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高大連携情報誌 調べもの新聞
【ブログ=穴埋め・論述問題】
人麻呂の謎を訪ねて
柿本人麻呂の足跡
鴨島説と益田
鴨山説と浜田
江津と人麻呂
湯抱説と邑智
万葉歌人の選んだ
石見37名所
今日今日と わが待つ君は石川の 貝に交じりて ありといはずや
[ きょうきょうと、わがみまつきみは、いしかわの、かいにまじりて、ありといわずや ]
直の逢いは 逢いかつましじ石川に 雲立ち渡れ 見つつ偲はむ
[ ただのあいは、あいかつましじ、いしかわに、くもたちわたれ、みつつしのばん ]
柿本朝臣人麿の死(みまか)りし時に、妻の依羅娘子(よさみのおとめ)の作れる歌二首
浜田・鴨山説のポイント
1619(元和5)年、浜田藩主 古田候が今の城山に築城し「亀山」と改称するまでは、「鴨山」と称していた。
秋葉神社は、この地に以前からあった「柿本神社」をも合祀しており、江戸時代の浜田城御地目録にも「太鼓堂の下に塚あり、人麻呂終焉の地なりと古き伝へあるなるべし」とある。太鼓堂はこの境内に建っていた。今でも地元住民はこの神社を通り過ぎる時、静かに眼る人麻呂にそっと手を合わせ続けている。
1570(元亀元)年、毛利軍と周布・三隅氏の連合軍との戦いを綴った「陰徳太平記」では、今の浜田川を「石川」と呼んでいる。
浜田市国府町伊甘に石見国府があった。民心の掌握、官道の整備などに伴い仁摩町、都濃郷神主、国府町と西進したと考えられる。
人々の心に残る人麻呂
浜田市殿町の城山公園に秋葉神社がある。その中程にある木立に囲まれひっそりとした境内を顧みる者はだれもいない。しかし浜田の人は古くから「ここが人麻呂終焉の地」と信じてきた。
地元では城山公園を亀山の名で親しみ、そもそも初代藩主が築城し改名するまでは鴨山と呼ばれていた。人麻呂が最期に別れた妻を思い詠んだ歌、「鴨山に磐根し巻ける吾をかも・・・」の山だ。
秋葉神社 (浜田商工会議所真裏)
浜田市国府町伊甘の石見国府跡
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人麻呂の謎を訪ねて
柿本人麻呂の足跡
鴨島説と益田
鴨山説と浜田
江津と人麻呂
湯抱説と邑智
万葉歌人の選んだ
石見37名所
今日今日と わが待つ君は石川の 貝に交じりて ありといはずや
[ きょうきょうと、わがみまつきみは、いしかわの、かいにまじりて、ありといわずや ]
直の逢いは 逢いかつましじ石川に 雲立ち渡れ 見つつ偲はむ
[ ただのあいは、あいかつましじ、いしかわに、くもたちわたれ、みつつしのばん ]
柿本朝臣人麿の死(みまか)りし時に、妻の依羅娘子(よさみのおとめ)の作れる歌二首
浜田・鴨山説のポイント
1619(元和5)年、浜田藩主 古田候が今の城山に築城し「亀山」と改称するまでは、「鴨山」と称していた。
秋葉神社は、この地に以前からあった「柿本神社」をも合祀しており、江戸時代の浜田城御地目録にも「太鼓堂の下に塚あり、人麻呂終焉の地なりと古き伝へあるなるべし」とある。太鼓堂はこの境内に建っていた。今でも地元住民はこの神社を通り過ぎる時、静かに眼る人麻呂にそっと手を合わせ続けている。
1570(元亀元)年、毛利軍と周布・三隅氏の連合軍との戦いを綴った「陰徳太平記」では、今の浜田川を「石川」と呼んでいる。
浜田市国府町伊甘に石見国府があった。民心の掌握、官道の整備などに伴い仁摩町、都濃郷神主、国府町と西進したと考えられる。
人々の心に残る人麻呂
浜田市殿町の城山公園に秋葉神社がある。その中程にある木立に囲まれひっそりとした境内を顧みる者はだれもいない。しかし浜田の人は古くから「ここが人麻呂終焉の地」と信じてきた。
地元では城山公園を亀山の名で親しみ、そもそも初代藩主が築城し改名するまでは鴨山と呼ばれていた。人麻呂が最期に別れた妻を思い詠んだ歌、「鴨山に磐根し巻ける吾をかも・・・」の山だ。
秋葉神社 (浜田商工会議所真裏)
浜田市国府町伊甘の石見国府跡