岩上智一郎の作品部屋(小説・絵・漫画・料理等)

著書:新宿クレッシェンド
とりあえず過去執筆した作品、未完成も含めてここへ残しておく

メルヘン

2023年03月01日 13時58分18秒 | パパンとママン/メルヘン/酢女と王様

メルヘン コメディ

 

 よく分からないけど、僕の左手には人を癒す力があるらしい。

 ある日、通りすがりの人に言われたんだ。

「すみません。少々お時間よろしいでしょうか?」

 そう言って長い黒髪の女性は、突然、僕に話し掛けてきた。そりゃあ、ドキドキしたさ。だって僕は二十七歳にもなって、いまだ女性経験が一度もないんだから……。

 学生時代は、いつもビリから数えたほうが早いぐらいの成績。喧嘩はした事ないけど、ゲームセンターへ行くと、必ずといっていいぐらい、不良に絡まれ恐喝されたっけな。もちろん顔だって、当然格好良くない。

 異性に告白ぐらいはした事ある。でも、どんな人だって、みんな決まってこう言うんだ。

「あの~…、ご、ごめんなさい……」

 何で勇気を振り絞って告白したのに、謝られなきゃいけないんだろうか。嫌なら嫌でハッキリと「タイプじゃないので嫌です」ぐらい言ってほしいものだ。じゃないと僕に対して失礼なんじゃないか? いつもそう思うだけで、実際には口にしない。

 社会人になって初めてのボーナスが出た時、会社の同僚と一緒に風俗へ行った。

 でも、全然駄目だった。僕は緊張するあまり、シャワーを浴びている最中でいってしまった。三回ほど風俗へチャレンジしたけど、ノミの心臓とでもいうのだろうか。極度の緊張が押し寄せ、ただ無駄金だけを使うハメになっている。

 彼女ができた事がないどころか、異性とデートすらした事のない僕。

 そんな僕に、初めて女性がいきなり路上で声を掛けてきたんだ。そりゃあ、嬉しいさ。僕に向けて、この女性は笑顔で話し掛けてくれているのだから……。

「どうかしましたか?」

 長い黒髪の女性は、キョトンとした表情で目を大きく見開き、僕を上目遣いに見つめている。ほのかに甘い心地良い香りが、鼻をついた。

「あ…、あの…、その…。そのですね……」

 何か気の利いた台詞の一つぐらい、すらっと出ればいいのに…。自分で自分を恨めしく思う。

「少しだけお時間いただけませんか? 迷惑でしょうか?」

「えっ…。あ~…、はいっ!」

 心臓の鼓動がシフトチェンジして早くなっている。このまま行くと、デットヒートを起こすかもしれない。それでも僕は嬉しかった。こんな間近に女性がいる。甘い香りは僕をよりいっそう興奮させた。

「では、どこかコーヒーでも飲めるところへ行きませんか?」

「は、はぁ……」

 そんな訳で僕は今さっき知り合った女性と、喫茶店へ行く事になったのであった。

 

 稼ぎの悪い僕は、目をじっくり凝らしてメニューを眺める。

 コーヒーなんて、自分で淹れればかなり安く上がるはずである。それがこのような喫茶店だと一杯四百円もとる。ぼったくりもいいところだ。きっと歌舞伎町のポン引きも真っ青だろう。

 原価が知れているコーヒーを注文するなんて、僕から言わせればただの馬鹿だ。

 では、何にするか…。値段と原価を計算しつつ、頭の中は高速回転をしだす。

 コーラなら自動販売機で買えば、百二十円。ここだと三百円。オレンジジュースも同じようなものである。百八十円もぼられているのだ。

 じゃあ、クリームソーダは…。まずアイスを百円で買って、それにソーダ水。アイスの分、割り増し料金になっていて四百五十円。でも、アイスを買ったとしても、一回ですべてを使い切る訳ではない。そうなると……。

「注文決まりました?」

「あ…、ちょ、ちょっと待って……」

 まさかこんな事を考えているだなんて、彼女には微塵も悟らせる訳にはいかない。ここは一つ、彼女と同じものを注文しよう。それが一番無難なような気がする。

 いや、待てよ……。

 ひょっとしてここは僕が男だから代金をすべて払うぐらいのキップの良さが必要になってくるかもしれない。

 この場を僕がすべて払うと仮定して……。

 一週間後の給料日まで、毎日カップラーメンを食べられるはずなのに、袋のインスタントラーメンを食べるハメになるかもしれない。

「私はウインナーコーヒーで」

「ちょ、ちょっと待って下さいね」

 慌ててメニューを確認する僕。ウインナーコーヒーとは何だ。いや、コーヒーの内容よりも、金額がいくらかを確認するのが最優先である。

「ゲッ……!」

 思わず声を出してしまう。何故なら五百円もしやがるからだ。

「どうかしましたか?」

 長い黒髪の女性が心配そうに覗き込んでくる。とにかく一番安い飲み物を頼まねば……。

「い、いえ…、冷たいのが飲みたかったので、僕はコーラにします」

 これで五百円と三百円で、合計八百円…。道端で缶コーヒーにしとけば、二百四十円で済んだのにな。まあ、仕方ない。今日ぐらい大目に見よう。

 

