ほんとに嫌な空気だ。和美は俺の顔を覗きこむようにジッと睨んでいる。
「光太郎さん、あなたのせいで見てよ、これ。」
そう言って和美はつむじを見せるように頭を向け、五百円くらいの大きさの円形脱毛症をワザワザ御丁寧に披露してくる。何かと嫌味な女だ…。
「すごいな、それ…。」
「何よ、その言い方は…。何でこうなったのか分からないの?」
俺は目線を逸らし、天井の片隅を意味も無く見つめる。
「そんなの分かる訳ないだろ。」
「こんな円形脱毛症が出来たのだって全部あなたのせいよ。最近のあなたの態度なんなのよ。これ見て何とも思わないの?」
こうなってくると女は終わりだ。俺にとって口うるさいウザイ生き物でしかなくなる。
「はぁ?態度って何がだよ。」
俺の素っ気ない話し方が癇に障ったのか、和美の顔はみるみるうちに赤くなってくる。
「ふざけないでよ。最近のあなたって以前よりも明らかに冷たくなってるじゃない。」
「仕事が忙しいんだよ、仕事が…。」
単なる男にとっての都合いい台詞がとっさに出る。
「嘘ばっかり。他に女でも出来たんでしょ?きっとそうよ。」
「おいおい…、馬鹿も休み休み言えよ。何を根拠に言ってんだ?」
時として、女の直感は凄まじく鋭い。だが表情に出すほど俺は馬鹿じゃない。
「昨日だって何度電話してもメールしても、全然返事すらくれないじゃない。」
「あのさー…、仕事中にそんな電話なり、メールなり何度もされたら誰だって迷惑に感じるだろ。おかげでミーティング中なのに散々な目に合ったよ。」
和美は唇を噛んでワナワナと体を震わせる。もうじき泣く前兆の現われでもある。
「私はあなたが心配だから…、だからそうしてるのが何で分からないの?」
「じゃー、反対に俺がおまえの仕事中に電話を何回もして同じ事してやろうか?」
「え、ほんと?」
「何おまえ、嬉しそうな顔してんの?」
「だって嬉しいじゃない。仕事中でも光太郎さんの声がいっぱい聞けるんだもん。」
こいつの頭の構造が俺にはまったく理解出来ない。いくら考えてもイライラするだけだった。もう潮時なんだろうな…。軽く息を吸い、呼吸を整える。
「和美…。」
「なーに?」
「終わりにしようよ、もう…。悪いけど俺、限界だ。」
この台詞をこいつに言うのは何度目だろうか。自分でも覚えていない。
「何で…、何でそんな言い方するの?私は光太郎さんの為に色々頑張ってるし…」
ポロっと一筋の涙がこぼれ出したと思ったら、一気に和美の顔はクシャクシャになって大粒の涙を流しだす。自分のする事は全て相手が喜んでくれているとでも、思っているのだろうか。こうなりだすと、ちゃんとした話し合いを望むのは無理だ。もう、いい加減この展開にはうんざりだった。
どのぐらい意識を失っていたのだろう。慌てて飛び起き、服についた砂を払う。ポケットをまさぐって財布があるのを確認すると、ひとまずホッとした。まったく情けねえったら、ありゃーしねえ。自分よりも年下で仕事でも後輩だった奴に殴られて、今まで公園で意識を失っていたようだ。これで半年ぐらい勤めた店を行きづらくなってしまった。もうちょっとあいつにはうまく巧みに誘えば良かった。帰ったら泉に何て言ったらいいのだろうか。無職になるのはまだいい。泉もゲーム屋の仕事を内心、快くは思っていなかったからだ。仕事場で嫌な客と揉めてクビになったとでも言っておけば済むだろう。問題なのはこの顔の腫れだ。かなり腫れたこの顔で帰ったら何て言われるだろう。色々つっ込まれて言い訳を考えるのが面倒だった。七月に入っているので外を歩いていて蒸し暑く感じる。もうすっかり夏だ。俺が歌舞伎町に来てから、早くも半年以上経つのか…。
学生の頃から喧嘩が強いともてはやされてきて、今日生まれて初めて喧嘩で負けたのだ。上には上がいるって事だ。たった一発のパンチで、のされたなんて、恥ずかしくて誰にも言えやしない。相手がいくら元レスラーだったとはいえ、もうちょっと何とかなると思っていた俺が無知過ぎたのだろう。所詮俺の強さなどこんなもんだ。
