神国の民草

脱懈怠(神国の民草・代表)の参拝記録

呉服神社

2012年03月11日 | 〔投稿〕 神国の民草・代表 脱懈怠








『呉服神社』

御鎮座地
〒563-0047 池田市室町7-4

御祭神
呉服大神 仁徳天皇

御由緒
第15代応神天皇の御代に猪名津彦命を支那の呉の国に遣わし、機織裁縫の工匠をお需めになった。その時久礼波、久礼志の二人を案内役として呉の国に赴き、呉王に乞うて呉服、綾織、兄媛、弟媛の四人を伴い渡来することになった。帰路九州の筑紫潟に着いた折、兄媛は宗像明神の御望みでこの地に御留りになり、他の媛は摂津の国武庫の浦にお着きになったので、上って猪名の港(現在の唐船ケ渕)に機殿を建て呉服媛をお迎えに致した。
呉服の神女は昼夜怠ることなく布帛を織り、少しも倦み給う事がなかったという。この時より機織裁縫の技術が我国に伝わり、男女貴賤の服装の差別が定まった。尚四季には上妙の衣服を上は天子に献じ下は万民に施された。
仁徳天皇の76年9月18日呉服の大神は御齢139歳にてお隠れになりその御遺体を今にその跡を残す梅室姫室にお納めになられた。その翌年仁徳帝が勅令を以て御神祠をお建てになられた。
この大神が糸を様々にお染め分けになった所を『染殿井』と称し、その糸を掛け晒しになられた松を『絹掛松』と名付けその跡は今も残っている。
大神の御託宣に「我は衣服の神となり人をして寒暑の憂なく、養蚕機織絹布裁縫の道を守護し且つ船路遥かにこの日本に帰化せし故海上の難おも無からしめん」とある。代々の帝殊に御崇敬篤く、円融天皇の御代には鎮守府将軍源満仲公が社祠を修復、又下って後陽成天皇の御代には豊臣秀頼公が片桐且元を奉行に命じて再建の事があり、文政2年には有栖川宮殿下の御祈願所となった。
因みに、呉服大明神の御名はは御醍醐天皇より賜わった御宸翰より起こり、又これにより我国において絹布の類を全て『呉服』と称することになった。
五穀を作る術を授け万民に飢餓の憂の無い事は天照大神の御神徳であると等しく、機械裁縫の道を教えて寒暑の憂無きはこの大神の御神徳に他ならない。この故を以て服飾の業に従い並びにその産物を商う者はおしなべてその祖神たる呉服大神を崇敬すべき事は論を問わぬ事である。他に、商売繁盛・健康長寿・交通の守護神としてもあらせられる。

感想等
御由緒の通り、当社の主祭神である呉服大神は支那の御出身である。古、日本は技術的に後進国であったため、支那をはじめとする大陸からたくさんの技術を輸入した。御由緒は、『機織裁縫』の技術を支那から輸入したことを現代に伝えている。『衣服』が無ければ暑さ寒さを凌ぐことはできず、呉服大神の御神徳は現代においてもとても大きなものである。
しかし、現代の支那に関して、日本が学ぶべきものは何一つない。『南京大虐殺』なるものは全くのデタラメであり、支那だけでなく日本国内の売国新聞によって捏造されたものであることは明白であり、その捏造の主犯である本多勝一は大嘘つきの売国奴であり、日本人として生きる価値がないほどの大罪犯である。
想像して欲しい。狂った左翼たちが支持する支那主張の『30万人を超える人々』が仮に虐殺されたとすれば、当時現地で取材をしている大勢の欧米人に見つかってしまい、瞬く間に世界に知れ渡り国際的に非難されているはずである。また、これだけ大多数を虐殺すれば、その遺体を片付けるのに少なくとも3年以上は必要であり、どう考えてもそのような歴史及び事実は地球上のどこにも存在しないのである。にも関わらず、我が国の近年の歴代内閣は、村山談話や野談話といった汚らわしい『売国奴の独り言』を今も踏襲し続け、最近でも藤村という左翼官房長官が同じような発言をしている。
そんな売国思想が罷り通る中での河村たかし名古屋市長の発言は称賛すべきである。これこそ、日本国の政治家としてあたりまえの主張であり、特に『保守』を名乗るような政治家は声高に発言すべきである。『南京大虐殺』『慰安婦』について自信を持って堂々と否定がすることができない『保守』政治家は、『保守』政治家ではなく、ただ単なる『政治屋』『営業保守』であって、即刻『保守』と名乗るのを止めるべきであり、国会から去っていただきたい。
これも原因となっているのは自虐史観の固まりである『日本国憲法』なる占領憲法である。この押し付けられた、原文が英語という恥ずべき『日本国憲法』なる占領憲法が存在する限り、日本人は腑抜けのままで、支那の態度に対抗することはできず、なれの果ては支那の属国になり下がってしまいかねない。そうならないために、即刻『癌病巣』である9条第2項と前文をまず破棄し、その他の条文については、経過措置として残しつつ、『日本国憲法』の無効を確認して、世界に誇る素晴らしき大日本帝国憲法の復活をすべきである。
自民党等が主張する『改憲』は忌まわしき『占領憲法』の追認であって、『日本国憲法』は無効であると確認すべきある。どうしても現代にそぐわない部分については、大日本帝国憲法に修正を加えればいいのである。これについては南出喜久治先生や小山常実先生が主張され、私はこの主張に賛同する。真の日本人であれば、南出先生や小山先生の主張に賛同するはずである。
東日本大震災追悼式において、術後少ししか経過されていない御身体で御臨席された天皇陛下は、国民及び被災地に対してとても温かい御言葉を述べられた。
私はその御言葉と皇后陛下の天皇陛下をお気遣いになるお姿に感動し目頭が熱くなり、改めて天皇陛下を戴く『神国の民草』であることに誇りを感じた。読者の方々も同じ想いを持たれているであろう。
古の支那からは、様々なことを学んだが、現代においてそのことに義理を感じる必要は一切なく、断固とした態度で支那に対して臨むべきである。
当社には、これまた支那とも縁があると言われる恵比寿大神様も御鎮座され、お耳が遠いので『叩き板』を叩くという珍しい作法で参拝する。阪急池田駅より程近い当社を参拝することで、『衣服』の有難さを感じたい。

