2024/10/02 wed
前回の章
二千三年……。
思えば本当に色々な事があったものだ。
裏稼業に身を置きながら安定した日々を送っていた俺だが、長年続いたゲーム屋ワールドワンの崩壊により、新たな職探しとなった。
ワールドの常連客だった中口の紹介で入った北中の組織。
奴の息の掛かった店は二つ。
ゲーム屋フィールドと裏ビデオ屋メロンをうまく使いまわしにさせられ、いいように利用されてきた。
俺が中学生時代から付き合いのある先輩の坊主さんが、パソコンを教えてくれてから、自身のスキルは急激に幅が出るようになった。
すべて手書きで計算をしていた裏稼業の組織に自分のパソコンを持ち込み、データを取るようになってからは、飛躍的に売上が上がる。
月に約二千万円の差が出た。
つまりそれだけ売上をくすねて懐に入れる従業員が多かった訳である。
北中の組織で地位を得た俺は、全体的な運営を任せられるようになった。
オーナーである北中は、月の半分以上を海外旅行に行くようになり、俺の忙しさはかなり増える。
しかし給料は変わらず。
いいように利用されてフラストネーションが溜まる日々を送っていた。
杜撰で傍若無人なオーナーの下で働きながらいると、ある日刑事がやってくる。
俺のピアノ発表会二日前の出来事だった。
とうとう警察に捕まる。
そう観念したが、人のいい刑事はそんな俺を何故か見逃してくれた。
そんな状況でものん気に麻雀を打つ北中に怒った俺。
奴は金にものを言わせ、ヤクザ者に俺の命を消せと号令を出した。
ビビりながらも知り合いの親分のところへ行き、自分の言い分を説明し、自身の信念をハッキリ伝える。
人のいい親分は認めてくれたのか、笑顔で応じてくれ、俺を消そうと動くヤクザ者は誰もいなかった。
そこへやって来たピアノ発表会。
これまでの人生で一番求愛した女性、品川春美の為にと臨んでみたものの、無事ドビュッシー作曲『月の光』を弾き終わっても彼女の姿は会場に見えなかった。
見事にフラれた訳だ。
歌舞伎町の新たな組織からスカウトを受けた俺は、またそこで自身の地位を徐々に築き上げていく。
そして百合子という女性と知り合い、付き合う事になる。
そんな最中二千四年に入って数百名の逮捕者が出た新宿歌舞伎町浄化作戦。
本当に色々な事が起きるなあと誕生を迎えた次の日、この俺、岩上智一郎もドジを踏んでしまい、留置所で臭い飯を食うハメになる。
裏ビデオ屋『らせん』の名義人である松本を出頭させ全責任を負わせる形で警察の調書を作った俺は、見事不起訴を勝ち取った。
組織も俺の言う通りに動いてくれたので、うまい具合に事を進める事ができたのだ。
罰金刑として五十万の罰金で済んだが、もちろんこれは組織のほうで用意してくれる。
出てきた俺に待っていたのは三名のオーナーが合わせて出した七十五万の金。
留置所から釈放され百合子を抱いた日。
彼女はこんな俺に対し、「中へ出してほしい」と言ってきた。
しばらく考えたが、こいつとならきっと……。
そう感じた俺は、百合子の中へ精子をぶちまける。
きっと暖かい家庭を作りたかったのだろう。
パンパンに膨らんだ金を彼女の百合子と日々贅沢をし、気ままな生活を送った。
好きな時に好きなものを食べ、欲しいものは我慢せずに買い漁る日々。
当たり前だがそんな生活を送っていれば、金は次第に目減りしていく。
そろそろ何か仕事をしないと。
ある日寝て起きると、俺の顔を見た百合子が驚きながら吹き出す。
あまりに大笑いしているので理由を尋ねると、鏡を見せてきた。
「何だ、こりゃ?」
俺の右頬だけ妙に膨れている。
「全然気付いてなかったの?」
「うん、鏡を見るまで分からなかった。痛くも痒くもないし……」
まったくの原因不明の頬の腫れ。
一日放っておき、治らないようなら病院へ行こう。
少しして百合子は仕事へ行く。
俺は家に戻り、部屋でダラダラ過ごす。
こんなグータラ生活をして一ヶ月。
いつまでもこんな状況じゃ駄目だよな。
ゲームをして、好きな映画借りてきて、たまに小説を書くだけの生活。
別に書いた小説が金になるわけでは無い。
新宿クレッシェンドを世に出したいとは思う。
しかしどうしたらいいのか、まるで分からない。
シャワーを浴びて再び顔を見る。
右の頬は相変わらず膨らんだままだった。
翌日起きると、あれだけ腫れていた頬は普通に戻っていた。
ラブホテルのベッドに虫でもいたのかな?