 注文した飲み物がテーブルに置かれると、僕はストローも挿さずに一口飲んだ。

「あ、ごめんなさい。そういえば私、まだ名前も名乗っていなかったですよね」

 甘い香りを発散する黒髪の女性は軽く微笑むと、コーヒーにクリームと角砂糖を二つ入れ、静かにスプーンでかき回した。

「私、小山幸恵といいます。友達からは、『ちゃちえ』と呼ばれてるんですよ」

 そう言うと、ちゃちえはおかしそうに笑い出した。なかなかチャーミングな笑顔である。二十七年間生きてきて、初めて異性とこんな和んだ空気の中、楽しく会話をしているのだ。店内でひっそりかかるクラシックの音楽も、僕と彼女を祝福しているように思う。そう感じると、僕は幸せ者である。

「ぼ、僕は坂東一といいます。会社の同僚からは『いっちゃん』とか呼ばれてますね」

 お互い簡単な自己紹介が済むと、再び飲み物を啜った。待てよ…、そういえば彼女は何の目的で僕に声を掛けてきて、こんなところへ連れてきたのだろう。

 まさか、新手のマルチ商法じゃないか? まだ両手放しに喜べる段階ではないのだ。

「何故、道端で坂東さんに私が声を掛けたかなのですが……」

「は、はぁ……」

 いきなり核心の話題がやってきた。僕は警戒心も忘れず、平常心を持って接しなければいけない。寝首をかかれては駄目なのだ。何しろこんな喫茶店で、普通に高めのウインナーコーヒーを注文するような女だからである。

「私、コンチャペルというものをやっていましてですね」

「コ、コンチャペル?」

「ええ」

 新手の詐欺だろうか。簡単に引っ掛かるほど僕は甘くないぞ。

「そ、それは一体どのようなものなんでしょうか?」

「分かりやすく言うとですね。今日、あの時間、あの場所で私とあなたが出逢ったのは、偶然でも何でもないのです」

「…と、言いますと?」

 コーヒーを飲んで一息つくちゃちえ。しなやかに光る黒髪が、怪しげな雰囲気を醸し出している。口元にはクリームの泡が、少しだけついていた。

「言い方を代えれば運命の交差した日でもあるのですよ」

 喋る度にクリームの泡が徐々に垂れている。僕は彼女の話よりも、口元の白い泡が気になって、そこだけをジッと見ていた。

 口元に白……。

「うっ……」

 変な妄想をしてしまい僕は、思わず勃起していた。落ち着け…。ここは冷静にならなきゃ駄目だぞ。

 一体、ちゃちえこと小山幸恵は、僕にとって魔性の女なのか。改めて彼女全体を眺めてみた。

 シックなデザインの白いワンピース。

 髪の毛は背中の肩甲骨辺りまで伸び、小さな顔にそれぞれのパーツが形よく整っている。

 ある程度の人間が見れば、この子は綺麗だという部類に入るであろう。それはこの僕が絶対に保障できる。

 スタイルは全体的に細身ではあるが、たわわに実った胸が、僕の下半身をよりいっそう刺激した。

 僕なりの結論……。

 マルチでもねずみ講でも何でもいい。僕はこの女性を抱いてみたい。

 坂東一の初めて女性…。いくら何でも話が飛躍し過ぎではあるが、勝手な妄想は、僕の下半身を爆発しそうなぐらい大きくしていた。

 

