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【ウィリアム・シェイクスピア】
シェイクスピア文学
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ウィリアム・シェイクスピア(William Shakespeare、沙翁(沙吉比亜からの異称)、(洗礼日1564年4月26日) - 1616年4月23日(グレゴリオ暦5月3日))は、イギリス(イングランド)の劇作家、詩人。ストラトフォード・アポン・エイヴォンの生れ。エリザベス朝演劇の代表的な作家で、最も優れた英文学の作家とも言われている。その卓越した人間観察眼と内面の心理描写は、後の哲学や、19~20世紀の心理学・精神分析学を先取りしたものともなっている。
1585年前後にロンドンに出たといわれ、1592年には新進の劇作家として活躍。1612年ごろに引退するまでの約20年間に四大悲劇『ハムレット』、『マクベス』、『オセロ』、『リア王』をはじめ、『ロミオとジュリエット』、『ヴェニスの商人』、『夏の夜の夢』、『ジュリアス・シーザー』など多くの傑作を残した。物語詩『ヴィーナスとアドーニス』、『ソネット集』なども重要な作品である。
目次 [非表示]
1 生涯
1.1 前半生
1.2 ロンドンの劇壇進出
1.3 晩年
2 作品
2.1 作風
2.1.1 韻文と散文
2.2 執筆歴
3 書誌
3.1 戯曲
3.1.1 史劇
3.1.2 悲劇
3.1.3 喜劇
3.2 詩作品
3.3 外典と散逸した戯曲
4 評価
5 シェイクスピア別人説
6 備考
7 脚注
8 関連作品
8.1 映画
8.2 演劇
8.3 その他
9 関連項目
10 外部リンク
[編集] 生涯
本節ではシェイクスピアの個人史について記述する。執筆歴や作風の変遷については次節を参照。
[編集] 前半生
ストラトフォード・アポン・エイヴォンにあるシェイクスピアの生家ウィリアム・シェイクスピアは1564年にイングランドのストラトフォード・アポン・エイヴォンに生れた。父ジョン・シェイクスピアはスニッターフィールド出身の成功した皮手袋商人で、町長に選ばれたこともある市会議員であった。母メアリ・アーデンはジェントルマンの娘であり、非常に裕福な家庭環境であった。2人は1557年ごろに結婚し、ヘンリー・ストリートに居を構えていた。ウィリアムの正確な誕生日は不明であるが、1564年4月26日に洗礼を受けたことが記録されている。エリザベス朝時代には出生証明書が発行されていなかったので、これがシェイクスピアに関する最古の公的記録となる。洗礼式は生誕後3日以内に行なうのが当時の通例であったため、伝統的に誕生日は4月23日とされてきたが、直接これを示す歴史的な証拠にもとづいているわけではない。この日は聖人暦においてイングランドの守護聖人である聖ゲオルギウスを祀るサン・ジョルディの日にあたるため、イングランドの最も偉大な劇作家にふさわしい日であることや、シェイクスピアは1616年の4月23日(グレゴリオ暦では5月3日)に没しているため、誕生日も4月23日であったとすると対称になることなどがこの推定を支持している[1]。
シェイクスピアの両親には全部で8人の子供がいた。ジョン(1558年)、マーガレット(1562年 - 1563年)、ウィリアム、ギルバート(1566年 - 1612年)、ジョーン(1569年 - 1646年)、アン(1571年 - 1579年)、リチャード(1574年 - 1613年)、エドモンド(1580年 - 1607年)である[2]。
シェイクスピアの父はウィリアムの生まれたころには裕福であったが、羊毛の闇市場に関わった咎で起訴され、市長職を失った。いくつかの証拠から、父方、母方の両家ともローマ・カトリックの信者であった可能性が推測されている。
シェイクスピアはストラトフォードの中心にあったグラマー・スクール、エドワード6世校 (King Edward VI School Stratford-upon-Avon) に通ったであろうと推定されている[3]。校名に冠されているエドワード6世と学校の設立の起源になんら関係はなく、創設に関与したのはローマ・カトリックであり、エドワード6世の時代を大きく遡る15世紀初頭に開校されている[3]。エリザベス朝時代のグラマー・スクールは学校ごとに教育水準の高低差はあったが、この学校はラテン語文法や文学について集中学習が行なわれていた。講義の一環として学生たちはラテン演劇の洗礼を受ける。実際に演じてみることでラテン語の習熟に役立てるためである[3]。シェイクスピアの最初期の戯曲『間違いの喜劇』にプラウトゥスの戯曲『メナエクムス兄弟』 ("The Two Menaechmuses") との類似性があることも、シェイクスピアがこの学校で学んだと推測される[4]根拠の一つである。1482年にカトリックの司祭によってこの学校がストラトフォードに寄贈されて以来、地元の男子は無料で入学できたこと、父親が町の名士であったためそれなりの教育は受けていただろうと考えられることなどがその他の根拠である。家庭が没落してきたため中退したという説もあるが、そもそもこの学校の学籍簿は散逸してしまったため、シェイクスピアが在籍したという確たる証拠はなく、進学してそれ以上の高等教育を受けたかどうかも不明である[3]。
