神国の民草

脱懈怠(神国の民草・代表)の参拝記録

大宮 (大宮神社)

2011年11月06日 | 〔投稿〕 神国の民草・代表 脱懈怠








『大宮』

御鎮座地
〒533- 0012 大阪市東淀川区大道南三丁目2番2号

御祭神
主祭神 安閑天皇(勾大兄広国押武金日天皇)

相殿神 天手力男命 大己貴命

末社 日天社(天照皇大神) 聖徳太子社 八幡社 楠稲荷社(宇賀御魂神) 豊光社(祖霊社)


御由緒
第27代安閑天皇を主祭神として奉斎し、明治43年10月に村社豊国神社御祭神天手力男命を、大正8年6月に村社橋多賀神社御祭神大己貴命を夫々合祀し、相殿に奉斎している。
安閑天皇は、第27代天皇として大和の国勾の金橋に都を開かれた大和朝廷の天皇であらせられる。安閑天皇は、第26代継体天皇の御長子幼少の頃より器量・知恵共に勝れ抜きん出ておられ、諸国に屯倉を作られ、御在位4年で御年70歳にして勾金橋宮で崩御された。
当社の起源は、安閑天皇がしばしばこの地に行幸あそばされ、即位2年の秋には勅して牛を放牧せしめられ、土地の発展を計らしめ給うた後、その御徳を慕って祭祀奉ったのであるが、その創立は定かではない。この地は、聖徳太子の伝承が多く、主祭神御神体の御木像は聖徳太子の直作と言われている。また、聖徳太子はこの地に四天王寺を建立せんとし給いしが、洪水が多く結局今の天王寺に建立されたが、一旦この地に定められし故から御年42歳の時に自ら自画像を描き、本殿に留め給いしを今に伝えて奉祀している。また、その旧跡であることから、大阪市に編入される大正14年まで西成郡天王寺庄と称し、太子の別称豊恥耳皇子から豊里町と名付けられ、太子縁の彩家跡の地名もこの時まで残っていた。現在の竹間の南西、堤防の下辺りといわれている。
社殿はもともと、改修前の旧淀川北岸の堤に面しており、樹齢千年に余る楠の大樹数本、杉松の大樹数本、二丁余の竹藪と共に千古を語る鬱蒼とした森厳なる境内であった。また、江戸末期に京都東本願寺の棟木を献上したと伝わっている。当時淀川を上る船は、この森を目標にして西風を帆いっぱいにはらませ逆航し、当宮の正面に到って帆を一旦おろし、舵を北に切って帆を逆に巻き揚げ北進し、辻堂の浜にかかって、舵を東に帆を元に戻して、江口・鳥飼へと東進し、川を上ってもので、江戸時代の30石船もこの杜が燈台の役割を果たし、大宮大明神・大宮大権現と親しみ崇められていた。
明治33年5月、淀川改修工事施工にあたり境内は新淀川の河川敷となったため、老樹・竹藪を伐採して現在地に遷座して奉った。同時に、氏地の中央に新淀川が掘鑿され、本流の曲がりは緩やかになり川幅も広くなって、逆巻の難所も洪水のおそれもなくなったが、豊饒の耕地は河川敷となって埋没し氏地の大半は川底に沈んで、氏子の人々は北岸と南岸に別れ住み、氏地は真っ二つに分断された。従って、大正14年大阪市に編入された際、南岸となった地域も北岸と同じ東淀川区であったが、昭和17年南岸は旭区となり、町名区画は旧来にまま橋寺町・豊里町・豊里三番町と変わらなかった。だが、昭和46年、旭区の町名区画が変更され太子橋・大宮・中宮・生江の北部が連なることとなり、氏地の境は不鮮明になった。その前年の昭和45年には、平田の渡し舟に替わって近代的な豊里大橋が完成し、南北の往来はもとより大阪内環状線の大動脈が当宮正面の鳥居前を走っている。

感想等
御由緒の記述通り、交通量のとても多い国道沿いの大橋の手前に御鎮座されている。恥ずかしながら私自身その国道は何度も通過していたが、当宮に気付かなかった。かつては「大宮神社」と称していた時期があったようである。聖徳太子に御縁がありその歴史は極めて古く、境内は小規模ながら御神威を感じることができる。これからは意識的に参拝をさせて頂きたい。