少ないながらも患者が徐々にやってくるようになった。それでも正直物足りなさを感じる。
考えてみればインターネット上のブログで整体開業と告知し、あとは駅前とはいえ店頭に自分でデザインしたものを貼っているだけ。まともな宣伝を何もしていないのだ。
何かを考えていると、弟の龍也が来てあれこれと口うるさい事を言い出してくる。やろうと思っているところへ似たような事を言われるのは、非常にやる気を削がれるものだ。
「自分の店なんだから、俺の好きにするよ」
「それは分かるけど、兄貴は自分のしたいようにじゃなく商売なんだから、もっと新聞広告を打つとかさ。それにもうちょっと人の意見聞いたほうがいいよ」
良かれと思って言うのは分かる。しかし時としてそれが邪魔に感じる時だってあるのだ。
「だからいいって!俺の店なんだ。好きなようにやるから」
「家族だから心配して本当の事を言っているんだぜ?」
一見言っている事は正論だが、龍也の口癖でもあった。「家族だから」という言葉で自分の主張を通し、俺を思うように操りたいようにしか感じない。それにオープン間もないのだ。自分の自由にしたっていい。あまりにもしつこかったので、話の途中怒鳴りつけ、会話を終わりにした。
弟が帰るとイライラしながら、患者が来るまでの時間を潰す。精神が安定していない時に小説は書けない。文章をまとめるという部分で、どうしても別の事が頭をよぎりうまく文字に魂を込められないのである。
来年の一月で小説を書き始めて丸四年。結果が出る訳でもないのに、俺は何故小説をこうしてずっと書いているのだろうか?
処女作『川越デクレッシェンド』は歌舞伎町時代、急に書き始めた小説だった。どうしても人間的に許せないオーナーの元で当時働いていた。激しい怒りを感じていた俺は、従業員に「あの馬鹿のやっている事をそのまま小説にしたら面白くない?」と聞く。従業員は「神威さんならできますよ」と何の確信もない事を澄ました顔で言っていた。
もう一つの理由。ピアノを捧げたいと弾くきっかけになった女性。その子にただ格好をつけたかったのだ。書く前に『俺、小説をこれから書いてみる』と短いメールを送った。しかし当然返事はこなかった。
しばらく考える。腐ったオーナーのありのままを書いたとして、それが世に出たとしよう。リアルに書いたはずなのに、読者は漫画か映画の世界だと思い込む恐れがある。何故なら歌舞伎町という街に対し、世間一般は怖い街程度の知識しかないからだ。それでは書く意味合いが何もない。
始めは歌舞伎町の入門編的な作品を書き、それが世に受けるとしたらどうだろう。ほんの序の口の部分だけで作品を成り立てさせる。それでも読者が面白いと感じてくれるなら、そのあとの続編はすべて受け入れられるんじゃないか?
歌舞伎町の一角にある事務所の中で、俺はワードを起動し小説というものを何の知識もなく初めて書き始めた。主人公には俺の幼少時代の虐待部分をプレゼントしよう。
執筆期間十八日間。歌舞伎町にある事務所で書き、地元の行きつけのジャズバーでひたすら書き続けた。間で三日ほど徹夜もした。こうして『川越デクレッシェンド』は完成したのだ。
当時ジャズバーのマスターの奥さんに罵倒された事がある。こいつは客で通う俺に対し、何か勘違いというか思い違いをしているようだ。
「あんた、いきなり何、小説なんて書いているの?」
まず客に向かって『あんた』という言い方、大きな間違いである。そして俺よりも一つ年下なので、タメ口を聞かれる筋合いもない。
過去ちょっとした経緯があった。俺が三十歳になってピアノを弾き始めた頃、このジャズバーでよくピアノを弾かせてもらった事がある。
いきなりピアノを始めた俺に対し、常連客は驚きと共に「何でリングの上にあがらないんだ?」と文句も言っていた。それはここの客だけでない。多くの知り合いに言われた事だった。闘う事よりも一人の女の為に格好をつけたかったのだ。
この時もマスターの奥さんは、対抗意識を妙に燃やし、「私も常連客のピアニストにピアノを習う事にしたの。だからあんたより私のほうが先に曲を弾けるようにするから」と酒を飲んでいる最中に言ってきた。
俺は二曲だけだが、目をつぶっても弾けるまでのレベルになり、二年半の時間を費やした。毎日同じ曲を七時間弾いた事もある。そして市民会館で発表会をやり、ピアノを封印した。それで食っていけるレベルでないのは自覚している。それに捧げるべき彼女が会場へ来なかったのが、一番の原因だった。
逆に奥さんは曲が完成せず、「私は歌を唄うほうが合っているから」と、ピアノを途中で辞めていた。俺から見れば、逃げたようにしか見えなかった。
このような経緯があったので、俺は怒鳴りつける。
「うるせえ!俺がどれだけ魂込めて書いているのか分からねえ奴が、簡単に口を挟むんじゃねえ。偉そうな事を抜かすなら、途中だけど、読ませてやるよ。読んでから抜かしてみろ」
「私は完成したちゃんと本になったものしか読まないの」
「だったら偉そうに言うな」
「あんたの集中力は認めるよ。ピアノを弾いた時もね。でもね、一つぐらい生涯掛けてこれだってものを持ってみなさいよ?」
「何も知らずに物事を抜かすな!」
こんなやり取りがあった。リラックスして飲みに行くはずの酒が、酷くまずくも感じた。
つい俺は過去の嫌な事を思い出してしまうところがある。そういった陰なものが、憎悪という形で醜く心の奥底に蓄積されていく。
俺にとって小説は、それを浄化する為に必要な作業なのかもしれない。
暇だからこんなネガティブな事を思いつくのだ。患者が来たら、笑顔で迎えないと駄目だろう。このままじゃ経営など成り立ちはしないのだ。
