神国の民草

脱懈怠(神国の民草・代表)の参拝記録

柴島神社

2011年12月16日 | 〔投稿〕 神国の民草・代表 脱懈怠






『柴島神社』

御鎮座地
〒533‐0024 大阪市東淀川区柴島三丁目7番30号

御祭神
本殿 八幡大神(応神天皇 神功皇后) 天照皇大神
    春日大神(天児屋根神 武甕槌神 経津主神 比売神)
相殿 天満天神
摂社 仲哀天皇社
末社 住吉神社

御由緒
昔から淀川の氾濫により流域地帯は、度重なる洪水の為苦しめられていた。貞永元(1232)年、仲秋の大洪水は、30日余りの間、大海の如き有様であったと伝える。当地域に在った仲哀天皇を祀る森は他所より一丈(約3メートル)ほど高所であったので村人達が避難していた。その処へ柴の束に乗った小祠が漂着した。時は貞永元年菊月27日の事である。その後、日毎に水も引き助かった村人達が産土神としてこの小祠をこの地へ斎き祀ったのが起源と伝えられている。当社は元字白妙(今の淀川河敷)に在り、樹木繁茂し村社の社格を与えられ神饌幣帛料供進社に指定された。明治時代の淀川大改修工事の為、現在地(旧字調布)へ移転され仲哀天皇社も境内へ移された。明治34年4月26日の事である。宝暦5年6月正親町三条殿より三十六歌仙額並に灯籠一対奉納され、年号不詳午六月園前大納言殿より神号額並に灯籠一対奉納された。特に社宝の御神刀は、室町・鎌倉時代の作と鑑定され文化財の指定をうけ博物館で保管されており、当社の起源の古さを表している。かつての夏祭は大変賑やかで、古文書に依れば、淀川での神輿洗いに始まり鎧武者、力士太鼓がでて幟、旗、提灯が林立し、遠近よりの参拝者で境内があふれていたという。当社の起源は「柴島」の名の起こりの一つと言はれ、故事に因んだ柴神輿は昔は毎年出ていたが、現在は式年奉祝祭のみくり出される。

感想等
当社は公園に隣接し、昼間訪れると子供達の元気に遊んでいる姿が見られる。公園の入り口に鳥居があり、神域との間に遮るものがほとんどないことから過去は神域の一部であったことが推測できる。私自身は経験していないが、昔は子供の遊ぶ場所の代表格が「境内」であった。御本殿の造り(良い意味での古さ)とも相まって、当社を訪れるとまるで昔にタイムスリップしたような感覚に陥る。また、当社は先に投稿した『中島惣社』と距離がそんなに離れていないにもかかわらず、何故合祀されなかったのだろうか。他のブログの記述を引用すると、これには「柴島晒」と「柴島浄水場」が関係するようであり、当時の柴島は「柴島晒」によって大変栄えていたが、「柴島浄水場」の建設に伴い町が大きく削り取られてしまい名産品の柴島晒も衰退し、今やわずかに工場が残る住宅地になり、浄水場建設により、町の多くが削りとられたことへの喪失感、住民や繊維業の人たちの懇願や、名産だった柴島晒による相当な財力もあったこと等から、なんとか当社の存続が許されたのではないか、ということである。実際、当社には晒業主が寄進した石柱があり、私もこのような経緯で間違いではないと思っている。

中島惣社

2011年12月15日 | 〔投稿〕 神国の民草・代表 脱懈怠






『中島惣社』

御鎮座地
〒533‐0033 大阪市東淀川区東中島四丁目9番41号

御祭神
本社(本殿) 宇賀御魂神 受保大神 大市比賣
本社(相殿) 天照大御神 武甕槌神 天児屋根神 姫大神 経津主神
        事代主神 菅原道真公 速素盞鳴神 大名牟遅神 猿田彦神
        少彦名神 應神天皇
大将軍社  久那斗神 八衢比古神 八衢比賣神 大山津見神 罔象女神
        金山彦神 於富迦牟津見神
若宮社   迦具土神 足名槌神 手名槌神 天宇受賣神 五十猛神
        大屋津姫神 市杵島姫神 大年神 御歳神 楠正成公(大楠公)