まあいつも通りに治ったならいいか。
夕方になり百合子へ電話を掛ける。
何だか声の調子がおかしい。
気のせいか身体も怠い。
前にも似たこの状況……。
喉か!
口を大きく開けて鏡を見ると、喉チンコがかなり腫れていた。
浅草ビューホテル時代、仮眠室に泊まった時に起きた喉の現象。
あの時は声も出なくなり、家の目の前にある三井病院へ二度も入院をする羽目になった。
あれ以来一年に一度、俺の喉は腫れ、その度病院へ行き抗生物質の点滴を打ってもらう。
癖になっていた喉。
それで毎回交わしていたが、ここ五年ほど喉に異常は現れていない。
俺は一日様子を見て、駄目なようなら病院でまた点滴を打ってもらえばいいや程度に考えていた。
目を覚ますと起き上がるのですら苦しい状態。
喉はさらに悪化していた。
ヤバいな、これ……。
メールで状況を知った百合子は俺の部屋まで来て看病してくれる。
しかし喉ばかりはおそらく病院へ行かないと無理だろう。
翌朝になり、俺は目の前にある三井病院へ行く。
心配性の百合子は会社を有給取ってまで付き添ってくれた。
熱もあり、気怠い身体のまま待合室のベンチシートに座っているのは辛い。
時計を見ると二時間以上経つのに未だ声が掛からなかった。
受付まで行き、あとどのくらい待つようなのか聞くと、どちらのミスかは分からないが俺の病院カードが処理されていない状況で、まだ待つよう言われる。
苦しい時は気も短くなるもの。
俺は怒って病院を飛び出した。
「ねえ、本当辛そうだよ? 別の病院行こうよ」
百合子が声を掛けてくれ、車を出してくれる。
昔小さい頃よくお世話になった耳鼻咽喉科の時田病院を思い出し、百合子に連れて行ってもらうと、そこは更地になっていた。
すでに時田先生は亡くなっており、病院自体無かったのだ。
朝から最悪の体調で動き、三井病院で無駄な二時間、そして時田病院は無くなった事実を目の当たりにして俺は力が抜けた。
「ここの先生の息子さんが伊佐沼のほうで耳鼻科やっているんだって! ね、そこへ行こう」
近所で色々聞き込んでくれた百合子は、また車を走らせる。
時田先生の息子さんは、伊佐沼クリニックという名称で病院を経営していた。
ヨロヨロしながら中へ入ると、待合室は病人で一杯。
絶望感を覚えながらも受付へ向かう。
声が出ないので紙に症状を書き見せる。
でもまた何時間も待つようなんだろうな……。
「今ですね、当病院の先生は小学校の定期検診へ行っているんですが、午後まで我慢できますか? そしたら一番で先生帰ってきたら診てもらいますから」
気の利いた受付の人の言葉に俺はゆっくり頷く。
ある程度の時間を指定してもらえれば、この苦しさも少しは我慢できる。
時間にして一時間ちょっと待てばいいのだ。
俺は感謝しつつ、それまで百合子の車の助手席で休んだ。
伊佐沼クリニックは、本当に午後いの一番に診てくれた。
「はい、口を開けてー…。うーん、こりゃ切らなきゃ駄目だな……」
浅草ビューホテル以来癖になっていた扁桃腺。
当時三井病院へ入院した時は喉を切ってくれとお願いしたが、切らないほうがいいと断られた。
それがこの先生は初診ですぐに判断してくれる。
俺はお願いした。
また少しは入院するようか……。
手術と考えていたが、先生はその場で口を開けたままレーザーメスで何回か切って終わる。
口の中が血だらけになっていたので水ですすぐ。
個室にあるベッドへ寝かされ、点滴を打ち始めた。
「せ…、先生…。にゅ…、入院は……」
切ったおかげか少し声が出る。