二ヶ月前から地元で彼女の泉と同棲しだした。泉が妊娠したかもしれないと言った事に対して、俺なりにちゃんと考えた。散々悩んだあげく同棲する事になった。毎日のように今後どうするか話し合い、妊娠していたらちゃんと籍も入れようと覚悟を決めようとしていた。産婦人科へ一緒に付き合うから検査しようと言ったが、怖かったのか泉は首を横に振るばかりで俺を困らせた。でもしばらくして生理が来た時はホッとしたものだ。泉は泣きながら子供を生みたかったと言っていたが、まだ二十五歳の俺たちには子供を生み育てるには少し早いような気がした。割り切ったつもりでいても幼い頃の嫌な記憶が蘇ってくるのか結婚という事に対し、かなり臆病になっている。それに俺はまだ父親になる覚悟が出来ていなかったのだろう。今の現状だとこれで良かったのだ。泉の生理が来てから安心したせいか、毎晩のように互いの体を獣のようにむさぼり合った。人間というものに対してどこか冷めた目で接していた俺も、泉だけは特別で何故か信頼でき一緒にいると安心した。こいつとずっと一緒にいるんだろうなと本能的に感じた瞬間、金をもっと稼ぎたいという貪欲な気持ちが出てくるようになった。反対にいい機会だから真面目に就職するのもいいだろうと考えたりもした。サラリーマンになった自分の姿を想像してみるが、まったく想像すらつかなかった。
俺はこの歌舞伎町という街が大好きになっていたし、普通の刺激じゃ物足りなくなってきているのも事実だ。何より金の匂いがプンプンする。この街には俺の好きになる要素が腐るほどあった。まず金を稼ぐ為にと初めて新宿に出てきたが、実際に働いてみて不思議とこの街は俺の肌に合った。この街に来て最初に出会った岩崎という上司が実はとんでもない奴だった。ホモで俺に気があったから毎日のように店の売り上げから抜いて沢山の金をくれた。入ってからたった一ヶ月で百万近くの金が手元に残ったぐらいだ。その後、岩崎はオーナーに抜きがバレて半殺しの目に合う。でもその時にかばってくれたおかげで俺は結局無傷で済んだ。二件目にいったゲーム屋は人間関係だけはとても良く、文句もなかった。それでも最初の店の感覚が抜けきれず、次第に金を欲するようになった。ちょうど泉と暮らしていく為にも、金は必要だと思い始めた時とリンクしたのだろう。時期を待ちながら我慢して働いていると、すぐに後輩も入ってきた。非常にハキハキしていて元気のいい奴だった。でもどこかしら影がある奴で、少しだけ自分とかぶる部分があったような気がした。ほっとけないところがあり、つい面倒をみていたら、自然と俺になついてくるようになった。頃合いを見てその後輩の神威に、俺と一緒に金を抜かないかと持ちかけたが、奴は根が馬鹿正直で心が綺麗過ぎた。口論になり神威と揉めて喧嘩にまで発展するが、たった一発でのされてしまった。こんな状況では、もう店に行ける訳がない。どっちにしろ明日の朝までには、また新しい職を探さなくては…。この街に来てから俺はゲーム屋しかした経験がない。他にこれといって出来る事もないので、またどこか店の募集を探すしかない。考えながら歩いていると、携帯が鳴り出す。泉からだった。
「もしもし泉ごめんよ。店が忙しくて今まで残業してたんだ。疲れちゃってこれから帰るのも面倒だし、こっちに泊まる事にするよ。泉はこれから仕事行く時間だろ?」
「うん。何だ、帰って来れないの?せっかく昼ご飯作っといたのに…。まー、仕事だったんじゃ、しょうがないよね。私もそろそろ仕事の時間だし行ってくるね。隼人、明日は帰ってこれるんでしょ?」
「ああ、もちろん。このぐらいの時間には帰ってくるよ。二日間もおまえに逢えないなんて思うと気が狂っちゃうよ。」
「何、馬鹿言ってんのよ。もう…。」
「そろそろ泉、仕事出ないと遅刻するんじゃないか?仕事頑張ってな、いってらっしゃい。」
「はーい、いってきまーす。隼人、明日はおいしいもの作って待ってるから、必ず帰ってきてよね。」
「ああ、楽しみにしてるよ。」
