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TANAKAHAN日々思った事を綴ってみたりして

盲点

2011-05-31 23:53:03 | Weblog
仕事休み。習い事に行った後、書店に立ち寄り『日本の盲点』(苫米地英人著)を買ってミスドで読み終える。文藝春秋『日本の論点』を吟味しながら、昨今の日本政府と大手メディアの有り方を論じているが、東日本大震災を跨いで書かれており、タイムリーな話題が散りばめられている。僕はテレビを持たないし新聞も購読していないので、都合の悪い情報はひた隠しにされていることに薄々気付いてる。「大本営発表」なんて遠い昔の出来事だと思うのはとんだ錯覚で、今回の地震や原発事故で露呈した。さらに、日本を一番知らないのは実は日本人自身ではないかという新たな疑念も芽生えてくる。周りの情報にまだまだ鈍感な自分の視点に気付かされた。夜、タオカフェに行く。マスターはいなかったが個人的にやることがあったので、2時間ほど過ごして帰宅する。
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そっちの方がスゲー

2011-05-30 23:11:00 | Weblog
久しぶりに米米クラブのPVとライブ映像を見た。他のアーチストのPVと見比べても、唯一無二だと思う。名が知れ渡ったのはバブル全盛の頃だったか・・・。MTVのミュージックアワードでは、当時唯一の日本人アーチストとして『KOME KOME WAR』のPVがインターナショナルビデオアワードのグランプリを受賞している。ライブでは、全国ツアーで3パターンのステージ計60楽曲近くをこなしていた。バブル期って楽に金儲けが出来た時代だったのだろうと僕は勝手に推測しているが、どんな時代でも地道に活動を積み重ねた人が報われるように出来ているらしい。ただ、今さらながら気付かされたこともある。ライブで一番キツイのは誰か?という疑問を抱き、やはり石井さんだと思っていたのだが、実際、衣装替えの時間以外はずっと踊り続けていた「SUE CREAM SUE」が最も大変だったらしい。一世風靡セピアのライブ映像を見たことがあるが、哀川翔以外のメンバー数名はライブ終盤でアゴが上がってた。タフに見える男達ですら踊り続けると息絶え絶えになるのだ。20曲踊り続けるって何気に凄い。
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放送禁止用語

2011-05-29 23:20:38 | Weblog
近頃、夏風邪が流行しているらしい。僕の周りにも何人かいるのだが、咳き込む感じがとても痛々しい。僕も昨今の寝不足感を解消したいので一日寝込みたいが、感染する気配が全くない。そういえば昨年は夏に向けてインフルエンザが猛威を振るっていたと記憶してるが、今年はその気配が全くない。僕には今年の夏風邪と昨年のインフルエンザの違いがまるで分からない。ぶっちゃけ、あのブームで得をしたのはワクチンの製造メーカーだろう。バレンタインデーとホワイトデーを盛り上げるのが製菓会社であるように、インフルエンザは製薬会社の作り上げた流行語だったか?流行語と言えば、今年の流行語は、放送禁止用語のオンパレードな予感。上杉隆さんのリツイートを勝手にリツイートさせてもらうと、ノミネートは「原発利権」「プルトくん」「安全デマ」「上杉隆」「チェルノブイリ越え」「小出裕章」「山本太郎」「反原発デモ」「自由報道協会」「もんじゅ」。予測するにはまだ早いが、これらがどれ一つノミネートされなければ放送禁止用語確定か?ブラックジョークでも笑えない。というか、ブラックジョークにも上がらないメディアの体質そのものはすでにブラックホールか?こうなればもう、反原発ではなく反メディアを訴えるか。
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思いの外

