サードウェイ(第三の道) ~白井信雄のサスティナブル・スタイル

地域の足もとから、持続可能な自立共生社会を目指して

環境問題の変遷その1

2008年01月19日 | 環境の歴史
 我々の産業活動は、戦後復興を経て、飛躍的な発展を遂げてきた。しかし、経済効率性の追求は、その陰で公害病と言われる深刻な健康被害をもたらし、また、全国各地に大気汚染、水質汚濁、騒音・振動、悪臭、地盤沈下、土壌汚染等の公害問題を顕在化させてきた。
 問題の発生を後追いする形で、関連法制度が整備され、環境影響の観点から産業活動への規制が成された。しかし、対策が一巡すると、地球環境問題や有害化学物質等、新たな問題が浮上し、問題と対策の“いたちごっこ”を続けてきた。また、都市部の大気汚染等は、自動車単体の改善や道路網の整備によっても解決の兆しが見えず、公害発生源に対する対処療法的な取組みの限界を露呈した。
 1980年代頃から、公害発生源の不特定化、環境問題の広域化・多様化等に対して、大量生産・大量消費・大量廃棄によって成り立ってきた経済社会の構造や活動様式を変革する必要性が指摘されてきた。しかし、バブル景気の狂乱にうち消され、抜本的な変革への踏みだしは、バブル終焉を待つ必要があったと言える。
 ようやく近年になって、経済社会の構造や活動様式の変革の必要性が声高に叫ばれてきている。我々は、これまでのような小手先の対応では、生き残れない。そうした時代へと足を踏み入れていることを認識する必要がある。

1. 植物国家・江戸の時代 (江戸から明治維新)
 (1)江戸時代に花開いた産業
 (2)資源の徹底的なリサイクル
 (3)バイオマス資源・自然エネルギーへの依存
 (4)複合的な循環システム
 (5)江戸時代にもあった公害問題
2. 産業発展の証が公害であった時代
 (1)殖産興業のスローガン
 (2)鉱毒事件の社会問題化
 (3)ばい煙による大気汚染の発生
 (4)公害を経済発展の象徴とする風潮
 (5)国防優先の時代へ
3.高度経済成長の歪みが顕在化した時代
 (1)重化学工業化とエネルギー革命
 (2)第1次産業の工業化  
 (3)高度経済成長の進展と環境配慮の軽視
 (4)公害問題の顕在化
 (5)公害反対の世論の高まりと住民運動
 (6)食品公害と消費革命
4.公害対策と省エネルギーの時代
 (1)公害規制の整備と排出源対策
 (2)石油危機による省エネルギー構造への転換
 (3)技術革新と知識集約化
 (4)農林漁業におけるツケ回しへの対応
5.環境問題が潜行した景気高揚の時代
 (1)再び物質・エネルギー多消費時代へ
 (2)バブル景気への突入
 (3)エネルギー価格の低下と産業高度化による新たな環境問題
 (4)大都市圏と地方圏の格差拡大
6.1990年代の環境問題の特徴
 (1)公害問題への対策の一巡
 (2)現在問題の特徴その1 ~製品のライフサイクル問題であること~
 (3)現在問題の特徴その2 ~時空間スケールが大きく、リスク問題であること~
 (4)現在問題の特徴その3 ~大量生産・大量消費に係る構造的問題であること~

1.植物国家・江戸の時代(江戸から明治維新)

(1)江戸時代に花開いた産業

 わが国の産業は、明治維新後、欧米へのキャッチアップを旗印に、発展を遂げてきた。この一方で、日本の風土に根ざした伝統的な産業活動は、前近代的なものとして否定され、チョンマゲとともにバッサリと葬られしまった。

 しかし、明治維新後の改革はそれまでの日本を否定するあまり、日本の伝統的な産業活動のマイナス・イメージを強調し過ぎているという指摘がある(文献1)。明治維新後の教育を受けた我々は、江戸時代の産業活動は、封建社会の支配者による下層階級の労働搾取によって成り立っていた、また新たな技術革新が停滞する中で、非創造的な活動が繰り返されていたと想起しがちだが、実はそれほどでも無かったという指摘である。例証の1つとして、江戸時代に各地で成立していた地場産業がある。今日の地域特産品の多くは、江戸時代に商品開発が成されたものなのである。江戸時代は、産業活動が停滞した時代では無く、地場産業が成熟し、産業が緩やかに発展していた時代として、捉えるべきであろう。