垂水神社

2012年03月07日 | 〔投稿〕 神国の民草・代表 脱懈怠










『垂水神社』

御鎮座地
〒564-0062 
大阪府吹田市垂水町一丁目24番6号

御祭神
主祭神 豊城入彦命   相殿 大己貴命 少彦名命
末社 戎社 金山比古命 金山比売命 豊宇気姫命 事代主命
祓戸社 息吹戸主命 瀬織津比売命 速開津比売命 速佐須良比売命
皇太社 天照大神 伊佐那岐命 伊佐那美命  
楠社 大綿津見命 市杵島姫神
御旅所 楠明神社 大綿津見命 市杵島姫神
不動社

御由緒
神崎川・淀川が、古来難波と呼ばれていたこの地を西に流れて茅渟の海にそそぎこむ、その北岸に鎮座する当社は、7世紀初めの起源を今日に伝えている。『新撰姓氏録』は、この地に勢力を持っていた阿利真公が大化の改新頃の旱魃の折、垂水基岡(千里山)から湧き出る水を、当時の難波長柄豊碕宮に送り、その功を称えられ、垂水公の姓を賜るとともに、垂水神社を創祀したといわれている。
「いははしる垂水の上のさわらびのもえいずる春になりにけるかも」
と、万葉集にも詠まれた御神水が涸れることなく、今も一千数百年の時を超えて垂水の滝として流れ続けている。
社伝によると、豊城入彦命は、崇神天皇の第一皇子であらせられながら、弟の垂仁天皇に皇位を譲り東国開発の旅に出られた。後に四道将軍の一人に数えられる豊城入彦命が、第一歩を記されたのがこの垂水の地であり、子孫が神としてお祀りし、社を阿利真公とその末裔に伝えたという。なお、境内には弥生時代の住居址が確認されており、水に対する信仰はかなり古くからあったものと思われる。
その後は、祈雨の神として朝廷をはじめとして広く信仰を集め、平城天皇の頃に封戸の寄進を受けて以来、平安時代には、勲八等従五位下から従四位下まで、祈雨の度に神階を進めた。延喜代(907年)制においては、名神大の社に列せられている。また、大嘗祭にさきがけて行われたと言われる八十嶋祭において、朝廷より奉幣と祭料布を下賜されたといい、これを証明するように神崎川畔から古鏡が発見されている。また、垂水の地には、最近まで律令制の名残を伝える条里の遺構も見受けられた。
やがて、古代から中世の荘園の時代には、当社を含む垂水荘は、豊かな農耕の地故に東寺や春日大社などの有力社寺の所有権争いの対象になっていった。
近世にあっては、社寺の衰えという時代の情勢を越えて、熱心な崇敬者に支えられ、天和3(1683)年に社殿を改築し、朝廷から十六弁の菊の神紋を使用することが認められている。
明治以後郷社となり、昭和49年、衰えることなき氏子崇敬者の熱意で造営奉賛委員会が組織され、今日の本殿・幣殿・拝殿を完成奉仕するに至った。