窓を開け、室内の空気を入れ替える。軽く伸びをして椅子へ戻ると、弟の龍也が「兄貴、これ使ってよ」と整体に入ってきた。縦六十センチ横四十センチぐらいの黒い器械を腕に抱えながら持っている。
「ん、何それ?」
「空気清浄機。結構高かったんだぜ。俺、あまり金ないからさ。これ兄貴にあげるよ。整体なんだから、空気だって良くなきゃいけないだろ」
「……」
先ほど弟に対して恨みつらみを思っていた自分が恥ずかしくなった。
「早く設置しなよ」
「あ、ああ…。龍也、ありがとうな」
今度ばかりは俺の負けだ。でも心地が良かった。
患者が来なければ、小説を書けばいい。そんな単純な理由で始めた神威整体。
実際に患者が来ないと、イライラで小説を執筆するどころじゃない。もっと経営に関して色々と考える必要があった。ここは新宿歌舞伎町ではないのだ。金を持って使いに来る街ではない。頭を切り替えなければいけなかった。
平均で患者数が一・五人。二日で三人ぐらいくればいいぐらいだった。駅前で高い家賃を払っているというのに、これでは駄目だ。知り合いはよく顔を出してくれるが、それは最初の内だけである。
ジャズバーのマスターが来て、俺の大好きなウイスキーのグレンリベット十二年を持ってきた。「お店抜け出して来てるのでゆっくりできませんが、これ、おめでとうございます」と言い、酒だけ渡して帰ってしまう。気持ちが嬉しかった。
暇なのでウイスキーを開け、ラッパ飲みしていると、入口が開く。
「すみません、肩が痛くて、あっ!」
「あっ!」
中年女性の患者はまともに俺が酒をラッパ飲みしているところを見て、固まっていた。さすがにまずい。俺は酒をテーブルの上に置き、「どこか具合悪いところありますか?」と優しく聞きながら立ち上がったが、その女性はすごい勢いで逃げてしまう。まあしょうがないか……。
あの女性、うちに二度と来る事ないだろうな。
まだ一週間なのに、ご祝儀だけで二十万円を越していた。ありがたい話だ。これに甘える訳にもいかない。駅前なので様々な営業マンだけは来る。
駅のホームにある大型看板の営業が来た。暇だと言うのもあって、話だけは聞く事にする。ああいったところで広告を打てる商売なんて、塾や大学の教育関係、そして大手企業や病院などぐらいだ。こんな個人でやっている商売が打てるような金額ではないのだ。しかし物書きの端くれとして、向学の為に金額ぐらい知っておくのは悪くない。
「ぶっちゃけあれ一枚でいくらぐらいするの?」
「ええ、以前は高かったんですが、こんな時代ですので当社もかなり安くしたんですよ」
営業マンはバックを開け、値段表を渡してきた。
『現在三割引きセール中。一ヶ月八十万円が五十六万』
目玉が飛び出そうなぐらいビックリした。ホームにある大きな板に広告を一枚打つだけで、こんなにするのか……。
歌舞伎町のぼったくりが非常に可愛く見えた。とんでもない金額である。
「どうです、先生?」
どうやってうちの商売で、こんな金額を出せと言うのだろうか?
「ふ~ん、駅のホームにうちの看板が出て、五十万ちょいでいいのか……」
ワザと言ってみた。
「いえ、最初に看板のデザイン料も掛かるので。二十万ちょっとでできますが」
「あのさ、どうやって五十万ちょいの金を捻出するのか教えてくれよ」
駄目だ。こんな奴と話していると、イライラする。
「先生、電車で通うみんなが先生の整体を見るんですよ?」
「だからね。うち、ベッド二つね。でも俺の体は一つ。せいぜい一日で多くても七名診れば、一杯一杯な訳ね。どうやって五十万もそれで捻出するのよ?」
今、勝手にキャンペーン中とやってしまったから、七名×三千円で一日二万一千円だとする。休まないでそれぐらい来たとして、三十日で六十三万円。いや、言い方を代えれば、今のやり方だと必死に休まずやって、六十三万なのだ。しかも開業時間から終わりまで、まったく患者が途切れない状態でである。
五十万ちょいの駅看板なんかの事を考えるより、自分の店の心配をしないと駄目だ……。
「悪いけど、帰ってくれ。今、仕事中なんだ」
「え、先生。急に冷たくしないで下さいよ」
「うるさい。帰れ。こっちはそれどころじゃないんだ」
一番良くて六十三万円。しかし現状を考えると、一日で三千円から六千円程度の売上しかないのだ。休まずやっても、よくて九万円から十八万円……。
家賃で十三万六千五百円。高周波のリース代で三万四千五百円。電気代や水道代なども入れたら、首を括るようじゃないか。これはヤバイ。ヤバ過ぎる。
一週間経つが、飲み屋の女どもは誰一人来やしない。あいつらは本当に口先だけだ。
「先生、広告ですが……」
「うるさい。あっち行け!」
俺は営業マンを追っ払った。
そうこうしている内に年末がやってくる。
丸々一ヶ月開けた訳ではない。途中で壁紙の張替えや、カーペットを引いたり、そして便器を交換したりで四日間も休まなければいけなかった。スタートも四日からである。
売上は八万四千円……。
家賃にもならない。まあ始めはどんな商売だって暇だ。焦っちゃいけない。
暇というのは寂しいもので、嫌な事をつい考えてしまう。するとイライラは増す。悪循環である。忙しければ疲れたという嬉しい悲鳴だけなのだ。
こういう時こそ楽しい事を考えなければ……。
ふとピアノを弾くきっかけになった女、秋奈を思い出す。寂しげな横顔。真っ直ぐな瞳。肩まで伸びた奇麗な髪。彼女のすべてが好きだった。知り合った頃は歌舞伎町時代で、俺は短気だった。ちょっとした事で怒り、それがきっかけで彼女は俺から離れていった。
この白衣姿の俺を見たら、どう思うだろう?
