神国の民草

脱懈怠(神国の民草・代表)の参拝記録

塚本神社

2011年04月30日 | 〔投稿〕 神国の民草・代表 脱懈怠






『塚本神社』

御鎮座地
〒532-0026 大阪市淀川区塚本二丁目2番7号

御祭神
建速素盞嗚尊

御由緒
当社はかねて合祀されていた、富島神社から復祀されて60年ぶりに地元塚本に戻って来られた鎮守の神である。
今の神社のある辺りに慶長14年(1610年)近在の人々によって創建されたと伝えられる牛頭天王社の祠があったと伝えられている。
「牛頭天王」と云うのは京都の八坂神社の御祭神で病気や災厄を除く神様であるが、後の神仏習合(神道で云う神も仏教で云う仏も現れ方が違うが同じであるとの意)で建速素盞嗚尊と合体して農村の守り神として信仰されるようになったが、明治の神仏分離令により牛頭天王を名乗ることができなくなり、以後塚本八坂神社と改めることになり、昭和5年社格は村社に列格された。
江戸時代から明治にかけて鳥居を構え、本殿・社殿・絵馬堂等調った立派な神社となった。ところが、明治39年の神社合祀令によって、塚本八坂神社は中津の富島神社に合祀されることになった。
戦後、氏子の方々の神社復興への熱意が実り、昭和39年7月に富島神社から帰神されて塚本神社と改められ新たに町の守り神として、社殿・社務所も新築され、見事に甦った。
翌年には、伏見稲荷の御分霊を頂き塚本稲荷社も建立され、名実ともに町の氏子の信仰と崇拝の場となり、唯一心の拠り所となっている。

感想等
国家の政策による神仏分離・神社合祀といった神道の近代史を、身近に感じることができる神社である。
当社は運よく復祀することができているが、神社合祀令によって全国の約7万社が取り壊された。同令に強く反対した人物に南方熊楠がいる。

神津神社

2011年04月13日 | 〔投稿〕 神国の民草・代表 脱懈怠








『神津神社』

御鎮座地
大阪市淀川区十三東2-6-39
電話06-6301-5724

御祭神
応神天皇 神功皇后 表筒男命 中筒男命 底筒男命 宇賀御霊神 菅原道真公 少彦名神 猿田彦神 

御由緒
当社は、明治42年に法令により数ヶ村の氏神合祀の実行に際し、旧神津村の内字三津屋を除き小島(現在の十三東)、木川(同木川、西宮原の一部、三国本町の一部)、野中(同野中)、新在家(同新高)、堀上(同三津屋南一、野中の一部)、今里(同十三元今里、田川の一部)、堀(同十三元町)、の七ヶ字協議の上、小島村の村社八幡神社を中央適当地と定め、各産土神社及び末社を此処に合祀したものである。
小島村の八幡神社はその創祀年代は古く、四百数十年前の天正年間(1573年~1592年)に遡ることができる。恐らくそれ以前より現在の地に鎮守の社として御鎮座されていたものと想われる。しかし、この地は南に中津川、北に神崎川を控え、数度の水害に遭い旧古記録を流出している。
このように、八幡神社は文禄年間(1592年~1596年)、延宝年間(1673年~1681年)、宝永7年に(1710年)に再建、また寛政11年(1799年)にも再建されている。
神津神社と改称されてからは昭和4年(1929年)、同24年(1949年)の改築となり、同47年には現社殿、翌年には参集殿が造営されている。

摂社末社
福永稲荷神社(御祭神 宇気持神)
山之稲荷神社(御祭神 山之稲荷大神)
六社神社(御祭神 天照大御神 天児屋神 姫大神 事代主神 武甕槌神 経津主神)
祖霊社(御祭神 大東亜戦争で散華せられし英霊)
十三戎神社(御祭神 十三戎大神)

感想等
たくさんの産土神が合祀されている。多くの神々が祀られて現在では畏れ多くも合わせて神津神社大神と申し上げ奉斎されている。御神徳としては、土地の守護神、厄除の神、武神、殖産興業の神、学問の神、とされ、人々から篤く崇敬されているようである。派手な歓楽街から一筋入ると、そういった場所とは空気感が全く異なる素晴らしい十三の鎮守の社がここにある。