「ああ、入院はしなくて大丈夫ですよ。点滴を四本打つので、それ終わったら帰って大丈夫ですからね」
先生の言葉に俺は感謝を覚えながらお礼を伝えた。
時間にして半日は掛かるも、俺は元の状態に戻る。
名医というのはこのような先生を指すのだろうと感心した。
喉の一件から数日後、村川から電話があった。
何でもパクられない商売をするから力を貸してほしいと言われる。
浄化作戦により『フィッシュ』を最初にやられた村川は、他のオーナーよりも人一倍警戒心が強い男だ。
「何ですか、パクられない商売って」
「まだ言えない。とりあえず今度打ち合わせするから歌舞伎町に来てくれ」
意味深な村川の台詞。
どうせ毎日のように遊んでいるだけだし、話ぐらいは聞いてもいいか。
「どこでやるのかぐらいは教えて下さい」
「東通りの『フィッシュ』があっただろ? そこで商売をしようと思っているんだ」
そこの名義人浜松が謳った事により、『フィッシュ』は空家賃を払う状態が続いていた。
理想を言えばまた新しい名義人を迎え、また裏ビデオ屋を始められればいいのだが、彼が警察に捕まり事情を謳った事で、同じ商売ができないでいる。
いつまでも高い家賃だけ払っている訳にいかないといったところか。
「明日の夕方、フィッシュの前に来てくれ」
「分かりました」
百合子へ歌舞伎町で新しい仕事を始めるかもしれないと説明すると、彼女は表情を曇らせた。
また俺が警察に捕まってしまうかもしれないという不安からだろう。
「安心しろって。詳しくは知らないが、今度はパクられる事がない仕事らしいから」
「だって智は前も『俺は絶対に捕まらない』って豪語しながら捕まるし、捕まっても『俺はすぐ出てくる』なんて言いながら、一ヶ月も出てこなかったじゃない」
「しょうがないだろう。起訴される訳にはいかないし、あの時は中で俺も必死だったんだ。それに一ヶ月も入っていない。正確には二十二日間だ」
「ほとんど一緒でしょ、そんなの」
「心配掛けたのは悪く思っているって」
「もう…、ああいうの嫌だからね」
「分かってるって」
「それとね……」
急に真面目な表情に変わる百合子。
「何だ?」
「生理が来ない」
そうと言われ、しばらく俺は彼女の顔をジッと見つめた。
こんな俺に子供がとうとう……。
「……」
「智……」
「そうか…、産んでくれ」
「……」
百合子は俺の胸元に飛び込み、そのまま顔を埋めながら泣き出した。
最も信頼できる先輩の坊主さんに、自分の子供ができたかもしれないと伝える。
「結婚はどうするの?」
坊主さんはごく当たり前の事を聞いてきた。
「考えなきゃいけないですよね……」
こんな俺が父親になって家庭を持つ。
現状を考えるとこのままじゃいけない。
言いようのない焦りを感じている。
現在無職の三十三歳。
留置所を出てからは、ほとんど毎日のように誰かしらと会っていた。
中には仕事とまるで無関係なのに、他のビデオ屋のオーナーが出所祝いをしてくれた事もある。
そんな状況で一ヶ月ほどの時間を過ごしてきた。
漠然と時間を過ごす内に目減りしていく金。
百合子との間に子供ができるかもしれないのだ。
何かしら始めないといけないだろう。
真面目にサラリーマンでもするか……。
俺が今さら何の仕事を?
ゲーム屋時代は月に多い時で二百万円ほどの金を稼いできた。
満足できるのか、サラリーマンをして?
普通の仕事など過去、腐るほど色々してきたじゃないか。
自衛隊から始まり、探偵、広告代理行、全日本プロレス時代を経て、ホテルマン。
それで散々懲りたはずだろ?