1582年11月29日、18歳のシェイクスピアは26歳の女性アン・ハサウェイ (Anne Hathaway) と結婚した。ある公文書において彼女はストラトフォードにも近い「テンプル・グラフトンの人」と誤記されている(実際にはショッタリー出身)ので、結婚式がそこで行なわれた可能性が高い。ハサウェイ家の隣人であるフルク・サンダルズとジョン・リチャードソンが、結婚には何の障害もなかったという保証書を書いている。このときすでにアンは妊娠3ヶ月だったため、式次第を急ぐ必要があった模様である。
1583年5月26日、ストラトフォードで長女スザンナの洗礼式が執り行なわれた。1585年には長男ハムネットと、次女ジュディスの双子が生れ、2月2日に洗礼が施された。2人の名はシェイクスピアの友人のパン屋、ハムネット・セドラーとその妻ジュディスにちなんで付けられた。ハムネットは1596年に夭折し、8月11日に葬儀が行なわれた。
結婚後、ロンドンの劇壇に名を現わすまでの数年間に関するその他の記録はほとんど現存していない。双子が生まれた1585年からロバート・グリーンによる言及のある1592年(後述)までの7年間は、どこで何をしていたのか、なぜストラトフォードからロンドンへ移ったのかなどといった行状が一切不明となっているため、「失われた年月」 (The Lost Years) と呼ばれる[5]。この間の事情については、「鹿泥棒をして故郷を追われた」「田舎の教師をしていた」「ロンドンの劇場主の所有する馬の世話をしていた」など、いくつかの伝説が残っているがいずれも証拠はなく、シェイクスピアの死後に広まった噂である[6]。
シェイクスピアがランカシャーで教職についていたという説は、1985年にE・A・J・ホニグマンによって提唱されたもので、ホートン家の人物が記した遺言書にもとづいている。この中に戯曲や舞台衣装についての言及と、「現在同居しているウィリアム・シェイクシャフト (William Shakeshaft) 」の面倒を見てやってほしいという親族への要請があり、このシェイクシャフトなる人物こそシェイクスピアのことではないかというものである[6]。ストラトフォード出身のシェイクスピアとランカシャーのホートン家を結びつけるのは、かつてシェイクスピアの教師であったジョン・コットンである。ランカシャーの生まれでホートン家の隣人であったコットンがシェイクスピアを教師として推薦したとホニグマンは主張している[6][7]。マイケル・ウッドは、約20年後にシェイクスピアのグローブ座株式の受託者となるトマス・サヴェッジがその遺言書の中で言及されている隣人と結婚していることから、何らかの関係をもっていたであろうことをつけ加えているが、シェイクシャフトという姓は当時のランカシャーではありふれたものであったとも述べている[8]。
[編集] ロンドンの劇壇進出
ロンドンに復元されたグローブ座1592年ごろまでにシェイクスピアはロンドンへ進出し、演劇の世界に身を置くようになっていた。当時は、エリザベス朝演劇の興隆に伴って、劇場や劇団が次々と設立されている最中であった。その中で、シェイクスピアは俳優として活動するかたわら次第に脚本を書くようになる。1592年にはロバート・グリーンが著書『三文の知恵』 ("Greene's Groatsworth of Wit") において、「役者の皮を被ってはいるが心は虎も同然の、我々の羽毛で着飾った成り上がりのカラスが近ごろ現われ、諸君の中でも最良の書き手と同じくらい優れたブランク・ヴァースを自分も紡ぎうると慢心している。たかが何でも屋の分際で、自分こそが国内で唯一の舞台を揺るがす者 (Shake-scene) であると自惚れている」と書いており、他の作家から中傷されるほどの名声をこのときにはすでにかちえていたことが知られている(グリーンはシェイクスピアを名指しで批判しているわけではないが、下線部が『ヘンリー六世 第3部』第1幕第4場のヨーク公のセリフ “O tiger's heart wrapt in a woman's hide!”(「女の皮を被っていても、心は虎も同然だ!」)をもじって引用していることや、「舞台を揺るがす者」 ("Shake-scene") がいかにもシェイクスピアを連想させる名であることから、シェイクスピアに対する非難であることはおよそ間違いないとされる)。
1594年の終わりごろ、シェイクスピアは俳優兼劇作家であると同時に、宮内大臣一座として知られる劇団の共同所有者ともなっており、同劇団の本拠地でもあった劇場グローブ座の共同株主にもなった。当時の他の劇団と同様、一座の名称はスポンサーであった貴族の名前から取られており、この劇団の場合には宮内大臣がパトロンとなっていた。1603年にエリザベス1世が死去してジェームズ1世が即位したさい、この新国王がみずから庇護者となることを約束したため国王一座へと改称することになるほど、シェイクスピアの劇団の人気は高まっていた。シェイクスピアの著作からは、作中に登場するフレーズや語彙、演技についての言及に鑑みても、実際に俳優であったことが見て取れるが、その一方で劇作法についての専門的な方法論を欠いている[9]。
