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心人-KOKOROBITO-

亡き先人と今を生きる人に想いを馳せて
慰霊活動や神社参拝で感じ取った事を書き綴った日記と日々の雑感コラム

中川昭一さんを偲んで

2012年10月03日 | 哀悼
今からちょうど3年前の平成21年10月3日、56歳という若さで、元衆議院議員 中川昭一さんが亡くなられた。4日に奥様が気付き、一斉に緊急ニュースが報じられた。
今日は、三年目の法要の日だ。改めて、哀悼を奉げ、故人を偲びたい。


彼が亡くなられる19日前に、ホームページにこんな言葉を書き残されていた。


選挙が終わって―『十勝・日本が危ない』  平成21年9月14日


 私の選挙が終わった。多くの人々が仕事、家庭、お盆を犠牲にして私の為に戦ってくれた。選挙区外からも大勢の人々が駆けつけてくれた。そして、それぞれの選挙運動を一生懸命やってくれた。朝6時頃、選挙事務所を飛び出して行く人たち、一日中車のハンドルを握ってくれた人たち。毎日毎日運動靴を履いて、雨や汗にまみれながら、一軒一軒「お願い」に行く人たち。相手から怒鳴られたり、泣かれたり、また励まされたり・・・・。皆、事前から危機を共有していたのでエネルギーは質・量とも感動的だった。

全国から毎日たくさんの激励・応援の手紙やメール等々も頂いた。事務所の何枚もの大きなボードに掲載したが、どんなに励みになったか。

 それでも負けた。活動してくれた人々、約9万人の支持を考えると誠にありがたい。かつ申し訳ない。悔しい。しかし、十勝の総意として、私は否定された。敗因は逆風もあったが、やはり私自身の報道問題と、私が訴え続けたこのままでは「十勝が危ない」「日本が危ない」が有権者に受け入れられなかったことだろう。

 選挙中、周りの人からは「あまり民主党を攻撃するな」と言われた。もちろん自分の主張はしたが、マスコミは既に我々の敗北が決まった様な報道をしているので、そうなれば「大変なことになる」と訴えざるを得なかった。「泣け」とか「土下座しろ」というアドバイスもあったが、私には出来なかった。この間2度公開討論会があり、「これが選挙のあるべき姿だ」と思い大変重視したが、全く「討論会」にならなかった。形式的で3人で1時間半しかない。入場者も議論に参加した、候補者が主役で、候補者の主張の違いが明確になる「朝まで討論方式」でなければ意味がない。12日間、大音量で連呼を続け、人々と動物等に多大な迷惑をかけた。改めて「全ての十勝」に感謝と御礼の気持ちでいっぱいだ。

それから2週間経過し、十勝は夜を徹して収穫の真っ盛り。コスモスが咲き乱れている。マスコミは新政権の行方と自民党の混乱、そして事件・事故報道ばかり。予想通り「危ない政権の危ない日本作り」が着々と進んでいる。そんな中JALの経営危機問題。この問題は永年の労組中心の高コスト構造と甘い経営に尽きる。アメリカのGMと同じだ。労組は「自分達の労働条件が悪化すると乗客の安全性が保証できない」と客の生命を人質に脅かしている。新政権になれば、ますます労組の主張が通るだろう。だからこそ、日本と日本人を守るために自民党がしっかりしなければならない。

 ところが・・・・・。

 党内議論は「若手に主導を渡せ」「上の人間は出て行け」「派閥をなくせ」・・・・。党がおかしくなると感じた時に、毎回「セミ」のように騒いでいる。近くは、今回解散前、遠くは今から16年前の記憶が私には鮮明だ。

 平成5年、我々は負けて野党になった。(私は当選したが)。やはり、不況、悪天候で不作、年末にはウルグアイラウンド(GATT、WTOの前身)で細川内閣は「無条件降伏」をした。あの時も党内で上を下への大議論をやった。しかし、激論の末、石原慎太郎さんの下で党再生の本格的議論が始まった。私も参加して、各分野ごとに、日本の為に党はどうなるべきか、どういう政策を打ち出すべきかを連日議論した。そして一年後、政権政党に戻った。その前提は唯一つ「保守」であった。