そういった場所に、俺の居場所などないという事を……。
歌舞伎町という繁華街へ渡り、水を得た魚のように生き生きして時間を過ごせてきたのだ。
まだこれからだって俺はあの街で生きていきたい。
これから生まれてくる我が子の為にも、俺は金を稼がなきゃいけないのだ。
村川たちの新しい仕事の打ち合わせに向かう。
仕事先は新宿。
住んでいるところは川越。
通勤手段は電車を利用する。
川越から新宿まで行く場合、詳しく言えば三つの通勤パターンがある。
東武東上線の川越駅から池袋駅まで行き、山手線に乗り換えて新宿。
もう一つは埼京線を使って川越駅から新宿。
最後に西武新宿線の本川越駅から西武新宿駅までという方法だ。
時間的に早く行きたいのなら東上線を使って行くのが一番早いだろう。
乗換えという非常に面倒臭いものがあるが……。
俺は楽に通勤したいので西武新宿線をいつも利用していた。
利点をあげると、まず職場に一番近いのが西武新宿駅だという事。
乗り換えなしの一本で電車が到着する事。
西武新宿線において、本川越駅と西武新宿駅は両方とも終点の駅なので、必ず座って行ける事。
そしてなによりも別途に費用は掛かるが、小江戸号という指定席の特急で、タバコを吸いながらゆっくり通勤できる点が一番の理由で俺は西武新宿線を利用していた。
今、話に出た小江戸号だが、俺はずっと好んでこの特急を毎日のように使っていた。
初めて歌舞伎町に来た時に働いたゲーム屋ベガの時からだ。
この電車があるから数年も川越から新宿までの距離を苦痛に感じずやってこれたと言っても過言ではない。
片道で特急料金四百十円の小江戸号は月に換算すると、いい金額を使っている計算になる。
それでも精神的なリラックスを兼ね、自腹でお金を払い小江戸号に乗って通勤した。
小江戸号は四十三分の時間で、俺を新宿まで運んでくれる。
電車の両端にはジュースの自動販売機にトイレも設置されていて、ちょっとした小旅行に行くような錯覚を感じさせてくれる。
車両は全部で七車両。
真ん中の四号車が喫煙になっていて、残りの車両はすべて禁煙だった。
これだけ同じ電車に乗っていると様々な出来事がある。
俺は窓の外の景色をボーっと眺めながら、昔を思い浮かべた。
ある日、俺が川越に向かう帰りの小江戸号に乗っていると、年配の駅員に声を掛けられた。
よく切符の点検の時に顔を合わせるので顔馴染みになり、挨拶ぐらいはする間柄になっていた駅員だった。
「お疲れさま」
「あ、どうもこんばんは。お疲れさまです」
「実はね、私も今年で定年なんですよ」
「そうなんですか、それはご苦労さまでした」
「お客さんとは毎日のように顔を合わせていたから、一言ぐらい挨拶しておきたくてね。やっぱり少し寂しいですね……」
「こんな自分にわざわざ気を使ってもらって、ありがとうございます」
「今度、ここが終わったら田無の駅前の自転車置き場で働く事が決まってるんです」
「あれー、それは大変ですね。頑張って下さい」
「ええ、お客さんも」
会釈する程度の間柄でも、この駅員が定年退職すればその関係はなくなる。
そう考えると俺も少し寂しい感じがした。
お互いの名も知らず、ただ笑顔で挨拶を交わすだけの仲でも小さな信頼関係が生まれていたのかもしれない。
小江戸号が止まる駅は本川越、狭山市、所沢、高田馬場、西武新宿の五つの駅になっている。
所沢から高田馬場までは距離があるので三十分ぐらいはノンストップで走り続ける。
ゲーム屋のワールドワン時代、夜九時の小江戸号に乗って新宿へ通っていた。
時間帯のせいか車内は常にガラガラ。
いつも満席になる四号車でも座っている客はまばらだった。
朝の通勤時とのギャップに驚きを感じたが、普通に考えてみれば当たり前の事である。
たかだか通勤に片道四百十円プラスされるという金銭的なものもあるが、俺は通常の人と野生活が間逆な時間帯を過ごしていたのだ。
夜は新宿へ、朝は川越へ。
AMとPMが逆の状態で十年ほど毎日を送っていたのだから、ガラガラの電車は当たり前。
だから車内にいながら警戒心は薄くなる。