「坂東さん、あなたの左手を見せてもらえますか?」

 ボーっと妄想の世界に入り込んでいた僕の左手をちゃちえは不意に握り、自分の胸元へ優しく手繰り寄せる。

 小気味いい柔らかな手の感触。僕の下半身が、下からテーブルを突き上げないか心配になってきた。

「うん、やっぱり!」そう言いながら、彼女は嬉しそうに満面の笑みを浮かべる。

 このままずっと手を握り締めてほしい。まったりと、それでいてくどくない感触の気持ちいい体温を感じながら、僕は次第に興奮していた。

「幸恵さん…。ところでコンチャペルって何でしょうか?」

「あなたの手…。すごいわ……」

「え?」

「物凄いパワーを秘めていますよ。あなたの左手は、その内、手をかざすだけで人を治せるような素晴らしい力を持ちます」

 僕が人を治す力……。

 そんなものある訳ない。だって僕はしがないパン屋工場で働くベルトコンベアー男なんだから……。

 来る日も来る日もひたすら流れてくるパンをケースに四つずつ詰め込む仕事をして、早九年が経過している。いまだ役職すらなく手取り十五万円の安月給で使われる身の僕。

 そんな日々を過ごしながらも、手だけは大事に扱ってきた。毎日パンを鷲づかみしながら仕事しているのだ。

 想像してみろ。

 もし、僕が何だかの形で手に怪我を負い、出血した赤い血が運ばれてくるパンに付着したとしたら…。うちのパンを心待ちにしている全国のちびっ子諸君らが、僕の血のついたパンに気づいたとしたら、どうなるんだ?

 中にはトラウマになり、大人になってもパンが苦手というような子供が誕生してしまうかもしれない。

 この間僕の先輩であるトンカツ屋チェーンの部長と道端で偶然会った時の話だけど、「いや~、まいったよ、いっちゃん。この間鳥の唐揚げを食べた女子高生の親からクレーム来ちゃってさ」と話し掛けてきた。

「どうしたんです、とっくんのお兄さん」

「唐揚げを持ち帰りで食べたら口の中を切ったって。それで娘が唐揚げを見る度、トラウマになったらどうするんだよって言われちゃってね。ハッキリ言ってそんなの知るかいなって言いたいよ」

「そんなの知るかって言ってやればいいじゃないっすか」

「それがね、全国的なチェーン店になってしまうと、そうもなかなかいかんのだよ」

 じゃあ、僕にそんな愚痴をこぼすなよ。そう心の中で呟いた。

 そんな訳で、手だけは最新の注意を払って大事にしているのである。ちびっ子を泣かすような真似だけは避けたいものだ。

「あの…、坂東さん?」

「は、はい!」

「どうかしましたか?」

 マズい。ここで彼女に機嫌を損ねられたら、この蜂蜜のように甘い時間も終わりを告げる。脳味噌フル回転だ。

「そ、それでですね…。僕は布団を買えばいいのでしょうか? それとも空気清浄機?」

 この人の体を自由自在に抱いてみたい。今僕は、そんな男の本能に包み込まれている。だったら話を早く済ませよう。

「何を言ってるんですか」

「え…。だって……」

「あなたには人を癒し、そして正しい方向へ導く…。そんな素晴らしい力があるのですよ。自覚してみて下さい」

「……」

 小山幸恵ことちゃちえは一体、何を僕に伝えたいのだろうか? 彼女の真意がよく分からない。

 

 自分の左手をジッと眺めてみた。

 いつもと何一つ変わらない普通の手だ。よく匂いを嗅いでみると、若干パンの香りがするかもしれない。ペロンと小奇麗な舌先で舐めてくれるのかな?

 小山幸恵は、さっきから淡々と一人で説明していた。

「いいですか? 今、坂東さん自身、まだ力に目覚めていない状態です。暗闇の中で白い壁に手をつき、目を凝らしてじっくり見てみて下さい。きっと白いモヤのようなものが見えるはずです。それがあなたのオーラというものでして……」

「はぁ……」

 オーラとか力だとか、そんなもの僕には分からない。この人は綺麗な顔して変な事を言うなあ……。

「人を治す際、治せるのかなではなく、治せるって思い込む事が大事です」

「あ、あの…、僕ね…。しがないパン屋で働く人間で、いきなり人を治すとか言われても困るんだけど…。これにコンチャペルって、一体……」

 ひょっとしたら、この人は頭が少しおかしいのかもしれない。常にモサッとしている僕に対し、人を治す力とか言われても困る。

 昔から女性に、男として接してくれた人など誰一人いなかった。誰もみな、僕を不思議と忌み嫌う。女性にもてないオーラが充満して、体中の毛穴から滲み出ているのかもしれない。

