。

しかし、実際の指導者が戦死したら忍城は総崩れになって即刻開城になったはず。
ところが、その意図的に名前を消された人物は当然戦死もしていない。
その後の、関ヶ原、大阪冬の陣、夏の陣にも参戦している。

その人物は誰かというのは、今の行田市の古民家を調べその菩提寺の墓の戒名を見てみれば明らかだというのに誰も言いだしていない。
その理由というのも次回検討することにして、その重要人物の家の見取り図(明治時代)や古民家の写真などを偶然?持っていたので次回公開してあきらかにしたい。

●尚、この「のぼうの城」は映画化されてるが当然謎の人物は出ていない。


「日本の復活」講演会・田母神俊雄・水島総・三橋貴明

2012-04-30 18:04:00 | 映画、映像関係

「日本の復活」講演会・田母神俊雄・水島総・三橋貴明

【頑張れ日本!全国行動委員会 群馬県支部設立記念講演会】
前橋市文化会館に行っていたらこんな講演会がありました。
チケット1000円
こんな講演会を前橋でもするとは驚きました。
早速チケットを買って置いたので、その後講演感想でも‥


見せてくれない女房どの‥‥‥‥

2006-12-23 09:15:25 | 映画、映像関係
のだめ‥‥は、うちの女房殿がはまってしまって、マンガを全部借りてくる始末だ。
TVを小生が見ようとすると、直ぐダメと言って切られる。

何故か?それはビデオに撮ってゆっくり見るためとか。
音を小さくして‥‥と言っても‥‥どこからか聞こえるからダメという。
うちの女房殿は「戌年」で、特に「耳と鼻」が良いから全く始末に困る。

‥‥では「マンガ」、とっくに返してなし。
ビデオ正直‥‥小生の管理項目から外れている。
あとは、DVD化されたら見るかだか、結局見ないだろうなと言うのが感想。