ほんと俺には出来過ぎた女だ…。携帯を切り、路上駐車してある車のミラーを覗き込む。まずこの顔の腫れを何とかしないと…。あいつにはいつも笑顔でいてもらいたいから、出来る限り心配を掛けたくない。とりあえず散々な目に合ってとても疲れを感じている。近くのサウナに入って休む事にしよう。
別れたくない…、和美の台詞はその一点張りだった。俺は煙草に火を点け、外の景色を見ながらゆっくりと煙を吐き出した。
「私の話、ちゃんと聞いてるの?」
吐き出した灰色の煙が空間に溶け込み見えなくなるまで、俺は目で流れを追った。
「ねぇ、光太郎さん。ちゃんと聞いてるのって言ってるの。」
「何だよ、うるせーなー。」
「だからー、私は別れるのは嫌だって…。」
「もう、その台詞は聞き飽きたよ…。頼むから少しは黙ってろよ。」
どこにそんなに涙を溜めているのかと、聞きたいぐらい和美は大粒の涙を更に流しながら大声で泣き出す。こいつと付き合いはじめて三ヶ月という月日が経とうとしていた。
「いいか、よく聞いてくれ。」
俺は煙草を灰皿に押し当てて消してから、和美の方へ振り向く。
「お互いが楽しかったのは出逢って最初の一ヶ月だけ…」
「そんな事ない。」
「現実の話を言ってるまでだ。ここ最近逢えば必ず喧嘩ばっかりだろ?」
「違う…、私は今でも光太郎さんと一緒にいて楽しいよ。」
「あのね、そんな事どうでもいいからさー…。前からいつも言ってることだけど、俺が話してる途中で突っ込んでくるなよ。」
「ご、ごめんなさい…。」
「いいかい?こういう展開で何度今まで揉めた?もう、うんざりなんだよ。逢う度に喧嘩ばかりだし、意見は噛み合わないし…。」
「だからごめんなさいって…。」
「俺はさっきから一言も謝れなんて言ってない。これ以上は無理だから別れようって言ってるだけなんだよ。いい加減分かってくれよ。」
「私は絶対に嫌…。別れたくない。」
「だって話にならないだろ?会話が成り立ってないじゃん。」
「成り立つように私一生懸命努力するから。」
「あのさー…」
「だから別れるなんて言わないで。」
もういいや、まるで話にならない。俺は無言で立ち上がりクローゼットの中からジャケットを取り出すと、和美が背後から急に抱きついてくる。
「行っちゃ嫌…。行かないで…、光太郎さん。」
「離れろよ。しつこいぞ。」
「言い直してくれるまで離れない。」
「おまえ、うざいよ。」
和美をベッドに突き飛ばす。ドアの所に置いてある部屋のキーカードを持って、和美に一声掛けておく事にした。
「もうチェックアウトの時間だから、俺が受付は済ませておく。早めに部屋出ろよ。」
「光太郎さん、ちょっと待ってよ。」
俺は構わずにドアを開けて廊下に出る。さっきからズボンのポケットに入れた携帯がブルブル鳴っていたので、取り出し着信履歴を見てみる。
「千絵に、康子に、ひかるか…。」
うざい女からしか連絡がかかってこない。再び携帯をポケットに戻してから溜息をつく。エレベータの所まで来ると、和美が凄い勢いで追いかけてきた。
「私、光太郎さん無しじゃ生きていけない…。別れるくらいなら死んだ方がマシ…。」
こんな言葉で俺の心に届くとでも思ってるのだろうか。簡単に死ねると言う奴は信用出来ない。人間の命の重さをまるで分かっていない証拠だ。
「じゃあ、勝手に死んだら?」
タイミングよくエレベータのドアが開く。俺はそれ以上何も言わずにエレベータに乗り込む。和美は無言のまま、呆然とその場に立ち尽くしていた。こいつからこれ以上、金を引っ張るのは他の女に影響する。今迄で三百万は引っ張れた。そろそろいい潮時だろう。エレベータに乗っている間、頭の中に過去の記憶が蘇り出す。