シェイクスピア家の紋章高等教育を欠いてはいたものの、シェイクスピアは長らくジェントルマンの地位を求めていた。まだ裕福であったころシェイクスピアの父は紋章を取得するために紋章院へ嘆願をしており、もし受理されればこの紋章は息子であるシェイクスピアが受け継ぐことになるものであった。俳優(当時はいかがわしい職業であった)のシェイクスピアには紋章を得る資格がなかったが、ストラトフォードの役人であり妻の生まれもよかった父ジョン・シェイクスピアは充分に資格を備えていた。しかし一家の財政が傾いていたためになかなか望みを叶えることができなかったのである。1596年に再び申請をはじめ、シェイクスピア家は紋章を手にすることができた。おそらくシェイクスピア自身が経済的に大きな成功を収めていたためである。紋章に記された銘は “Non sanz droit” (権利なからざるべし)であったが、これはおそらく銘を考案したシェイクスピアのある種の守勢や不安感を示している。社会的地位や名誉の回復といったテーマが彼の作品のプロットにおいて頻出するようになるが、シェイクスピアは自分の切望していたものを自嘲しているようである[10]。
1596年にビショップスゲイトのセント・ヘレン教区へ転居。1598年にグローブ座で初演されたベン・ジョンソンの『十人十色』 ("Every Man in His Humour") では、出演者一覧の最上段にシェイクスピアの名前が記載されており、俳優としての活動も盛んであったことが見て取れる。また1598年ごろから、それまでは匿名のまま刊行されることが多かったシェイクスピアの四折判のタイトル・ページに著者名が記されるようになったが、シェイクスピアの名前がセールスポイントになるほどの人気を確立していた事が窺われる[11]。
シェイクスピアは国王一座で上演する戯曲の多くを執筆したり、劇団の株式の共同所有者として経営に関与したりするかたわら、俳優業も継続して『ハムレット』の先王の幽霊や、『お気に召すまま』のアダム、『ヘンリー五世』のコーラスなどを演じたといわれる[12][13]。
シェイクスピアは1599年内にテムズ川を渡ってサザックへ転居したと見られる。1604年には家主の娘の仲人をつとめた。この娘の結婚が原因で1612年に起きた裁判の記録にシェイクスピアの名前が登場する。この文書によると、1604年にシェイクスピアはユグノーの髪飾り職人クリストファー・マウントジョイの借家人となっていた。マウントジョイの見習いであったスティーヴン・ベロットがマウントジョイの娘との結婚を望み、持参金の委細について交渉してくれるようシェイクスピアに仲介を頼んだ。シェイクスピアの保証により2人は結ばれたが、8年たっても持参金が一部しか支払われなかったため、ベロットが義父に対して訴訟を起こしたのである。この裁判において証人としてシェイクスピアが召喚されたが、シェイクスピアは当時の状況に関してほとんど覚えていなかった。
法的問題や商取引についてのさまざまな公文書によると、ロンドン在住中にシェイクスピアは大きな経済的成功を収め、ロンドンのブラックフライヤーズの不動産や、ストラトフォードで2番目に大きな邸宅ニュー・プレイスを購入するまでになっていたことが分かる。
[編集] 晩年
引退後のシェイクスピアの終の棲家となったストラトフォード・アポン・エイヴォンにあるニュー・プレイスシェイクスピアは1613年に故郷ストラトフォードへ引退したと見られている[14]。
シェイクスピアの生涯最後の数週間に起きた事件は、次女ジュディスに関わる醜聞であった。ジュディスの婚約者であった居酒屋経営者のトマス・クワイニーが地元の教会裁判所で「婚前交渉」の嫌疑で告発されたのである。マーガレット・ホイーラーという女性が私生児を産み、その父親がクワイニーであると主張してまもなく母子ともども死亡したのである。この一件でクワイニーの名誉は失墜し、シェイクスピアは自分の遺産のうちジュディスへ渡る分がクワイニーの不実な行為にさらされることのないよう遺言書を修正した。
1616年4月23日にシェイクスピアは52歳で没した。死因は腐りきったニシンから伝染した感染症であるらしいが、詳細は不明である。誕生日が4月23日であるという伝承が正しいならば、シェイクスピアの命日は誕生日と同じ日ということになる。シェイクスピアはアン・ハサウェイを生涯の妻とし、2人の娘、スザンナとジュディスを残した。息子のハムネットは1596年に夭折している。スザンナは医師のジョン・ホールと結婚し、2人の間に生まれた娘エリザベス・ホールがシェイクスピア家の最後の1人となった。今日、シェイクスピアの直系の子孫は存在しない。しかし、シェイクスピアが名付け親になったウィリアム・ダヴェナント(17世紀の詩人、劇作家。『マクベス』の改作などを執筆している)の実父がシェイクスピアではないかという噂が囁かれたことはある。
ストラトフォードのホーリー・トリニティ教会に建立されたシェイクスピアの墓碑シェイクスピアはストラトフォード・アポン・エイヴォンにあるホーリー・トリニティ教会の内陣に埋葬された。シェイクスピアが内陣に埋葬されるという栄誉を授けられたのは、劇作家としての名声によってではなく、440ポンドもの十分の一税を教会に納めていた高額納税者であったためである。シェイクスピアの墓所に最も近い壁の前に、おそらく家族によって設置されたと考えられる[15]シェイクスピアの記念碑には、シェイクスピアの執筆する姿をかたどった胸像が据えられている。毎年シェイクスピアの誕生日(とされる日)には、胸像の右手がもっている羽ペンが新しいものに取り替えられる。墓石に刻まれた墓碑銘はシェイクスピアみずからが書いたものと考えられている。
Good friend, for Jesus' sake forbear,
To dig the dust enclosed here.