 この人も僕をからかって楽しんでいる。きっと、そうなのかもしれないな……。

「坂東さん……」

 不意に僕の左手を握り締めてくる幸恵さん。

「さ、幸恵さん……」

「親しみを込めて、ちゃちえと呼んでも構わないですよ」

 優しく微笑む彼女を見て、再び僕はボーっとなってしまう。何て柔らかい手なんだろう。男のガサツな手と違い、しっとりとウルウルして気持ちがいいものだ。

 図に乗った僕は、空いている右手でも握り締めようとした。

「だ、駄目っ!」

 咄嗟に手を引き抜くちゃちえ。

「右は駄目です……」

「え、何で?」

「左手に癒しの力が宿っているのと同時に、あなたの右手には悪魔的に破壊の力が備わっています。その気になれば、坂東さんが人間を壊す事など造作もない事でしょう」

 僕が人間を簡単に壊せるだって…。嘘だ。生まれてから喧嘩というものから逃げてきた人生。一度だって戦いというものを選択した事がない。要はとても臆病者なんだ。

「ぼ、僕が人を壊すだって? そんな事、無理だよ……」

「今のところ、あなたは癒しと壊しの力が、ちょうど半分ずつあります。私の言う事を真剣に聞いて下さい」

「さ、さっきから真剣に聞いているよ……」

 熱の籠もったちゃちえの視線に堪えられず、僕は両手をゆっくり開き見つめてみた。

 癒しの左手に、破壊の右手だって……。

「あなたが聖なる癒しの力を上回るには、まず、あなた自身の自覚が必要不可欠です。そして、そんな坂東さんを守護し、一緒に旅を続ける仲間も必要です」

「なっ…、何をいい加減な事、言ってるんだよ! 仲間? 聖なる癒しの力? 冗談じゃない。僕は喧嘩だって一度もした事のない、只のヘタレだよ!」

 首を横に振り、済ました表情でちゃちえは続けた。

「まだ、自分の能力に気づいていないだけです。これからあなたはどう足掻いても……」

「やめてくれっ!」

 僕が、右手で喫茶店のテーブルを叩いて立ち上がった瞬間だった。

「……」

 発泡スチロール…。いや、それよりももっと柔らかく脆い何かの物体に感じた。固いテーブルを叩いただけなのに、目の前のテーブルはいとも簡単にペシャンと潰れるように壊れてしまったのだ。

 一気に店内の客たちが騒ぎ出し、ウエイトレスも驚き戸惑っていた。

 咄嗟に僕は、ちゃちえの腕を左手でつかみ、席をあとにする。まさか僕の右手にこんな物凄いパワーがあったとは……。

 目の前で起きた非現実的な光景に、驚き慌てふためいてもおかしくない状況下の中、不思議と僕は落ち着いていた。

 入口のガラスのドアを左手で開け、外へと飛び出した。

 

「だから言ったでしょ、坂東さん…。あなたのその右手には、破壊の力が備わっているって……」

 喫茶店から少し離れた位置にある公園に辿り着くなり、ちゃちえは息を乱しながらも話し掛けてきた。

 多分これは夢の中なのだろう。だからこんな無茶苦茶な現実が目の前にあるんだ。

 頬を指でつねってみる。

「いっ…、痛っ!」

「何をしてるのですか?」

「いや、現実じゃなく夢の中なんじゃないかなと……」

「夢なんかじゃないです。これは現実に起こっている事なんですよ」

 いまいち信じられないが、これは夢の中の出来事ではないらしい。一体僕は、これからどうすればいいのだろうか。

 今までこの右手で人を殴った事などなかったが、もし、この手で昔、喧嘩していたら…。そう考えると、思わずゾッとした。違う。そんな事よりも、これからマスターベーションをどうやればいい? 僕は右利きだから、当然右手を使う。今度から自分の息子を握った瞬間、あのテーブルのようになっちゃうんじゃないのかな……。

