『柴島神社』
御鎮座地
〒533‐0024 大阪市東淀川区柴島三丁目7番30号
御祭神
本殿 八幡大神(応神天皇 神功皇后) 天照皇大神
春日大神(天児屋根神 武甕槌神 経津主神 比売神)
相殿 天満天神
摂社 仲哀天皇社
末社 住吉神社
御由緒
昔から淀川の氾濫により流域地帯は、度重なる洪水の為苦しめられていた。貞永元(1232)年、仲秋の大洪水は、30日余りの間、大海の如き有様であったと伝える。当地域に在った仲哀天皇を祀る森は他所より一丈(約3メートル)ほど高所であったので村人達が避難していた。その処へ柴の束に乗った小祠が漂着した。時は貞永元年菊月27日の事である。その後、日毎に水も引き助かった村人達が産土神としてこの小祠をこの地へ斎き祀ったのが起源と伝えられている。当社は元字白妙(今の淀川河敷)に在り、樹木繁茂し村社の社格を与えられ神饌幣帛料供進社に指定された。明治時代の淀川大改修工事の為、現在地(旧字調布)へ移転され仲哀天皇社も境内へ移された。明治34年4月26日の事である。宝暦5年6月正親町三条殿より三十六歌仙額並に灯籠一対奉納され、年号不詳午六月園前大納言殿より神号額並に灯籠一対奉納された。特に社宝の御神刀は、室町・鎌倉時代の作と鑑定され文化財の指定をうけ博物館で保管されており、当社の起源の古さを表している。かつての夏祭は大変賑やかで、古文書に依れば、淀川での神輿洗いに始まり鎧武者、力士太鼓がでて幟、旗、提灯が林立し、遠近よりの参拝者で境内があふれていたという。当社の起源は「柴島」の名の起こりの一つと言はれ、故事に因んだ柴神輿は昔は毎年出ていたが、現在は式年奉祝祭のみくり出される。
感想等
当社は公園に隣接し、昼間訪れると子供達の元気に遊んでいる姿が見られる。公園の入り口に鳥居があり、神域との間に遮るものがほとんどないことから過去は神域の一部であったことが推測できる。私自身は経験していないが、昔は子供の遊ぶ場所の代表格が「境内」であった。御本殿の造り(良い意味での古さ)とも相まって、当社を訪れるとまるで昔にタイムスリップしたような感覚に陥る。また、当社は先に投稿した『中島惣社』と距離がそんなに離れていないにもかかわらず、何故合祀されなかったのだろうか。他のブログの記述を引用すると、これには「柴島晒」と「柴島浄水場」が関係するようであり、当時の柴島は「柴島晒」によって大変栄えていたが、「柴島浄水場」の建設に伴い町が大きく削り取られてしまい名産品の柴島晒も衰退し、今やわずかに工場が残る住宅地になり、浄水場建設により、町の多くが削りとられたことへの喪失感、住民や繊維業の人たちの懇願や、名産だった柴島晒による相当な財力もあったこと等から、なんとか当社の存続が許されたのではないか、ということである。実際、当社には晒業主が寄進した石柱があり、私もこのような経緯で間違いではないと思っている。