2011-05-28 23:17:15 | Weblog
仕事の後、ギャラリーADOで雨傘屋『隣にいても一人』を見た。つい先日お呼ばれした「ご近所会」のメンバーが「ご近所会」と似た空間で演技をしていて、それを傍で客として観るという、少し不思議な感覚を味わった。この戯曲は平田オリザさんの原作で、確か数年前に県立劇場でも上演されていた。少年王者館の天野天街さんが演出をされていたのだが、テンポの良い会話劇に仕上がっていた。役者として最もやり甲斐を感じるタイプの芝居だったので少し嫉妬した。ただ、リフレインシーンが多用されていたが、その出来は少し甘いと思った。この技量は難易度が割と高くゴマカシが効かない。天野さんの描くフライヤーは独特で、数年前に北九州へ『真夜中の耶次さん喜多さん』を観に行ったときにも思わず絵葉書を買ったほどだ。その人物像が結構気になっていた。アンケートを書く時間に充てようとアフタートークまで残っていたらその人柄を少し垣間見た。マニアックな人だと思ったがそれほどマニアックには見えなかった。そして、僕が思っていたよりも若い人だった。
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手探り

2011-05-27 23:27:15 | Weblog
仕事を終えて一度帰宅し、市民舞台の稽古に参加する。今月までは読み合わせを中心に進められる。キャラクターを固めるという意味においては非常に大事な時期かもしれないが、まだ手探りが続く。稽古が終わってから実家に立ち寄る。妹が帰省していたので、先日の初節句で撮影してA4サイズで現像した写真を渡す。まだ光と影の付け方や色合いの出し方とかは手探り中なので、なかなか思い通りの色が出せないのだけど、それでもA4サイズの写真は迫力がある。一眼レフで良かったと思う瞬間である。
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効果確認

2011-05-26 23:02:24 | Weblog
店舗でシステム導入をするための説明会を行う。毎月場所を変えて同じ説明をするのだが、何度も同じ内容を繰り返すうちに自分自身がマンネリに陥ってくる。でもマンネリが怖いので、余計な言葉を継ぎ足してしまってかえって趣旨が伝わなかったりもする。だから原稿を用意して過不足なく伝える工夫をするのだが、ただ原稿を読み進めるのと、大事な箇所を理解して自分の言葉にして喋るのは伝わり方が違うものである。周りからは「聞く側は初めてだから、原稿を読むだけでも伝わるのでは?」と言われるのだが、舞台で言葉を放つ立場の人間だから多少は敏感になる。やはり感情に言葉が乗らないと熱意は伝わらないし、言葉に感情が乗れば説得力が増す。とにかく思ってもない言葉を発するのはイヤなのである。台本を何度も読んでセリフを覚えて喋るのと、原稿を何度も読むうちにいつの間にか伝えるべき事を覚える場合では、効果が違うらしい。まあ稽古以外の場でも言葉を発する行為においてはいろいろ参考になることがある。
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湯沸かし器

2011-05-25 23:59:27 | Weblog
京都大学原子炉実験所の小出助教授が国会招致されている模様が動画配信されていた(参議院行政監視委員会)。小出助教授は当初原子力エネルギーに対して肯定的だったのだが、研究を進めた結果、皮肉にもその問題点を次々と見出してしまい、原子力エネルギー促進に疑問を呈する一人となった。冷静に話しているが、内心は憤りを感じているように思える。この招致が、国民の不満を代弁するためだけの単なる「ガス抜き」で終わらないで欲しい。原子力発電について改めてここで述べるまでもないが、原子力発電というと特殊な技術を用いた発電に思えるが、ウランやプルトニウムそのものが電気を生み出しているわけではなく、単なる「湯沸かし器」の燃料だ。ただお湯を沸かすために危険な放射性物質を扱うことがナンセンスというか大袈裟な話である。将来的には軍事転用を目論んでいると勘ぐられても仕方あるまい。テレビでは御用学者が安心感を振りまいているようだが、「なぜ原子力でなければならないのか?」という根本的議論から初めて欲しいと思う。
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商才

2011-05-24 23:12:51 | Weblog
仕事休み。昼から習い事に行き、喫茶店で2時間ほど本を読む。夜は友人とダーツ対決。負け越し。習い事での先生との会話や友人との会話で、自分の性格について改めて考える機会があった。基本的に正直過ぎるらしい。確かに僕は表面的な付き合いしか求めない人とは友達になれないようだ。良くも悪くも本音と建前の区別が不得手なのだろう。そういう僕の性格を気に入る人も確かにいるけれど、どうやら大衆受けには縁遠く、ビジネスには向かない性格かもしれない。まあそれで不自由を感じたことはあまりないのが救いである。
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足腰