香具波志神社

2011年04月12日 | 〔投稿〕 神国の民草・代表 脱懈怠






『香具波志神社』

御鎮座地
〒532-0031大阪市淀川区加島4-4-20
電話06-6301-6501

御祭神
倉稲魂神 保食神 天照皇大神 稚産霊神 埴山姫神 住吉大神 八幡大神

御由緒
当社の祭祀は、天徳三年秋に村上天皇は勅を御下しになり、倉稲魂神、保食神の二柱を斎き祀ったと「加島神社伝記」は伝えている。
五穀豊穣、福徳円満、無病息災、祈雨等に顕著なる御神徳を具現される神々であると、当初より庶人の信仰が厚く、中世になり稲荷信仰が盛んになると共に通称「ごんのかみ」と称され、武門庶民に関わらず広く崇敬を集め、北条時頼の連歌田の寄進、三善長慶の大鳥居の奉納、太閤検地の際には除地となり灯明田等も処方から寄進される等、街道往来の諸公諸氏の崇敬者も多く、その奉斎は遠くに及んだ。
「雨月物語」の作者上田秋成の神恩尊崇は特に有名であり、「六十八首の献詠和歌」の奉納をはじめ「加島神社本紀」の編纂に携わったほどである。加島、竹島、三津屋、田川、は旧中国街道沿いの氏地で加島、竹島は難波八十島の一つで、蟹島、神下香島等も記される。
氏地、御幣島は加島竹島よりさらに昔に開かれた川の港で、幣帛浜、おはらい村等とも記される。八十島祭が行われた場所とされ住吉社が祭祀されていた。
楠木正成公の三男である楠木正儀卿縁の「駒繋楠」は大阪府天然記念物であったが惜しくも、枯死し巨幹を残すのみとなったが、末社の岩木神社に保存され、今も信仰を集めている。
平成7年1月17日の阪神淡路大震災により、文政以来の拝殿、大鳥居を始め、幣殿や境内社、神輿蔵、裏門、石灯籠の全てが全壊したが、再建されている。

感想等
御本殿に「東北地方太平洋沖地震復興祈願祭」の祝詞が奉納されていたことにとても感動した。当社は震災を経験しているからでだろうか。

御香宮神社、明治天皇陵、乃木神社

2011年04月03日 | 〔投稿〕 神国の民草・代表 脱懈怠
本日は、会の面々で以前から計画しておりました、明治天皇陵及び乃木神社に参拝して参りました。
未曾有の被害を東北にもたらした地震、津波これらは長年に渡る売国政権並びに政治の私物化に対する皇祖皇宗の御神霊の怒りであることは明らかであり、我々は会として、明治大帝がお鎮まりの地を訪れ参拝させて頂くことが先決との思いから、本日決行した次第であります。







『御香宮神社』

こちらは徳川家縁の神社ということで、皇室の菊の御紋よりも上位に徳川家の葵の家紋が存在したり、さらに、境内には、敵方であった豊臣家を祀る御社をとても小さくしたりと、当時の絶大なる権力を彷彿させ、それが故に滅びたであろうこと連想致しました。



『明治天皇陵』

まず、広大な御神域に驚きました。会長から「明治大帝が幼少の時期をお過ごしになられ、この地に御眠りになりたいとおっしゃられた」と聞き、その地を訪れることができ、とても感慨深いものがありました。
ブルースリー擬きのおっさんが御陵前の230段の石段において御陵に対してお尻を向けるような変なトレーニングをしていて、明治大帝がお怒りになられていないかとハラハラしました。







『乃木神社』

こちらは、予想していたよりも境内は広く、御本殿は立派で、さらに御本殿の近くに、陸軍の司令部であった建物がそのまま御社としてお祀りされ、乃木将軍の生涯や教育勅語と並ぶような(と言っては語弊があるかもしれませんがそれに近いぐらいの)生前に御遺しになられた御言葉が解説されていました。奥様も御一緒に亡くなられていたことにも、感慨深かったです。
これらの神社にはこれからも是非定期的に参拝させて頂きたいと思います。





また、その後梅田に行き、はぷすぶるくさんと合流し、カラオケや、イタリアンを食べたりと、とても充実した一日を過ごすことができました。久しぶりのカラオケでお聴き苦しかったと思いますが、会長とはぷすぶるくさんの歌声を聴くことができ、良かったです。

御香宮神社、明治天皇陵、乃木神社

2011年04月03日 | 参拝者・投稿者 特別相談役
会長、本部長と、明治天皇陵をはじめ明治大帝ゆかりの神社を参拝しました。





御香宮神社は予想していたより広く、伏見の産土神としての御神威を感じました。
御香宮神社の御本殿の前で、御神水をいただきました。この御神水は桃山の伏流水で、伏水・伏見(ふしみ)の地名の起こりとされています。この御神水を求めて、多くの参拝者が訪れるそうです。
なお、御香宮神社は、当初は「御諸(みもろ)神社」と呼ばれていたそうですが、862(貞観4)年、社殿を修造の際、境内から香りの良い清水が涌き出たので、清和天皇から「御香宮」の名を賜り、社名を改名したそうです。
参拝後、神社表門前の和菓子屋「桃山餅」の名物・みたらしだんごを頂きました。





明治天皇陵は本当に静かで美しく、とても広大で、明治大帝の偉大さが偲ばれました。



乃木神社では、併設されていた資料館で、乃木将軍のご功績や、学習院院長時代のご訓示などを知ることができ、とても感動しました。
参拝後、会長の故郷・伏見桃山を案内して頂きました。







夕方、はぷす姉さんと合流し、梅田のPortofinoで渡り蟹のクリームソースパスタ・鯛のグリル・デザートの夕食を頂きました。
よい参拝をさせて頂き、また美味しいものも食べることができ、平和で幸せな1日を過ごすことができたことに、感謝したいと思いました。