シニア世代の恋愛作法(白浜 渚のブログ)

シニア恋愛小説作家によるエッセイ集です
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恋がすべて(恋愛至上論)

2015年10月23日 21時39分28秒 | 随筆
恋がすべて(恋愛至上論)
恋は人と人との全人的な結びつきですから、古くから「恋愛」に人生最高の価値を与える思想が生まれ、「恋愛至上主義」という立場による主張が唱えられました。しかしこれは主として文学において恋愛の精神面をクローズアップした主張で、現在の若者たちが日常使っている「恋愛至上主義」という概念とは大きく異なります。

恋愛という状態への評価は、現在恋愛を経験している人にしか分からない、きわめて主観的なことに属するので、現在恋愛中の人が他人に対し「恋愛は素晴らしいから、あなたもしたほうがいいよ」といくら強調したところで、経験しない、または現在していない人にはほとんど理解されないばかりか、反発さえ起きかねません。だから「恋愛至上主義」なる主張を他人に押し付けるのはそれ自体が誤りだといっても良いでしょう。それにも拘わらずこのようなタイトルを取り上げたのはそれなりの理由があります。

ここで「恋がすべて」というメッセージは恋愛を経験している人がいかにそれを大切に育て、より大きな幸せに結びつけるかを考えるための提案です。幸い「恋愛に巡り合えた人」はとても幸運な人たちです。なによりそこには愛し合う喜びがあります。生活において互いに支え合い助け合える喜びがあります。楽しみを共有する喜びがあります。セックスの喜びがあります。互いに甘えられる喜びがあります。高齢者の場合特に人生の伴侶として共に充実した人生を生きる最高の幸せがあります。しかし、「他人」である恋人との関係なので、いろいろな誘惑・危険をはらんだ充実でもあります。

まず恋する二人が当面する誘惑は相手を「所有したい」という誘惑です。相手を自分の所有物と誤解した時から恋は失われていきます。誤解が生み出す「相手が自分の思い通りにならない不満」は最悪の場合DV、ストーカーその他犯罪にすら及びかねない危険な誘惑と言えます。そして「全てを許しあえる愛」の誘惑があります。「恋人は他人」という大切な原則が破られたとき「全てを許しあえる愛」は「許しあえない愛」に変貌します。それはもはや愛ではなく、やがて「憎しみ」に変わっていくこともあります。そしてそれは「他人」としての恋人(の人格)への思いやりを失った独善的なセックスの誘惑にも繋がります。結婚の誘惑もあります。「結婚」を否定するつもりはありませんが、法律による「結婚」は恋とか愛ということとは別次元での拘束となり、特に高齢者にとっては慎重な判断が必要です。そして相手を他に求める恋への誘惑もあります。

幸せであるべき恋人たちが決定的な離別に至るプロセスは
① 外的な要因で「離される」場合
② 内的な要因で「壊れる」場合
の二つがあります。①の「離される」ケースは家族による事情、病気など健康上の事情、死別など、ほとんど不可抗力的な場合が多いのですが、②の「壊れる」ケースは上記にあげた人間性に関わる「恋愛」の質に関わる問題と言えます。

「恋」には恋する人の「恋ゆえの苦悩」もあります。忍耐も必要です。相手の愛に寄りかかった受動的な恋はやがて破綻します。幸せな恋を持続させるためには、恋人で有り続ける知恵が必要です。愛し合える「他人」で有り続ける忍耐と努力が必要です。互いに自らを改善する努力をし、互いに高めあえる環境をつくる必要があります。夢を持ち明日への発展を追い求める気概が必要です。これは年齢を問わず、人格の成長を促し、互をより魅力的な「恋人」に成長させます。恋は人生の素晴らしいイベントです。(白浜渚・恋愛至上論)


次回のテーマは   「男と女」  です。

白浜 渚の本
シニア恋愛小説「ピアノ」


自慰について(その2)