感想等
当社は、吹田市の中心の一つである江坂と豊津の間の住宅街にご鎮座される。また、その境内は標柱からは想像もできないような広大な規模の鎮守の杜で、御本殿へ続く階段はとても急であり、裏手の『山』そのものが御神体と言っても過言ではない。御由緒で登場した『垂水の瀧』をはじめとして、様々な祠が千里丘陵=『山』に沿う形でお祀りされている。特筆すべき点は、御本殿へ続く石段を登らずに左に進んだ一番奥、言わば『奥宮』的な位置に『不動社』が御鎮座されている点である。『金弊芯』にもそのお姿を変えられる『不動明王』が独立されてお祀りされていることは私見では珍しく、神仏習合の名残を強く感じることができる。個人的には、吹田の住宅街に広大な鎮守の杜と立派な御社が御鎮座されていたことに驚嘆した。
この貴重な鎮守の杜は、住宅地化により昔に比べると小規模になっているにも関わらず、最近さらなるマンション建設の動きがあり、当社の神職の方をはじめ周辺住民の方々が署名活動等反対運動を展開されている。当社社務所において反対署名をすることができ、筆者も署名した。どうやらこの建設を企てている業者は不法かつ不当に土地の測量等を行っているようで、神々への崇敬心の欠片もなく私心で我欲しかないとんでもない輩のようである。神道の教えは、西洋の宗教のそれとは違い、自然を制することでなく自然と共存し、八百万の神々に日々感謝を申し上げることがその重要な精神であるはずである。読者の皆様も当社に参拝の折には、是非ともマンション建設反対の署名活動にご協力下さい。

岡崎神社

2012年02月22日 | 〔投稿〕 神国の民草・代表 脱懈怠








岡神社

御鎮座地
〒606-0335 京都市左京区岡崎東天王町51番地

御祭神
素盞鳴命 奇稲田姫命 八柱御子神

御由緒
桓武天皇延暦13(794)年の平安京遷都の際に、王城守護のため平安京の四方に建立された社の一つで、都の東(卯の方位)に御鎮座されることから東天王と称した。清和天皇が貞観11(869)年に造営、後醍醐天皇も造営、室町時代には足利義政が修造、幕府との関係も深く、平家物語は官幣四十一社に加えている。治承2(1172)年に中宮の御産の奉幣を賜ったことから、安産の神として祈願する信仰がある。創祀の王城守護方除の勅願より、方除厄除神として信仰が絶えず、厄除祈願はもとより、地鎮祭等の建築に関する祭事が多い。また、往時背後の紫雲山をはじめ境内一帯がうさぎの生息地であったことから、うさぎは氏神様の神使いと伝えられ、御本殿や境内の灯篭・狛兎・狛犬の台座・斎館等にうさぎの彫刻が見られ、特に手水屋形にある子授けうさぎ像は参拝者の人気を集め、御祭神が八柱もの御子神をもうけられ、うさぎが多産であることから子授けの神として祈願信仰されている。

感想等
当社はとても可愛らしいうさぎ像がたくさん見られ、女性の参拝が多く、卯年にはさらに参拝者が増える。
最近、参拝者を無闇に増やすために、「パワースポット」等と自ら称し、本来の御神徳を無視し専ら収益目的としか思えない表現をする神社が増えているよう。特に「恋愛成就」等を謳い文句に商業的展開行っている神社が最近は多くみられ、筆者は憂うべきことであると思う。
私見では、「パワースポット」とは表現せず、「霊験荒たか」とか「御神威がある」というものにして頂きたい。そもそも、「スピリチュアル・カウンセラー」等という人物がメディアに登場するまでは、そのような軽々しい表現はなかったと思う。また、その人物は「神社の御神木に触れるとパワーがもらえる」等と勝手極まりない発言を堂々とし、それに看過された人々が御神木に無闇に触れることによって御神木が枯れてしまったいうことも起きている。御神木も、我々とは比べものにならない程生きておられる神々なのであり、上記のような行為はその「御神体」に不浄な手で触れることに他ならないのである。
一方、当社は御由緒由来の御神徳を広めようとされているように感じた。それは御奉仕されている神職の方の至誠にも表れているようで、当社の境内の神聖な雰囲気も相まって、とても清々しい気持ちで参拝することができた。
鳥居をくぐると、そこは「天皇陛下の御健康」「皇室の弥栄」「国家の安寧」を只管に祈願する御神域であり、「こうなりたい」等「私心」を祈願する場所では決してない。日本人は「神社」の在り方について今一度考えるべきである。