 そして、産業活動のグリーン化の観点からみると、江戸時代は優れたいくつかの特徴を持っている。以下では、①地域資源の徹底的なリサイクル、②バイオマス資源・自然エネルギーへの依存、③複合的な循環システムといった3つの側面から、江戸時代の特徴を示す。

(2)地域資源の徹底的なリサイクル

 江戸時代には、廃品回収・再生等を担う静脈産業が成立しており、リサイクルやエコビジネスの事例が豊富である。
 象徴的な例として、薪や炭から出る灰を集めて売る商売「灰屋」がある。「灰屋」の豪商が、井原西鶴の「好色一代男」の主人公のモデルとされるほどに、江戸時代前期に「灰屋」が隆盛を極めた。 集められた「灰」は、農地の土壌改良剤や、カリ(窒素、リンとともに、農業に必要な三要素)の補給肥料として使われたという。また、アルカリ性の「灰」は、酸っぱくなる酒の中和や、和紙原料となる楮等の不溶性成分の溶解・除去、藍や紅花等による染色の色調の調整、陶器の釉薬等にも使用された。

 稲藁も、江戸時代の経済活動を支える重要な資源となっていた。稲藁は、貴重な食糧である米生産の副産物だが、それ自体が、衣服や草履、建築材料、肥料としての多様な用途で活用されていた。さらに、街道沿いには、履きつぶされた草履が積み上げられ、それを農家が堆肥に利用していた報告もある。

 また、江戸時代の包装容器である樽についても、樽買いが空樽を買い集め、空樽問屋を通して、造り酒屋や漬け物屋、味噌屋に売るというリユースの市場が成立していた。今日の包装容器リサイクル法が目指すシステムが、江戸時代は成立していたといえよう。

 この他、廃紙、古着、蝋燭の回収・再生が商売として営まれており、江戸時代のエコビジネス事例は枚挙に暇がない。

(3)バイオマス資源・自然エネルギーへの依存

 資源・エネルギー利用の観点から捉えると、江戸時代の産業活動は、植物(バイオマス)資源、及び自然エネルギーに依存していた点に、優れた特徴がある。今日の環境問題の根底に、化石・鉱物資源の大量消費があり、資源・エネルギーの需給構造の転換が求められていることを考えると、江戸時代から学べる点は多いといえる。

 資源需給面で、植物資源が重視されていたことは、(2)に示したリサイクル素材が全てバイオマスであることからも明らかである。建築・住宅は、もちろん木造住宅であり、構造材から外装、内装材料まで、あらゆる所に木材や竹、稲藁等が使用されていた。また、包装容器(樽)や交通機関(駕篭、大八車等)、計算機(算盤)、家具等の素材も、植物資源が材料とされていた。

 エネルギー面でも、熱源として里山から採取された薪や炭が利用され、光源としては蝋や菜種油、魚油等が利用されていた。動力源としては、人力や牛、馬等が利用された他、風車や水車等の自然エネルギーが活用されていた。風車や水車の揚水利用は、江戸時代に活発に開発された水田を潤し、動力としては米の精白や、菜種からの油絞りに利用され、酒造業や植物製油業を支えていた。

 もちろん、江戸時代にも鉱物利用はあったが、農器具としての鋤や鍬、鍋や釜、桶のたが等には鉄が使われ、金、銀、銅も使用されていた。しかし、マテリアル・フローに占める鉱物の比率は、現在の比ではないことは、言うまでもない。

(4)複合的な循環システム

 江戸時代の産業活動における環境配慮を、包括的に説明した例として、槌田が紹介する「江戸モデル」がある(文献2)。
 徳川家康の開城前の江戸は人口300人位の漁村であったが、江戸末期には300万人を越える大都市となっている。この大都市江戸と周辺の武蔵野台地、荒川・多摩川等の河川と内湾が、有機物の循環で連続し、支持し合っていたと提起するのが、「江戸モデル」である。
 「江戸モデル」の特徴を下記に示す。「江戸モデル」は、江戸時代の循環の一部分を示すものであるが、江戸時代の循環は、農業、漁業、糞尿の回収業等の産業活動と、虫や鳥の生物活動、流水といった自然界の物理的メカニズムが一体となった複合的なシステムであったことを示唆している。
a) 魚油で灯とりをしており、魚油の絞粕を乾燥させた干鰯を肥料として田に投入していた。
b) 人の糞尿は、武蔵野台地の畑地に運ばれ、野菜の栄養分とされ、生産された野菜は、江戸の台所を支えた。なお、人糞は「金肥」と称され、貴重な資源として有償取引が成されていた。
c) 水田や畑の有機肥料に虫が集まり、鳥が集まり、その鳥の糞が供給されることで、荒地であった武蔵野台地は、豊かな雑木林となった。
d) 武蔵野台地から流れ出る豊かな水は水田に流れ、荒川や多摩川を経由して、東京湾に注がれ、 海草(海苔)や江戸前の魚貝の栄養源となった。