ジャグジーに入り、全身に泡が当たるように体を動かす。何ともいえない気持ち良さだ。さっきまでの疲労感が無くなっていく。一時間ほど浸かっていたせいか、指先がふやけている。ジャグジーから出て、鏡の前に座ると湯煙で雲って顔がよく見えない。桶に水を組んで鏡に掛けると、見事に腫れ上がった俺の顔が写っていた。たった一発のパンチでこうまで腫れるものなのか…。改めて神威の強さが分かったような気がする。俺みたいに中途半端に無駄に生きてきた時間に対し、あいつは純粋に強さを求め真面目に鍛えてきたのだ。自分が情けなかった。殴られたからじゃない…、多分俺は神威の目つきに魅了されていたのだろう。それは強さとは何かと分かっている奴の目つきだったからだ。学生時代は強さに憧れた時期もあった。いや、きっと今でも本能的に憧れているのだろう。幼い頃、みんなテレビのヒーローが好きだったはずだ。男にとって何も分からない頃でも本能的に興味を惹かれるのが、強さというシンプルなものであるからだ。男に生まれて一度は強さに惹かれるはずだ。神威自身はプロレス界から弾かれたと言っていたが、それであの強さだ。一体、プロの格闘家というのは、どのくらい化け物なんだろう。天井が想像出来なかった。
シャワーの温度を低くして、腫れた部分に冷水を掛ける。明日までにこの腫れを少しでも何とかしないと…。我慢しながらしばらく水を顔に掛けていると、幾分腫れが引いたような感じがする。もう一度ジャグジーに入って体を温め、腹も減っているので風呂から出て飯を食べる事にした。
「注文は何にする?」
サウナの建物内にある食堂に入ると、いきなりおばさんがオーダーを聞いてくる。まだメニューすら見てないのに、まったくせっかちなおばさんだ。
「ハンバーグってありますか?」
「あるよ、当店特製ハンバーグ。うちの大人気メニューだよ、それにするかい?」
「あー…、じゃあ、それでお願いします。」
特製ハンバーグ…、とても素晴らしい響きだ。ハンバーグマニアの俺にとって、堪らない響きだった。地元の狭山にある行きつけの店、アラチョンのハンバーグよりも、ひょっとしたらおいしいかもしれない。期待と想像で俺の胸は破裂しそうだった。煙草を吸いながら、ハンバーグが来るのをワクワクしながら待った。一本の煙草も吸い終わらない内に、キッチンからさっきのおばさんが、片手に皿を持って歩いてくる。おいおい、いくらなんでもちょっと早過ぎないか…。
「あい、お待ち。」
皿に盛り付けられたハンバーグを見て、一瞬泣きそうになった。よくスーパーとかで売っている真空パックのお湯で温めればOKというハンバーグを皿に乗せただけだったからだ。メニューの値段を見ると千円になっている。よくもまあ、こんな代物でそんな代金を取れたものだ。ある意味感心してしまう。ひと口食べてみた。当然というか、見た目と一緒で味も予想した通り酷かった。
美千代はいつも俺と逢う度、泣いていた。泣き顔しか印象に残ってなかった。俺もまだ十八歳になったばかりだったので、精神的にもガキ過ぎたのかもしれない。あれから一年。今だったらあいつを救ってやれたんじゃないか…。あの時の出来事がいまだに心の中にポッカリと大きな穴を開けて俺を苦しめる。真夏でも常に冷たい感覚が体を覆っていた。それはこの穴のせいなのは分かっていたが、俺にはどうする事も出来なかった。目をつぶると美千代がいつも泣きながら俺を見ている。
「あのー…、何階でしょうか?」
気付くとエレベータは下の階に着いていた。ボーっとしていたので全然気付かなかった。
「すいません、降ります、降ります。」
人を掻き分けて慌ててエレベータの外に出る。チェックアウトを済ませホテルから出ると、宛てもなく歌舞伎町の街を歩き始めた。時計を見ると十一時十分前。今日明日と何の予定もなくなり、暇を持て余しそうだ。携帯を取り出し履歴を見る。
「うーん、ひかるでいいかな…。」
滅多に俺から連絡する事はないので、電話に出たひかりの声はとても陽気に弾んでいた。
「こ、光ちゃん、急に電話なんか掛けてどうしたの?」
「俺が電話しちゃいけないのか?」
「ううん…、急に掛かってビックリしただけ。」
「悪かったな、切るよ。」
「待ってよ、違うよー。嬉しいに決まってるでしょ。どうしたのかなと思っただけ。」
男と女は惚れた方の負けだ。負けた方が主導権を握られる。ただ、いつもムチばかりだけでは相手も離れていくので、たまにはアメも必要だ。
「いやー、仕事で忙しくておまえと二週間くらい会ってなかったろ?」
「え、これから会えるの?」
「今、家か?」
