心人-KOKOROBITO-

亡き先人と今を生きる人に想いを馳せて
慰霊活動や神社参拝で感じ取った事を書き綴った日記と日々の雑感コラム

霊象で見る御英霊の願い

2014年01月03日 | 慰霊


新年を迎え、今年は例年以上に靖國神社への参拝者が多かったのは、12月26日の安倍首相による政権一年目の節目の参拝によってより広く関心を抱かれた結果だと想像致します。靖國へ合祀されました大東亜戦争時の御英霊も、さぞかし喜ばれた事と、遠路にて想像し思いを馳せておりました。

ニュースでしか知りえなかった方々も、実際に靖國神社へ行かれ、ご自身の体感によって、また世間で流れている情報とは異なる印象を抱かれたのではないでしょうか。

さて、今日は新たな年を迎えた最初のブログですので、史実に基づくこととは別に、亡くなられた方々がどういう思いでいるのか?それに近づいていただくためにも、自身の体験をここに書き記しておきたいと思っております。

わたしの考えでは、亡き先人へ思いを馳せる場合、今を生きている人間の思いは二の次です。優先順位を間違う方が多いために、論争を生むわけですが、そのような論争は、本来あってはならぬというのが、わたしの考えです。なぜなら、死者の誰一人として喜ばれないからです。

こうした考えに行き着いたのは、戦争で自決された方々の場所へ慰霊に行った経験からはっきりと持つようになりました。

そんな慰霊の旅を始めてから4年が経ちました。主に沖縄県糸満市にある白梅之塔で、沖縄戦での第24師団衛生看護隊として日本軍に随行し、負傷兵の看護に当たられた、たった15~16歳の少女で構成された白梅看護学徒隊が祀られている場所に慰霊をしています。

ここでは、不思議な霊的体験は数々と起きましたが、どれも皆、伝えたい思いが残っているため、霊的な現象が起きる事がよく理解出来ました。その一つの体験として、少女達6人が自決した壕の中でのことです。

わたしは、祈りの形として、お供え物を供え、読経や祝詞のほかに、自作の歌を亡き少女達のためにこれまで唄ってきました。小さなCDラジカセを持ち込み、小さなマイクで唄うのですが、全く音響は粗悪なものです。しかし少女達は亡くなって初めて肉声の唄を聴かれたようで、壕の中の光と影が動く様を目視し、その熱気はだんだんと壕全体が温かくなっていく程変化致しました。

一生懸命献歌を奉げた時、一緒になって唄ってくれた一人の日本兵がおられました。同行していた人は聞えていませんでしたが、わたしの右すぐ後ろに立ち、だんだんと大きな声で、しかも確実にわたしの声をなぞり一緒に唄われたのです。

信じがたい事ですが、わたしも信じられない程自身の耳を疑いました。しかし、この一人の日本兵は、名前こそ仰りませんでしたが、自分の背丈、容姿、歌が大好きでとても上手いなど、様々な情報をわたしに以心伝心で伝えてこられ、最後にこんな事を伝えて来たのです。

『少女達が行けないのに、自分達が先には行けない、順番がある。』

わたしは、この時、死者が死者に対し、思いを寄せている事を、生まれて初めて知り、居た堪れなくなって号泣しました。なんとお優しい慈愛に満ちた日本兵の方なんだ!と、彼の想いに報いるためには、なんとしても少女達に思いをこの世に残さず、先に天昇してもらわねばならん!と決意し、それ以降、猛烈に慰霊行為が強固になりました。

のちに、わたしの脳裏へ克明に印象づけた一人の日本兵が誰なのか? それを知る機会に恵まれました。それは、その唄を聴いてから数ヶ月後に沖縄へ向かった時に判りました。

元学徒隊の生き残りである中山会長らと、白梅之塔で再会の約束をしたのですが、その時、中山会長からなぜか、こちらが話もしていないのに、いきなり『5月15日に青山先生(青山繁晴氏)がこちらへいらしてね、壕の中にもご一緒しまして、その時青山先生が日本兵の方が壕の中におられるとおっしゃって、びっくりしたんですけど、○○さんは何か感じますか?』と尋ねられました。