「静かなところへ行きませんか?」

「え?」

「ゆっくりお話できるところへ」

「でも、どこで……」

「人のいない空間が望ましいです」

 誰もいない二人きりの密室…。僕はすぐさまホテルを連想させた。

「そ、そうだよね…、へへ……」

「とにかくあなたは、あの喫茶店で力を解放してしまったのです。敵に気づかれない内に、この公園から立ち去ったほうが賢明です」

 敵…。またちゃちえは面白い不思議な事を言い出すものである。冗談を言う時も、真面目な顔で淡々と口を開くのだから……。

 とりあえず僕たちは、公園を出て二人きりになれる場所を探す事にした。こんな綺麗な女性と密室で二人きり。しかも男と女である。何か期待しても、罰は当たらないだろう。

 ジャングルジムの横を通り過ぎ、ブランコの目の前を通る際、妙な点に気づく。

「あ、あれ…。こ、小山さん……」

「呼び方はちゃちえでいいですよ」

「じゃ、じゃあ、ちゃちえさん……」

「何でしょうか?」

「この公園、僕たち以外、誰一人いなかったのに、今、いつの間にかブランコを漕いでいる男性がいますね…。いつ、ここに入ってきたのでしょう……」

「くっ、いつの間に……」

「あ、あれっ?」

 僕らがブランコのほうを振り向くと、さっきまで漕いでいた男性の姿が見えない。

 背後にざらついた気配を感じ、慌てて振り返る。

「うわっ!」

 ブランコの男は、いつの間にか僕らの背後に立っていた。

 身長百八十センチぐらいの大男で、いかにも乱暴者といった気配が、体中から滲み出ているようだ。

「コンチャペルの残党が…。いい加減目障りだ。この場で死ね!」

 地の底から響くような低い声を吐きながら、ブランコの男は右手を上に振り上げた。

「危ない! ちゃちえさん!」

 男の拳がちゃちえの顔目掛け迫る瞬間、僕は左手でその拳を受け、右手で殴り掛かっていた。

 入り口の電話ボックスまで、男は吹っ飛び、派手な音を立てながらガラスを割る。

「う、嘘だろ…。香港アクション映画のワイヤーアクションでもやっているのか?」

 僕の拳で、人間があんな吹っ飛び方をするなんて信じられない。しかしその非現実な光景を目の当たりにしているのである。

「ね、ねぇ、ちゃちえさん…。あれ?」

 隣にいたはずのちゃちえがいない。僕は辺りを見回した。

「た、助けて……」

 ジャングルジムの上に、ちゃちえはいた。しかも、さっき僕が殴り飛ばした男が、抱えるようして横に立っている。

「何をしてるんだ、おまえ。ちゃちえさんを離せ!」

「くくく、コンチャペルの連中に、おまえを清い方向で目覚めさせられたら、こっちが困るんだよ」

 僕は、ジャングルジムの真下に立ち、男の顔を睨みつけた。

「そうそう、おまえはそうやって憎悪を燃やせ」

「何だって?」

「おまえはこっち側に来るべき人間だ。怒れ、もっと怒りを燃やせ。今日のところはこの女を預かっておく」

 男は、ちゃちえの口を手で塞いでいるので、彼女は喋れない状態でいる。

「ふざけるな! 彼女は、これから僕と一緒に時間を過ごす予定だったんだぞ!」

「馬鹿め。俺に対してでもいい。おまえは憎悪を燃やしておけ。覚醒した時、迎えに来るぞ!」

 僕は、ジャングルジムをよじ登りだす。これから人生初の甘い瞬間を楽しめると思ったのに邪魔しやがって…。だが必死に登り終わると、上には誰にいなかった。

「ふははは…。今日の夜、喜多院へ来い!」

 男はいつの間にか、下でちゃちえを抱えた状態で立っていた。

「キ、キサマ~……」

 僕の視点は、奴の手にいっていた。愛しきちゃちえを抱きかかえつつ、奴の手は彼女の胸にモロ当たっていたのだ。あの豊満な胸に……。

 羨ましさと、妬みの感情が燃え上がる。

「喜多院の五百羅漢…。そこへ来い」

「今すぐその手を離しやがれ、チクショウ!」

「お、何だ? おまえ、何か違う感情で怒っているのか?」

 あざけ笑う男。核心を突かれた僕は、思わず赤面した。

「待たせたな、ちゃちえ。遅くなってすまん」

 突然、別の男の声が横から聞こえる。ブランコの上の鉄の棒に人影が見えた。

「ち、新手か…。この場は展開的に都合悪いな。ひとまずアバヨ!」

 奴が足元に何かを投げつけると、辺り一帯白い煙に包まれた。息苦しさで目を閉じ、鼻を塞ぐ。

「く、逃げられたか……」

 ブランコの棒の上にいた男が、ジャングルジムの下に立っていた。僕は恐る恐るジャングルジムから降り、彼に近づく。

「一体、何者なんだ? あなたたちは……」

 彼の格好は、その辺にいる普通のサラリーマンにしか見えなかった。何やら胸元をゴソゴソ探り、財布を取り出し、白いものを手に取った。

「あ、はじめまして。坂東一さんですね。紹介遅れてすみません。私、コンチャペルの戦士『田中寛』と申します」

 営業サラリーマンが名刺を渡すかのように、彼は『コンチャペル 戦士 田中寛』と明記された名刺を僕に手渡してきた。

 