過去、新宿へ向かう上り電車でこんな事があった。
所沢を出てから俺は喉の渇きを覚え、セカンドバックを座席に置いたまま自動販売機へジュースを買いに行く。
バックの中には小説が三冊に手帳ぐらいしか入っていなかったので、もし盗まれたとしても大した被害はない。
それに三十分も電車の中から逃げられないような状態で、盗む奴もいないだろうと。
ジュースを買って席に戻ろうとすると、ドアの窓越しにサラリーマン風の中年が目に入る。
俺は五号車と四号車の間の場所で立ち止まり、その男の様子をしばらく見ていた。
何故そうしたかというと、その男は俺の座席のところで何かをしていたからである。
窓越しで俺が様子を見ているのも気づかずに、その男はかなり慌てながら自分のアタッシュケースにセカンドバックごと捻じり込もうとしていた。
小説が三冊も入ってパンパンに膨れているセカンドバックは、なかなかアタッシュケースに収まらない。
見ていて滑稽だった。
これだけガラ空きなのだから、どうせ盗みを働くならサッと俺のバックを盗って、別の車両でゆっくりとアタッシュケースに中身だけしまえば済む話だ。
男がバックを捻じり込んだ瞬間を見計らい、俺は自動ドアを開く。
突然の出来事に対応できない惨めな中年サラリーマン。
こちらを見てポカンと呆気にとられていた。
俺は眼光を鋭くして無言で相手を見据えているようにした。
「ち、違うんです。これは違うんです」
その男は立ち上がり、必死に手を振りながら弁解しだした。
「何が?」
「わ、忘れ物かなと思って…。私はバックを電車出てから届けようと…。決して盗もうとした訳ではないんです……」
そんな台詞が言い訳になるはずもないのに、男は必死に話している。
俺がひと言、「じゃあ何故アタッシュケースの中に、わざわざバックを入れようとしてるんですか?」と言ってしまえばすべて無駄になってしまう言い訳を。
黙って席に腰を下ろすと、男はかなりビクビクしながら腰を浮かす。
「じゃ、じゃあ失礼します」
逃げようとした男の肩に手を掛けて、冷静にゆっくりと口を開いた。
「まあ、いいからここに座りな」
「いや、わ、私は……」
「いいから座りなって」
強引に男を私の隣に座らせる。
二人とも無言の状態で何もしないまま、電車は刻々と目的地に進んでいった。
男の心理状況を考えると、何も話さないのが一番のプレッシャーになるだろう。
「次は高田馬場。次は高田馬場でございます」
車内のアナウンスが聞こえた途端に、男は急に立ち上がった。
「あ、私、ここで降りないと……」
「いい加減、見苦しい行動はやめなよ。新宿までは付き合ってもらうからさ」
「いえ、私は……」
「おい、アタッシュケースの中に人のセカンドバックを入れたまま、勝手に何で高田馬場に降りようとするんだ? ひょっとしてどさくさに紛れて俺のバックを返さないつもりか? あまりふざけた事を抜かすなよ」
「す、すいません……」
さすがに男は観念したのか首をうな垂れて下を向いている。
静かにアタッシュケースから俺のバックを取り出すと恐る恐る渡してきた。
電車が高田馬場に到着しても動こうとはしなかった。
「わ、私…、ど…、どうなるんですか?」
震えながら話す男。
「駅員に報告は嫌か?」
「は、はい……」
わざとそれに対して返事を返さなかった。
自分のした事を懺悔させたかった。
それに最初の誤魔化し方が癇に障ったのもあった。
少し苛めておきたい。
男はこれからどうなるのか不安で堪らないといった表情でソワソワし落ち着きがない。
そうしている間に小江戸号は西武新宿駅へ到着する。
相手の腕をつかみながら小江戸号を降りると、男は俺を見て小声で懇願してくる。
「お、お願いです。見逃して下さい」
「うるさい。黙ってついて来い」
有無を言わさぬ俺の言い方に、男は黙るしかないようだ。
一緒に歩いているこっちが恥ずかしくなってくるぐらい挙動不審だった。
俺は改札の横の降りの階段に向かって歩き、駅のトイレに向かう。
相手の腕をつかんだ状態でトイレの中に入ると、アンモニアの嫌な匂いが鼻をつく。