服部天神宮

2012年02月18日 | 〔投稿〕 神国の民草・代表 脱懈怠








『服部天神宮』

御鎮座地
〒561-0851 豊中市服部元町1-2-17

御祭神
少彦名命 菅原道真公

御由緒
その昔、朝鮮から機織の技術を我が国に伝えた人々に「秦氏」の姓氏を与えて、これらの子孫の多くがこの服部に住んだ。「服部」の地名は秦氏の人々の住むところとして「機織部」から成り立ったものと言われ、第19代允恭天皇の御代(皇紀1072、西暦412)に、織部司に任ぜられ、諸国の織部を総領した「服部連」の本拠地が服部である。外来部族であった秦氏は、外来神であり医薬の祖神である「少彦名命」を尊崇していたので、当社はこの服部の地に古くから、お祀りしていたものであり、その創建は菅公御生前より遠く、相当古い年代であったと推定される。
右大臣、菅原道真公は、讒訴に遭い、太宰権師として左遷されることになり、延喜元年、京都から遥か筑紫の大宰府へ赴く途次、この辺りで持病の脚気に悩まされ、足が浮腫んで一歩も歩くことができなくなった。そこで、村人の勧めで、医薬の祖神「少彦名命」を祀る服部の路傍の小祠に詣で、一心にその平癒を祈願されたところ、不思議に痛みや浮腫みが治り、再び健康を取り戻して、無事大宰府にお着きになったと伝えられている。菅公没後、北野天満宮をはじめとして、天神信仰が全国各地に起こり、路傍の小祠であった当社に菅公の御霊を合祀し、「服部天神宮」として堂宇を建立し、「菅公脚気平癒の霊験」が広まり、聞き伝えた人々の参拝で、次第に門前市をなす様になり、「脚気天神」「足の神様」として全国の崇敬を集めるようになった。
江戸時代、「大坂」から「池田」「能勢」「亀岡」に通ずる主要幹線道路として、「能勢街道」は人々の往来繁く、この街道に面して、その道程の中間に位置した「服部天神」は「全国からの参拝者」と「能勢街道往来人の宿場」との、二つを兼ね備えて、境内外は非常な賑いを呈し、旅籠、料亭、茶店が軒を連ねて、江戸中期から末期にかけて、その最盛期であったことは、当社に残された数多くの絵馬・建造物・道標がこれを物語っている。現在の社殿も文政十年に建てられたものである。殊に、全国各地から「足病平癒」「足の加護」を願って、永い期間、境内の旅籠に逗留して「願」を掛け、無事平癒を遂げた人々が、お受けして各地に祀った「服部天神の御分霊社」は、今も全国各地に点在している。本所の安部氏武家屋敷内に祀られた分霊社に掲げてあった「攝州服部天神」の扁額は、勝海舟縁のもので、大東亜戦争後、俳人荻原井泉水によって、当社に奉納された。
文化文政の頃、三代目中村歌右衛門の奉納した「みくじ箱」をはじめ芸能人からの奉納品が数多く残されており、「足」を大切にした「芸人、飛脚」等がいかに当社を信仰したかを物語っている。明治43年小林一三によって開通した箕面有馬電気軌道(現在の阪急電車)は殷賑を極めた服部天神前まで、態々三国から電車を迂回して駅を設け、駅名を「服部天神駅」と名付けた程であった。今日も、野球・サッカー・陸上その他のスポーツマンをはじめ、「健脚」を祈る全国からの善男善女の参拝が絶えない。

感想等
昔、浮かばれない霊魂を慰撫・鎮静しないで放置しておくとそれらの怨霊は世の中に祟りや災いをもたらすと信じられ、この怨みの霊を鎮めるために御霊を祀る神社を建立し恒常的に祭祀を営むことにより、御霊神を守護神に転化していった。これを「御霊信仰」というが、当社の御祭神はまさにその代表格である。
道真公は「北野天満宮」の御由緒でもある「託宣神」、慈悲の神、正直の神、そして無実の罪を晴らし身の潔白を証明する雪冤の神としても、崇敬されている。道真公をお祀りする神社は全国に1万441社存在し、いかに御神徳が厚く崇敬されているかがわかる。その中でも「足の神様」として崇敬が厚い当社は、服部駅から目と鼻の先でアクセスも良く全国から参拝者が訪れるためか、御本殿等の神殿がとても立派である。
個人的な見解では、神社は「国家神道」であり、単なる「宗教」ではないので、明治の素晴らしき世の如く、政府が「神道」を保護し、当然に全国に数多存在する神社に税金が投入されるべきと考える。そうなれば、大小の隔たりなく神社は立派に神々をお祀りすることができ、その御神徳からさらなる崇敬者の参拝を迎えることができる。如何わしい新興宗教が乱立し、宮内庁にまでその影響が疑われるこの現代社会において、改めて日本人の精神の基礎である「神道」の教えに立ち返るべきではないだろうか。
ちなみに、雅楽と現代音楽の融合で話題になっている、神社神職・巫女・楽師によるユニット「天地雅楽(てんちがらく)」の久次米一弥氏は当社に御奉仕されている。このユニットは坂本龍一氏が称揚し、代表楽曲“東風”で同氏と共演を果たした。
阪急宝塚線をご利用の際には、「服部駅」で途中下車の上、是非とも当社に参拝して頂きたい。