 今、僕は、『田中寛』と名乗るどう見ても営業サラリーマンにしか見えない男と一緒に、ラーメン屋で味噌ラーメンを啜っていた。

「いや~、私はここの十八番の特製醤油ラーメンが大好きでしてね~。どうです、おいしいでしょ?」

「はぁ、でも私のは味噌ラーメンですよ」

「じゃあ、しょうがない。私の一口だけあげますよ」

「い、いえ…。結構です」

「何だ、おいしいのにな……」

「そんな事より、ちゃちえさんを早く救いに行かないと……」

 何でこの人は仲間がさらわれたというのに、こんな呑気にラーメンを食べてニコニコしているのだろう。

「大丈夫、大丈夫…。奴らの目的は、ちゃちえではないので……」

 気安くちゃちえと呼び捨てにしている田中。僕はあまりいい感情をこの人に持てないでいる。

「そんな事、言ったってですね。現実問題、彼女はあの男に連れてかれているじゃないですか?」

「ほら、早く食べないと、麺延びますよ」

「あ、はぁ……」

 仕方なく僕は、食べる事に没頭する。

「本当は、特製醤油ラーメンもいいんですけど、モヤシそばも捨てがたいんですよ」

 田中は、口の回りを汁だらけにして麺をほお張っていた。何か生理的に嫌いなタイプで受けつけない男といったところか。

 食べ終わり、レモンを軽く含んだ水を口に入れる。

「喜多院と言っていましたね、奴は……」

「ええ…。確か五百羅漢とか言ってました」

 髪の毛の脳天の部分がややハゲ掛かっている田中。年齢的には四十台半ばといった感じだろうか。グレーのよれよれのスーツを着て、全身からは疲労感が漂っている。一体、彼のどこら辺が戦士なのか、想像もつかない。

「むぅ…。五百羅漢か……」

「どうかしたんですか?」

「あそこは暗いしね、夜になると…。ちょっと嫌だな~」

「あなた、戦士なんでしょ? 何が嫌なんですか!」

 こんなのと一緒に行動して、本当に大丈夫なのか? 不安でいっぱいになってくる。

「戦士とはいえですよ。苦手なものぐらいありますって」

「では、ちゃちえさんはどうなるんです? あなたの仲間なんでしょ? 違うんですか?」

「そんな一気に捲くし立てないで下さいよ。怒る相手が違うでしょ」

「だいたいコンチャペルって何なんですか?」

 彼の名刺にも書いてあったコンチャペル…。ちゃちえもそう言っていたが、まるで意味不明である。

「まだ、七時ですか…。仕方ない場所を変えて話しますか」

 そう言って彼は立ち上がり、僕にラーメン代を奢ってくれた。

 

「エスプレッソを一つ。坂東さんは?」

 ラーメン屋の次は、喫茶店…。本当に田中という戦士は呑気な男である。

「こんなところでくつろいでいていいんですか?」

「まあまあ、まだ時間があるので、一息つきましょうよ」

「何、呑気な事を言ってるんですか!」

「まあまあ、ここはコーヒーでも飲んで、精神を落ち着かせましょうよ」

「あなたの行動自体にイライラしてるんです!」

「では、なおさらコーヒーを飲んだほうがいい。コーヒーに含まれるカフェインには、精神を落ち着かせ、リラックスさせる効果もあるらしいので」

「あ~~~~~~~~~~~~、もう!」

 強引に言いくるめられる形で、僕は『大正館シマノコーヒー』という古風な感じの喫茶店内に入ったのである。

 今までの人生の中で、一日二回も喫茶店に行くなんてありえない事であった。

「ほら、坂東さん。何にします?」

 先ほどちゃちえと入った喫茶店は、どさくさに紛れて代金を払わずに済んだ。ここでは、そうは済まないだろう。

「……!」

 いいアイデアが閃く。この男は僕と共に行動をしようとしている。つまり、僕が一緒にいないと何かしら困る事があるのだろう。だったら、この男に奢らせてやれ。僕のコーヒー代を……。

「お、奢りすか?」

「え、何ですか?」

 この野郎…。トボけて聞こえないふりをしやがって……。

「ここ、奢りなんでしょうか、田中さんの?」

「あ、ああ…。も、もちろんですよ。私が誘ったのですからね」

 この野郎、無理して格好つけやがって……。

「そうですか。じゃあ、何にしようかな……」

「こ、このブラジルサントス・ナンバーツーなんてどうです?」

 何故か、無性にこの男に対し、意地悪したくなった。

「それより、こっちのほうが高いじゃないですか?」

 僕は、一番高い部類に入る『オーガニックコーヒー』を指差しながら言った。

「そ、そうですけど…。でも、香りを楽しみたいなら、ブルーマウンテンのほうが……」

 なかなか田中という男は、やる奴だなと感じる。『オーガニックコーヒー』は、七百円。そして『ブルーマウンテン』は、八百円もするのだ。コーヒー一杯で百円も違うのである。彼の頼んだエスプレッソは、ちなみに六百円…。意地悪するつもりで言った自分が、情けなく感じた一瞬でもあった。