Blest be the man that spares these stones,
And cursed be he that moves my bones.
シェイクスピアの未発表作品が副葬品として墓の中に眠っているという伝説があるが、確かめた者はいない。
没後7年を経た1623年、国王一座の同僚であったジョン・ヘミングスとヘンリー・コンデルによってシェイクスピアの戯曲36編が集められ、最初の全集ファースト・フォリオが刊行された。
[編集] 書誌
推定執筆年代は、リヴァサイド版全集による。
[編集] 戯曲
[編集] 史劇
ヘンリー六世 第1部(Henry VI, Part 1、1589年 - 1590年)
ヘンリー六世 第2部(Henry VI, Part 2、1590年 - 1591年)
ヘンリー六世 第3部(Henry VI, Part 3、1590年 - 1591年)
リチャード三世(Richard III、1592年 - 1593年)
ジョン王(King John、1594年 - 1596年)
リチャード二世(Richard II、1595年)
ヘンリー四世 第1部(Henry IV , Part 1、1596年 - 1597年)
ヘンリー四世 第2部(Henry IV, Part 2、1598年)
ヘンリー五世(Henry V、1599年)
ヘンリー八世(Henry VIII、1612 - 1613年)
[編集] 悲劇
タイタス・アンドロニカス(Titus Andronicus、1593 - 94年)
ロミオとジュリエット(Romeo and Juliet、1595 - 96年)
ジュリアス・シーザー(Julius Caesar、1599年)
ハムレット(Hamlet、1600 - 01年)
トロイラスとクレシダ(Troilus and Cressida、1601 - 02年)P
マクベス(Macbeth、1606年)
オセロー(Othello、1604年)
リア王(King Lear、1605年)
アントニーとクレオパトラ(Antony and Cleopatra、1606年 - 1607年)
コリオレイナス(Coriolanus、1607年 - 1608年)
アテネのタイモン(Timon of Athens、1607年 - 1608年)
[編集] 喜劇
間違いの喜劇(Comedy of Errors、1592年 - 1594年)
じゃじゃ馬ならし(Taming of the Shrew、1593年 - 1594年)
ヴェローナの二紳士(The Two Gentlemen of Verona、1594年)
恋の骨折り損( Love's Labour's Lost、1594年 - 1595年)
夏の夜の夢(A Midsummer Night's Dream、1595年 - 96年)
ヴェニスの商人(The Merchant of Venice、1596年 - 1597年)
空騒ぎ(Much Ado About Nothing、1598年 - 1599年)
お気に召すまま(As You Like It、1599年)
ウィンザーの陽気な女房たち(The Merry Wives of Windsor、1597年)
十二夜(Twelfth Night, or What You Will、1601年 - 1602年)
終わりよければ全てよし(All's Well That Ends Well、1602年 - 1603年)P
尺には尺を(Measure for Measure、1604年)P
ペリクリーズ(Pericles, Prince of Tyre、1607年 - 1608年)R
シンベリン(Cymbeline、1609 - 10年)R
冬物語(The Winter's Tale、1610年 - 1611年)R
テンペスト(The Tempest、1611年)R
二人のいとこの貴公子(The Two Noble Kinsmen、1613年)R
Rはロマンス劇、Pは問題劇ともカテゴライズされる作品である。
[編集] 詩作品
ソネット集(The Sonnets)
ヴィーナスとアドーニス(Venus and Adonis)
ルークリース凌辱(The Rape of Lucrece)
情熱の巡礼者(The Passionate Pilgrim)
不死鳥と雉鳩(The Phoenix and the Turtle)
恋人の嘆き(A Lover's Complaint)
[編集] 外典と散逸した戯曲
詳細はシェイクスピア外典を参照
エドワード三世(Edward III、1596年)
カルデーニオ(Cardenio)
恋の骨折り甲斐(Love's Labour's Won)
ほか
[編集] 評価
英語で書かれた文学の中では最も美しいもののひとつとして、とりわけ英語圏では今日でも高い尊敬を集めている。シェイクスピア戯曲は、今もなお世界各地で数え切れないほど上演され続けている。また、世界各国の様々な映画監督によって度々映画化されている。
「生きるべきか死ぬべきかそれが問題だ」「ブルータス、お前もか」("Et tu, Brute!" とラテン語で書かれた)など名台詞として広く知られているものもある。
"http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%A0%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%82%A7%E3%82%A4%E3%82%AF%E3%82%B9%E3%83%94%E3%82%A2" より作成