(5)江戸時代にもあった公害問題

 江戸時代における環境配慮の優れた点を示してきたが、江戸時代にも公害問題は発生している。安藤精一(文献2)は、江戸時代の公害の例として、新田開発による旧来の田の水や共有地への害、酒造米や油絞り等での水車利用による農業用水への悪影響、鉱山からの公害等を指摘している。

 特に、先祖代々の農地を、生業の全てとする農民にとって、鉱山や水車の被害は死活問題であり、百姓一揆の形での反対運動もあった。

 江戸時代の公害対策については、①鉱山開発、新田開発、水車の設置等に関する地域住民への事前了解、②公害防止協定による排水対策や公害補償、③公害企業の全面操業禁止や操業期間の限定、規模縮小、④公害発生源の除去や公害地の替地と買上げ、公害源の移転等の事例が報告されている。

 江戸時代の公害対策は、今日の公害対策と多くの点で共通する。製鉄や塩田は藩の貴重な収入源であり、開発側と農民の間での利害の対立があった。その対立構図といい、対策の手法といい、江戸時代と現在は何ら変わるところがない。むしろ、江戸時代の方が、開発の事前調整が徹底していたという指摘もあり、公害対策としても江戸を範とすることが出来るのかも知れない。

 この他、安芸国豊田郡生口島塩田では、塩田に使用する石炭の煙害対策として、薪を二分五厘、石炭を七分五厘とするように取り決めを行っている。代替エネルギー対策として薪を使用している点が興味深い。

2.産業発展の証が公害であった時代

(1)殖産興業のスローガン

 1867年の大政奉還によって成立した維新政府は、土地所有制度、身分制度の廃止等社会経済の枠組みを転換させる大きな制度改革を進めた。江戸時代後期の人口は3,000万人程度で安定していたが、明治維新から約60年の人口は6,000万人と急増したことからも、明治維新による改革の大きさを知ることが出来る。

 明治時代は、政府の進める殖産興業の旗の下で、産業革命が進展した時代である。わが国の産業革命は、イギリスの産業革命から遅れること約100年、最先端技術を導入する形で急激に進行した。 産業革命は、石炭を燃料源とする蒸気機関を導入するものであり、エネルギー利用面ではバイオマス資源から石炭への燃料転換を進めることとなった。また、蒸気機関を利用した作業機械・輸送機械の普及により、熟練技能に依存する生産という労働力供給の制約が解消され、大量生産を可能とした。同時に、機械技術による新しい製品が開発され、新しい需要創出を可能とさせ、大量生産・大量消費のスタイルが定着することとなった。

 以上のように、明治時代に進行したわが国の産業革命は、農林業や手工業のみで経済を成立させていた江戸時代の良き環境調和型の産業様式(前節参照)は崩壊させたと見ることができる。そればかりか、戦後の本格的な工業化によって深刻化した公害問題の原点というべき事件が、明治時代に早くも発生している。

(2)鉱毒事件の社会問題化

 大資本による近代的な生産が進められる中、1890年代から1900年代にかけて、栃木県渡良瀬川流域の足尾鉱山による鉱毒事件が発生した。精錬所周辺の樹木は、排出される二酸化硫黄のために立ち枯れ、洪水時には鉱滓や排水が渡良瀬川に流入し、農地に大きな被害を与えられた。当時、被害農民とともに反公害運動を続けた栃木県選出議員である田中正造氏は、今日では反公害運動の創始者的な存在となっている。この事件は、鉱山側の対策ではなく、官憲による農民の強制移住、あるいは弾圧によって、決着したとされる。

