定期健診で通院している東京・有明の癌研有明病院で今年も七夕の短冊飾りがお目見えした。「願いがかなう七夕短冊」の呼び掛けに入院・通院患者や家族らが病気の全快を祈って短冊に願いを書き込んだ。家族や身内の病気全快を祈る短冊がほとんどだが、参院選の真っ最中ということもあって、「蓮舫さん、がんを事業仕分けして、この世からなくしてください」と書き込んだ短冊もあった。
下咽頭がんの放射線とリンパ節かく清をして15年になる。その後、食道がんで2回入院、2年前には前立腺がんの手術を受けた。長いがん生活だが、よくぞ生きてきたものと感謝。下咽頭がんの時には、かみさんが医師から「よくて半年」と言われたということを何年か後に知った。今年の七夕の短冊には感謝をこめてこう書いた。「15年間、生かしてくれてありがとう」。
前立腺がん仲間が増えている。治療方法が決まり早期の回復を祈るばかりだ。私も前立腺がんと宣告されてから2年半になる。市民検診の血液検査で異常が見つかり、精密検査したところ、1個所から細胞が検出された。慈恵会医大病院を紹介され、1年間の経過観察の後、アイソトープを前立腺に埋め込む小線源療法で手術した。手術直前に9・4あったPSA数値(正常値4・0以下)が2年半後に0・4まで下がった。
放射線治療した別の友人は最近、数値が上がり骨に転移したと告げられた。現在、定期的に抗がん剤治療に通っているが、がん細胞はしぶとい、と嘆いていた。でもお互いに闘うしかない。
七夕の7日、予約していた半年定期健診で癌研究会有明病院に行く。喉頭がん手術から13年経過したが、定期検診で通い詰めた病院だ。当初は豊島区にあったが、4年前にこのお台場に移転した。すべてが近代化され、受付もカルテも清算も電子システムになった。最近、かみさんがこんなことを明かした。喉頭がんの手術をした後、医師から「あと後半年でしょう」と告げられたという。今なら笑って過ごせるが、よくぞ14年も長生きしてきたもんだと感慨深い。
病院に着いてロビーに入ると、大きな七夕飾りがあった。大勢の入院患者や家族らが願い事を短冊に書いている。古参のがん患者も長年の感謝を込めてこう書いた。「喉頭がん、食道がん、そして前立腺がん。輝く3癌王になったが、先生、ありがとう」。がんにいったん蝕まれると、体内のあちこちに次々と派生していく。前立腺がんと診断され手術することになった時、担当医が慰めてくれた言葉が忘れない。「あんたはがんの勝利者だよ。長生きするよ」。
酒飲み友達の先輩が死んだ。今年3月に声が出ないと国立がんセンターで検査したところ、ステージ4の食道がんと診断された。すでに手術が不可能なほど進行していた。入院して放射線と抗がん剤治療をして約2カ月、肺炎を併発してあっけなくなくなった。奥さんの話では、ワイン好きで1カ月の入院費と同額ぐらい毎月、ワインを飲んだという。2人とも単身赴任だった名古屋時代は毎晩のように飲み歩いた良き先輩だった。
ベランダの草花を夏の花に植え替えた。毎年植えるサフィニアのほかに、紫色の可憐な花を咲かせていたカンパニュラを見つけ初めて植えた。フジテレビで昨年10月から12月にかけて放映された連続ドラマ「風のガーデン」で、毎回、平原綾香が歌う「カンパニュラの恋」が流れていたのを思い出した。平原綾香という歌手も「カンパニュラの恋」というの曲も知らなかったが、ドラマを通じてカンパニュラというの花の名前がやけに記憶に残っていた。
「風のガーデン」は緒方拳の遺作になったドラマ。毎回、のめり込んで見た。久々に出会ったドラマに感動したことを覚えている。最近は出演者たちだけで勝手に楽しんでいる、くだらない番組が多すぎる。自分もがん患者だけに「風のガーデン」は身にしみる思いで見続けた。根付いたのか、カンパニュラの花びらが、日増しに盛り上がってきた。がんで死んだ先輩を思い出しながら、さびしげなカンパニュラの花びらを毎日眺めている。