いや、本川越駅前で神威整体をやったって伝えたら、何かしらの返事があるだろうか?
もう五年間会っていなかった。歌舞伎町時代、一度だけ会えるチャンスはあった。俺が初めて書いた『川越デクレッシェンド』。自分で何度も印刷し、本の形にしてから、秋奈へメールを打ち、本を送った。
また返事など来ないだろう。そう思っていた。
しかしちゃんと読んでくれたのか、数日後秋奈からメールが届いたのだ。俺は嬉しくて何度もそのメールを読み出した。内容は向こうから今度会おうかというものだった。会う日にちと時間を決め、俺はずっと楽しみにしていた。
秋奈と会う前日、都知事の浄化作戦が始まる。八月中は十五年間、警察が動く事がなかった。しかし十五年のジンクスを破り、俺の統括する店の一つが捕まった。どこの警察署が来たのか。弁護士の手配と色々動き、その日はほとんど徹夜だった。秋奈との待ち合わせ時間まで少し合間があったので、俺は仮眠を取った。肉体も精神も疲れきっていた俺は、あれだけ待ち焦がれた秋奈との再会を寝てすっぽかす形になってしまった。因果なものである。
それ以来、彼女からの連絡はメール一つない。
それえも駄目元で、秋奈へメールを送ってみる。
ジャズバーの常連客である木崎修也が顔を出しに来た。バイクのツーリングが趣味の彼は、長距離を運転している時に右肩の不調を感じたらしい。俺のところへこうして来てくれたのだ。絶対に彼の体を何とかしよう。そんな気持ちで施術に臨む。
荒療治とも呼ばれる俺の施術は、マッサージという概念から見ると、かなり掛け離れている。よく気持ち良く揉んでほしいと希望する患者もいるが、それならマッサージに行けばいい。俺は痛みを訴える患者を治したくて、この仕事をしているのだ。
木崎は声をあげながらも堪え、肩の痛みがなくなる。
「いや~、すごい痛かったけど、我慢した甲斐がありましたよ。一発で良くなりました」
「また時間見てどうのこうのって言う整体が多いらしいけど、この商売保険が利かず金額だって取るんだから、ちゃんと治してやれよって思いますよ」
「そうですね。素晴らしい考えだ。あ、それで神威さん。前に一緒に飲んだ時、彼女を作るというか、そっち方面の話あったじゃないですか」
「はいはい、それがどうかしました?」
彼は携帯電話を取り出し、メールを見せてきた。
「あまりにも出会いがないから、有料の出会い系サイトに入っているんですけど」
「え、でもあれってサクラばかりじゃないの?」
「いえ、これは本物もいるんですよ。有料なので」
「へえ、それは知らなかった」
「でも会えるまであとちょっとって感じなんですけど、いまいち煮え切らないんですよね。ちょっと私のメールのやり取り見てもらえますか?」
木崎は躊躇いもなく携帯電話を渡してきた。やり取りの内容を見ると、ほとんど日常的な会話のみで、サクラがポイントを得る為、引き伸ばしているようにも思える。
「これってやっぱりサクラなんじゃ?」
「いえ、この子の電話番号も聞き、実際に電話で話しているんですよ」
「で、実際にこの子と会ってみたいと?」
「ええ」
メールの内容を見ると、どうやらダイエットについて敏感なようだ。常に体重を気にしているみたいである。俺は「じゃあ俺がメールを打つので、それ見て納得するようなら送信してもらえます?」と聞き、彼の了承を得た。
《知り合いの先生でさ、高周波という高い器械を入れ、リバウンドのしないダイエットというメニューも取り入れたんだって。で、今試作中だから木崎君、誰か女の子いない?って聞いてくるから、今度一緒に顔を出してみない?》
このようなメールを打った。彼は納得し、送信する。すると、五分もしないで向こうから返事が届く。興味津々なようで俺の打ったメールに食いついてきた訳だ。
「どうすればいいですか?」
「会う為の都合いい日にちと時間を聞くだけです。余計な事は書かなくていいです」
「じゃあ、会う事が決まったら、ここへ連れてくれば?」
「いえ、ここには来なくていいですよ」
「え、何でです?」
「だって俺に紹介するのが目的じゃないですよね?この子と遊びたいっていうのが第一じゃないですか。心理的にこういうサイトに登録しているという事はですね。寂しいというものもあるし、誰か相手を探しているという目的もあります。必勝法教えましょうか?」
「必勝法?ええ、ぜひ」
「デートでゲームセンターの前を通り掛かったら、プリクラを一緒に撮るんです」
「プリクラですか?」
「はい、あの中はある意味密室ですよね?しかも必然的に肩に手を回したり、抱き締めたりできる状況になりやすい場所です」
「それはそうですね」
「その時、至近距離に相手がいるので、唇を奪って下さい」
「え、だってそんな事したら……」
「キスした時、相手が拒み怒ったら、その子とは時間を掛けても抱けません。もし相手がキスを受け入れてきたら、強く押せばその日の内にホテルへ行けます」
「はあ……」
「騙されたと思ってやってみて下さい」
数日後、木崎から電話があり、「神威さん、彼女と会えてその日の内にやれちゃいました」と電話があった。「神威マジックは素晴らしいです」と絶賛して喜んでいた。
飛込みで中年女性患者が来た。ダンスをやっている時に右足にズンとした痛みが走り、どこへ行っても治らないと言う。一時的に良くなっても、すぐ痛みが戻ってくるようだ。
「とりあえずベッドに寝てもらえますか?診てみます」
「お願いします」
「痛いのはどの辺ですか?」
「ここからここですね」