 足尾事件と同時期に、四国の別紙銅山で、銅精練所からの煙による水稲や麦の被害が発生した。農民の陳情や紛争の結果、精錬所は沖合の島に移転されたが、その後も農民の請願と行政による仲介・斡旋が繰り返され。最終的な幕引きは、精錬所がアンモニアによる排ガス中和装置を設置した1939年(昭和14年)とされている。

 この他、足尾鉱山、別紙銅山とともに当時の4大鉱山と称される日立鉱山、小坂鉱山でも鉱毒事件は発生している。鉱毒事件は、当時においても大きな社会問題となり、戦後に深刻化する公害問題の原点ともいわれている。

 こうした問題を契機に、鉱業法、鉱山保安法が制定された。

(3)ばい煙による大気汚染の発生

 山間部で鉱毒事件が騒がれる一方、都市部では、工場周辺のばい煙、騒音・悪臭等の被害が発生しはじめた。

 例えば、日本の製鉄業発展の先駆けとなった官営製鉄所が設立された八幡村(現在の北九州市)では、1909年(明治42年頃)から「八幡の雀は黒い」と評判になる程、製鉄所の石炭燃焼による煙害が顕著であったと報告されている。

 また、明治時代の産業の中心であった大阪では、紡績工場を中心に、電力会社、化学工場等が多数建設されている。大阪府は、1906年(明治39年)には有害な活動を行う工場の立地を制限する区域指定と立地の許可等を内容とする「製造業取締規則」を制定した。

 国では、1911年(明治44年)に「工場法」を制定し、一定規模以上の工場の立地を許可制とした。この法律に基づき、地方の警察に工場監督官がおかれ、汚染対策の指導を行ったた。しかし、工場監督官の制度が成熟してきた昭和初期の大気汚染対策でも、監督官の指導のほとんどが燃焼改善(火不の教育による過剰な石炭投入の抑制、ストーカーの改善等)とされ、設備投資を必要とされる対策はほとんど実施されていない。

 また、明治時代の産業革命による農林漁業の衰退は、農山村から都市への人口移動を促し、都市の無秩序な開発を進行させた。殖産興業は、公害問題のみならず、土地利用の改変を進める結果となり、自然保護の側面でも多くの問題を発生させた。

(4)公害を経済発展の象徴とする風潮

 明治時代における公害問題は、今日ほどに深刻な問題として捉えられていなかったという指摘がある。その理由としては、明治初期の近代産業が官主導で設立されたことから、お上にたてつく物言いが容易でなかった時代背景に加え、生活環境に対する住民の権利意識が弱かったことがあげられる。特に、農民であれば、鉱毒事件等に見られるように、農地へのこだわりから反対運動を起こすことになるが、生活者に過ぎない都市住民の反対運動はほとんど報告されていない。

 さらに、明治時代には、公害が文明開化の象徴として、誇りを持って捉えられていた風潮さえ指摘されている。陸蒸気と呼ばれた機関車や製鉄所の煙突からの煙は、世間の人々を驚かせ、文明開化の時代の原風景、繁栄の証ともなっていたようである。

(5)国防優先の時代へ

 帝都である東京都では、警視庁が公害対策を担い、公害苦情は、警視庁工場課に寄せられている。1924年(大正13年)から1936年(昭和11年)の苦情内訳は、騒音(103件)、悪臭・有害ガス(65件)、振動(58件)、ばい煙(46件)、火気爆発(30件)、ふん塵(25件)、廃液(19件)であり、石炭利用による大気汚染を中心に公害被害はますます進行している。

 しかし、戦時色が強くなり、統制経済の時代になると、公害に対する行政施策や対策はほとんど実施されなくなる。東京都の報告資料では、次のような記述がある。

 「1937年(昭和12年)から日中戦争が始まり、1939年(昭和39年)辺りから統制経済、軍需生産第一の時代に入っていく。東京の姿も大きく変わり、「欲しがりません勝つまでは」「贅沢は敵だ」のスローガンが銀座街頭を飾ったりした。一機一艦でも多くつくり、そのためのばい煙、騒音、悪臭を一般市民は堪え忍ぶのが美徳となった。公害の現象や被害はあっても、一般市民はそれを問題として取り上げないことになった。公害対策は出ても、それは工場の生産を守り、災害を防ぎ、戦力を増強するという観点からだった。」

 このように、明治時代には生産の拡大に高い価値が与えられ、環境対策が軽視されていたが、戦争の時代へと突入することで、さらに国防のための生産が何者よりも優先される時代になっている。

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