糖尿病と診断されたかみさんが、けげんな顔で医師の顔をのぞき込む。普段の食事に心当たりがないからだ。日ごろの料理には30年来、減塩醤油を使い、味付けは薄味、塩も減らして、甘いもの嫌い。「なぜだ」と思うのも無理はない。しかし、血液検査などのデータを基に「高血圧の上、糖尿病」という診断結果を付き付けられると、患者として返す言葉もない。最近5年間、定期健康診断を受けてこんなかったことを悔やんだが、もう遅い。
夜中に目が回るといってかみさんに起こされた。頭が痛いという。血圧を測ると、下が110で上が220もある。脳梗塞の恐れがあると見て、朝方になって救急車を呼んだ。初めて救急車に乗ったが気分は良いもではない。約10分、自宅近くの総合病院に運ばれ、すぐに検査が始まった。点滴と血液、CT検査などを実施したが、2時間もすると血圧は急激に下がり、めまいも無くなった。
CT検査では異常がなく、年齢から来る一過性の高血圧という初期診断。ところが、血液検査のデータを見た救急担当医が血糖値が異常に高いと指摘、糖尿病の専門医の診断を受けるよう内科に回された。データを見た医師は糖尿病が進んでいると診断、直ちに食事療法を始めるよう勧められた。栄養士の指導を受け、かみさんと2人で半信半疑の思いを抱きながら、食事作りに悪戦苦闘する羽目になった。糖尿病の食品交換表を購入し、食材のカロリー計算が欠かせなくなった。
先日、年間企画の恒例のNHK歌謡チャリティーコンサートを見た。鎌倉千秋アナウンサーと一緒に司会したジャーナリストの鳥越俊太郎氏が、番組の中で「大腸がんの手術をした後、肺に転移し2回の手術を受けたことを紹介、がんに立ち向かって新しい人生を切り開いていこう」という趣旨の呼び掛けをしていた。自分の体験を下にがん患者に希望を与える運動にも携わって活動していると話していた。番組は「生きることの素晴らしさ」をテーマに13人の歌手が競演していたが、「がんに負けてはいけない」と再認識させてくれた。感動した番組だった。
手術3カ月後にPSAが半減していれば順調と聞いていたので一安心、ルンルン気分になって帰ってきた。この下降現象が一時的なものかどうか分からないが、最終的には今後、「3カ月ごとの経過観察を3年間続けて判断される」という。
PSA検査の数値推移。▼05年1月、4.0 ▼07年2月、7.17 ▼07年6月、4.50 ▼07年9月、6.80 ▼07年12月、8.62 ▼08年3月、9.45 ▼08年5月、9.48 ▼08年9月、0.90
夜景がきれいな病室(1日目、入院)
入院1日目 東京慈恵会病院の入退院センターで午前9時30分に入院の手続き。病室は中央棟1707号室。放射線を扱うため入院は個室に限定されている。1日の差額ベット代2万4千円。高齢者にとっては痛いが、こればかりはどうにもならない。入院診療計画の説明を受け、尿の全量をチェックすため、カップに排尿し、指定された容器にその都度、入れるよう指示される。
三木医師ら担当医師が交代で巡回、いろいろ説明を受ける。三木医師は「すぐ終わるよ」と励ましてくれる。手術前はいろいろ思いをめぐらして心配するものだが、医師の声掛けで、以外にも心が休ますものだ。血圧132-74 自宅にいるときより低い。
病室のベットから東京タワーが正面に見える。都心の豪華ホテルに宿泊しているようだ。夜景がすばらしい。考えてみると、これまで東京タワーに昇ったことがない。案外、地元にいるとこんなこともあると納得。睡眠促進剤をもらい寝る。
簡単に終わった手術(2日目、手術)
入院2日目 梅雨の合間の快晴。東京タワーが青空に浮かんでいる。高層ビルの合間に東京湾をまたぐアクワラインが見える。汐留の共同通信ビルは目と鼻の先にある。
6時 起床、体温、血圧、脈拍の検診後、浣腸。排便後に手術衣に着替え、血腫が飛ばないよう両足にストッキングをはく。8時30分 歩いて手術室に入る。