「うん、そう。光ちゃん来るんじゃ、仕事さぼっちゃおーかな。」
「とりあえず、そっちに今から行くよ。」
「嬉しいー。」
つくづく単純な女だと思いながら電話を切る。靖国通りに出てタクシーを拾おうとすると、若い女に声を掛けられる。二十歳そこそこぐらいの女に逆ナンされるなんて、俺もまだまだ捨てたもんじゃないな。
「ねぇ、お兄さん、暇?遊ぼーよー。」
女のよく顔を見てみると、綺麗な二重まぶたでかなり可愛い顔立ちをしている。昔、いや美千代の件が無ければ俺は絶対誘いに乗っていただろう。それほど魅力的な女だった。しかしこれから俺は、ひかるの所へ行かなければならない。
「悪いな、暇じゃない。他を当たってくれ。」
「何か言い方も声も顔も格好いいね。用事なんてすっぽかして私と遊ぼーよー。」
女の足のつま先から天辺まで丹念に眺める。金の掛かったブランドの服やバッグ。繊細そうな指先には高そうな指輪が、薬指を除く各四本指に全部つけられていた。
「随分と派手な指輪のつけ方だな。何で両手の薬指だけしてないの?」
聞いて欲しいところをよくぞ聞いてくれましたと言わんばかりの笑みで、女は俺を覗き込むように近付いてくる。
「私は独身なんだよってアピールも兼ねてそうしてるの。あとねー、この八個の指輪、甲乙つけがたいぐらいみんな好きなんだ。だから欲張って全部つける事にしてるの。」
「ふーん…、よく分からないけど、まーいいんじゃない。」
変な魅力を持った女だ。きっと男供からかなりの金額を貢いでもらってるのだろう。うまくこいつを俺に惚れさせれば、いい金が入るかもしれない…。
「お腹、減ってる?私ペコペコなのー。これから一緒にランチ食べに行こうよー。」
「駄目駄目、今日はこれから大事な約束があるんだって。今度ならいいよ。」
「嘘ばっかり、どうせ違う女と逢うんでしょ?」
俺の今までの経験から言うと、女は自分から気に入った男に対してだけは計算高く、自分のものにしようと努力する生き物だ。基本的に計算高く、独占欲があるもんだ。俺はそこを逆手にとるだけだ。
「違うよ、仕事の件だ。変な勘ぐり方するなよ。」
「ふーん…、まーそういう事にしておくわ。」
疑わしそうな目つきで俺を見ながら、女はバッグの中をゴソゴソと探り出す。
「はい、これ私の名刺。今度暇あったら来てよ。」
小さなピンク色の名刺には、「エンジェルビースト 美紀」と書いてあった。歌舞伎町で有名なおさわりパブの店だ。
「こんなとこで働いてんだ?」
「酷い言い方だなー…、世の中この不況なんだからさー、私みたいに若くて可愛いだけしか取り柄のない奴は、体張って稼ぐしかないんだよー。」
ある意味、現代の社会では正論かもしれないが、その分人間としての大切な何かを犠牲にしているように思う。もしくはただの言い訳だ。世間的に見ればこいつはただの馬鹿女なのかもしれない。しかし体を張ってるのは自分自身だし誰にも文句は言えない。こいつらの親と同じぐらいの中年オヤジが、高い金を払って自分の欲望と引き換えに、こいつらを稼がせているのだから…。姿形は綺麗で可愛くても、こいつらの中身はドロドロに腐敗しているのだろう。苦労知らずの金だけ持ってる馬鹿な若い女。いくら稼いでも湯水のように金を使いまくる。いつまでも自分の美が永遠に続くと思ってるのだろう。
「ちょっとー、どうしたの?黙っちゃって…。」
「店の番号じゃなくて、おまえの携帯も教えとけよ。」
「うん、ちょっとその名刺貸して…。はい、これでいいでしょ?」
美紀は名刺の裏側に電話番号とメールアドレスを書いて、再度俺に渡してくる。
「お兄さんのお名前は?」
「光太郎っていうんだ。携帯とかは後でメールで送っとくよ。それでいいだろ?」
「うん。絶対に送ってよね。お兄さん…、いや光太郎ってこれから呼ぶね。光太郎って、かなり私のタイプなんだもん。」
俺は最高の笑みの表情を作って女に向ける。自分でこの笑顔がどのくらいの効果があるかちゃんと理解している。案の定、美紀は俺の顔に見とれていた。この手のタイプの女は仕事柄、常に癒しを求めている。俺はそこをうまくついてやればいい。そろそろひかりの所へ行かないと…。俺はタクシーを捕まえ、中野に向かった。