右足膝脇外側から骨盤までに走る痛み。筋でも痛めたのかな。各部分を押すと、もの凄く痛がる患者。結構重症だな。
「ジャズとモダンダンスやっているんですけど、つま先でしばらく立つ状態が多いんです。でも、痛みでさすがに立っていられなくて。コーチの先生は、そんなの気合いでやれと無理にやるようなので、最近歩くのも辛いんです」
好きな事だから苦痛にも耐えられたが、そのせいで余計に悪化させている訳だ。
「膝横の部分と骨盤に高周波を当てますから。で、電気が流れますが、自分でその痛む部分は分かりますよね?そこに電気が当たるか言って下さい。微調整していきますから」
高周波は吸引によって患者の患部に吸い付く。治療モードに合わせ、つまみを徐々にあげていく。メモリーが三のところで患者は限界だった。マックスで十二。
「どうです?痛む箇所に当たっていますか?」
「はい、当たっています」
俺はその状態から、経絡を押す。三点療法の利点で二点に流れる電気の流れに指を使って押す事で、違う箇所まで電気が届き治療効果を広げられる。その代わり患者が感じる痛みは半端じゃないだろう。できるだけ痛がらせたくないが、状態が悪ければある程度の痛みは我慢してもらうしかない。
押さえる支点を変える事で、悪い部分を徐々に治していく。良くなった部分は血流が良くなる。
俺は患者の痛む箇所をいつも頭の中でイメージしていた。真っ白な中に巣くうもの。今回はささくれ立った黒い太い線をイメージする。その根っこに高周波を当て、俺が指で黒い線を押し消していく。
現実に指先で感じる違和感。それがなくなると、フワッとした血の流れを感じる。するとその箇所は治っている証拠だ。ここまで痛くてうちまでやってきたのだ。当然痛みの根は深い。部分的に治しても、また痛みの根がある限り再発する。じっくり時間を掛け、痛みの根が消えさせた。指先を徐々にずらし、違和感のある場所を探し当てる。
この人を治し、楽にしてあげたい。そう心から想う事が大事だった。
「高周波の痛み、少しは慣れてきましたか?」
「ええ、慣れました」
「では、もう少しメモリーを上げますよ。出来る限り我慢して下さい。限界まで来たら言って下さい」
「分かりました」
つまみを少しずつアップしていく。これを一気に上げると人間の体は一溜まりもないだろう。人間の体の動きは、脳の命令によって動いている。例えば指を開いたり閉じたりというのも、脳からの信号というか命令があって初めて動くものだ。高周波はその脳から出ている命令を無視して、電気によって体に命令をしている。なので一気にあげると、その箇所が壊れてしまう場合もあるのだ。
「先生、限界です」
「はい、じゃあこのままもう少し頑張って下さい。指で押すから、痛みを感じるところがあれば言って下さい」
徐々に指先で感じる違和感が減っていく。イメージしていたささくれ立った太い線も細くなり、途中で千切れていくような感じだ。目を閉じながら俺は指先で患部を押していく。
一時間ほどそんな治療を続け、高周波を外す。
「一度立ち上がって足を動かしてもらえますか?」
患者は足のつま先を回したり、上に持ち上げたりして状態を確かめる。ダンスでやらされるというつま先立ちをしばらくしてから急に笑顔になり、「先生、痛くない!」と大声をあげた。
「動かしていてどこか小さな痛みとかはありますか?」
「いえ、まったくないです。それどころかウエストも縮んだような……」
「ああ、それは縮みますよ。高周波は筋肉も動かしているので、部分的にその箇所を運動しているのと同じなんです。先ほど腰回りにもしばらく当てていたじゃないですか?あれで辛かったでしょうけど、治すと同時にウエストも細くはなっているという効果もあったんです」
患者はもう一度つま先立ちをしたあと両手で顔を覆い、「私、ダンス続けられるんですね」とその場で泣き出した。
他に患者がいる訳でもないので、俺はテーブルまで行きタバコに火をつける。しばらく黙ったまま、泣き止むまで放っておく事にした。
「すみません。私、毎日のように偏頭痛がしてちゃんと眠れないんです。医者から睡眠薬をもらって飲んでも、まったく駄目でして……」
三十台半ばの女性患者はうちの整体に入ってきた途端、そう一気に捲くし立ててきた。
「ちょっと落ち着いて下さい。そこへ腰掛けて。え~と偏頭痛が酷いんですね?」
「ええ、今もです。首を少し横に向けるだけでも辛いんです」
「触ってみます。動かないで下さいね」
岩のように凝り固まった肩や首回り。これでは辛い訳だ。
「いつぐらいからそうなったんですか?覚えてます?」
「会社で首を鳴らすのが好きな人っているじゃないですか?」
「ええ、いますね。あまりお勧めはしませんが」
「それで三年前の話なんですが、その人に首をやられた瞬間、目の前が真っ暗になって私、その場で倒れたらしいんです。それ以来、重度の肩凝りと鞭打ちみたいになりまして……」
「なるほど。首を鳴らすというか、あれって靭帯が鳴る音なのですが、何故良くないかと言うと、首には可動領域ってもんがあるんです。ある程度までなら、首を捻るのもいいのですが、そういった輩って鳴るまでやるでしょ?だから可動領域を超えるのを知らず、やってしまうんです。そうすると靭帯や頚椎を痛める可能性ありますからね。最悪骨がずれる場合だってあります」
俺はうつ伏せに患者を寝かせ、僧帽筋と呼ばれる首下辺りに高周波をつけた。もう片方は広背筋の肩甲骨より下辺りにつける。うちの高周波は二人分あるので、左右同じようにつけた。