「さて、それでは話しましょう。コンチャペルの事を……」

 ようやく本題に入るのか。僕は目の前の水を軽く口に含み、グチャグチャしてみた。

 

 茶色い木のテーブルに置かれたブルーマウンテン。

 コーヒー通の人間にとっては最高級のものなのであろうが、僕には何の変哲もないただのコーヒーにしか見えない。

「どうです? ブルーマウンテンの香り…。いい匂いでしょう?」

「そ、そうですね…。まったりとして…、それでいてしつこいくない芳しいというか……」

 一応、ここは彼の奢りである。このぐらいは言っておくのが礼儀というものだろう。

「まず、コンチャペルというのは、私たち組織の名称なんです」

「そ、組織? 何ですか、組織って……」

 さらわれたちゃちえにしても、妙な事を口走っていたが、一体、この人たちは少し頭のおかしな集団なのか。

「坂東一さん。あなたが『メルヘン』として目覚めるのを守る組織がコンチャペルなんですよ」

「はぁ~? メルヘン? 何すか、それは!」

「あなたは、まだまだ発展途上の人なんです。癒しと破壊、両方の力を兼ね備えているので、常に正しき清い心を持ってほしいのです」

 彼女も言っていた。僕の左手には癒しの力、右手には破壊の力が宿っていると……。

「いきなり清くとか言われても……」

「ええ、その為、あなたを正しい方向へと目覚めさせる組織、我らコンチャペルがあるのですよ」

 僕を正しく教育だって…。はっきり言って大きなお世話だ。

「いや、あのですね……」

「お願いします。我らの為に…、いや、この世の為にも坂東さん…。『メルヘン』として、目覚めて下さい」

「いや、あの…。メルヘンって何ですか? 嫌ですよ、そんな恥ずかしい名前なんて」

「お願いします!」

 田中寛は、いきなり席を立ち、目の前で大袈裟に土下座をしだした。店内の客、すべての視線がこちらへ集中する。

「や、やめて下さいよ! みんな、見てるじゃないですか!」

「お願いします、坂東さん!」

「人の名前をデカい声で言うの、やめて下さい!」

 真面目そうな顔をした清潔感あふれるマスターが、険しい表情で近づいてきた。

「あ、あの~…。申し訳ございませんが、店内でそのような真似をされましても……」

「お願いします!」

 田中は、マスターの声など耳に入っていない様子である。僕は慌てて立ち上がり、マスターへ話し掛けた。

「す、すみません! お、お勘定をお願いします!」

 結局ここの代金、合計で千四百円も僕が出すハメになった。コンチキショー!

 

 僕は、サラリーマン田中と少し距離をとりながら道を歩く。

 大衆の目の前で、平然と土下座をする神経。それに奢ると言いながら、僕に代金をどさくさに紛れて払わせた人間である。信用ならない。

「坂東さん……」

「何でしょう? もう、くだらない事を聞く耳は持っていないですからね」

 さっきのコーヒー代、払いやがれと、心の中で呟いた。僕の千四百円……。

「すみませんでした。取り乱してしまい……」

 そんな事どうだっていいから、金を払いやがれ…。このメガネサラリーマンめ。

「田中さん、ちゃちえさん、助けに行かないと……」

「え、ええ。そうでしたね。喜多院の五百羅漢ですよね」

「そう言ってました」

「昔、逸話を聞いた事あります」

「何の逸話ですか」

 しばらく田中は目を閉じ、頭の中で何かを考えているようだった。

「よく亡くなったおばあちゃんが言ってました。五百羅漢にある五百の様々な地蔵…。夜中、真っ暗の状態で一つ一つ地蔵の頭を触りながら歩くと、一つだけ暖かく感じる地蔵があるらしいんです。印をつけて、翌朝、見に行くと……」