 そう、自民党の原点は「保守」なのだ。そして今こそ原点に戻るべきなのだ。
  「保守」とは守るべきものを守り、保守すべきために改革する。そして国民の活力に期待して成長のための戦略を描く。リベラリズム、ポピュリズム政権とどう区別し、対抗していくか。しかし、前進―地球の中で生き残り、真に国民を守るために何をなすべきか。と言った議論が全く欠けている。

 私を含め、「保守」議員の多くがいなくなったが、まだ残っている。彼らがいかに保守の旗印をもう一度立て直し、日本を守り、真の意味で国民を守るかを真摯に議論してほしい。心ある国民はそれを是非応援してほしい。
 自民党は末期的だが、今こそ日本の保守の軸を改めて確立するために全力を尽くすべきだ。さもなければ、日本は世界の中で埋没しながら自壊してゆく。

P.S. 過日、麻生総理の「就任直後に解散しておけば勝っていたかもしれない。しかし、経済状況を考えると、とてもそれはできなかった。」という主旨の報道があった。それが総理の本音であり、総理という立場の判断の辛さだと思う。私は麻生総理に対し、心から申し訳なく思っている。何故なら、昨年来、経済・生活対策を最優先にすべしと一番強く迫ったのは、財務・金融担当大臣つまり私だからである。何よりも政局より、政策実行の為に。総理の選挙を負けさせ退陣に追い込んでしまった。私も議席を失ったが、あの時の判断は、その後の対策が日本と世界を上向きにしつつある現状を見ても、間違っていなかったと今でも思っている。

私は今後新たに決意を持って進んでいきます。発信していきます。「日本が危ない」から。





あれから、自民党から民主党政権になり、3年の月日が流れようとしている。先の自民党総裁選挙での秋葉原の演説で、安倍さんのすぐ傍に麻生さんがおり、映像には姿は写っていないが、わたしは、中川さんが横にいると感じ、感嘆と共に鳥肌が立ち、言葉を無くし涙した。あの時、本当に悔しかっただろうと、本当に辛かっただろうと。しかし、日本の再起をかけ、彼はまだこの世に留まっていた。くしくも、安倍氏に自身のやりたかった事を託し、いつも、安倍氏の傍にいたのだろう。そう察知した。

葬儀で、弔辞を読み上げた、安倍総裁。彼も、同志を失い失意の中にいただろう。しかし、この永遠の別れに、語りかけた言葉にこそ、現在の安倍氏がいる。彼らの真なる友情は、本物だったんだと、改めて胸が熱くなる。私利私欲のために、足を引っ張る議員もいれば、志同じく力を合わせる議員もいる。日本のために、強い日本のためにと、汗をかく、そんな議員をことごとくマスコミは殺してきた。

あの平成21年10月4日に、わたしは、【迎引】という哀悼の日記を書いた。
http://blog.goo.ne.jp/shiraumeirei/m/200910

あの時、自殺説や他殺説など報じられたが、即座に浮かんだのが、父中川一郎さんが息子を励ましている姿が浮かんだ。ここで、わたしは、中川昭一さんが、父親が迎えにきたと誤った判断をし、旅立ったように思えた事を、彼の死に想いを馳せ書き残した。葬儀には、大勢の弔問があり、彼の偉大なる功績を讃え、見送った。3年前のあの日を、もう一度、弔問された自民党議員の皆様に、彼の事を、こころの中で想いを馳せていただけたらと想う。





弔辞  故中川昭一 元自由民主党政調会長の御魂に見える為、ここに哀悼の誠を捧げます。

昭一さん、今日はいつもと同じように昭一さんと呼ばせて下さい。
私と昭一さんはお互い父親が政治家同士という関係もあり家族ぐるみのお付き合いをさせていただきました。
政治の世界に足を踏み入れてから今日まで永く親交を深める事が出来たことは、私の喜びとするところであります。