わたしにとって、青山さんが来られていた事もびっくりしましたが、お尋ねされたタイミングの良さが一番の驚きでした。中山会長へは、歌がものすごくお上手で、顔立ちも丹精である事を伝えたところ、中山会長から、学徒隊の皆から好かれていた第24師団の矢野兵長さんで間違いないとの事で、誰だったのか判明しました。わたしが感じ取った情報と、中山会長のお話が全く合致していたのです。

彼は、わたしにメッセージを伝えた場所ではなく、もう一つの白梅上の壕という場所で自決され亡くなったと聞きました。その際、生き残りの学徒隊の一人に、『学徒さんよ、生きるんだぞ、なんとしても生きるんだぞ。』と言い残し、天皇陛下万歳と言って自決されたそうです。

この話は、2011年6月9日の慰霊日記でアップした、”白梅慰霊のご加護7【自決壕の日本兵】”に書いています。http://blog.goo.ne.jp/shiraumeirei/e/1a31c3292d5e7d22a0493348373e38a7


亡くなった方々に思いを寄せると、亡くなられた方の方から、お前なら分かるだろ?と知らせて来る事があります。怖さなどは一切なく、純粋に死者の声に心の耳を傾けてきました。それは、言葉もあれば、イメージで伝えてこられ、わたしが要約せねばならない事も含めてです。

また、この壕の中では、矢野兵長さんともう一人一緒におられた方も、書物により、一緒に自決された鈴木上等兵さんであったことも判りました。彼らは亡くなってからも互いで思いを一緒にされ、浮遊されていたのです。

のちに慰霊を続けていきますと、彼ら以外に、もう一人日本兵の方の存在をだんだん強く感じて来ました。壕の向かって右奥はとても狭い空洞があるのですが、その奥に気位の高い、おそらく責任あるお立場の上の位の方がいらっしゃる事を感じ、何度も何度も呼びかけました。この方には、般若心経と共に、六根清浄を読み上げ、こちらの祈りに対し、ようやく思いを少しずつ断片的に伝えて来られたのです。

この方には困り果てました。本当に軍人魂なのです。わたしにも、貴様は誰だ?!と言わんばかりの非常にプライドの高い方で、最後まで壕の奥から出る事を拒んでいました。わたしもさすがに、説得しようにも困ったほどです。よくよく考えれば、戦後68年間完全に放置され忘れられていたのですから、生きている者に対し、不満もあるでしょう。ここで初めて、あああああああ、この奥にはその方のご遺骨があるのか!と分かったのです。

それから、中山会長へもお話をしましたが、何分遺骨収容には大変な人手を要するため、ただただ、毎朝の神棚に壕に留まる軍人のプライドを払い、素直にこちらの祈りを受け取って頂けますよう嘆願しておりました。その祈りが通じ、平成24年2月18日にJYMA遺骨収容事業団の大学生らが、自決之壕に入られ、ご遺骨を見つけて下さいました。

   

白梅慰霊の会の仲間もJYMA遺骨収容事業団に所属していましたので、その後の情報も知る事が出来ました。小さなかけらしか見つかりませんでしたが、その後平和記念公園内に設置された納骨堂で安置され、DNA鑑定をし、身元を捜し、見つからない場合は、焼骨後に無縁仏として安置される納骨堂へ納められるとの事でした。結果、残念ながらその方の身元は分からぬまま、焼骨され納骨堂へ納められたそうです。

理屈では説明のつかない事が、こうした慰霊の旅の中ではよくあります。沖縄での体験から、矢野兵長さんのような方もおられれば、壕の中からなかなか思いを伝えようとせず、頑なさを伝えてこられる方もあり、まさに、生きていた時の性格や個性も、色濃く残っていることを、体感として実感して来ました。

旅を重ねていく中で、自分の役目は遺骨収容とはまた違う、目に見えない死者の思いに近づき、その思いを広く知っていただく事で、誤解を解く役目なのだと実感するようになりました。


冒頭にも書きましたが、今年12月26日、安倍首相は靖國神社へ参拝されました。そして、鎮霊社へも参拝下さいました。中曽根首相以降、隣国に配慮し、御霊への哀悼の真髄よりも現世の利益を優先させ途絶えてしまいました。唯一、小泉元首相ものちに参拝されましたが、それ以降、昨年の安倍首相の参拝まで、空白期間というものがありました。