カテゴリ: シェイクスピア | イギリスの劇作家 | イギリスの詩人 | 紙幣の人物 | 1564年生 | 1616年没
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【ウィリアム・シェイクスピア】
シェイクスピア文学
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作家
詩人・小説家
その他作家
ウィリアム・シェイクスピア(William Shakespeare、沙翁(沙吉比亜からの異称)、(洗礼日1564年4月26日) - 1616年4月23日(グレゴリオ暦5月3日))は、イギリス(イングランド)の劇作家、詩人。ストラトフォード・アポン・エイヴォンの生れ。エリザベス朝演劇の代表的な作家で、最も優れた英文学の作家とも言われている。その卓越した人間観察眼と内面の心理描写は、後の哲学や、19~20世紀の心理学・精神分析学を先取りしたものともなっている。
1585年前後にロンドンに出たといわれ、1592年には新進の劇作家として活躍。1612年ごろに引退するまでの約20年間に四大悲劇『ハムレット』、『マクベス』、『オセロ』、『リア王』をはじめ、『ロミオとジュリエット』、『ヴェニスの商人』、『夏の夜の夢』、『ジュリアス・シーザー』など多くの傑作を残した。物語詩『ヴィーナスとアドーニス』、『ソネット集』なども重要な作品である。
目次 [非表示]
1 生涯
1.1 前半生
1.2 ロンドンの劇壇進出
1.3 晩年
2 作品
2.1 作風
2.1.1 韻文と散文
2.2 執筆歴
3 書誌
3.1 戯曲
3.1.1 史劇
3.1.2 悲劇
3.1.3 喜劇
3.2 詩作品
3.3 外典と散逸した戯曲
4 評価
5 シェイクスピア別人説
6 備考
7 脚注
8 関連作品
8.1 映画
8.2 演劇
8.3 その他
9 関連項目
10 外部リンク
[編集] 生涯
本節ではシェイクスピアの個人史について記述する。執筆歴や作風の変遷については次節を参照。
[編集] 前半生
ストラトフォード・アポン・エイヴォンにあるシェイクスピアの生家ウィリアム・シェイクスピアは1564年にイングランドのストラトフォード・アポン・エイヴォンに生れた。父ジョン・シェイクスピアはスニッターフィールド出身の成功した皮手袋商人で、町長に選ばれたこともある市会議員であった。母メアリ・アーデンはジェントルマンの娘であり、非常に裕福な家庭環境であった。2人は1557年ごろに結婚し、ヘンリー・ストリートに居を構えていた。ウィリアムの正確な誕生日は不明であるが、1564年4月26日に洗礼を受けたことが記録されている。エリザベス朝時代には出生証明書が発行されていなかったので、これがシェイクスピアに関する最古の公的記録となる。洗礼式は生誕後3日以内に行なうのが当時の通例であったため、伝統的に誕生日は4月23日とされてきたが、直接これを示す歴史的な証拠にもとづいているわけではない。この日は聖人暦においてイングランドの守護聖人である聖ゲオルギウスを祀るサン・ジョルディの日にあたるため、イングランドの最も偉大な劇作家にふさわしい日であることや、シェイクスピアは1616年の4月23日(グレゴリオ暦では5月3日)に没しているため、誕生日も4月23日であったとすると対称になることなどがこの推定を支持している[1]。
シェイクスピアの両親には全部で8人の子供がいた。ジョン(1558年)、マーガレット(1562年 - 1563年)、ウィリアム、ギルバート(1566年 - 1612年)、ジョーン(1569年 - 1646年)、アン(1571年 - 1579年)、リチャード(1574年 - 1613年)、エドモンド(1580年 - 1607年)である[2]。
シェイクスピアの父はウィリアムの生まれたころには裕福であったが、羊毛の闇市場に関わった咎で起訴され、市長職を失った。いくつかの証拠から、父方、母方の両家ともローマ・カトリックの信者であった可能性が推測されている。
シェイクスピアはストラトフォードの中心にあったグラマー・スクール、エドワード6世校 (King Edward VI School Stratford-upon-Avon) に通ったであろうと推定されている[3]。校名に冠されているエドワード6世と学校の設立の起源になんら関係はなく、創設に関与したのはローマ・カトリックであり、エドワード6世の時代を大きく遡る15世紀初頭に開校されている[3]。エリザベス朝時代のグラマー・スクールは学校ごとに教育水準の高低差はあったが、この学校はラテン語文法や文学について集中学習が行なわれていた。講義の一環として学生たちはラテン演劇の洗礼を受ける。実際に演じてみることでラテン語の習熟に役立てるためである[3]。シェイクスピアの最初期の戯曲『間違いの喜劇』にプラウトゥスの戯曲『メナエクムス兄弟』 ("The Two Menaechmuses") との類似性があることも、シェイクスピアがこの学校で学んだと推測される[4]根拠の一つである。1482年にカトリックの司祭によってこの学校がストラトフォードに寄贈されて以来、地元の男子は無料で入学できたこと、父親が町の名士であったためそれなりの教育は受けていただろうと考えられることなどがその他の根拠である。家庭が没落してきたため中退したという説もあるが、そもそもこの学校の学籍簿は散逸してしまったため、シェイクスピアが在籍したという確たる証拠はなく、進学してそれ以上の高等教育を受けたかどうかも不明である[3]。