周りには八人ほど男性が小便をしていた。
「いいか、グチグチと言っても仕方がないから簡単に済ませてやる」
「は、はい」
「文句はないよな?」
「……」
「それとも駅員に俺が報告してって形がいいか?」
「そ、それだけは…。お願いします。お願いします」
「ああ、分かってるよ。そんな事したら家族が困るだろ? 俺もそんな事をするつもりはないから安心しなよ。ただ、けじめはけじめだ。このまま何も無しじゃ済ませられない。拳一発で済ませてやる。歯を食いしばれ」
小便をしていた人たちも、俺のかもしだす雰囲気が尋常じゃない事に気づいたのか、その場を黙って離れていった。
人が出たのを確認すると、右の拳をギュッと握り締め、そのまま男の顔面に叩き込む。
両手で顔を押さえながら、座り込む中年サラリーマンをしばらく眺めてから、俺は黙ってその場を離れる事にした。
あれから四年ほど経つ。
それまででその件について何かあったかというと、現在まで何事もない。
暴力というものについて世間は否定的である。
しかしこの件については相手が訴えない限り、私的には間違ってなかったと思う。
盗みを駅員に報告して、そのサラリーマンの人生を壊したところで、俺には何もならないからだ。
社会的に相手の生活をボロボロにしてスッとするよりは、まだ相手を殴るという形でスッとする方が自分自身いいと思った。
悪い奴に制裁は必要だが、その家族まで巻き込む必要はない。
この件で彼がこの先真っ当に生きてくれる可能性もある。
それとも彼は今でも盗みを働いているのだろうか?
どちらにしても俺にはどうでもいい事だった。
過去を懐かしんでいる内に、小江戸号は西武新宿駅へ到着する。
改札を出て階段を降りる。横には新宿プリンスホテルがあり、目の前には歌舞伎町の町並み。
初めてこの場所へ来た時は、人の多さに圧倒され、コマ劇場すら分からなかった俺。
今じゃ、大手を振ってこの街を歩くようになった。その変化の分だけ俺はこの街で時間を過ごし、また成長してきたのだ。
海老を焼く店が多い事から『海老通り』と呼ばれる細い道を歩くと、一番街通りにぶつかる。
それを靖国通りとは逆のコマ劇場の方向へ向かう。
すぐ右手には四十四名の死傷者を出した一番街の大火事があったビルが見える。
世間一般では大火事と報道されていたようだが、実際は爆破が元で始まったあの大惨事。
何故爆破だったという事実をマスコミは報道しないのか不思議でしょうがない。
俺が一番街通りのゲーム屋ワールドワンにいた頃、毎日数名の刑事が次々と店にやってきては、「この男を知らないか?」と一枚の写真を見せてきた。
監視カメラに写った一人の中国人男性。
幸いワールドワンでは外国人を一切入店させなかったので、この男とは無関係で済んだ。
あの惨事から数年。
未だ雑居ビルには何の商売も入らず、近々建物自体取り壊し予定だと聞く。
ここで四十四人の命が亡くなったなんてなあ……。
俺はビルの目の前で足を止めると、しばらく眺めた。
コマ劇場が見えると左手に進む。
少し行くと、右側にはレンガ造りのセントラル通り。
その対面にはコマ劇場内にある『フライキッチン・峰』といううまくて安い良心的な店がある。
待ち合わせ時刻は五時だから、まだ三十分ほど時間はあった。
ちょっと顔を出していくか。
「あ、いらっしゃいませ。お兄さん、久しぶりね」
もうここで働いて数年になるフィリピン人のお姉さんが俺に気付き、挨拶をしてくる。
未だたどたどしい日本語の発音だが、会話する分にはまるで困らない。
「お久しぶりです。おばあさん、退院しましたか?」
昔からいた峰のおばあさん。
ずっと元気でやっていたが、ある日新宿駅のホームで自動販売機の人間とぶつかってしまい、階段から転げ落ち、足の骨を折ってからは入院生活が続く。
そのピンチヒッターとして雇われたのがこのお姉さんだった。
「う~ん、おばあさん、『東京はもう怖い』って田舎に帰っちゃった」
「あらら…、そうだったんですか……」
口癖が『みんな私の事を知っている』と言いながら、ご飯を漫画に出てくるような尋常じゃない盛り方をしたおばあさん。