亡くなられた先輩方が合祀された場所に、参拝しない方がもめない、参拝すれば隣国から非難を受け国益を損ねるという話が国内でありますが、誠に奇怪なお話しであります。彼らのような持論を述べる方は、全くこの目に見えないものに対する畏敬の念がありません。その上で、史実も都合よく掻い摘んでおり、事実誤認の上での感情論にしか過ぎないのです。

また中国や韓国からの靖國神社へ参拝に対する懸念や苦言は、わたしからすれば、完全に無視しておけば良い話で、むしろ中途半端に相手にする事が間違っているのです。残念ながら、隣国へマッチポンプをしたのが国内メディアですから、作られた印象操作にしか過ぎません。これらは、本来政治とは一切関係のない、亡くなられた方々への畏敬の念を参拝という態で表したものにしか過ぎません。それ以上でもそれ以下でも何物でもないからです。

そもそも、この神社の建立意義と敗戦後の御英霊らの合祀は、縦糸で一本に繋がっており、決して分断されるべきものではありません。もしも、分断するようなお考えであるならば、いささか傲慢なお考えでしょう。歴史は過去から現在に繋がっており、これからも繋がっていくわけですから、なぜ、この戦後の部分と戦前を分けるのか、理解に苦しみます。

わたしは、靖國神社へはこれまで遠路のため、4回参拝させて頂きました。平成13年、小泉首相が参拝された事によって国内メディアが一斉に批判される報道がなされたもう13年も前のお話しです。わたしも若かったため、慰霊はまったく行っていませんでした。神社参拝は地元神社で毎月参っておりましたが、靖國神社までは、今思えば恥ずかしながらも当時関心を寄せておりませんでした。

平成13年のあの頃、靖國神社がなぜそこまで騒がれなければならないのか?戦犯がどうの、こうのと報じているが、何が問題なのか?という思いが、不快さと共に、なぜ?という疑問への答えに興味を抱き、一度自分の体感できちんと理解したいと思い、上京したのが最初の参拝です。

九段下駅にエレベーターのない時代でした。地下鉄から長い長い階段を上がっていきますと、猛烈な風と共に押し倒されるかと思うほどの圧力と、そして鼻から空気とは何か異なる気を吸い込んだようで、胸が猛烈に苦しくなり、一瞬よろけるほどでした。何?何?と自問しながらも、階段を上がりきってもなお、異様な圧力と重たさ、そして胸が苦しく、息苦しさが続きました。

目の前には鳥居があり、そこまで何とか辿り着こうと歩き、ようやく大きな鳥居をくぐった時です。その瞬間、先ほどの圧力が嘘のように一瞬で消え、同時に呼吸も元通りになりました。もう、驚きというか、絶句だったのです。自身の身に何が起きたのか?立ち止まって考えるほどでした。そして、今のは何だろうと思いを集中し巡らせて、やっと判ったのです。それは、合祀されていない人が猛烈に訴えかけているという事に、気付いたのです。

そう気付いたら、急に悲しみが襲い、思わず涙してしまいました。

『そっか・・・そっか・・・、分かったよ。合祀は約束か・・・みんな戦友とここで逢おうって約束したのに、不公平が出てるんやね・・・、ごめんなぁ、、、、』

この圧力の意味を全て悟ったわたしは、正門前で足を止めました。ご神殿に向って深々と頭を下げ、胸の内で、『せっかくここまで来ましたが、合祀されていない方がいる事を今知り、申し訳ないですが、わたしは参ることが出来ません。ここでお赦し下さい。』そう言って、その場を立ち去りました。

それから数年の月日が流れ、不思議なご縁があり、白梅慰霊の会の会員でもある神職者の方と今から6年前に知り合いました。この方は、元靖國神社に長年従事され、靖國の様々な事をよくご存知の方だったのです。この出会いで親しくさせて頂いたので、厚かましくも平成13年に自身が参拝した時の体験を話しお尋ね致しました。

『こういう体験をして感じたのですが、合祀されていない人がいるのではないですか?』とストレートに尋ねますと、彼からは、『絶対、そんな事はない。皆さん合祀されています。』とメールで回答を即座に頂きました。

ショックでした。では、一体あの体感のメッセージは何だったのだろうと、余計に謎が深まったのは言うまでもありません。しかし、その2日後に彼から再びメールが受信され、初回の回答を覆すお詫びのメールでした。

