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万龍

2010-03-04 22:36:05 | 10 人名事典 【大学・学部】の人物一覧
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【萬龍】=1450字

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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萬龍(まんりゅう、1894年7月 - 1973年12月)は明治末に「日本一の美人」と謳われ、当時人気を博した芸妓。本名は田向静。東京赤坂の置屋・春本抱えの芸妓であった。(文献によっては万竜、万龍、萬竜と表記されている)

目次 [非表示]
1 概要
1.1 結婚後
2 注釈
3 参考文献


概要 [編集]
当時の一流芸妓は多くの男性の憧れの対象であり、現在のタレント、アイドルに相当する存在であった[1]。また、日露戦争(1904-05年)の際、出征兵士のために慰問用絵葉書が作成されたが、これをきっかけに、戦争後も芸妓の絵葉書が流行し、ブロマイドのように多数作成されていた。

萬龍は絵葉書美人として人気を博し、1908年(明治41年)「文芸倶楽部」誌で「日本百美人」と題した芸妓の人気投票で第一位となった。新聞に「萬龍物語」が連載され、三越のポスターにも登場し、その名は流行歌にも歌われたほどである。

1910年(明治43年)、箱根で大洪水に遭い、貧血を起こし逃げ遅れかけたところを東京帝国大学の学生・恒川陽一郎に助けられるという事件があった。翌年、再会した2人はやがて恋におちた。恒川は谷崎潤一郎の府立一中、一高以来の同級生であり、「新思潮」に参加する文学志望の青年であった。

結婚後 [編集]
1913年、恒川と萬龍は結婚。大学生と芸妓のロマンスは新聞紙上で大きく取り上げられた。1914年7月、恒川は東京帝大法科大学政治学科を卒業、同年、自伝的小説『旧道』を刊行し、評判になった。ところが結婚4年目の1916年、恒川が病死し、若くして未亡人になってしまった。再び萬龍として芸妓に戻るのかどうかが世間の関心を集めたが、翌年、建築家の岡田信一郎と結ばれることになった。(岡田静となる)

再婚後は病弱な夫の看護や設計事務所の手伝いに専念した。岡田は1932年に逝去し、再び未亡人となった。後半生は遠州流の茶道教授として多くの弟子に慕われる存在であった。

注釈 [編集]
^ 谷崎潤一郎は『青春物語』(1933年)の中で、当時の一流芸妓の人気、社会的地位は「今の第一流のキネマ・スタア」もはるかに及ばないだろうと記している。
参考文献 [編集]
小山内薫 『梅竜の話』 - 箱根大洪水の際の萬龍、恒川の出会いをモチーフにした小説。青空文庫[1]
恒川陽一郎 『旧道』 - 萬龍との恋愛をテーマとした自伝的小説。
『萬龍未来紀』 (1916年) - 恒川の死後、未亡人となった萬龍の身の振り方を論じた珍書(『近代庶民生活誌』10巻に収録)。
谷崎潤一郎 『青春物語』 (1933年) - 谷崎から見た恒川と萬龍のエピソードを含む。
平山蘆江 『東京おぼえ帳』 (1952年)
「http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%90%AC%E9%BE%8D」より作成
カテゴリ: 明治時代の人物 | 日本のアイドル | 1894年生 | 1973年没



最終更新 2009年9月10日 (木) 12:49