偏頭痛を引き起こす原因の大半が、俺から見れば首や肩の凝りからである。高周波で電気を流しながら、鎖骨の上の辺りを押さえた。ガッチリと凝り固まった筋肉。これはなかなか手ごわそうな相手だ。
患者に言い聞かせながら、徐々にメモリーを上げる。指先を体の中へ入れていく。高周波を嫌がる患者は多いが、利点として揉み返しになりづらいのだ。今、患者に痛いと憎まれても、終わったあと笑顔でいてくれれば、それでいい。気持ちよくさせる為ではなく、治す為にやっている。それが俺の持論だ。
今回のイメージはガチガチの岩のような壁だった。そこへ俺の指をめり込ませ、壁の奥を流れる高周波にぶつけるよう押していく。
しばらくその状態で押していると、頑固に固まっていた凝りがじわりとほつれるように柔らかくなっていく。丁重に指先で血流の感じながら少しずつずらしていった。目を開けているより、閉じて指先だけに神経を集中させる。患者が高周波に慣れれば徐々に上げる。
凝りがなくなり楽になると、暖かくなるものだ。この患者の場合、頚椎がずれている可能性もある。まずは凝りを取り、偏頭痛を起こす元をなくす。
次に頚椎の何番目の骨が倒れているのかを調べる。骨が曲がるという表現はよくあるが、みんな倒れるという事をあまり言わない。もちろん曲がると倒れるは違う別物だ。骨は普通立っている状態であり、それがバランスの悪さ、筋肉の強さなどでどちらかに倒れてしまうケースがあるのだ。第七頚椎まである内、何番目が倒れているのかを見極める。
「三番目のところが右に倒れていますね」
「え、そうなんですか?」
「いや、そんな大した問題じゃないですよ。ちょっと我慢して下さいね」
俺は三番目頚椎の左根元に左親指を添え、右側から右親指を当てる。「フッ」とという気を込めつつ右の親指に力を一瞬だけ入れた。真上から指を当て、真ん中になっているか調べてみる。
続いて患者を仰向けにして、ベッドの端に膝が来て足をダランと下へ垂らした状態にさせた。後頭部を一瞬だけ上げてもらい、タオルを入れる。頭蓋骨後頭部耳の下辺りに固定し、患者には力を抜いてもらう。軽く左右に首を捻り、ゆっくり患者の呼吸のリズムをつかむ。一気にタオルを後方へ引き、首の牽引をした。ピキッという音が聞こえる。
レントゲンなどないから実際には分からないが、首が縮んでいる感じがしたのだ。
「起き上がって首や肩を回して下さい。どうでしょう?」
「あれ、偏頭痛しない?肩も軽いです。首も…。先生、ありがとうございます」
「良くなったようでよかったです。しばらくは大丈夫だと思いますが、また具合悪くなりそうだなと思ったら、その時連絡下さい」
患者は何度もお礼を言いながら、笑顔で帰っていった。金額の大小でなく、こういった笑顔を見るのはとても気持ちがいい。最低でもあの患者、一ヶ月は持つだろう。知り合いには、一気に治さず何回も来させろとアドバイスを受けていた。しかし治せる自信があるのに、治さず次になんて真似はできなかった。
いつか俺の行為を多くの人が気づいてくれるさ。今は経営状態が難しくても、その内嬉しい悲鳴をあげるようになるはずだ。俺は微笑みながら患者の後ろ姿を見送った。
正月も返上し、整体をしていると、幼少時代のピアノの恩師である政子先生が顔を出してくれた。豪華な花まで持って。
「あけましておめでとう、龍君。これ、どうぞ」
「あけましておめでとうございます。政子先生、そんな気を遣わなくてもよかったのに」
「ごめんね、顔を出すの遅くなっちゃって。私も年末で会社の事とかで色々忙しくてね」
「いえいえ、気にしないで下さい。先生、お茶がいいですか?それともコーヒー?」
俺は来客や患者用に、お茶、玄米茶、ほうじ茶、コーヒー、紅茶など飲み物は色々なものを揃えておいた。夜仕事が終わって、ここで飲めるようにウイスキー、焼酎などのアルコールも完備してある。バーテンダー時代に使ったシェイカーまで置いてあった。
「今日はさ私、患者として来たんだよ。前々から首痛くて、右腕まで痺れるんだ。やっと正月で暇取れたからさ、来てみたんだ」
「あらら、じゃあ飲み物飲んだら、診てみますね」
先生と数ヶ月ぶりの再会で心が弾む。お互いの近況を簡単に話し、先生の娘の話題になった。
「うちの子さ、知美って言うんだけど、バトントワリングやっているでしょ?」
「ええ、日本代表選手なんですよね」
「そうそう。で、また選ばれそうでさ。そしたら今度カナダ大会へ行ってくるんだ」
「へえ、そりゃすごいですね」
バトントワリングという競技が、どんなものかよく分からなかったが、俺は素直に応援したいなと思った。
「あの子、幼稚園からやっていたけど、本格的に始めたのは小学校からかな。だから自分の事のように嬉しくてね」
「当たり前じゃないですか。先生の旦那さんも天国で喜んでいますよ、きっと」
政子先生が旦那さんを亡くして二年半の歳月が経っていた。
「よし、じゃあ診てもらっちゃおうか」
「はいはい、ではこちらのベッドへどうぞ」
俺は誠心誠意真心を込め、先生の体を施術する。小学校一、二年生の頃から間を空け、またこうして接点が持てる事が嬉しかった。先生は「おお、体が楽になったぞ」と元気一杯に笑い、三千円でいいと言うのに、一万円も置いていってくれる。ありがたい事だ。
翌日、先生はまた整体へ顔を出してくれた。今度は娘の知美ちゃんまで一緒だった。
「私、これから用事あるから友美だけ置いていくけど、龍君お願いね」