横にいた奴のイビキがうるさくて、よく眠れなかった。歯ぎしりする奴もいれば、寝ながら屁をこいている奴もいる。俺にとってサウナの雑魚寝は苦痛だった。
「隼人は熟睡してる時、よくイビキ掻いてるんだよ。もう私は慣れちゃったけどね。」
泉と同棲するようになって、そう言われた事がある。自分じゃ全然気付かなかったが、こういう環境にいると改めていずみは偉いというか凄いと思う。ここにいても仕方ないので、もう一度風呂に入りに行こう。立ち上がって横にいる奴の寝顔を見ると、よだれを垂らしながら大イビキを掻いていた。面を見ているとムカムカして顔面を蹴飛ばしたくなってくる。でもしょうがない、これがサウナというものだ。それよりも明日から仕事をどうするかだ。明日…、帰るまでに決めないとさすがにまずい。色々思案を巡らせるが周りのイビキや歯ぎしりが邪魔して、余計にイライラするだけだった。
風呂場に行き、大好きなジャグジーに入って気分転換する。しばらくの間、体にぶつかる泡の感触を楽しむ。俺ってこんなに風呂が好きだったっけ…。多分泉の一日に何度も風呂に入る習慣が、一緒に暮らしている内に俺にも伝染したのだろう。ジャグジーを出てサウナ室に入り腰掛けると、隣りに座っていたオヤジにいきなり声を掛けられる。
「おやー、おまえ確かアリーナにいた…。」
誰だろう…、どこかで見た記憶があるような無いような…。でも俺があの店で働いているのを知っているぐらいだから客だろうか。
「こんなとこで何してるだよ。」
「あっ、北方さんですか?」
俺が今日の朝方まで働いていたポーカーゲームの店、アリーナの常連客だった。いつもメガネを掛けていたので、外した状態だと気付かなかった。
「ああ、今日はこっちに泊まったのか?」
「ええ。」
「そうか、じゃー今日辺りアリーナに遊びに行くとするか。」
「いや、それがですね…。俺、今日であの店…、辞めるつもりなんですよ。」
普通なら驚くはずなのに、北方の表情がにこやかに変わる。
「次の仕事、決まってるのか?」
「いや、それがまだなんですけど…。」
「良かったら、うちに来るか?ゲーム屋もやってるし、ビデオ屋もやってるぞ。他にも色々やってるけどな。」
「例えばどのような仕事なんですか?」
「海外だと、観光客相手のガイド会社。それに金融業、もう辞めたけど、北海道でカジノとかだよ。アリーナでおまえの働きぶりは見ていたからな。もし、良かったら来いよ。」
明日、泉の所へ帰るまでに何とかしなきゃいけない状況だったので、北方からの誘いは俺にとってまさに渡りに船だった。一体、今日はついてるのか、ついていないのかよく訳が分からない一日だ。どっちにしてもこの際、流れに沿って行くしか道はない。
「是非お願いします。でも何関係の仕事、自分はするんですか?歌舞伎町に来て、まだゲーム屋しかした事ないですよ。」
「うーん、今こっちで空いてるのがゲーム屋とビデオ屋かな。まー、おまえ器用そうだし色々とやってもらいたいな。なーに問題無い。簡単な仕事だよ。」
「自分はこれからどうすればいいですか?」
「そーだなー…。明日、連絡するよ。すぐこっちに出て来れるか?」
「問題ないです。」
ゲーム屋の客としては多少せこく少々うるさい客だったが、案外と面倒見よくいい人なのかもしれない。これで俺の心の中は一気に明るくなった。今日の所はこれからいずみの所へ帰って、状況をある程度説明する事にしよう。
「おいおい、ボーっとしてどうしただよ?」
「い、いえ…。何でもないですよ。」
泉との事を考えている内に下を向いてボーっとしてたみたいだ。慌てて頭を起こしながら北方の方を見る。見るつもりなどまったくなかったが、頭を起こす際に北方の息子が偶然目に入る。とてもじゃないが、もし俺がこの大きさだったら自殺するかもしれないと思うほど、北方のはとてもちっちゃかった。
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