御由緒
古来の言い伝えによれば当社の創祀は、第36代孝徳天皇白雉2(651)年、難波、長柄豊碕に都を遷された頃、五穀豊穣を当社に祈られ給い、田園数多く下し賜り神領(境内地)となされたとしている。しかし、慶長の末年、大坂の乱に際し兵火によりことごとく焼失し、僅か当社古代の絵図一葉及び建武2(1335)年、奉納の「中島惣社」と記されたる木製神領のみで、創祀の年月は不詳であるが、その昔中島郷の中洲にあり、田畑もようやく開け、人家も増加するに及んで周辺地域の守護神として、宇賀御魂神(稲荷大神)を祭祀されたのが初めであったと伝えられている。また、旧摂津國西成郡北中島村及び西中島村地域(現在の東淀川区・淀川区新大阪駅前区画整理により分区)48個村の各氏神様の社殿は、(本社殿及び末社殿18社の御祭神)を当社(中島惣社本殿相殿及び摂社末社殿)に合祀奉りて、「郷社中島惣社」また、各神社の親宮として、氏子、地域住民及び崇敬者の信仰厚き神社として、古今共、崇敬の厚い旧社と古書等にも記載されている。戦前は、御本殿の他、幣殿・拝殿・社務所・神饌所・神楽殿・神輿庫・絵馬所・手水舎及び鳳輦庫等があり、また松の大木、楠の樹木等が生い茂り、昼尚薄暗く、荘厳な社であったが、惜しくも昭和20年6月の戦災でことごとく焼失、現在の社務所は昭和41年に社殿は昭和42年に再建、その後昭和62年に摂社「大将軍社」並びに「若宮社」が改築再建された。なお、昭和14年社域の地中約2、3尺の処より、弥生式の土器も多数発掘されている。

感想等
御祭神の多さにびっくりされる方も少なくはないだろう。たくさんの周辺地域の神社が合祀されたことは、御由緒はもとより御祭神の多さにも表れているといえる。実際、淀川区宮原の「春日神社址」、東淀川区西淡路の「須賀神社址」等のように、淀川区・東淀川区では「〇〇神社址」といった石碑が数多く存在する。これは明治後期の神社合祀政策の最たる例で、たくさんの神社が廃社に追い込まれたからだ。その目的は神社中心説に基づき氏子区域と行政区域を合致させ、町村唯一の神社を地域活動の中心にさせようとしたものなのである。
当社を参拝し、「〇〇神社址」を訪れると神道の近代史を肌で感じることができ、感慨深いものである。私見では、そういった「〇〇神社址」にも未だ御神威があり、現存する神社と同じように崇敬し参拝することが大事である思う。

泉井上神社

2011年12月11日 | 〔投稿〕 神国の民草・代表 脱懈怠






『泉井上神社』

御鎮座地
〒594-0071 和泉市府中町6-2-38

御祭神
総社 和泉大明神(独化天神)
    天照大日霊貴尊 天忍穂耳尊 天瓊瓊杵尊 彦火火出見尊 鸕鷀草葺不合尊 御諸別命
    和泉国六二座

本社 神功皇后 仲哀天皇 応神天皇従者四五柱

御由緒
上古より御鎮座なされ万物創造の神である独化天神は天之御中主神、高産巣日神、神産巣日神ともいい生命の守り神、招福の神として信仰されてきた。神武天皇は、御東征を御祈りになり、神功皇后は仲哀天皇の御即位2(200)年4月に行啓なさった時に急に泉ができ清い水がこんこんと湧き出したので瑞祥として喜ばれ、この水を霊泉といい、御宮として御祀りなさいました。これより「和泉」の国名がつけられました。元正天皇の霊亀2(716)年、ここに和泉監を置き、この地が国府となり、地方政治の中心地となった。その傍に総社を建立し、大鳥、穴師、聖、積川、日根野の神を御祭し、御諸別命とも合わせお祀りされている。和泉大社、和泉総社と呼ばれ泉州全体かの氏神として崇敬され、一般の人々の崇敬も厚くしばしば神異があり、その都度、勅使の奉幣あった。御社領は霊亀元年和泉諸上勅命により珍努県主倭麿の領主を世襲し、数百町の神田(土地)、神戸(人民)を領有し、左大臣橘諸兄の子諸貞より代々祭主職兼国司在庁をついで国司、勅使代、公文所、寺社を総管し、近郷を領有した。中世には武職を兼ね国府城主となり、祭りと政治を行った。正平、明徳、天正の時代には一万石の待遇を受けた。その子孫はお宮の宮司を務めている。また南町の忠臣和泉の国侍は国府城に屋敷を構え、妻子を置き、勤王の義兵の土地でもあった。ところが天正13年豊臣秀吉により石高を減ぜられ、明治6年には境内広すぎるとして一部を残し上地されている。

感想等
幼稚園が当社に併設され、参拝時小さな子供たちの賑やかな声が聞こえてくる。おそらく当社の宮司の方が幼稚園も経営されていると思われる。私が参拝させて頂いたとき、ちょうど何かの父兄も参加するイベントが行われていたのか、境内にたくさんの父兄のものだと思わしき自動車が所狭しと停められていた。神々に御奉仕される方が神道精神をもとに教育を行うのは大いに結構なことだと思う。だが、神域に自動車の駐車を許してしまうのは如何なものか。これは御祭神より園児の父兄(お客)を優先させていることに他ならず、私見では神への冒涜だ。即刻、神域内での駐車を認めることを中止して、神への御奉仕と幼稚園経営ははっきり区別し、本来大切にすべきものは何か考えて頂きたい。偉そうなことを申し上げたが、歴史は古く御神威のある神社であらせられるので、今後とも参拝させて頂きたいと思っている。JR和泉府中駅の商店街から少し入った住宅街に御鎮座され、一見分かりづらいが、読者の方々もお近くに来られる際は是非参拝して下さい。

