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書道家柊雲のABC版

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ダルタニャン近衛銃士隊「砂丘の戦い」1658年

2012-05-16 07:29:41 | ダルタニャン物語

ダルタニャン 「砂丘の戦い」1658年


カメラメーカー: RICOH
カメラモデル: GR DIGITAL 3
焦点距離: 6mm
絞り値: f/3.2
露出時間: 0.0012 秒 (1/850)
ISO 感度: 64
露出補正値: なし
測光方式: マトリックス
露出: プログラム (オート)
ホワイトバランス: オート
ソフトウェア: Adobe Photoshop Lightroom 4.0 (Windows)


1658年6月14日早朝5時、テュレンヌ旗下のフランス軍は行動を開始した。しかし、ドンファンのスペイン軍は朝5時は戦闘開始時間ではないと無視した。
このスペイン軍には、フロンドの乱で亡命したコンデ大公軍とジェームズ2世(ステュアート朝)の王党派亡命軍が加わっていた。

ものの本にはコンデ公が
「30分以内に戦いに負けるところが見られるぞ」とグロスター公ヘンリーに言ったという話しがある。
このスペイン軍はこのダンケルク包囲の援軍を送るにあたり、行軍に支障をきたした砲兵隊を残して進撃してくるほどのいい加減さであった。
スペイン軍は、海と運河に挟まれた小高い砂丘の上に陣取った。

フランス軍の攻撃は、8時に開始された。
それは小高い砂丘に対しての 海岸寄りの砂浜から。ここにイギリス海軍の艦砲で援護されたフランス軍、イギリス軍歩兵が突撃。
この攻撃で、騎兵を率いたジェームズ軍は突撃を繰り返したが敗走するばかりであった。
仕方なくスペイン連合軍は予備部隊も投入するも、今度は戦線の反対の運河側からテュレンヌの砲兵隊が威力を発揮した。
この挟み撃ちによってスペイン軍は崩壊し、約4時間で戦闘は終わってしまった。

この戦闘での損害は甚大で、イギリス王党派のジェームズ軍は、二個連隊全滅、近衛連隊降伏(投降)という惨憺たるもの。
ここでジェームズやグロスター公ヘンリーは戦闘の混乱にかろうじて逃れたのがせきのやまだった。
ここでフランドル地方を転戦していたダルタニャンは、歩兵部隊を指揮(ルテナント・士官)しておりこのダンケルク包囲戦にも参加した。

ダンケルクは、「砂丘の戦い」のあと10日で陥落し、ダンケルクは英国との協定通りイングランドに引き渡された。

この時に、ダルタニャンは近衛銃士隊隊長代理候補になった。(但し、官職は購入する規定)
この時の近衛銃士隊隊長代理は、マザランの甥、銃士隊隊長は国王。
マザランの甥の近衛銃士隊隊長代理(プレ・キャプテン・ルテナント)は戦闘に参加しないので、事実上ダルタニャンが精鋭部隊の近衛銃士隊を率いたことになる。

この後テュレンヌ旗下のフランス軍は、フュルヌ、ディクスモイデ、内陸部のイーペル、アデナールデなどを攻略。
ここでテュレンヌ旗下のフランス軍に進撃停止命令が出た。
それは、摂政アンヌ・ドートリッシュがルイ14世が回復した機会にと対スペイン和平を望んだと言うことである。
それは1658年6月14日ダンケルクを攻め落とした前後のことで、カレーにいたルイ14世が熱病にかかって瀕死の状態になった。
そして、6月29日には危篤状態になる。
それが物の本には「アンチモンを秘蔵のワインに混ぜたもの」を飲ませたら回復したというから良く分からない。
そして、元気になると看病していたマリー・マンシーニと共にパリへ帰ってしまったという。
ここでマリー・マンシーニとは、マザランの姪のマンシーニ三姉妹の1人である。
このマンシーニ姉妹とルイ14世との係わり合いは深く、先ず1654年オーランプ・マンシーニをクリスマスの女王に指定したことから関係が明らかになった。
ここでオーランプ・マンシーニが王妃になるかもしれないと言う噂が流布され、アンヌ・ドートリッシュが激怒した。(モットヴィル夫人 伝)
この結果としてオーランプ・マンシーニは、即座に結婚させられソワッソン伯爵夫人として宮廷に残る事になった。(後に 宮廷の女官長)

イギリスでは、1658年9月3日にイギリス・護国卿オリバー・クロムウェルが病没し大転換になる。

そして、ダルタニャン物語 第3部 「ブラジュロンヌ子爵」に続くのである。

尚、この熱病にかかったルイ14世の話として、鉄仮面の話やルイ14世が入れ替わったという小説などがある。
とかくルイ14世に関しては出生から種々の疑惑があり、大革命の時にブルボン王朝外の王族の墓(バロアその他)が徹底的に破壊し尽くされたために今では検証しようがない。


ダルタニャン近衛銃士隊隊長代理候補になる

2012-05-16 07:27:00 | ダルタニャン物語

ダルタニャン近衛銃士隊隊長代理候補になる「砂丘の戦い」1658年



D'Artagnan物語・三銃士は、2006年まで書き連ね
D'Artagnan物語・三銃士I
http://www17.plala.or.jp/syuun/page236.html
D'Artagnan物語・三銃士II
http://www17.plala.or.jp/syuun/page251.html
で一端終わっている。
その後又3年経って、2009年に継続したものの又放置して2012年に今になっての再開。
http://pub.ne.jp/Indianinkworld/?navi_id=33854