手術台に座り、いよいよ開始。「本日、一番痛いかもしれない」と医師に告げられ脊髄麻酔の注射を打たれる。最初は少し痛かったが、やがて腰部以下の感触がなくなり、医師がつねっても痛くなくなる。手術の模様はうすうす感じていたが、うとうとしているうちに終わった。11時前に病室に戻る。尿管と点滴で寝返りに苦労するが、患部の痛みは全くない。ただ、脊髄麻酔のためか腰、背中が痛く、朝まで苦痛だった。
放射線管理区域の解除(3日目、歩行開始)
入院3日目 8時 朝食、9時30分 一人でレントゲンとCT撮影に向かう。体のふら付きもなく快調。11時 尿管を抜き、点滴も終了。放射線技師がガイガーカウンターで病室の放射線測定をする。OKのサインがでたため、放射線管理区域の表札がはずされ、病院内の歩行が許可された。さっそく売店に行ってデーリースポーツを買う。好調の阪神はきょうから西武ドームで西武と交流戦だ。
昼食は病院近くのウナギ屋(4日目、退院)
4日目退院 日常生活の注意事項を聞き、午前11時すぎ入退院受付センターで医療費を清算して退院。国民健康保険高額負担制度が適用され、自己負担金は44,400円、差額ベット代が96,000円。支払い総額147,000円だった。
東京慈恵会病院に通院した時の昼食は、いつも近くのウナギ屋と決めていたので、今日もウナギ屋に寄る。自動販売機で1,100円のうな丼を頼んだと思ったら、つり銭が少ない。よく調べると、間違えて隣の1,500円のうな重のボタンを押していた。退院祝いと言い聞かせ、この店で初めてうな重を食べる。禁酒の上、刺激物が禁止されているので、途中でコーヒー店にも寄れず、雨の中、地下鉄で自宅に向かう。
血尿も早めに消え、頻尿などもなく、このまま推移してくれることを願う。1カ月後に検診。(平成20年6月12日)
PSAが基準値超える
東京海上診療所で2週間前に受けた多摩市の市民検診の結果が出た。診断医師は基本的な部分は異常ないと告げた後、追加で検査を依頼したPSA(前立腺腫瘍マーカー)の数値が基準値より高いと説明、精密検査を進められた。
検査表を見ると数値は7.1、基準の4を超えていた。提携病院の多摩南部地域病院を紹介され、検査することを決めた。同病院は自宅から徒歩15分のところにある東京都医療公社の多摩地区・基幹病院である。(平成19年02月20日)
生検で組織病理確定へ
多摩南部地域病院泌尿器科で宮崎医師の診断を受ける。数値が高くても必ずしもがんがあるわけではないが、まず「MRIで診断する必要がある」といわれる。検査を予約。(平成19年02月20日)
3月2日にMRI検査し、3月12日に結果が出る。「ガンの疑いがあるのでさらに調べるたい。入院して生検による検査が必要」との診断結果。入院日を決め帰宅。(平成19年3月12日)
生体の採取時間は約15分 多摩南部地域病院に1泊2日の検査入院。午前10時半に病室に入り、浣腸による腸の洗浄。午後2時半、診察室へ。正面を向いて両足を上げ、直腸から採取用の器具を挿入、前立腺に針を刺して生体を採取する。左右6カ所から採取したが、取る度にホチキスで紙面を閉じるように「パチン」「パチン」と音がする。あまりいい感じではないが、痛みは全くない。細胞の採取時間は15分ぐらいで、あっという間に終わった。採取直後は血尿が出るが、次第に回復。翌日正午近くに退院、帰宅したが、夜になって血圧が急上昇して慌てる。(平成19年03月26日)
生検結果はがん細胞検出
検査結果を宮崎医師から聞く予約日だったが、5日前から茎がはれ、痛みが激しいので、掛かりつけの歯科医院で診てもらうと、子術の可能性があるとして府中恵仁会病院口腔外科を紹介された。緊急診断の結果、「下あご骨周囲膿症」と診断されて、直ちに手術をし、そのまま入院。
このため多摩南部地域病院の宮崎医師から結果を聞くことができず、かみさんが代わりに聞く。結果は陽性と告げられたという。歯の治療が終わったら、他に転移しているかどうか詳しく調べるため、検査を続行するとのことだった。また、最悪の結果が出たかと病室で落胆。うらんでもしょうがないが、がん通告はこれで3度目になる。(平成19年04月09日)
