恋がすべて(恋愛至上論)
恋は人と人との全人的な結びつきですから、古くから「恋愛」に人生最高の価値を与える思想が生まれ、「恋愛至上主義」という立場による主張が唱えられました。しかしこれは主として文学において恋愛の精神面をクローズアップした主張で、現在の若者たちが日常使っている「恋愛至上主義」という概念とは大きく異なります。
恋愛という状態への評価は、現在恋愛を経験している人にしか分からない、きわめて主観的なことに属するので、現在恋愛中の人が他人に対し「恋愛は素晴らしいから、あなたもしたほうがいいよ」といくら強調したところで、経験しない、または現在していない人にはほとんど理解されないばかりか、反発さえ起きかねません。だから「恋愛至上主義」なる主張を他人に押し付けるのはそれ自体が誤りだといっても良いでしょう。それにも拘わらずこのようなタイトルを取り上げたのはそれなりの理由があります。
ここで「恋がすべて」というメッセージは恋愛を経験している人がいかにそれを大切に育て、より大きな幸せに結びつけるかを考えるための提案です。幸い「恋愛に巡り合えた人」はとても幸運な人たちです。なによりそこには愛し合う喜びがあります。生活において互いに支え合い助け合える喜びがあります。楽しみを共有する喜びがあります。セックスの喜びがあります。互いに甘えられる喜びがあります。高齢者の場合特に人生の伴侶として共に充実した人生を生きる最高の幸せがあります。しかし、「他人」である恋人との関係なので、いろいろな誘惑・危険をはらんだ充実でもあります。
まず恋する二人が当面する誘惑は相手を「所有したい」という誘惑です。相手を自分の所有物と誤解した時から恋は失われていきます。誤解が生み出す「相手が自分の思い通りにならない不満」は最悪の場合DV、ストーカーその他犯罪にすら及びかねない危険な誘惑と言えます。そして「全てを許しあえる愛」の誘惑があります。「恋人は他人」という大切な原則が破られたとき「全てを許しあえる愛」は「許しあえない愛」に変貌します。それはもはや愛ではなく、やがて「憎しみ」に変わっていくこともあります。そしてそれは「他人」としての恋人(の人格)への思いやりを失った独善的なセックスの誘惑にも繋がります。結婚の誘惑もあります。「結婚」を否定するつもりはありませんが、法律による「結婚」は恋とか愛ということとは別次元での拘束となり、特に高齢者にとっては慎重な判断が必要です。そして相手を他に求める恋への誘惑もあります。
幸せであるべき恋人たちが決定的な離別に至るプロセスは
① 外的な要因で「離される」場合
② 内的な要因で「壊れる」場合
の二つがあります。①の「離される」ケースは家族による事情、病気など健康上の事情、死別など、ほとんど不可抗力的な場合が多いのですが、②の「壊れる」ケースは上記にあげた人間性に関わる「恋愛」の質に関わる問題と言えます。
「恋」には恋する人の「恋ゆえの苦悩」もあります。忍耐も必要です。相手の愛に寄りかかった受動的な恋はやがて破綻します。幸せな恋を持続させるためには、恋人で有り続ける知恵が必要です。愛し合える「他人」で有り続ける忍耐と努力が必要です。互いに自らを改善する努力をし、互いに高めあえる環境をつくる必要があります。夢を持ち明日への発展を追い求める気概が必要です。これは年齢を問わず、人格の成長を促し、互をより魅力的な「恋人」に成長させます。恋は人生の素晴らしいイベントです。(白浜渚・恋愛至上論)
次回のテーマは 「男と女」 です。
恋は人と人との全人的な結びつきですから、古くから「恋愛」に人生最高の価値を与える思想が生まれ、「恋愛至上主義」という立場による主張が唱えられました。しかしこれは主として文学において恋愛の精神面をクローズアップした主張で、現在の若者たちが日常使っている「恋愛至上主義」という概念とは大きく異なります。
恋愛という状態への評価は、現在恋愛を経験している人にしか分からない、きわめて主観的なことに属するので、現在恋愛中の人が他人に対し「恋愛は素晴らしいから、あなたもしたほうがいいよ」といくら強調したところで、経験しない、または現在していない人にはほとんど理解されないばかりか、反発さえ起きかねません。だから「恋愛至上主義」なる主張を他人に押し付けるのはそれ自体が誤りだといっても良いでしょう。それにも拘わらずこのようなタイトルを取り上げたのはそれなりの理由があります。
ここで「恋がすべて」というメッセージは恋愛を経験している人がいかにそれを大切に育て、より大きな幸せに結びつけるかを考えるための提案です。幸い「恋愛に巡り合えた人」はとても幸運な人たちです。なによりそこには愛し合う喜びがあります。生活において互いに支え合い助け合える喜びがあります。楽しみを共有する喜びがあります。セックスの喜びがあります。互いに甘えられる喜びがあります。高齢者の場合特に人生の伴侶として共に充実した人生を生きる最高の幸せがあります。しかし、「他人」である恋人との関係なので、いろいろな誘惑・危険をはらんだ充実でもあります。
まず恋する二人が当面する誘惑は相手を「所有したい」という誘惑です。相手を自分の所有物と誤解した時から恋は失われていきます。誤解が生み出す「相手が自分の思い通りにならない不満」は最悪の場合DV、ストーカーその他犯罪にすら及びかねない危険な誘惑と言えます。そして「全てを許しあえる愛」の誘惑があります。「恋人は他人」という大切な原則が破られたとき「全てを許しあえる愛」は「許しあえない愛」に変貌します。それはもはや愛ではなく、やがて「憎しみ」に変わっていくこともあります。そしてそれは「他人」としての恋人(の人格)への思いやりを失った独善的なセックスの誘惑にも繋がります。結婚の誘惑もあります。「結婚」を否定するつもりはありませんが、法律による「結婚」は恋とか愛ということとは別次元での拘束となり、特に高齢者にとっては慎重な判断が必要です。そして相手を他に求める恋への誘惑もあります。
幸せであるべき恋人たちが決定的な離別に至るプロセスは
① 外的な要因で「離される」場合
② 内的な要因で「壊れる」場合
の二つがあります。①の「離される」ケースは家族による事情、病気など健康上の事情、死別など、ほとんど不可抗力的な場合が多いのですが、②の「壊れる」ケースは上記にあげた人間性に関わる「恋愛」の質に関わる問題と言えます。
「恋」には恋する人の「恋ゆえの苦悩」もあります。忍耐も必要です。相手の愛に寄りかかった受動的な恋はやがて破綻します。幸せな恋を持続させるためには、恋人で有り続ける知恵が必要です。愛し合える「他人」で有り続ける忍耐と努力が必要です。互いに自らを改善する努力をし、互いに高めあえる環境をつくる必要があります。夢を持ち明日への発展を追い求める気概が必要です。これは年齢を問わず、人格の成長を促し、互をより魅力的な「恋人」に成長させます。恋は人生の素晴らしいイベントです。(白浜渚・恋愛至上論)
次回のテーマは 「男と女」 です。
白浜 渚の本
シニア恋愛小説「ピアノ」
シニア恋愛小説「ピアノ」