「え、先生行っちゃうんですか?じゃあ俺、知美ちゃん口説いちゃいますよ?」と、意地悪そうに言うと、先生は「うん、全然いいよ」と笑顔で行ってしまう。冗談が分かるというか、信用されているのか……。
知美ちゃんの体は代表選手に選ばれるだけあって、いい筋肉をしていた。通常柔らかく力を入れた時に凝縮して固くなれる筋肉。まだ二十歳なので、これからが楽しみである。
「俺は小さい頃、先生にお世話になってね」
「母から聞いてますよ、色々と。龍一さん、全然ピアノなんてしなかったって、いつも笑いながら言うんですよ」
「二十八年ぶりに再会したら、こんなおっきな娘さんと息子さんいるって聞いてビックリだったよ。知美ちゃんの写真、いつも先生は持ち歩いているんだよ」
「やだ、恥ずかしいな」
「選考が決まるのはいつぐらい?」
「三月の末だからもう少しですね」
「応援するから頑張ってね」
「はい、ありがとうございます」
過去に大きな実績を残しているのに、横柄にならず礼儀もある。明るく元気で本当にいい子を娘さんに持ったもんだと感心した。
いつも暇といえば暇だが、正月の三が日は本当に暇だ。
整体の中でボケーッとしていると、営業マンが入ってきた。
「すみません、大和プロレスの北見と申します」
「え、大和プロレス?」
過去俺が目指したプロレス団体だった。あそこで俺はヘラクレス大地師匠と出会い、様々なものを学んだ。主力選手である伊達さんが抜けると、多くの選手があとをついていってしまい、一時は存続のピンチとなったところでもある。しかし新世界プロレスのスーパースター選手である飛山剣が移籍し社長となった事で、テレビもつき今でも団体は運営していた。
「ここの整体、駅の目の前じゃないですか。で、今度の興業のポスターを貼らせてもらえないかなと思いまして」
「いいに決まってんじゃねえか。何枚でも持ってきなよ。いくらでも貼っていいよ」
俺は二十歳頃。大和プロレスに携わった事を話した。そして二十九歳で総合格闘技にも出た事を伝えると、営業マンは笑顔で打ち解けてくる。
「だから先生、体が大きいんですね。良かったら七日に興業あるので来ませんか?もちろん招待しますから」
「えー、悪いよ。ちゃんと券を買うって」
「いえいえ、宣伝まで協力をしてもらっていますから」
その時、いいアイデアが浮かんだ。今流行のお笑いブームで、芸人が物真似をするぐらい有名な飛山剣選手。彼と白衣姿の俺が、一緒に並んだ写真を神威整体の宣伝に使えたら面白いんじゃないだろうか。
俺はそれを彼に伝えた。大和プロレスの営業は嫌な顔もせず、「うちの社長に話しておきます。多分、先生なら問題ないと思いますよ。また連絡しますね」と帰っていく。
もうプロレスと関わる事なんて、ないと思っていた。
まさかここに来て、再びプロレスと接点を持つだなんて。二十数年ぶりの政子先生との出会い。そして十数年ぶりに大和プロレスとの接点……。
神威整体を開業し、色々なものが繋がってくるような気がした。
白衣姿の俺と、飛山選手とのツーショット。面白いと思われるだろう。スタートして約一ヶ月。こうやって徐々に積み重ねていく事が、整体の経営を成功させる秘訣かもしれない。
翌日、大和の営業はすぐ興行用のポスターを持ってきた。
俺は外の壁に数枚貼り、宣伝に協力する。招待券ももらい、当日飛山選手との撮影の許可も出た。
これまでまったく休んでいなかったので、ちょうどいい骨休みになりそうだ。
入口が開く。患者だ。俺は笑顔で出迎える。
「どこか具合悪くしましたか?」
「ええ、最近寝ている時に足がつるんです」
「そうですか、ではそちらへお掛け下さい」
神威整体を選び、来てくれた一人一人の患者に感謝を覚える。
俺は本当に治してやると心を込めながら、患者と向き合っていけばいい。
とうとう大和プロレスが興業にやってくる日が来た。場所はうちの整体目の前にある本川越ぺぺの五階アトラスホール。
少し早めに行こうと思ったが、前日に患者から予約の電話があったので受ける事にする。午前中から昼に掛け、施術を済ませ、観戦に行く準備をした。
久しぶりのプロレス観戦。一試合から最前列の席で見ていると、大和の営業が「先生、控え室のほうへどうぞ。社長が待っています」と小声で囁いてくる。俺と飛山選手のツーショット写真。ワクワクしながら控え室へと向かう。
中へ入ると、飛山選手が股割りをした状態でストレッチをしていた。体重百十キロ以上の巨体なのに随分柔らかいものだ。俺は二十一歳の頃、大和の合宿へ行った時の事を思い出していた。
「よし、ストレッチからやってみよう。おーい、夏川。あとそこの三人も、こっち来てくれよ。股割りやるから」
師匠のヘラクレス大地さんが、夏川さんらレスラー四人を呼び寄せる。股割り…、一体、これから何が始まるのだろうか?四人の先輩レスラーたちは俺を強引に座らせると、股を強引に開かせる。俺も自己流ではあるが、散々ストレッチはやってきた。痛みはあるが、我慢できるレベルだった。
「お、こいつ、結構、体、柔らかいぞ」
「まだまだこれからだよ」
「よし、夏川と木下は、膝を曲げないようにしっかり押さえてろよ」
「はい。おい、おまえ。後ろから押すぞ。腹までペッタリ地面につけるぞ」
柔軟で股を全開に開いた状態から、強引に押された。頭は何とか地面についたが、そこからさらに力強く押される。この状態で、腹までペッタリ地面につけるつもりなのか……。
膝を曲げようとしても、片膝ずつレスラーがしっかり押さえているからまったく動かない。思わず声を上げてしまうが、みんなお構いなしに強引に背中を押してくる。