「見に行くと?」

「その地蔵が自分の将来にそっくりの姿らしいですよ」

「へえ、そうなんですか」

「まだ、私は試した事ないんですけどね。そうだ! 坂東さん、チョークか何か印つけるものを買って、五百羅漢の地蔵で試してみますか?」

「あのですね…。ちゃちえさんを助けるんじゃないんですか!」

「あ、そうでした…。では、向かうとしますか」

 内心、こんな人と一緒で大丈夫なのだろうかと、もの凄い不安に襲われた。

 名刺に書いてあった『戦士』という言葉。一体、彼のどこら辺が戦士なのだろうか? あの野蛮そうなオーラに包まれた男。あんな凶暴そうな男に、果たして田中は対抗できる力を持っているのか。

 考え事をしながらぼんやり歩いていると、誰かにぶつかった。

「いてーな、このクソオヤジ!」

「はっ!」

 目の前には、派手派手な服を着た若い男が仁王立ちでいた。表情を見た限り、かなり怒っている感じだ。横には連れが二人いる。

「いきなり人の体に体当たりしやがってよ。どう落とし前つけんだよ?」

「す、すみません……」

 僕はさりげなく田中をチラリと見た。戦士だったらすぐに助けてくれよ。必死に心の中で手を合わせ、祈った。

「おい、人の話を聞いてんのかよ?」

 若者は僕の胸倉をつかむ。

「ひ、ひぃ……」

「あ、あの~……」

 気付けばいつの間にか、田中は若者の横に立っていた。

「何だ、テメーは?」

「私、田中と申しまして……」

 名刺を出しながら、一礼する田中。そのお辞儀した頭が、若者の鼻っ柱へめり込む。

「みぎゃっ!」

 鼻血を吹き出しながら、倒れる若者。横にいた二人は、一瞬怯んだ様子を見せたが、すぐ現実に戻り、田中へ襲い掛かった。

 鼻にピアスをした男のパンチをすり抜け、右手を伸ばす。その指先が、鼻ピアスの男の耳をつかんだ。その状態のまま、もう一人の大男が殴り掛かる。

「うぎゃぁ~!」

 田中は、耳を強引に引っ張り、鼻ピアスの男を盾代わりにした。大男のパンチが、鼻ピアスの顔に思い切りヒットした。

「こう見えて私、戦士なんですよ」

 ボソッと呟き笑みを浮かべたまま、田中は大男に組み付き、目に留まらない速さでブン投げた。大きな弧を描いて大男は地面に叩きつけられ気絶する。

「さて、人が集まるとやっかいです。五百羅漢へと向かいますか。走りますよ」

 ボーっとその光景を眺めていた僕の左手首をつかみ、田中はすごいスピードで走り出した。

 

 川越喜多院へ到着する。

 僕が座り込んだまま、息をゼイゼイしているのに、田中は汗一つ掻いていない。パッとしない窓際サラリーマンのような彼が見せた素早い動き。夢でも見ているみたいだ。

 彼の戦い方にはまるで無駄がない。あっという間に三人の悪そうな連中を叩きのめしたのである。

「お怪我はありませんでしたか?」

「え、ええ…。田中さんってメチャクチャ強いんですね……」

「何をおっしゃいます。あなたに比べたら、私など足元にも及びません」

 真面目な顔で、田中は言った。

「ふざけないで下さい! 僕なんて一度だって喧嘩もした事ないし、いつだって怖い人たちに脅かされて…。さっきだって、小便チビリそうだったんですよ!」

「今、坂東さんは、二十七ですよね?」

「と、年ですか?」

「ええ、そうです」

「二十七ですよ。あと三日で二十八になりますけど……」

「あと三日間、その優しい気持ちを保って下さい」

「三日って何が三日なんです? 優しいって僕が? 何を言いたいんだか、さっぱり分かりませんよ!」

「ちゃちえを助けたいのでしょう?」

「ええ、もちろんですっ!」

「そのような優しき慈愛の心をなくさないで下さい。あと三日であなたは『メルヘン』として覚醒します」

「あの~…、言ってる事の意味が、さっぱり分からないんですけど……」

「今は何を説明しても、分かりませんよ」

 それっきり田中は黙ってしまった。僕の息が整うのを待ってから、五百羅漢のほうへ進む。僕らはちゃちえを救出しに、ここまでやってきたのだ。

 五百羅漢の入り口といってもすぐなのだが、いつ来ても薄気味悪いところだ。中には五百個の地蔵が羅列されており、夜中に地蔵の頭を触ると一つだけ暖かいものがあるらしい。その地蔵に印をつけて朝見に行くと、それが将来の自分の姿だと言われている。

 馬鹿か、僕は……。

 今はちゃちえを助けに来ているんじゃないか。隣にはとても強い戦士である田中がいる。僕は三日間優しい気持ちを持続させればいい。

 

 

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