2015年10月13日 17時59分37秒 | 随筆
自慰について (その2)
人間の「性(せい)」が「生殖」(子孫を残す)という、動物本来の機能を超えて「恋」という文化を生みだしてから何千年の歴史が流れたことでしょう(何万年かも)。しかし「恋人」は他人です。他人同士である恋人は、実生活においても、セックスにおいても、常に100パーセント一致しているということはありません。最も深い心の奥底における人間の性(さが)と言える部分においては「恋人」といえども譲れないプライバシーの部分が存在するのです。

それはこれまで生きてきたその人個人の、また対人関係の長い歴史によって形作られた殻のようなものかも知れません。その人の家族関係や交友関係や恋愛関係や夫婦関係や職業や地位や、あるいはトラウマと言われるような部分もあるかも知れません。そしてそれは「高齢者」ほど固く強くなっていきます。また「若者」にとっては正しい知識と「経験」の不足による不安があります。「恋」はこの「心の殻」を乗り越えて成り立ちます。だから「心の開放」がとても重要です。「開放」とは決して「殻」の内容をさらけ出すことではありません。前進の障害になっている殻を乗り越えて一歩を踏み出せるようにすること、それが心の開放です。

「自慰」つまりオナニーは夫婦や恋人とするべき性行為の疑似体験です。しかしひとりですることなのでそこには「恋人」などの「他人」は介在しません。だからオナニーをするとき人は「心の殻」をごく自然に乗り越えます。それは、あたかもひとりで宇宙にさまよい出るような開放感の体験です。この「開放感」を恋人との交わりで共に体験できれば「至福」のひとときが広がります。しかしいつでもそれがかなうとは限らないところが問題なのです。オナニーを「ひとり宇宙」と呼ぶ人がいますが、言い得て妙、美しい表現だと思います。

自慰は人の心を解放できるひとつの手段です。ストレス解消にも役立ちます。しかし、自慰は「しなければならない」性質のものでもありません。擬似行為なので限界もあります。しかし恋人に対する「心の開放」の疑似体験でもあります。有効に使って心の開放に役立てばよく、後ろめたさなどを感じることではないのです。


次回のテーマは   「恋がすべて(恋愛至上論)」  です。

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シニア恋愛小説「ピアノ」


自慰について

2015年10月06日 20時31分47秒 | 随筆
自慰について (その1)
私が高校2年生の「純真な少年」だったとき(思えばもう60年以上前になりますが)、担任の先生がおっしゃいました。「オナニーは有害です・・・」と。
男子だけのクラスだったので「性教育」の一環として話されたのでしょう。詳しい内容は忘れましたが、奥手だった私には、これは大きなショックでした。

中学生の頃、憧れていた可愛い同級生の女の子に人知れず恋をして、いつの間にか覚えた「自慰」行為が、内心恥ずかしく、やめたいと思いながらもついやめられずに悩んでいた頃でしたので、ほとんど絶望の淵に立たされた覚えがあります。

現在の高校生で、そのようなことで悩む人はいないと信じたいのですが、このような誤解や偏見を、心のどこかにひそめている方が皆無とも思えません。ことに高齢者にとっては、正式に「性」や「恋」についての正しい知識を若いころに教えられた人は非常に少ないのです。

「性」に関する知識は、子供のころは「ませた子」が中心に、面白半分に歪んだ知識をひけらかし、大人になっては、「下ネタ」と称して、興味半分、得意半分に「大人」の「卑猥な話題」として幅を利かせてきたのが実情のように思えます。ここで、私は「性教育論」を展開する気はありませんが、最近ではだんだん開けてきているとはいえ日本人の間では「性に関すること」なぜか表向きには「いかがわしい」「いやらしい」「恥ずかしい」ことといった社会通念が形成されているのが現状です。しかし「性」は男女にかかわらず、人間ならば必ず持っている一つの「能力」なのです。それを「いかがわしい」「いやらしい」「恥ずかしい」ことと位置づけてしまうのがいかに誤ったことかを認識しなければなりません。「自慰」についても同じです。旧来のマイナスイメージは払拭して明るいイメージを広げたいものです。
(つづく)

白浜 渚の本
シニア恋愛小説「ピアノ」


次回のテーマは   「自慰について (その2)」  です。