「ギャー……」
左腿の筋が、何ともいえない嫌な音を立てる。激痛が全身に走り抜け、俺は悲鳴を上げた。
火事場の馬鹿力とでもいうのだろうか。俺は無我夢中で、レスラーをぶん投げていた。「この野郎」と夏川さんに頭を引っ叩かれる。
こんなに激しいストレッチを毎日、プロレスラーはしていたのか……。
地獄のストレッチから解放されても、左ももの筋が切れてしまったような痛みがずっと走っている。大地さんは笑いながら俺を見ていた。
「股のとこの筋が切れたみたいだな。大丈夫、大丈夫…。体操選手なんかも、よくそこは切るんだよ。そこは切れても大丈夫な筋だから」
何かもの凄く物騒な事を笑顔で話している。俺はとんでもない所へ、来てしまったんじゃないか…。早くも音を上げそうだった。
不意に肩を叩かれ現実に引き戻される。営業が飛山選手に「社長、こちらがこの間ポスターを貼ってくれた整体の先生です」と紹介していた。
「はじめまして、飛山です」
手を差し出してくる飛山選手。俺はガッチリと握手しながら、「はじめまして、神威と申します」と力強く言った。
「じゃあ先生、撮影しますので」と営業が言うので、俺は用意してあった白衣に着替える。それを見た飛山は「お、お医者さんなんすか?」とビックリしていた。
「いえいえ、すぐそこで整体を開業しているだけです。怪我したら、いつでも来て下さい」と笑顔で答え、撮影を行う。
この日、俺はゆっくり試合を観戦し、会場をあとにした。
もうちょっとで面接の結果が出る。不本意だが、自分で失敗して作った借金なのだ。
俺は昼近くまで部屋に籠もり、小説の執筆をしていた。腹も減ったので昼食を取りに下へ降りると、「ねえ、龍ちゃん。またお父さんがおじいちゃんに向かって今朝、どうのこうのって文句言っているのよ」と、パートのおばさんが話し掛けてきた。
「……!」
昨日あれほど忠告したのに、親父の野郎め……。
居間へ行くと、おじいちゃんが疲れきった表情でぼんやりと椅子に座っている。
「おじいちゃん、また親父が何か文句言ってきたの?」
出来る限り優しく話し掛けた。
「いや、そんな事ないよ」
もうおじいちゃんも九十歳。まるでボケてはいない。しかし、年を取ったせいか、争いやイザコザが嫌なのだ。だから俺にわざと嘘をついている。
「そう……」
おじいちゃんの気持ちを汲んであげないと。俺は笑顔で答え、横に座る。ちょうどおばさんがソーメンを茹でて持ってきた。親父と三村を除いた家族の昼食が始まる。
「おまえはもっと就職活動してきなよ」
「今度のところは結果来るまで一週間ぐらいだし、受かると思うよ」
「そんな事言っているから、おまえは駄目なんだよ。受かってから言いな」
相変わらずの毒舌ぶり。おばさんのこの言い方で、今まで俺はどれほど傷ついたか分からない。毎日毎日顔を合わす度に、小言。食い過ぎでも飲み過ぎでもないのに、口の両端にできた荒れ。俺の顔は、そのストレスにより荒れていた。
ここ最近おばさんの小言が始まると、俺は反論せず、すぐその場から消えるようにしている。何故ならば、おばさんは自分の意見が絶対。人の話などまるで聞く耳を持たないからだ。
黙って話を聞いていると、先ほどパートのおばさんが言った親父の話になっていた。
親父がおじいちゃんに当たる。するとおじいちゃんはおばさんに愚痴をこぼす。そしておばさんは分かっていないだろうが、俺に当たる。いつもこの悪循環だ。
少しは黙っていられないのだろうか?
連日に渡っての事なので、俺も徐々にイライラが溜まってくる。
おじいちゃんが席を立ち、居間から出て行ってしまう。この気まずい空気の中にいるのが堪えられなかったのだ。
「だいたいいつも殴るほうが悪いって言ってるけどさ、言葉の暴力だってあるんだぜ?」
「それはおまえがちゃんとやってないからだ。言い方なんて関係ない。ちゃんと分かる人間は分かる」
「言い分は分かるけどさ、もう少し言い方ってもんをそっちも変えてみたら?」
「そんなの関係ない。おまえがちゃんとすればいいだけの事だ。借金だって何だって、全部おまえの責任だろ」
自分の意見や考えを絶対に変えないおばさん。こんな事しか言えないのだろうか。
「そのぐらい分かってるよ!別に金を出してくれなんて俺は、ひと言も言ってねえだろうが」
「そんなの当たり前だ」
「じゃあ、少しは黙れよ。整体だって失敗したくてしたんじゃねえんだよ」
「おまえがだらしないから、おまえの親父はおじいちゃんに当たるんだ」
「もういい加減にしてくれよ。じゃあ俺が親父に文句を言ってくれば、それでいいんだろ?もうグチグチ言うのはやめてくれよ!」
「そんな事したら、また龍一に命令しやがってって、私やおじいちゃんに当たってくるだろ。自分で勝手に動いたってしないと、こっちに迷惑が掛かるんだ」
「ふざけんな!原因を巻き起こしているのは親父だろうが?何でいつも俺ばかりにしか言わない?分かった。もういい。今、俺が親父に直接言ってくるわ」
「だいたいおまえはね……」
「もういいって!黙れよ。あんたの言っている事は正論かもしれないけどさ。でも現実に何一つ解決しちゃいないだろうが?支店の独立の件だって文句を言うだけで、ちゃんとやってきたのは俺だ。言うとやるは違うんだよ」
感情を吐き出すと、飯も満足に食わず俺は席を立ち上がった。本当にこんな毎日、もうたくさんだ……。
おばさんと話していると、頭がおかしくなりそうだ。
何故、俺はこんな風になった?