1582年11月29日、18歳のシェイクスピアは26歳の女性アン・ハサウェイ (Anne Hathaway) と結婚した。ある公文書において彼女はストラトフォードにも近い「テンプル・グラフトンの人」と誤記されている(実際にはショッタリー出身)ので、結婚式がそこで行なわれた可能性が高い。ハサウェイ家の隣人であるフルク・サンダルズとジョン・リチャードソンが、結婚には何の障害もなかったという保証書を書いている。このときすでにアンは妊娠3ヶ月だったため、式次第を急ぐ必要があった模様である。
1583年5月26日、ストラトフォードで長女スザンナの洗礼式が執り行なわれた。1585年には長男ハムネットと、次女ジュディスの双子が生れ、2月2日に洗礼が施された。2人の名はシェイクスピアの友人のパン屋、ハムネット・セドラーとその妻ジュディスにちなんで付けられた。ハムネットは1596年に夭折し、8月11日に葬儀が行なわれた。
結婚後、ロンドンの劇壇に名を現わすまでの数年間に関するその他の記録はほとんど現存していない。双子が生まれた1585年からロバート・グリーンによる言及のある1592年(後述)までの7年間は、どこで何をしていたのか、なぜストラトフォードからロンドンへ移ったのかなどといった行状が一切不明となっているため、「失われた年月」 (The Lost Years) と呼ばれる[5]。この間の事情については、「鹿泥棒をして故郷を追われた」「田舎の教師をしていた」「ロンドンの劇場主の所有する馬の世話をしていた」など、いくつかの伝説が残っているがいずれも証拠はなく、シェイクスピアの死後に広まった噂である[6]。
シェイクスピアがランカシャーで教職についていたという説は、1985年にE・A・J・ホニグマンによって提唱されたもので、ホートン家の人物が記した遺言書にもとづいている。この中に戯曲や舞台衣装についての言及と、「現在同居しているウィリアム・シェイクシャフト (William Shakeshaft) 」の面倒を見てやってほしいという親族への要請があり、このシェイクシャフトなる人物こそシェイクスピアのことではないかというものである[6]。ストラトフォード出身のシェイクスピアとランカシャーのホートン家を結びつけるのは、かつてシェイクスピアの教師であったジョン・コットンである。ランカシャーの生まれでホートン家の隣人であったコットンがシェイクスピアを教師として推薦したとホニグマンは主張している[6][7]。マイケル・ウッドは、約20年後にシェイクスピアのグローブ座株式の受託者となるトマス・サヴェッジがその遺言書の中で言及されている隣人と結婚していることから、何らかの関係をもっていたであろうことをつけ加えているが、シェイクシャフトという姓は当時のランカシャーではありふれたものであったとも述べている[8]。
[編集] ロンドンの劇壇進出
ロンドンに復元されたグローブ座1592年ごろまでにシェイクスピアはロンドンへ進出し、演劇の世界に身を置くようになっていた。当時は、エリザベス朝演劇の興隆に伴って、劇場や劇団が次々と設立されている最中であった。その中で、シェイクスピアは俳優として活動するかたわら次第に脚本を書くようになる。1592年にはロバート・グリーンが著書『三文の知恵』 ("Greene's Groatsworth of Wit") において、「役者の皮を被ってはいるが心は虎も同然の、我々の羽毛で着飾った成り上がりのカラスが近ごろ現われ、諸君の中でも最良の書き手と同じくらい優れたブランク・ヴァースを自分も紡ぎうると慢心している。たかが何でも屋の分際で、自分こそが国内で唯一の舞台を揺るがす者 (Shake-scene) であると自惚れている」と書いており、他の作家から中傷されるほどの名声をこのときにはすでにかちえていたことが知られている(グリーンはシェイクスピアを名指しで批判しているわけではないが、下線部が『ヘンリー六世 第3部』第1幕第4場のヨーク公のセリフ “O tiger's heart wrapt in a woman's hide!”(「女の皮を被っていても、心は虎も同然だ!」)をもじって引用していることや、「舞台を揺るがす者」 ("Shake-scene") がいかにもシェイクスピアを連想させる名であることから、シェイクスピアに対する非難であることはおよそ間違いないとされる)。
1594年の終わりごろ、シェイクスピアは俳優兼劇作家であると同時に、宮内大臣一座として知られる劇団の共同所有者ともなっており、同劇団の本拠地でもあった劇場グローブ座の共同株主にもなった。当時の他の劇団と同様、一座の名称はスポンサーであった貴族の名前から取られており、この劇団の場合には宮内大臣がパトロンとなっていた。1603年にエリザベス1世が死去してジェームズ1世が即位したさい、この新国王がみずから庇護者となることを約束したため国王一座へと改称することになるほど、シェイクスピアの劇団の人気は高まっていた。シェイクスピアの著作からは、作中に登場するフレーズや語彙、演技についての言及に鑑みても、実際に俳優であったことが見て取れるが、その一方で劇作法についての専門的な方法論を欠いている[9]。