2011-05-23 23:53:05 | Weblog
仕事を終えてタオカフェに行く。マスターは只今イタリアに行っているので不在。バイトで店番をするスタッフと話をしたが、まだ大学生の彼女も実は先日イタリアに行ってきたらしい。世界を見る目は間違いなく広がっている。僕も行ってみたいが、今はまとまった時間が取れない。学生時代にゼミの同級生からドイツ旅行を誘われたことがあったが、お金がなくて辞退した。今思えば、どうにかお金を工面してその時に行っていれば、世界が違って見えたかもしれない。まあ今さら後悔しても仕方ない。今の自分にも冒険する余地はある。フットワークさえ軽ければ、いくらでもアクティブになれる。
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ピーク

2011-05-22 23:05:25 | Weblog
昨晩は深夜3時頃に目覚めてそれから寝付けず、そのまま仕事に行く。夕方になると眠気がピークで適わない。最近思い通りの睡眠が摂れない。このままでは体調がおかしくなりそうだ。最近までの福島原発事故の経緯を時系列に探ってみようと思った。元原子力技術者のアーニー・ガンダーセン博士が、福島原発3号機爆発に関する興味深い分析を行っている。3号機の爆発によって、燃料棒を含む燃料集合体が飛散し、2~3マイル離れた場所でウランやプルトニウムの破片が見つかったらしい。しかも、爆発による黒煙はウランやプルトニウムが揮発したモノと考えられ、これらを含んだ微粒子は太平洋を越えてアメリカ西海岸に到達したと言われる。現時点では仮説だが、その時の噴煙を米軍機がサンプルとして採取しており、その同位体を調べることによって、使用済み燃料プールで即発臨界が起きたかどうか証明できるという。真相究明は、日本の権力者に不利益をもたらすので、具合の悪い情報は発信されないと考えるべきだろう。京都大学の小出教授は、東電の発表を元に福島原発の現状分析を丁寧に行っていたが、東電の答弁が次々と撤回され、「これではやる意味がない」と呆れ返っている。真相を知りたい時は、真相究明を必要とする集団からの情報収集が最も確実だ。
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運は確率

2011-05-21 23:03:19 | Weblog
とあるどこかの大家族20名余りと山越えをしていた。傍を歩く人に僕が「なぜこのルートを選んだのか?」と尋ねると、「ここが天神から博多に抜ける一番近いルートなのだ」と言われる夢を見てたら目が覚めた。夕べ帰宅していつの間にか爆睡していたようだ。仕事後の慣れないお通夜の受付で、意外と疲れたのかもしれない。急いで身支度を済ませて出勤した。今日も午後から仕事を抜けて葬儀の手伝いをしてた。出棺は午前中に済んでいて、すでに御仏になっておられた。葬儀が行われている昼下がりの午後、僕は受付席で外を眺めながら座っていたら、眩い陽光が差し込んだ。天に召される時の光がこういう光なのかと感じるほどに劇的であった。昭和天皇の「大喪の礼」では雨が降っていたことをふと思い出した。あれはあれであの天候以外考えられないことであった。昔は気象情報が国家機密だったという。その名残りが気象庁である。今は人工的に雨を降らせることが出来るらしいが、天候って運に頼る類のモノなのか?それとも制御する類のモノなのか?ふと疑問を抱いた。
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一幕