何故、俺がいつもこんな目に遭わなきゃいけない?
何故、俺は生まれた?
何故、親父は俺ら三兄弟を産んだ?
今までの憎悪が一気に噴き出した。階段を一歩一歩ゆっくり上がる。深呼吸して自身を落ち着かせようとするが、駄目だった。
二階の親父の部屋の前まで来る。
俺はドアを蹴飛ばし、中へ入った。
「何だ、貴様」
偉そうに俺を睨みつける親父。横には三村がビックリした表情で俺を見ている。
「何でおじいちゃんに当たる?何で文句があるなら直接俺に言ってこない?」
「うるせえ」
「昨日言ったよな?今度言っている事が分からなかったら、頭を叩いて教育するって」
「ふざけた事を抜かしてんじゃねえ」
「ふざけてんのはどっちだよ?」
ギュッと拳を硬く握り締めた。今まで俺は、親父を殴った事が一度もない。どんなに無茶されても、一度だって手をあげなかった。
以前親父の首をへし折ろうとした時さえ、殴らなかったのだ。
自分で分かっていた。
一度でも殴ってしまったら、絶対にとまらなくなるのを……。
手を出す時は、下手すれば殺してしまう。それほどの憎悪が昔から今までずっと溜まっていたのだ。
だから親父を殴っても、誰一人いい事などない。分かっていたからやらなかったのだ。
「一体どうしたのよ、龍ちゃん?」
三村がキンキン声を出す。
「うるせえよ。あんたは少し黙ってろよ」
「いい?この家はね、本当にバラバラ。お父さんがこんなに頑張っているのに、誰も家族は協力しようとしない。そんなんで本当にいいの?」
「おい、何であんたにそんな事を言われなきゃいけない?いつからそんな偉そうな事を言える立場になったんだ?家の人間誰一人、あんたなど認めちゃいないんだぜ?」
「そんな私をここから追い出したいなら、あなたたちのお母さんをもっと大事にして、ここから追い出さなきゃ良かったのよ」
「はあ?何でそんな事、あんたに言われなきゃいけねえんだ?何故お袋の話がここで出てくる?」
「そりゃそうよ。みんながもっと大事にすれば、お母さんだって出て行く必要なかったし、私もここには入れなかったわ。何でお母さんをかばってあげなかったの?」
左の傷が疼き出す。
「おい、これを見ろよ」
俺はゆっくりと過去お袋に虐待でつけられた傷跡を指差した。
「これをやられたのは幼稚園の時か、それとも小一の時か。そんな正確には覚えちゃいねえ…。ただ何でやられたのかは分かっている。八つ当たりでだ。お袋は当時、俺に八つ当たる事しかできなかったんだ。俺がまだ五、六歳の時だぞ?その時、親父はどうしてた?あんたと一緒に遊んでいたんだろうが!そんな俺に、あんたはお袋を大切にとか言うのか?こんな事をされながらも笑顔でずっと我慢しろって言うのか?何度死にそうになったと思う?どれだけ毎日怯えながら暮らしてきたと思う?誰が助けてくれた?誰も助けちゃくれねえから、こんなになったんだろうが!それでもかばわないといけないのか?」
「何で可愛い子供を置いていったか、それをもうちょっと考えてみたら?」
「あんた、自分で何を言っているのか分かって言っているのか?」
「龍ちゃんの小さい時の写真見たけど、大事そうにされているじゃない」
「あのな、写真を撮る時だけいい顔すれば、それでいいのか?俺はアクセサリー代わりにされていただけだ。お袋の都合いいようにな。好きな時に笑う事さえ禁じられてな」
「でもお母さんを恨んじゃいけない」
「もう恨んでいねえよ。小説書いて、お袋の件はいつの間にか浄化できたよ。そんな事よりさ、お袋どうのこうの言うなら親父に言えば?」
「お父さんだって寂しかったのよ」
この女とはまるで話にならない。
「じゃあ寂しかったら子供の面倒も見ず、浮気して家の金を盗んで遊んでいればいいんですか?」
「それは色々外のつき合いもあるからしょうがないのよ」
「三村さん…、あんた、頭がおかしいんじゃないのか?」
「三村さんじゃねえだろ!」
横から親父が口を挟んでくる。
「うるせえよ。勝手に黙って籍を入れて、家の中をこれだけゴチャゴチャにしやがって」
「いいか?人間と言うのはだな。三務だ」
「何だ、その三務って?」
「三大責務の事だ」
「じゃあ、その三大責務とやらを言ってみろ」
「労働、教育、納税だ」
邪魔な従業員たちを追い出し、社長になってから自分の為に働いているだけの親父。それまでは家の金を好き放題使い込み、勝手にしたい事だけをしてきた。俺や弟の学費など一銭も出さず、飲み仲間には大盤振る舞いで酒や食い物をご馳走している大馬鹿野郎。
俺が整体を開業した時も、一年間、一度も顔さえ見せなかった。必死に頼み込んだ時も、「おまえの為にならねえ」と吐き捨て、そのあと近所の焼鳥屋で飲み仲間と楽しそうに酒を飲んでいた。
「おい、よくおまえがそんな言葉を言えたものだな?教育?じゃあ聞くが、親父の言う教育ってのは、俺が小学校、いやもっと小さい頃から何も面倒も見ず遊び歩き、そこにいる三村さんと浮気しているのが教育か?それに近所の主婦、そしてうち働ていたパートに手を出し、俺が高校三年生の時、三人で乗り込んでくるのが教育なんだな?」
「当たりめえだ!」
完全な親父の開き直り。
親父は罵倒し続けた。
※2023/03/14 現状まで未完のままですみません
岩上智一郎
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