小野八幡神社

2012年02月06日 | 〔投稿〕 神国の民草・代表 脱懈怠








『小野八幡神社』

御鎮座地
〒651-0085 神戸市中央区八幡通四丁目1-37

御祭神
応神天皇

御由緒
創祀は仁和3年。旧郷社。寛平年間には神前に生じる七草を採って宮中に献上している。この地は、古来月見の名所として知られ、幾多の大宮人が足を留めて、或は月を賞で、或は草を摘んで遊んだことが、千載集・夫木集・新古今集などの和歌集に見られる。近くは、明治維新の頃、勝海舟がこの地(当時は神戸村小野浜)に神戸海軍操練所を開設し、海外発展と旧日本海軍創設の基礎をつくったことで知られる。現在附近(旧商工会議所前)は「史蹟旧海軍操練所跡」の碑が建っている。
当社には、古来、武将に関する史実が多く伝わっているが、特に江戸時代、讃岐の高松城主松平頼常が江戸への参勤交代の途次に、当社に参拝し道中に無事安全の祈願し、予定通り江戸に着き、大任を果たし終えた後に、感謝を表して当社に寄せた書状一葉が今社宝として残っている。また、この霊験顕著な故事が広く知られて、現在では自動車交通安全厄除祈願の特殊信仰を集めている。
当社は、終戦の年に神戸空襲で社殿等が戦災に遭ったが、順次復旧して現状を見るに至った。また、かつて天覧を賜った当社の重宝「湊川生田川間絵図」その他の古記のほとんどが疎開によって火難から免れ得たことは、不幸中の幸いであった。

感想等
社務所に掲げられた表札には「新渡戸」とあった。参拝後に別の神社の神職の方から伺ったところによると、当社の宮司の方は新渡戸稲造氏の御親戚にあたるようである。
官公庁としてあるまじき売国的な主張をする(あくまで私見である)K市役所の目と鼻の先に御鎮座される神社である。それ故に、我々神国の民草にとって、また多くの愛国者にとって、都会のオアシスのような有難い神社である。しかしながら、少し残念なことは、その御神域が駐車場、それもおそらく月極めとして使われていることだ。読者の方々は「また駐車場の話か」とお思いになるかもしれないが、私は一時的な乗り入れはまだしも、御神域に日常継続的に駐車することは断じて許すことはできないと考えている。当社は奇しくも御由緒のように自動車交通安全厄除祈願の特殊信仰を御神徳にされているはずであるが、交通安全の見本とは言い難いと思うのは私だけであろうか。
附近では生田神社ような有名な神社も御鎮座されるが、当社のような小さな御宮にも意識的積極的に参拝し、その御神徳を広めていきたいものである。

松山神社

2012年02月05日 | 〔投稿〕 神国の民草・代表 脱懈怠








『松山神社』

御鎮座地
〒533-0004 大阪市東淀川区小松四丁目15番38号

御祭神
菅原道真公 天照皇大神 春日大神 住吉大神

御由緒
当地は、往古難波入江の基点であった江口の西に接す。江口は難波入江の口の意で、西行法師と江口の君との故事で有名である。土壌は極めて細砂、丈余掘っても変わる事なし。往古淀川尻あたり、河水と潮水と相会し、渦旋して洲壌をつけた地なるが如し。烈風の日砂塵濛々として天に沖し、全村その影を没する事あり。近郷よりこれを望み、火災と誤認して喧騒した事も屡々ありき。と古書にある。難波八十島の一つ中島が形成され、江口・小松は永く中島村と称し、又中島音頭も今に残されている。
延喜元(901)年、大宰府の配所に流されることになった道真公は、淀川を下って難波入江の口に差しかかられた折、数千株の小松が生い茂る中島の景観に御感動、傍らの石に腰を掛けて『小松の詩』を詠まれた。村号の小松この時より始まる。又菅公直筆の御真像を写し給い、永代我がここに置くべし、此の地に本心留め置くべしとの御遺勅により、菅公歿後村民社祠を建立し、村の氏神と崇めたのをその創祠とする。
明和初(1764)年頃に境内拡張、社殿修築行われ、その竣功に当たり、正一位前大納言より『天満宮』の揮毫を得て額を掲ぐ。明治4年松山神社と改称、当時の字名を今に残すものである。現社殿は昭和19年の再建で、本殿(流れ造)・拝殿(入母屋造)・幣殿・東西参列殿・神饌所・楽所よりなるが、拝殿及び社務所は、元別格官幣社四条畷神社(小楠公を祀る)の旧御社殿を移建したもの、御神門及び付属建造物は、御神忌1075年式年大祭を記念して、昭和52年建立せられたものである。

感想等
当社も、お馴染の大阪屈指の大B地区に御鎮座される神社である。筆者が訪れたのは日が傾きかけた夕方であったためか、前の公園ではたくさんの子供達の姿を見かけたが、他の参拝者は見られなかった。
畏れ多くも当社の素晴らしい点はまず、御神門をくぐってすぐの御本殿を向いて左のところに祓戸社が御鎮座されているということである。他社ではなかなか見られない。まずこの祓戸社にお参りし、お手水舎で口と手を清め、心身の穢れをなくしてから、御本社をお参りすることになる。2回もお祓いもしくはお清めを行うことの意味は、いかに一般社会が穢れているかということである。神社を参拝するときぐらいは、『私心』を払い捨て、一心に皇室の弥栄・国家の繁栄をお祈りしたいものである。
第2は、奥宮として天津磐座が御鎮座されているということである。天津磐座とは神を祀る石である。都会に御鎮座される神社で、『奥宮』が見られる神社は珍しい。少し残念なことは、この天津磐座のすぐ後ろがマンションであるということである。神社の周りと言えども、御神域以外は当然のことながら一般の土地であるので規制することはできない。神社をとくに国策で保護した明治の世なら話は別であるが。そんな素晴らしき時代を日本人は何故顧みないのであろうか。

