『服部天神宮』
御鎮座地
〒561-0851 豊中市服部元町1-2-17
御祭神
少彦名命 菅原道真公
御由緒
その昔、朝鮮から機織の技術を我が国に伝えた人々に「秦氏」の姓氏を与えて、これらの子孫の多くがこの服部に住んだ。「服部」の地名は秦氏の人々の住むところとして「機織部」から成り立ったものと言われ、第19代允恭天皇の御代(皇紀1072、西暦412)に、織部司に任ぜられ、諸国の織部を総領した「服部連」の本拠地が服部である。外来部族であった秦氏は、外来神であり医薬の祖神である「少彦名命」を尊崇していたので、当社はこの服部の地に古くから、お祀りしていたものであり、その創建は菅公御生前より遠く、相当古い年代であったと推定される。
右大臣、菅原道真公は、讒訴に遭い、太宰権師として左遷されることになり、延喜元年、京都から遥か筑紫の大宰府へ赴く途次、この辺りで持病の脚気に悩まされ、足が浮腫んで一歩も歩くことができなくなった。そこで、村人の勧めで、医薬の祖神「少彦名命」を祀る服部の路傍の小祠に詣で、一心にその平癒を祈願されたところ、不思議に痛みや浮腫みが治り、再び健康を取り戻して、無事大宰府にお着きになったと伝えられている。菅公没後、北野天満宮をはじめとして、天神信仰が全国各地に起こり、路傍の小祠であった当社に菅公の御霊を合祀し、「服部天神宮」として堂宇を建立し、「菅公脚気平癒の霊験」が広まり、聞き伝えた人々の参拝で、次第に門前市をなす様になり、「脚気天神」「足の神様」として全国の崇敬を集めるようになった。
江戸時代、「大坂」から「池田」「能勢」「亀岡」に通ずる主要幹線道路として、「能勢街道」は人々の往来繁く、この街道に面して、その道程の中間に位置した「服部天神」は「全国からの参拝者」と「能勢街道往来人の宿場」との、二つを兼ね備えて、境内外は非常な賑いを呈し、旅籠、料亭、茶店が軒を連ねて、江戸中期から末期にかけて、その最盛期であったことは、当社に残された数多くの絵馬・建造物・道標がこれを物語っている。現在の社殿も文政十年に建てられたものである。殊に、全国各地から「足病平癒」「足の加護」を願って、永い期間、境内の旅籠に逗留して「願」を掛け、無事平癒を遂げた人々が、お受けして各地に祀った「服部天神の御分霊社」は、今も全国各地に点在している。本所の安部氏武家屋敷内に祀られた分霊社に掲げてあった「攝州服部天神」の扁額は、勝海舟縁のもので、大東亜戦争後、俳人荻原井泉水によって、当社に奉納された。
文化文政の頃、三代目中村歌右衛門の奉納した「みくじ箱」をはじめ芸能人からの奉納品が数多く残されており、「足」を大切にした「芸人、飛脚」等がいかに当社を信仰したかを物語っている。明治43年小林一三によって開通した箕面有馬電気軌道(現在の阪急電車)は殷賑を極めた服部天神前まで、態々三国から電車を迂回して駅を設け、駅名を「服部天神駅」と名付けた程であった。今日も、野球・サッカー・陸上その他のスポーツマンをはじめ、「健脚」を祈る全国からの善男善女の参拝が絶えない。
感想等
昔、浮かばれない霊魂を慰撫・鎮静しないで放置しておくとそれらの怨霊は世の中に祟りや災いをもたらすと信じられ、この怨みの霊を鎮めるために御霊を祀る神社を建立し恒常的に祭祀を営むことにより、御霊神を守護神に転化していった。これを「御霊信仰」というが、当社の御祭神はまさにその代表格である。
道真公は「北野天満宮」の御由緒でもある「託宣神」、慈悲の神、正直の神、そして無実の罪を晴らし身の潔白を証明する雪冤の神としても、崇敬されている。道真公をお祀りする神社は全国に1万441社存在し、いかに御神徳が厚く崇敬されているかがわかる。その中でも「足の神様」として崇敬が厚い当社は、服部駅から目と鼻の先でアクセスも良く全国から参拝者が訪れるためか、御本殿等の神殿がとても立派である。
個人的な見解では、神社は「国家神道」であり、単なる「宗教」ではないので、明治の素晴らしき世の如く、政府が「神道」を保護し、当然に全国に数多存在する神社に税金が投入されるべきと考える。そうなれば、大小の隔たりなく神社は立派に神々をお祀りすることができ、その御神徳からさらなる崇敬者の参拝を迎えることができる。如何わしい新興宗教が乱立し、宮内庁にまでその影響が疑われるこの現代社会において、改めて日本人の精神の基礎である「神道」の教えに立ち返るべきではないだろうか。
ちなみに、雅楽と現代音楽の融合で話題になっている、神社神職・巫女・楽師によるユニット「天地雅楽(てんちがらく)」の久次米一弥氏は当社に御奉仕されている。このユニットは坂本龍一氏が称揚し、代表楽曲“東風”で同氏と共演を果たした。
阪急宝塚線をご利用の際には、「服部駅」で途中下車の上、是非とも当社に参拝して頂きたい。