そこでは、
第1部 「三銃士」の今までのあらすじ
第2部 「二十年後」の背景とあらすじ
で--ダルタニャン近衛銃士隊隊長代理候補になる「砂丘の戦い」1658年を経て
第3部 「ブラジュロンヌ子爵」の解説にする予定であった。

こんなふうに6年間も放置しておいたら最近ではダルタニャンものとか、この当時のフランスの歴史というのが多く書かれているのには驚いた。
以前は、シュヴルーズ公爵夫人というのは小生の記事しかなかったと記憶する。

ここで3年空いてしまったというのは、実のところダルタニャンは単なる軍人であってフランス史の中では埋没している。
この小説の第二部と三部の間には、フランスとスペイン、イギリスとの絡みそして、ルイ14世そのものの問題点が山積している。

それで実のところまだ「ぐうたら」であったルイ14世は、摂政アンヌ・ドートリッシュの侍女達などとうつつをぬかし、その一方で厭きると戦争に出かけるという後年の姿が垣間見えることになる。
そして、そういう宮中では女性がらみ、その後には正式に公式愛人を囲うことになるルイ14世の話しという女性関係を書かないと第3部に繋がらない。
なんと言っても第3部「ブラジュロンヌ子爵」はルイ14世の公式愛人が絡む政争だからである。
そしてD'Artagnan物語での主役はルイ14世に移り近衛銃士隊隊長ダルタニャンは、史実上では1664年にニコラ・フーケ(Nicolas Fouquet・ベル島侯爵、ムラン子爵、ヴォー子爵)を逮捕している。

尚、時系列によるとフーケは1650年にパリ高等法院の検事総長職を購入している。
1655年3月には、新税と官職売り出しの発布がなされ、ルイ14世はなんと侍女達との乱交で性病をうつされるという事件がある。
この宮廷の侍女達の中から、後にルイ14世の公式愛人が選ばれることになるから元々は全て貴族出身のお嬢様の筈なのだが色恋沙汰に関しては節操がない。
こう言う問題から貴族達が大革命でやり玉に挙げられ、ギロチンにかけられる原因を作っているというのは後世の歴史家の話。
従って、この前のことでルイ14世の出鱈目ぶりというは、宮廷内の侍女を夜の相手にしてお気に入りの侍女のところには石工(石造りなので)を呼んで通路を作ってしまったりする。
ここで宮廷内の侍女の監督官のナヴァーュ夫人は、その通路や抜け道を見つけると直ぐに塞ぐことをしていた。
それを知ったルイ14世は、自らの恋沙汰にたいして邪魔をする人物に我慢できないらしくその事実を知ると即刻ナヴァーュ夫人を解雇して、パリから追放した。
このことは、後のニコラ・フーケ事件と係わり合いがあると思われるので特に留意する必要がある。

その一方でクロンウェル(オリバー・クロムウェル・英国護国卿)は、10月24日ウエストミンスターでフランスと通商条約を結び、26日にスペインに対して宣戦布告をした。
1657年3月23日マゼランはパリでクロンウェル政権と一年間の同盟条約に調印した。
(フランス・イギリスと反スペイン同盟)
4月には、あの「美人の中の美人」とオッカンクール元帥に言わしめたモンバゾン公爵夫人が紫斑病にかかって急死している。

私見で言えば、このモンバゾン公爵夫人の外見イメージがD'Artagnan物語・三銃士の悪女・絶世の美女ミレディなのではないかと考えている。
もとよりルイ16世時代の王妃マリー・アントワネットの首飾り事件(The Affair of the Necklace)とその首謀者ラ・モット伯爵夫人(ジャンヌ・ド・ヴァロア)をミレディの題材にしていることは確かである。
(王妃の首飾り上・下・アレクサンドル・デュマ著/ 大久保和郎訳 東京創元社 創元推理文庫シリーズ )--このミレディ考察は後で。

そうしてこの「砂丘の戦い」の直前、ルイ14世はラ・モット・ダルジャンクールという超ナイスボディの貴族の美女を探し出して夜の相手にした。
それを咎めたのがマザランで、ラ・モット嬢は、リシュリュー(枢機卿)の愛人だったと暴露して忠告した。それで面白くなかったために、ルイ14世が親征をすると言って出かけたのが「砂丘の戦い」になる。

ダンケルクの包囲
フランス、イギリス両軍はダンケルクを包囲した。
この時ネーデルランド総督ドンファンはカンブレー防衛を念頭に置いて、予想されたダンケルクの防備を疎かにした。
5月末には、名将テュレンヌ子爵を副将としたルイ14世親征のフランス軍がダンケルク(スペイン軍3000)を前に布陣していた。(ルイ14世はカレーに在住)
海上からは、モンタギュー提督(後のサンドウィッチ伯爵)の率いるイングランド艦隊が港を包囲した。(英仏連合軍21,000)
ここにドンファンの救援部隊が派遣され、フランス軍の包囲線の直ぐ外側の「砂丘地帯」に野営地を設けた。
6月14日の「砂丘の戦い」

以下続く