湊川神社

2012年01月23日 | 〔投稿〕 神国の民草・代表 脱懈怠






『湊川神社』

御鎮座地
〒650-0015 神戸市中央区多聞通三丁目1番1号

御祭神
楠木正成公(大楠公=だいなんこう)
配祀 楠木正行郷(小楠公)及び湊川の戦で殉節された楠木正季郷以下御一族十六柱並びに菊池武吉郷
摂社 甘奈備神社(御祭神・大楠公夫人)
境内神社 楠本稲荷神社(御祭神 倉稲魂命 猿田彦命 大宮女命) 菊水天満神社(御祭神 菅原道真公)

御由緒
楠木正成公(大楠公)は、永仁2(1294)年、大阪の河内国金剛山の麓、赤坂村で生まれ、幼名を「多聞」と申された。
学問を観心寺の僧滝覚坊について学び、兵法を大江(毛利)時親に師事して修められ、文武両道優れた武将となられた。その頃は、北条氏が鎌倉で国の政治を行っていたが、その政治は大変乱れていた。
大楠公は、元弘元(1331)年9月に御醍醐天皇の命を受け、鎌倉倒幕の兵を挙げ、執権北条氏の大軍と戦われた。奇策智謀に優れて、遂に鎌倉幕府を崩壊に導き、「建武中興」に大きな功績を立てられた。
しかし、まもなく足利尊氏が背き、一度は九州へ敗走したが、再び勢力を盛り返して京都に攻め上がってきた。
大楠公は、御子正行郷(小楠公)に後事を託して桜井の駅(現在大阪府島本町桜井)で別れ、兵庫湊川(現在神戸市内)で迎撃、敵は数万、味方は七百余騎、激戦の末、衆寡敵せず、延元元(1336)年5月25日、遂に「七生滅賊」を誓って、御弟正季郷以下御一族の人々と共に、殉節を遂げられた。
以来、地元の人々は、この大楠公をお慕いし、大楠公の塚(御墓所)を大切に守ってきた。その後文禄年間(1592~95)に至り、御墓所は、豊臣秀吉検地の際、東西四間(約8メートル)、南北六間(約12メートル)を免租地とされ、江戸時代には摂津尼崎藩主青山幸利公によって松と梅が植えられ、五輪の石塔も建てられた。
そして、元禄5(1692)年、水戸光圀公(義公)によって、大楠公墓碑「嗚呼忠臣楠子之墓」が建立、大楠公の御盛徳が天下に顕彰されるとともに、大楠公景仰の気運がいよいよ高まり、やがて維新回天への力強い精神的指導力となった。即ち幕末から維新にかけて、頼山陽・吉田松陰・真木保臣・三条実美・坂本龍馬・高杉晋作・西郷隆盛・大久保利通・木戸孝允・伊藤博文等々はみな、この墓前にぬかづいて報国の至誠を誓い、国事に奔走したのである。
そうした幕末から維新にかけて、尊崇してやまない大楠公の御神霊を御祀りしたいという国民運動が盛んとなり、明治元(1868)年4月、明治大帝は、大楠公の忠義を後世に伝えるため、神社創祀の御沙汰書を下された。
明治2(1869)年、御墓所・御殉節地を含む7232坪(現在7666坪)を境内地として定められ、明治5(1872)年5月24日、社名を「湊川神社」とし、初めての別格官幣社に列せられ、同日鎮座祭、翌25日楠公祭が斎行されて、ここに湊川神社が創建された。
現在も忠誠と正義を以て生涯を貫かれた大楠公の御盛徳を慕う多くの人々が、全国から参拝に訪れる日本有数の名社とされている。
大楠公は、智・仁・勇の三徳を備える非常な人格者で、聖人とも仰がれた武将であった。大楠公が忠誠と正義とをもって貫かれた精神は、楠木氏一族子孫にいたるまで受け継がれ、、日本史上これほど偉大な影響を後世に及ぼした人はないと言われるほど、その後の国民に大きな感化を与えたのであった。

感想等
「我ガ臣民、克ク忠ニ克ク孝ニ・・・」、これは教育勅語の一文であり、簡単に言えば「親孝行」を意味する。「忠」とは純粋至誠の心より天皇にお仕えしようとして発する高尚なる道徳的感情といい、「忠臣」の代表格として挙げられるのが大楠公である。
我が国は古より、忠孝を全うして国体の精華を発揮した人を人君と区別なく神として崇め、神社としてお祀りする。
当社を参拝することで大楠公の崇高なる精神を見習い、万世一系の天皇陛下を戴く国体を御護りするのが我々臣民の役目である。反日教育が罷り通る現代にこそ、もう一度教育勅語を見直し復活させることが必須である。