もう一度ぐらい顔を見たかったんだけどな。
「お兄さん、注文何する?」
「んー、じゃあカニクリームコロッケとメンチカツ。あ、それと……」
「上お新香?」
「よく覚えてますね」
「いっぱいお兄さん来てくれたね。私も覚えるよ」
ここに来るのは約半年ぶりなのに……。
歌舞伎町で行きつけの店を三つ上げろと言われたら、間違いなくこの峰も中に入るだろう。
俺にとって特別な店の一つである。
ご飯や味噌汁はお代わり自由。
量もてんこ盛りなのに値段は千円以下の店なんて、そうそうない。
ここへたくさんの人間を食べに連れてきて、十年近く経つ。
他愛ない会話をしながら、今度この店に百合子を連れてこようと考えていた。
でもあいつ少食だから、「こんな量の多い店嫌だ」って困った顔するかもな。
キッチン峰を出るとちょうどいい時間帯になっていたので、俺は左方向へ向かって真っ直ぐ進む。
世間一般でいう『歌舞伎町』とはこのエリアをだいたい指す。
左右には風俗店や裏ビデオ屋、そして最近になって新しくでき始めた情報館などが並ぶ道。
そこへ交差するようにセントラル通り、さくら通り、突き当りが東通りになる。
通りに立つ無数のポン引きたち。
通行人に手当たり次第声を掛けているが、俺が通ると何人かのポン引きは軽く頭を下げてきた。
別に何の面倒も見ていないんだけどなあ。
こちらも同じように軽く会釈をしながら歩く。
さくら通りを過ぎ、突き当りの東通りを右へ曲がる。
この通りは歌舞伎町の中でも寂れた感じがして人通りは少ない。
位置的には新宿区役所のすぐ裏になるが、一本奥へ行くと急に雰囲気が変わるので、一般の慣れていない人々は敬遠したがるのだろう。
右手に曲がってすぐ左へ曲がる道がある。
そこを真っ直ぐ行って右へ曲がればすぐ区役所だ。
その地点にゲーム屋時代の元部下である山下がボーっと立っていた。
「おい、山下」
「あ、岩上さん!」
「式典中か?」
式典とは、裏業界で見張りの意味がある。
「そうです。寒いのに嫌になっちゃいますよ」
「それはしょうがないだろ、仕事なんだから」
山下は変形十字路の角にあるレートが十円のゲーム屋で現在働いている。
入口はシャッターが閉められ、一見するとどこに店がという感じだが、警察の目がうるさい為、常連客のみを相手にこうしてひっそりと営業をしていた。
一昔前ここは『サン』というレトロな喫茶店で、接客態度のなっていない酷いウエイトレスがいたものだ。
新宿クレッシェンドの続編のでっぱり。
この作品に出てくる酷い喫茶店は、このサンをモデルに書いたものだった。
「岩上さん、こっち来るなら連絡して下さいよ」
「遊びで来たんじゃねえ。今日は仕事の話で来たんだ」
「え、また歌舞伎町で働くんすか?」
嬉しそうな顔になる山下。
こいつ、以前俺の下で働いている時、適当な行動をして怒りを買い、頭突きを食らいクビになったくせに、何故か不思議と懐いてくる。
友達が少ないんじゃないかと疑ってしまう。
「まだ分からない。ビデオ屋じゃない事だけは確かだけど」
「決まったら教えて下さいよ。ちょくちょく顔を出しに行きますから」
「……」
相変わらずこの男、式典の重要性を何一つ分かっちゃいない。
警察がいつ動き出すか分からないから見張りを立てているのに、それを抜け出して遊びに来るなんてのん気な顔で言っているのである。
先日俺がこの通りの先で捕まった瞬間を見ているはずなのに、まるで危機感がない。
「あれ、どうしたんすか、岩上さん」
「真面目に仕事をしてろ」
それだけ言うと、俺は元フィッシュの方向へ歩き出す。
もう自分の部下ではないし、変に説教をしてもしょうがない。
憎めない性格のせいか、いつも適当に振舞っていても何故か許されてしまう山下。
今後自分の部下には絶対に置きたくない男である。
「決まったら教えて下さいね~」
山下は無邪気に俺へ向かって両手を大きく振っていた。
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