蒲田神社

2011年12月07日 | 〔投稿〕 神国の民草・代表 脱懈怠






『蒲田神社』

御鎮座地 
〒532-0002 大阪市淀川区東三国二丁目18番12号

御祭神 
宇賀御魂大神 別雷大神

御由緒
摂津の国の蒲田の里に暮らしていた人々は、この地に二柱の神様を御迎えしてお祭りした。土地開発、鎮護に大きな御神徳を発揮せられる別雷大神、衣食住の道を開き守護下さる宇賀御魂大神である。二柱は里の人々の心の支えとなり、その霊徳を仰ぎ感謝の祈りを捧げながら、日々精進したところ里は豊かになり、代々守り伝えられてきた。
別雷大神は、藤原時代前期の頃に、京都の上賀茂神社の御祭神である別雷大神の御分霊をお乗せして播州へ御渡りになる船が、この地を通りかかった時につむじ風に遭遇され、この蒲田の杜で一時風除けをされたことから、お祭り申し上げることになった。
足利時代には当地は仏生院村と称されたり、当社は字室に存在していたことから室の社と、また御祭神の宇賀御魂大神を稲荷大神とも称えるところから稲荷神社とも並び称せられていた。明治24年12月12日より当時の地名(大阪府西成郡中島村大字蒲田)の字名を冠称して蒲田神社となった。
現在、当社境内の古大木は樹齢1000年余と言われる1株と600余年を経ていると言われる社前の切株、外に数百年を経た2株が現存し、以前は大樹繁茂し昼でも暗い状態であったと伝えれていて、室社と呼ぶに相応しい防風の役目を果たしていたことが分かる。このことは、上記の別雷大神をお乗せ申し上げた御座船がこの地を風除けの適地として選ばれた理由でもある。

感想等
蒲田神社は地下鉄御堂筋線東三国から100mに御鎮座され、都会の喧騒から神域に一歩踏み出せば、上記御由緒の名残が見られるたくさんの木々に囲まれた鎮守の森である。境内には所々に植木が栽培されていたりと、蒲田神社神職による手作り感が垣間見られ、適切な言葉ではないかもしないが「アットホーム」であると私は思う。
しかしながら、周辺住民からの蒲田神社神職への評判は芳しくなく、実際に私が「御由緒書」を頂いた際の蒲田神社神職の態度もその評判通りであった。さらに、「御由緒書」は、ほとんどの神社で無料もしくは約100円というところ、蒲田神社では200円(カラー印刷で綺麗な冊子であるが)ということも低評価に拍車をかけるのだ。これは支払いたくないというわけでは決してなく、他社とほとんど変わらぬクオリティであるのになぜ?という疑念を抱かせるものなのである。
御祭神はとても霊験荒たかな神々であらせられるだけに、大変残念である。失礼を承知であえて申し上げた。

大隅神社

2011年12月04日 | 〔投稿〕 神国の民草・代表 脱懈怠






『大隅神社』

御鎮座地
〒533-0011 大阪市東淀川区大桐5丁目14

御祭神
天照皇大神 応神天皇 別雷大神 天児屋根命 市杵島姫神 伊邪那美神 素盞烏尊
豊受毘売神 大山咋神 宇賀御魂神 菅原道真公

御由緒 
当社の氏地は、もとの大隅島即ち上中島にあたり、後の西成郡中島・大道の両村の範囲である。応神天皇22年(西暦291年)3月、時の帝難波の地に御幸し賜い、この大隅島に離宮を営んで宮居せられ、これを大隅宮と称した。その後、安閑天皇(西暦525年)9月、勅してここに牛を放牧せられた。後鳥羽天皇御悩の時、この地から黄牛の乳を薬料として献上したので、御平癒の後、乳牛牧の地名を賜った。応神天皇崩御の後、里人帝の御徳を慕い、宮址に神祠を建てて帝を御奉祀したのが起源であるといわれている。爾来当社はこの地の産土神として尊崇せられてきたが、一とせ淀川が氾濫した際、賀茂明神の御神体が漂着して霊光を放った。里人は喜び迎えて、これを産土神祠に合祀したものと思われる。これより社名を賀茂神祠と改め、社殿を二つに分けて一つには別雷大神を御奉祀し、一つには従来の応神天皇の他に、天照皇大神・伊邪那美神・素盞烏尊・豊受毘売神・天児屋根命・大山咋命及び菅原道真公の八柱を合祀し、その名を伊邪那美神社外七座社と称した。

感想等
当社を訪れた際、幹線道路から入り組んだ場所に御鎮座されているため、なかなか鳥居を見つけることができなかった。昔の境内はとても広かったようであるが、市への払下げ等により住宅地に変わってしまい現在は小規模になってしまっている。
当社の周辺は住宅街。実際、当社の鳥居と一般の住宅との距離はほんの僅かしかなく、夕方前という時間も起因してか、たくさんの人々がこの細い道を徒歩・自転車・自動車で鳥居なんぞ見えないかの如く行き交っていた。
歴史あるこういった神社にもっと日本人は参拝に行くべきである。