シェイクスピア家の紋章高等教育を欠いてはいたものの、シェイクスピアは長らくジェントルマンの地位を求めていた。まだ裕福であったころシェイクスピアの父は紋章を取得するために紋章院へ嘆願をしており、もし受理されればこの紋章は息子であるシェイクスピアが受け継ぐことになるものであった。俳優(当時はいかがわしい職業であった)のシェイクスピアには紋章を得る資格がなかったが、ストラトフォードの役人であり妻の生まれもよかった父ジョン・シェイクスピアは充分に資格を備えていた。しかし一家の財政が傾いていたためになかなか望みを叶えることができなかったのである。1596年に再び申請をはじめ、シェイクスピア家は紋章を手にすることができた。おそらくシェイクスピア自身が経済的に大きな成功を収めていたためである。紋章に記された銘は “Non sanz droit” (権利なからざるべし)であったが、これはおそらく銘を考案したシェイクスピアのある種の守勢や不安感を示している。社会的地位や名誉の回復といったテーマが彼の作品のプロットにおいて頻出するようになるが、シェイクスピアは自分の切望していたものを自嘲しているようである[10]。
1596年にビショップスゲイトのセント・ヘレン教区へ転居。1598年にグローブ座で初演されたベン・ジョンソンの『十人十色』 ("Every Man in His Humour") では、出演者一覧の最上段にシェイクスピアの名前が記載されており、俳優としての活動も盛んであったことが見て取れる。また1598年ごろから、それまでは匿名のまま刊行されることが多かったシェイクスピアの四折判のタイトル・ページに著者名が記されるようになったが、シェイクスピアの名前がセールスポイントになるほどの人気を確立していた事が窺われる[11]。
シェイクスピアは国王一座で上演する戯曲の多くを執筆したり、劇団の株式の共同所有者として経営に関与したりするかたわら、俳優業も継続して『ハムレット』の先王の幽霊や、『お気に召すまま』のアダム、『ヘンリー五世』のコーラスなどを演じたといわれる[12][13]。
シェイクスピアは1599年内にテムズ川を渡ってサザックへ転居したと見られる。1604年には家主の娘の仲人をつとめた。この娘の結婚が原因で1612年に起きた裁判の記録にシェイクスピアの名前が登場する。この文書によると、1604年にシェイクスピアはユグノーの髪飾り職人クリストファー・マウントジョイの借家人となっていた。マウントジョイの見習いであったスティーヴン・ベロットがマウントジョイの娘との結婚を望み、持参金の委細について交渉してくれるようシェイクスピアに仲介を頼んだ。シェイクスピアの保証により2人は結ばれたが、8年たっても持参金が一部しか支払われなかったため、ベロットが義父に対して訴訟を起こしたのである。この裁判において証人としてシェイクスピアが召喚されたが、シェイクスピアは当時の状況に関してほとんど覚えていなかった。
法的問題や商取引についてのさまざまな公文書によると、ロンドン在住中にシェイクスピアは大きな経済的成功を収め、ロンドンのブラックフライヤーズの不動産や、ストラトフォードで2番目に大きな邸宅ニュー・プレイスを購入するまでになっていたことが分かる。
[編集] 晩年
引退後のシェイクスピアの終の棲家となったストラトフォード・アポン・エイヴォンにあるニュー・プレイスシェイクスピアは1613年に故郷ストラトフォードへ引退したと見られている[14]。
シェイクスピアの生涯最後の数週間に起きた事件は、次女ジュディスに関わる醜聞であった。ジュディスの婚約者であった居酒屋経営者のトマス・クワイニーが地元の教会裁判所で「婚前交渉」の嫌疑で告発されたのである。マーガレット・ホイーラーという女性が私生児を産み、その父親がクワイニーであると主張してまもなく母子ともども死亡したのである。この一件でクワイニーの名誉は失墜し、シェイクスピアは自分の遺産のうちジュディスへ渡る分がクワイニーの不実な行為にさらされることのないよう遺言書を修正した。
1616年4月23日にシェイクスピアは52歳で没した。死因は腐りきったニシンから伝染した感染症であるらしいが、詳細は不明である。誕生日が4月23日であるという伝承が正しいならば、シェイクスピアの命日は誕生日と同じ日ということになる。シェイクスピアはアン・ハサウェイを生涯の妻とし、2人の娘、スザンナとジュディスを残した。息子のハムネットは1596年に夭折している。スザンナは医師のジョン・ホールと結婚し、2人の間に生まれた娘エリザベス・ホールがシェイクスピア家の最後の1人となった。今日、シェイクスピアの直系の子孫は存在しない。しかし、シェイクスピアが名付け親になったウィリアム・ダヴェナント(17世紀の詩人、劇作家。『マクベス』の改作などを執筆している)の実父がシェイクスピアではないかという噂が囁かれたことはある。
ストラトフォードのホーリー・トリニティ教会に建立されたシェイクスピアの墓碑シェイクスピアはストラトフォード・アポン・エイヴォンにあるホーリー・トリニティ教会の内陣に埋葬された。シェイクスピアが内陣に埋葬されるという栄誉を授けられたのは、劇作家としての名声によってではなく、440ポンドもの十分の一税を教会に納めていた高額納税者であったためである。シェイクスピアの墓所に最も近い壁の前に、おそらく家族によって設置されたと考えられる[15]シェイクスピアの記念碑には、シェイクスピアの執筆する姿をかたどった胸像が据えられている。毎年シェイクスピアの誕生日(とされる日)には、胸像の右手がもっている羽ペンが新しいものに取り替えられる。墓石に刻まれた墓碑銘はシェイクスピアみずからが書いたものと考えられている。
Good friend, for Jesus' sake forbear,
To dig the dust enclosed here.