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12年前に下咽頭がんの告知
最初に下咽頭がんを通告されたのは定年後、業務委嘱で働いていた平成7年9月。会社の産業医だった赤坂病院で1泊2日の生検で分かった。自宅近くの日本医科大付属多摩病院を紹介され、島田・耳鼻咽喉科部長の診断を受けたところ、CTを見ながら頭頚専門医の癌研病院の鎌田・頭頚科部長を再紹介された。かなり進行しているのかと落ち込んだが、鎌田部長は放射線治療で治癒が可能と診断した。
以後、土日を除く毎日、東京・大塚にあった癌研病院に通った。照査は合計34回受けた。最後は食事の味が全くわからなくなるほど下咽頭がはれた。照射で下咽頭の腫瘍は消滅したが、首のリンパ節に飛んでいた核が消えず、CTを撮ると白い点として残った。「すでに死んでいる残滓(し)と思うが、将来、起き出す心配もあるので手術しよう」と勧められた。吉川医師によるリンパ節清浄の手術を受け、22日間入院。以後、3カ月から6カ月間隔で観察治療に通院。
再度、食道にがんの発見
下咽頭がんの治療開始から6年目の平成14年10月、食道、胃の検査を受けたところ、今度は食道にがんがあると告げられた。上皮の初期がんという診断。同じ癌研病院消化器内科で土谷医師の内視鏡による手術を受ける。放射線治療の副作用で、のどの筋肉が硬直化しているため、一般に使う内視鏡のパイプが入らない。そこで一回り小さい機器を使用し、摘出せずに焼去したと説明を受けた。2年後に再度、同じような部分に上皮がんが見つかり、再度焼去処置をした。いずれも入院は1週間。
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転移追跡で骨シンチ検査
前立腺がんは容易に骨に転移するという。全身の骨を調べる検査方法はアイソトープを体内に入れ全身の骨の状況を検査する骨シンチ。体全体が熱くなり、あまりいい気分ではない。準備時間は長いが、始まると、短時間で終了した。(平成19年04月19日)。骨シンチの後、引き続きCT検査実施。(平成19年04月28日)
小線源療法を決断
多摩南部地域病院で検査の最終結果を宮崎医師から聞く。骨シンチ、腹部とも転移はない。治療は全摘、放射線とも可能。全摘の場合は2カ月待ちとのことだった。念のため同病院医事課に前立腺がんの年間手術実績を問い合わせたところ、2005年で全摘手術は31件との返事があった。
インターネットなどで集めた資料を基に前立腺がんと告知された場合、どのような手術方法を選択するか検討していたが、知り合いの経験者たちの話から、小線源療法で手術することを決断していた。宮崎医師には小線源療法を早い段階から取り入れていた東京慈恵会医大病院の紹介を依頼した。(平成19年05月09日)
来院通知の連絡受ける
多摩南部地域病院より検査の全データの提供を受ける。東京慈恵会医大病院あてに紹介状を書いてもらい、同病院に手配した結果、05月18日午後に来院するよう連絡が来た。(平成19年05月12日)
進行具合を経過観察
東京慈恵会医大病院泌尿器科の三木健太医師の診察を受ける。三木医師は意外なことを話し出した。全データを精査の結果、今すぐ手術する必要はない。経過観察でしばらく様子を見てはどうか。12カ所から採取した生体のうち1カ所から陽性反応が出た。たまたまぶち当たったようなもので、がんの性質も悪くない。ステージはBでグリーソンスコア(米国の悪性度分類)は6点。なんとも分かりやすい説明に納得、3カ月に1回、PSA(腫瘍マーカー)を検査して状況を見ることになった。
がんの告知が3回目になるとる三木医師に言うと、「がんになって10年以上生きてきた。あなたはがんの勝利者だよ」と変な褒め方をされた。下咽頭がん、食道がん、そして今回の前立腺がん。「これも運命と考えれば3癌王も悪くない」と開き直るしかない。もう引き返せない。このまま小線源療法の先進医療を進める三木医師を頼ることに決めた。(平成19年05月18日)