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柴島神社

2011年12月16日 | 〔投稿〕 神国の民草・代表 脱懈怠






『柴島神社』

御鎮座地
〒533‐0024 大阪市東淀川区柴島三丁目7番30号

御祭神
本殿 八幡大神(応神天皇 神功皇后) 天照皇大神
    春日大神(天児屋根神 武甕槌神 経津主神 比売神)
相殿 天満天神
摂社 仲哀天皇社
末社 住吉神社

御由緒
昔から淀川の氾濫により流域地帯は、度重なる洪水の為苦しめられていた。貞永元(1232)年、仲秋の大洪水は、30日余りの間、大海の如き有様であったと伝える。当地域に在った仲哀天皇を祀る森は他所より一丈(約3メートル)ほど高所であったので村人達が避難していた。その処へ柴の束に乗った小祠が漂着した。時は貞永元年菊月27日の事である。その後、日毎に水も引き助かった村人達が産土神としてこの小祠をこの地へ斎き祀ったのが起源と伝えられている。当社は元字白妙(今の淀川河敷)に在り、樹木繁茂し村社の社格を与えられ神饌幣帛料供進社に指定された。明治時代の淀川大改修工事の為、現在地(旧字調布)へ移転され仲哀天皇社も境内へ移された。明治34年4月26日の事である。宝暦5年6月正親町三条殿より三十六歌仙額並に灯籠一対奉納され、年号不詳午六月園前大納言殿より神号額並に灯籠一対奉納された。特に社宝の御神刀は、室町・鎌倉時代の作と鑑定され文化財の指定をうけ博物館で保管されており、当社の起源の古さを表している。かつての夏祭は大変賑やかで、古文書に依れば、淀川での神輿洗いに始まり鎧武者、力士太鼓がでて幟、旗、提灯が林立し、遠近よりの参拝者で境内があふれていたという。当社の起源は「柴島」の名の起こりの一つと言はれ、故事に因んだ柴神輿は昔は毎年出ていたが、現在は式年奉祝祭のみくり出される。

感想等
当社は公園に隣接し、昼間訪れると子供達の元気に遊んでいる姿が見られる。公園の入り口に鳥居があり、神域との間に遮るものがほとんどないことから過去は神域の一部であったことが推測できる。私自身は経験していないが、昔は子供の遊ぶ場所の代表格が「境内」であった。御本殿の造り(良い意味での古さ)とも相まって、当社を訪れるとまるで昔にタイムスリップしたような感覚に陥る。また、当社は先に投稿した『中島惣社』と距離がそんなに離れていないにもかかわらず、何故合祀されなかったのだろうか。他のブログの記述を引用すると、これには「柴島晒」と「柴島浄水場」が関係するようであり、当時の柴島は「柴島晒」によって大変栄えていたが、「柴島浄水場」の建設に伴い町が大きく削り取られてしまい名産品の柴島晒も衰退し、今やわずかに工場が残る住宅地になり、浄水場建設により、町の多くが削りとられたことへの喪失感、住民や繊維業の人たちの懇願や、名産だった柴島晒による相当な財力もあったこと等から、なんとか当社の存続が許されたのではないか、ということである。実際、当社には晒業主が寄進した石柱があり、私もこのような経緯で間違いではないと思っている。

中島惣社

2011年12月15日 | 〔投稿〕 神国の民草・代表 脱懈怠






『中島惣社』

御鎮座地
〒533‐0033 大阪市東淀川区東中島四丁目9番41号

御祭神
本社(本殿) 宇賀御魂神 受保大神 大市比賣
本社(相殿) 天照大御神 武甕槌神 天児屋根神 姫大神 経津主神
        事代主神 菅原道真公 速素盞鳴神 大名牟遅神 猿田彦神
        少彦名神 應神天皇
大将軍社  久那斗神 八衢比古神 八衢比賣神 大山津見神 罔象女神
        金山彦神 於富迦牟津見神
若宮社   迦具土神 足名槌神 手名槌神 天宇受賣神 五十猛神
        大屋津姫神 市杵島姫神 大年神 御歳神 楠正成公(大楠公)

御由緒
古来の言い伝えによれば当社の創祀は、第36代孝徳天皇白雉2(651)年、難波、長柄豊碕に都を遷された頃、五穀豊穣を当社に祈られ給い、田園数多く下し賜り神領(境内地)となされたとしている。しかし、慶長の末年、大坂の乱に際し兵火によりことごとく焼失し、僅か当社古代の絵図一葉及び建武2(1335)年、奉納の「中島惣社」と記されたる木製神領のみで、創祀の年月は不詳であるが、その昔中島郷の中洲にあり、田畑もようやく開け、人家も増加するに及んで周辺地域の守護神として、宇賀御魂神(稲荷大神)を祭祀されたのが初めであったと伝えられている。また、旧摂津國西成郡北中島村及び西中島村地域(現在の東淀川区・淀川区新大阪駅前区画整理により分区)48個村の各氏神様の社殿は、(本社殿及び末社殿18社の御祭神)を当社(中島惣社本殿相殿及び摂社末社殿)に合祀奉りて、「郷社中島惣社」また、各神社の親宮として、氏子、地域住民及び崇敬者の信仰厚き神社として、古今共、崇敬の厚い旧社と古書等にも記載されている。戦前は、御本殿の他、幣殿・拝殿・社務所・神饌所・神楽殿・神輿庫・絵馬所・手水舎及び鳳輦庫等があり、また松の大木、楠の樹木等が生い茂り、昼尚薄暗く、荘厳な社であったが、惜しくも昭和20年6月の戦災でことごとく焼失、現在の社務所は昭和41年に社殿は昭和42年に再建、その後昭和62年に摂社「大将軍社」並びに「若宮社」が改築再建された。なお、昭和14年社域の地中約2、3尺の処より、弥生式の土器も多数発掘されている。