2011-05-20 23:35:52 | Weblog
夜は市民舞台の稽古だったが休む。職場の上司の親族にご不幸があり、お通夜手伝いで職場近くの葬儀場に行く。結婚式の受付手伝いの依頼は時々受けるが、お通夜の受付は初めて。スーツとネクタイのチョイスが微妙で、微妙に違和感を放っていたかもしれない。まあこう見えて、存在感を消すスキルにも長けている。弔問客が次々と訪れる状況になればそんなことは全く気にならなくなっただろう。最近は芸能人でも僕が知る有名人が次々と去っていくことに刹那さを感じる。東日本大震災など日本が大きな問題に直面しているこういう時、頼りになる先輩方がいない心細さや、尊敬すべき先輩方から智恵が得られない心細さも限りない。僕は魂の生まれ変わりは信じないが、先祖が抱いた思いや智恵が脈々と子孫へと継承されることが大局的に一つの生命であり、自分がその一部に属することが自分自身の存在意義にも思える。だから、自分の役割というのを改めて考える一幕であったのだ。
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過信

2011-05-19 23:07:24 | Weblog
近頃寝つきが悪い。毎日妙な時間に目覚めて後悔する日々である。枕でも変えてみようかと思う。原発事故復旧に向けてリタイヤ組が志願しているというニュースを聞いて少し切なくなった。原発稼動時に腕を振るった技術者としての責任や使命感がそうさせるのであろう。だけど本質を突き詰めていけば、それが本来の使命ではないような気がする。どう言えばいいのだろう、「すべて自分でカタを付ける」という意気込みと覚悟は確かにカッコいいのだが、その技術や知識、そして智恵がちゃんと次の世代に継承されなかったことが問題ではなかったか。「何でも自分たちでケリを付ける」姿勢は、団塊の世代に見られる「過信」の一種だと思う。すでにリタイヤした自分たちがそれほど優秀だというのなら、なぜこんな問題を残す結果を生み出した?事故当時、現場の作業者はほとんどその対処法を持ち合わせていなかった。現場の人達がそういった知識を得ることが出来ていればここまで深刻な事態にならなかったかもしれない。放射性廃棄物の処分の問題は世代を超えてこれからも続く。ベストな選択をするために、一人でも多くの人を問題解決の場に巻き込み、そこに智恵や知識を提示すべきではないか。
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目前

2011-05-18 23:01:11 | Weblog
仕事を終えてアクアドームでランニングした。夜は涼しいので走るにはちょうど良い季節だ。ランニングの後、実家に立ち寄って夏物スーツを準備する。でも夏がくる前に梅雨がやってくる。梅雨という季節は、それまでに意気込んだ決意が挫かれやすい時期である。夜、帰宅してふと考えた。自分が死ぬまでに一体何を成就できるのかと。過去10年間を振り返ってみた。世の中を見る目は確かに変わった。でもそれが自分の人生に及んだわけではない。些細な成就の連続はあったかもしれないが、人生の転機と呼べる出来事は何もない。過去10年間が何も変わらなかったのだから、この先10年も同様に何も変わらない気がして、このまま生き長らえるだけの日々を想像すると途轍もなく嫌気が差した。ただ待っていても変化はやって来ないと思った。今、何をするか決めてそれをちゃんと続ける。そして目の前に置かれた職務をただ一所懸命やるしかないのだ。
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不確実性

2011-05-17 23:13:36 | Weblog
仕事休み。習い事に行った後、帰宅してネットを眺める。持論を進めようとした時、情報を集めれば集めるほど、何が正しいのか分からなくなることがある。目で見て分かる情報…たとえば東日本で起きた大地震は、写真や実際の光景によってその惨状を確かめることが出来る。では福島原発の事故もそうか?確かに水素爆発を起こした原子炉を写真や動画で確認することはできる。でも果たして本当に放射能被害が発生しているのだろうか?否定ではなく可能性として言えば、ガイガーカウンターが本当に放射線量を測定しているとは限らない。究極的に突き詰めていけば、放射線というものは目に見えないのだからその存在すら疑うことができる。まあそれはないとしても、福島原発構内の作業員が着る薄手の防護服が本当に放射線を遮断しているのか疑うこともできる。真偽を見極めようとする時に必要なのは「それは絶対に間違いない」という確信ではなく、「何一つ確かなことはない」という不確実性を前提に考えることだと思う。常識的発想は思考の障害となることがある。僕は常識には囚われない考え方を持っていると思っていたが錯覚かもしれない。時には自分の思考そのものも疑わなければならぬ。
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