経過観察で治療の方針
平成19年06月15日 東京慈恵会医大病院。多摩南部地域病院より提供した全データと本日採取した血液検査の結果を見て診断。PSAは4・50。グリソンスコア6。3カ月ごとの経過観察で治療する方針を正式に決めた。
3ヵ月毎の検査通院
平成19年09月21日 東京慈恵会医大病院。血液検査、PSAは6・80、引き続き経過観察。
平成19年12月21日 東京慈恵会医大病院。PSAは 8・62に上昇。
小線源による治療実施へ
平成20年3月14日 東京慈恵会医大病院。PSAは 8・82
3カ月ごとに緩やかに上昇するPSAの数値を見ながら、三木医師は「手術の時期が来たのかなという感じだ」と告げた。1年間、観察してきたが、少しずつ進行しているようだ。もう、どたばたしてもしょうがない。手術を了承、日程を決める。手術日程は3泊4日、放射線を埋め込むため、病室は個室入院が条件。(平成20年3月14日)
手術方法の説明受ける
手術は6月9日に決まる。5月の予定だったが、三木医師に申し出てマニラ出張と日本で抱えているフィリピン国籍の新日系2世の最高裁判決があるため延期してもらう。この後、放射線科の青木医師から詳しい手術方法の説明を受ける。あとは入院、施術するだけになった。(平成20年4月7日)
前立腺がんの治療方法はいろいろあるようだが、早い段階から慈恵会医大病院での小線源治療を選択していたので、迷うことなく担当医の説明を受け入れた。小線源治療は放射性同位元素のヨード125を前立腺内に80個から100個程度挿入し、徐々に放射線を出し続けて前立腺がんを根治する治療法。現在は多くの病院で実施されている。
がん宣告を受けても3回目となると、全く平常心でいられるから不思議だ。下咽頭がん、食道がんに続いてがん手術は食道の2回を入れて4回目になる。源流はそれぞれ違うが、担当医に言わせると、完全にがん体質になっているとか。今さら変えられるわけもなく、仲良く共生していくしかない。
検査では12カ所から採取した組織のうち、1カ所からがん細胞が見つかった。大きさは1ミリ前後、グリーソンスコアは6、PSAも5.4(前の病院では6.9)。担当医の説明は、悪性度も低く、進行が遅いことを考えると、急いで手術する必要はない。検査でたまたま見つかってしまったという程度で、高齢者になれば、誰でも抱えている程度のがん細胞と考えてほしい。小線源治療も副作用がある。自覚症状もないので現段階では手術をせず、無治療経過観察が最善の方法といえる。
何か気が抜けたような気分だった。3カ月に1回、PSA検査をしてフォローすれば、たとえ進行しても手遅れになる可能性はない、と言うのだ。勇気をもらってがんと仲良く共生していけということか。10年前に下咽頭がん、4年前に食道がんが見つかった。これでついに「3癌王」になった。「首位打者はがん人生の勝利者だよ」。担当医師はこう言って激励してくれた。

就寝前に看護師が血圧測定したところ、最高が225mmHgを記録、急きょ降圧剤を初めて飲まされた。定期健診の血圧測定では、いつも低血圧といわれていたので、この測定値には正直びっくりした。退院した翌日、頭がやけに痛いので自宅で血圧測定した結果、再度225mmHgを記録。慌てて近くの病院に駆け込み、診断の後、降圧剤を服用した。
以後、降圧剤を常用する羽目になったが、なぜ高くなったのか原因は全く分からない。医者に聞いても原因不明。すべてが加齢で片付けられる年代になったのか。
集合場所の団地内の小高い丘に上ると、多摩ニュータウンの町並みが一望できる。晴れた日には、雲海から上る真っ赤な朝日と、丹沢山系越しに富士山がパノラマ状に眺められる。横着者で今まで日の出などめったに見る機会もなかったが、この風景を見て毎朝続けようと決めた。
今年の元旦の朝こそ曇り空で日の出を見ることができなかったが、季節の変化が実感できるのも新しい発見だった。