感想等
御祭神の多さにびっくりされる方も少なくはないだろう。たくさんの周辺地域の神社が合祀されたことは、御由緒はもとより御祭神の多さにも表れているといえる。実際、淀川区宮原の「春日神社址」、東淀川区西淡路の「須賀神社址」等のように、淀川区・東淀川区では「〇〇神社址」といった石碑が数多く存在する。これは明治後期の神社合祀政策の最たる例で、たくさんの神社が廃社に追い込まれたからだ。その目的は神社中心説に基づき氏子区域と行政区域を合致させ、町村唯一の神社を地域活動の中心にさせようとしたものなのである。
当社を参拝し、「〇〇神社址」を訪れると神道の近代史を肌で感じることができ、感慨深いものである。私見では、そういった「〇〇神社址」にも未だ御神威があり、現存する神社と同じように崇敬し参拝することが大事である思う。

泉井上神社

2011年12月11日 | 〔投稿〕 神国の民草・代表 脱懈怠






『泉井上神社』

御鎮座地
〒594-0071 和泉市府中町6-2-38

御祭神
総社 和泉大明神(独化天神)
    天照大日霊貴尊 天忍穂耳尊 天瓊瓊杵尊 彦火火出見尊 鸕鷀草葺不合尊 御諸別命
    和泉国六二座

本社 神功皇后 仲哀天皇 応神天皇従者四五柱

御由緒
上古より御鎮座なされ万物創造の神である独化天神は天之御中主神、高産巣日神、神産巣日神ともいい生命の守り神、招福の神として信仰されてきた。神武天皇は、御東征を御祈りになり、神功皇后は仲哀天皇の御即位2(200)年4月に行啓なさった時に急に泉ができ清い水がこんこんと湧き出したので瑞祥として喜ばれ、この水を霊泉といい、御宮として御祀りなさいました。これより「和泉」の国名がつけられました。元正天皇の霊亀2(716)年、ここに和泉監を置き、この地が国府となり、地方政治の中心地となった。その傍に総社を建立し、大鳥、穴師、聖、積川、日根野の神を御祭し、御諸別命とも合わせお祀りされている。和泉大社、和泉総社と呼ばれ泉州全体かの氏神として崇敬され、一般の人々の崇敬も厚くしばしば神異があり、その都度、勅使の奉幣あった。御社領は霊亀元年和泉諸上勅命により珍努県主倭麿の領主を世襲し、数百町の神田(土地)、神戸(人民)を領有し、左大臣橘諸兄の子諸貞より代々祭主職兼国司在庁をついで国司、勅使代、公文所、寺社を総管し、近郷を領有した。中世には武職を兼ね国府城主となり、祭りと政治を行った。正平、明徳、天正の時代には一万石の待遇を受けた。その子孫はお宮の宮司を務めている。また南町の忠臣和泉の国侍は国府城に屋敷を構え、妻子を置き、勤王の義兵の土地でもあった。ところが天正13年豊臣秀吉により石高を減ぜられ、明治6年には境内広すぎるとして一部を残し上地されている。

感想等
幼稚園が当社に併設され、参拝時小さな子供たちの賑やかな声が聞こえてくる。おそらく当社の宮司の方が幼稚園も経営されていると思われる。私が参拝させて頂いたとき、ちょうど何かの父兄も参加するイベントが行われていたのか、境内にたくさんの父兄のものだと思わしき自動車が所狭しと停められていた。神々に御奉仕される方が神道精神をもとに教育を行うのは大いに結構なことだと思う。だが、神域に自動車の駐車を許してしまうのは如何なものか。これは御祭神より園児の父兄(お客)を優先させていることに他ならず、私見では神への冒涜だ。即刻、神域内での駐車を認めることを中止して、神への御奉仕と幼稚園経営ははっきり区別し、本来大切にすべきものは何か考えて頂きたい。偉そうなことを申し上げたが、歴史は古く御神威のある神社であらせられるので、今後とも参拝させて頂きたいと思っている。JR和泉府中駅の商店街から少し入った住宅街に御鎮座され、一見分かりづらいが、読者の方々もお近くに来られる際は是非参拝して下さい。