『絶対ないと言った後、記憶だけではなく、やっぱりきちんと調べようと思い調べた所、すみません間違っていました。平成13年には、合祀されていない人がおられました。それから平成17年に昭和63年までの方の分全て合祀されています。だから、平成13年に、chakoさんが参拝され感じた現象は、合祀されていない方だったかもしれないですね・・・。』との返事を頂いたのです。

わたしは、やっぱりか~と核心を深めたわけですが、一番驚いたのは神職者の彼でした。彼が靖國で務めていた時、時々、空が重たいなぁ~とは感じていたそうですが、そんな事は想像もしなかったと仰っていました。わたしの話を聞いて、あの現象がそうだったのかと想われショックだったそうです。

その話を伺い、平成20年の夏に靖國神社へ参拝させて頂きましたが、あの奇妙な現象は全くおきませんでした。鳥居をくぐり、平成13年に訴えてきた亡き御英霊が再会を果たされた事に対し、胸が熱くなったのは言うまでもありません。

この霊的現象の一つから紐解けば、御英霊にとって、兵士お一人お一人抱かれていたさまざまな思いのうちの一つに、皆共通意識として、強弱はあっても、靖國神社で再会をしたいという望みがあることが判りました。

沖縄でわたしに個人の思いを伝えて来られた矢野兵長さんも、ご遺骨が見つかった軍人も、勿論靖國神社に合祀されていますが、彼らは沖縄で自身の個人的な思いを伝えてきたわけです。つまり、御英霊は、さまざまな思いを抱えながらも、靖國神社に対しては、純粋に仲間達と靖國神社で再び逢おう!この一点がそれが叶えれば満足であり、合祀の形が彼らの約束に直結している事がよく分かりました。

またより深い話ですが、過去に元靖國神社に長年従事された方のご案内で、わたしは御昇殿の一番奥まで入らせていただく事が出来ました。ここには、直径1m50cmぐらいの、大きな御鏡があり、すぐ傍まで近づく事が赦されました。ここで、涙が出そうになったのですが、この御鏡こそ、天と現世を繋ぐ窓のような役目を果たされており、合祀された方々の思いはこの御鏡を通り再会を確認され満足されている事を感じ取ることが出来ました。

わたしたちが参拝する時、拝殿前で二礼二拍手をし参拝します。この参る場所は、一直線に御昇殿奥に据えられたこの御鏡と向き合っているのです。思いをこころで語る事が、この御鏡を通じ御英霊側の届けられている、この事実は、参拝者に大切に胸に留めておいて戴きたいと、強く願っております。

また、平成21年5月に靖國神社で執り行われた英霊顕彰祭と青山繁晴氏の講演会へ参加した時のことです。先に感じてきた合祀されている御英霊にとって、靖國神社は、『再会』の場所であるため、不満など一切ここにはありません。皆等しく約束の一つが叶えられた事に満たされていらっしゃいます。しかし、合祀されていない方々も、同じ境内に御祀されています。それが、元宮と鎮霊社です。

元宮は、小さな社は、明治維新のさきがけとなって斃れた志士の霊を祀るため同士によって京都に建てられたもので、70年後の昭和6年に靖國神社に奉納され、この場所に移されました。国を守るために尊い生命を捧げられた方々の御霊を祀る靖國神社の前身となったことから、「元宮」と呼ばれています。

鎮霊社は、戦争や事変で亡くなられ、靖國神社に合祀されない国内、及び諸外国の人々を慰霊するために、昭和40年に建てられました。

平成20年に二度目の参拝の時、この元宮と鎮霊社へ参拝したのですが、鎮霊社の方で強烈なものがまたわたしにふりかかり、感受した内容が、『陽が欲しい・・・・』という強い思いを訴えかけてきました。その声は塊となって、こころに伝えてきたのです。確かに、大木が回りを取り囲み、太陽の陽もここには当りません。同時に人の陰陽の部分の陽を指しているようで、人が来ない事に強烈な悲しさを訴えて来られたのです。あああ、これもショックでした。

平成21年の折も、この場所はやはり変わらぬ状態でありました。重い暗い訴えがまだ残っていたのです。

ご神殿に祀られた御英霊の満足さとは全く異なる反応で、その落差にわたしは一瞬何がここに溜まっているのか、とても疑義を持ちましたので、その後お尋ねし詳しく教えていただき、納得もしたわけです。