先般の総選挙直後御目にかかった時は流石にお疲れの様子でしたが、2週間程前お電話で話した際は非常に元気で「安倍ちゃん、保守再生の為に頑張ろうよ」と語りかけてくれました。
その矢先の突然の訃報に私は愕然とし、言葉を失いました。
再起を目指していた昭一さんの意欲に多くの人達が期待していただけに無念でなりません。
返す返すも残念であり、本人もさぞかし悔しい思いであったことでしょう。

私が初めて選挙戦に臨んだ際、昭一さんは当選3回でした。
まだご自分の選挙に集中しなければいけない中で、貴方は私の選挙区まで脚を運び、心に沁みる応援演説をして下さいました。
当選後は国家の基本問題で大きな議論が起きた時、私は昭一さんと行動を共にしてきました。
常に昭一さんはリーダーで、颯爽とした若武者ぶりは、当時の私達若手議員を奮い立たせる魅力と力に溢れていました。

今でも忘れません。
自由民主党の党綱領から、憲法改正の柱が削除されそうになった時、昭一さんは当時の重鎮を向こうに回し、堂々と立派に戦い、、、。
時は村山政権時代「このままでは日本が危ない」という危機感の中で、教科書問題にも取り組みました。
中学校の歴史教科書全てに従軍慰安婦・強制連行の記述が載ることになり、「このような自虐的な歴史観を何とか正し、子供達が日本に、我が国に誇りを持てる教育に変えたい」と、その一心でした。
当時の政治状況・マスコミの報道ぶりから考えれば圧倒的に不利な情勢であり、まさに多勢に無勢でした。

その中で私達は『日本の前途と歴史教育を考える若手議員の会』を立ち上げ、メンバーの総意で昭一さんに会長をお願いしました。
批判の矢面に立たされる危険がある中、俗に言えば票にも繋がらない、政治キャリアにはマイナスかもしれない約束を、昭一さんは「俺がやらねば」という気持ちで引き受けてくれました。

拉致問題も全力でしたね。憲法改正問題も同様でした。
今から思えば全て困難な問題ばかりで、、、。

~略~

小泉内閣時代、昭一さんは経済産業大臣・農水大臣歴任されました。
その間、海外出張は何と43回にも上りました。
国会審議の合間を縫っての出張であり、激務でありました。
東シナ海の油田問題で、貴方の毅然とした外交姿勢は資源外交の重要性・国益を守るとは何なのか、ということを私達に身をもって示してくれました。

安倍内閣が誕生した時、私は迷わず貴方に政調会長就任をお願いしました。
平成19年1月通常国会で昭一さんは代表質問の檀上に立ちました。
奥様の話では、真面目な昭一さんは深夜まで何回も推敲を重ねたそうであります。
その冒頭、昭一さんは張りのある声でこう切り出しました。

「国家の骨格を成すものは、憲法・安全保障・教育であります。」
そして結びで、
「アインシュタインが称賛した日本人の謙虚・質素などの美徳を保ちつつ、誇りと自信を持った国民によって、見える部分、見えない部分も共に、真に『美しい国日本』が実現されるよう全力を挙げて努力することをお誓いします。」と述べられました。

私は代表質問に聞き入り、昭一さんと共に歩んできた道、戦ってきた道に思いを馳せました。
貴方の歩んできた道は国家の為、まさにその一筋で貫かれていました。

お別れの時がきました。
私は残されたご家族、参列の皆様に改めて申し上げたいと思います。

中川昭一は立派な政治家でした!!!
まだまだ国家の為に、一緒に戦って欲しかった。
私達は貴方を必要としていました。

~略~

そして私達は、貴方が目指した誇りある日本をつくるため、保守再生に向けて全力で取り組むことをお約束し、弔辞とさせていただきます。

昭一さん、さようなら。
安らかにお眠りください。

友人代表 衆議院議員 安倍晋三





http://www.youtube.com/watch?v=OtjRYoLDXz4


どうか、日本を見守って下さい。安倍総裁は、中川さんの負託に、応えてくれます。
そして、私たち国民は、今、安部総裁を批判し続けるマスコミと戦っています。
安倍氏に再び、中川さんと同じ苦しみは、絶対にさせませんから。
そう、肝に銘じ、こころを込めて、哀悼を奉げます。

合掌。

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