Blest be the man that spares these stones,
And cursed be he that moves my bones.
シェイクスピアの未発表作品が副葬品として墓の中に眠っているという伝説があるが、確かめた者はいない。
没後7年を経た1623年、国王一座の同僚であったジョン・ヘミングスとヘンリー・コンデルによってシェイクスピアの戯曲36編が集められ、最初の全集ファースト・フォリオが刊行された。
[編集] 書誌
推定執筆年代は、リヴァサイド版全集による。
[編集] 戯曲
[編集] 史劇
ヘンリー六世 第1部(Henry VI, Part 1、1589年 - 1590年)
ヘンリー六世 第2部(Henry VI, Part 2、1590年 - 1591年)
ヘンリー六世 第3部(Henry VI, Part 3、1590年 - 1591年)
リチャード三世(Richard III、1592年 - 1593年)
ジョン王(King John、1594年 - 1596年)
リチャード二世(Richard II、1595年)
ヘンリー四世 第1部(Henry IV , Part 1、1596年 - 1597年)
ヘンリー四世 第2部(Henry IV, Part 2、1598年)
ヘンリー五世(Henry V、1599年)
ヘンリー八世(Henry VIII、1612 - 1613年)
[編集] 悲劇
タイタス・アンドロニカス(Titus Andronicus、1593 - 94年)
ロミオとジュリエット(Romeo and Juliet、1595 - 96年)
ジュリアス・シーザー(Julius Caesar、1599年)
ハムレット(Hamlet、1600 - 01年)
トロイラスとクレシダ(Troilus and Cressida、1601 - 02年)P
マクベス(Macbeth、1606年)
オセロー(Othello、1604年)
リア王(King Lear、1605年)
アントニーとクレオパトラ(Antony and Cleopatra、1606年 - 1607年)
コリオレイナス(Coriolanus、1607年 - 1608年)
アテネのタイモン(Timon of Athens、1607年 - 1608年)
[編集] 喜劇
間違いの喜劇(Comedy of Errors、1592年 - 1594年)
じゃじゃ馬ならし(Taming of the Shrew、1593年 - 1594年)
ヴェローナの二紳士(The Two Gentlemen of Verona、1594年)
恋の骨折り損( Love's Labour's Lost、1594年 - 1595年)
夏の夜の夢(A Midsummer Night's Dream、1595年 - 96年)
ヴェニスの商人(The Merchant of Venice、1596年 - 1597年)
空騒ぎ(Much Ado About Nothing、1598年 - 1599年)
お気に召すまま(As You Like It、1599年)
ウィンザーの陽気な女房たち(The Merry Wives of Windsor、1597年)
十二夜(Twelfth Night, or What You Will、1601年 - 1602年)
終わりよければ全てよし(All's Well That Ends Well、1602年 - 1603年)P
尺には尺を(Measure for Measure、1604年)P
ペリクリーズ(Pericles, Prince of Tyre、1607年 - 1608年)R
シンベリン(Cymbeline、1609 - 10年)R
冬物語(The Winter's Tale、1610年 - 1611年)R
テンペスト(The Tempest、1611年)R
二人のいとこの貴公子(The Two Noble Kinsmen、1613年)R
Rはロマンス劇、Pは問題劇ともカテゴライズされる作品である。
[編集] 詩作品
ソネット集(The Sonnets)
ヴィーナスとアドーニス(Venus and Adonis)
ルークリース凌辱(The Rape of Lucrece)
情熱の巡礼者(The Passionate Pilgrim)
不死鳥と雉鳩(The Phoenix and the Turtle)
恋人の嘆き(A Lover's Complaint)
[編集] 外典と散逸した戯曲
詳細はシェイクスピア外典を参照
エドワード三世(Edward III、1596年)
カルデーニオ(Cardenio)
恋の骨折り甲斐(Love's Labour's Won)
ほか
[編集] 評価
英語で書かれた文学の中では最も美しいもののひとつとして、とりわけ英語圏では今日でも高い尊敬を集めている。シェイクスピア戯曲は、今もなお世界各地で数え切れないほど上演され続けている。また、世界各国の様々な映画監督によって度々映画化されている。
「生きるべきか死ぬべきかそれが問題だ」「ブルータス、お前もか」("Et tu, Brute!" とラテン語で書かれた)など名台詞として広く知られているものもある。
"http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%A0%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%82%A7%E3%82%A4%E3%82%AF%E3%82%B9%E3%83%94%E3%82%A2" より作成
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