実は、鎮霊社は昭和40年に建てられましたが、昭和51年の平安神宮放火事件と言うとんでもない事件があった後、鉄柵で本殿廻りを囲み、平成18年までは非公開でした。わたしが参拝する2年前までは非公開だった事が分かったのです。昭和51年から平成18年までの30年間、一般参拝者も直接参拝する事が出来なかったのですから、せっかく祀られても、暗くひっそりと30年の時が流れてしまったと言えます。

せっかく平成18年から公開され、一般参拝者も参る事が出来たのですが、現在、こちらには鉄柵に鍵が掛かっております。一般参拝者が自由に参拝出来たのも、たった7年間しかなかったことになります。その理由には昨年の韓国人による放火未遂事件がきっかけとなり、10月の秋季例大祭で参拝しようとした際、警備員の方に教えて頂きました。防犯のために鍵を掛かけていますが、参拝しようと思えば、社務所に言えば鍵は開けて頂けるそうです。

10月の参拝にその事を知り、胸が張り裂けそうになりました。まさに、これからという時に、悔やまれて仕方がなかったのです。しかし、その思いを払拭して下さったのが、2ヵ月後の12月26日の安倍首相の参拝でした。鎮霊社に参拝された首相は、安倍首相が初めてなのです。亡き人が、『陽が欲しい・・・・』と無念さを伝えてこられた事も、これで一つ大きな慰めになったと感じております。

靖國神社は、明治2年6月29日、明治天皇の思し召しによって建てられた東京招魂社が始まりで、明治12年に「靖国神社」と改称されて今日に至っています。これが建立の精神の軸であるでしょう。そして、御祀は神道に則って御祀し、合祀の儀式では蝋燭の灯火を使われてきました。

法務死の方々と戦死された兵士の方々を分祀せよというご意見もありますが、一旦合祀されますと、蝋燭の灯火が最終一つになるため、物理的に分ける事が不可能になります。この事を御存知ない方が、分祀論で異議を申すわけですが、このようなご意見は、そもそも儀式も存じられていない方であり、加えて、亡くなった方々が、皆靖國神社での再会を約束とした願いに、こころを寄り添っていないわけであります。同時に、明治天皇の思し召しなど、眼中にも留まっていない事は明々白々でしょう。

他国から戦争の責任を追及され、東京裁判にて処刑された方々は、一旦この世でその責任を命と引き換えに果たしたわけです。責任を果たした屍から抜け出た御霊には責任など残ってもおりません。全て、命と引き換えに責任は全う済みであります。これが、先人が捉えてきた国のために戦い亡くなった人の死に対して敬意を払う由縁です。分け隔てなく合祀される事こそが、死者の御霊への畏敬なのです。

死者の御霊への畏敬もなく、御英霊の思いを想像する想像力もなく、また寄り沿うこころの希薄な方が、異議を唱えているわけですが、彼らこそ、靖國神社を政治利用しているに過ぎません。このようなお考えの方に百万遍反論しましても、死者の御霊への畏敬のなさ、想像力の欠如、こころの希薄さ、故に成り立つお考えですから、史実や事実を述べられても、こころで見て紐解く心眼が欠落されていると言えるのです。

靖國神社へ思いを寄せられる方々には、これらのお考えの下で異議を唱え今を生きる日本人に対しましては、こころ穏やかに、畏敬のなさと想像力の欠如とこころの希薄さの残念さを、慰めてあげていただきたい、不毛な論争は慎むことを心がけて頂きたいと存じます。それが、結果として御英霊に対する誠意に繋がるからです。

彼らが命を掛けて守ろうとしたものの大きさから比べれば、見解の異なる人間同士の争いなどあまりにも小さい事です。御英霊は、生きている人間ほど、度厚かましい事など何も望まれていません。分かる人だけ分かれば良いのです。分かる人が一生懸命に思ってくれれば、彼らの思いが報われていくのですから。

同時に、御英霊に報いる生き方をしてこそ、初めて感謝の心を態で示す事に帰結します。御英霊にこころを寄り添い、心眼を保持し、今日のさまざまな諸問題を乗り越える勇気と英知を持って、謙虚に共に生ききることを願って止みません。

御英霊は、今を生きる皆を見ていますから。一人一人が、先人の思いを裏切ず生きれば良いだけです。そこには何の迷いも本来ないでしょう。困難にぶち当たったとき、先人に思いを馳せれば、きっと、力を与えて下さいますから。



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