市民大学院ブログ

京都大学名誉教授池上惇が代表となって、地域の固有価値を発見し、交流する場である市民大学院の活動を発信していきます。

智恵のクロスロード第21回「日本の文化と人情を愛し続けたジョサイア・コンドル(終)」近藤太一

2014-12-03 22:55:28 | 市民大学院全般
・J・コンドルと3人の女性
 J・コンドルと「くめ」については、暁斎とJ・コンドルの関係であるが、暁斎の「絵日記」を1冊に纏めた『暁斎絵日記の中のコンドル』で伺える。その中に、J・コンドルの傍らに「目かけ」「メカケ」と書かれた女性が描かれている。いずれも明治16年1月、11月、12月である。1月は横になって絵を見ているJ・コンドルの脇で、身を乗り出して覗いている。11月は絵の品評会で、そこの「メカケ」は、J・コンドルが指差している方向を見ている。12月は暁斎が描いているところを、J・コンドルの脇で同じように見ている。
 二人の様子は、暁斎を中心に奉公人もいる中で、特に親しげである。この女性が、後のコンドル夫人かどうか確定できない。今の状況では、絵日記の女性は「くめ」でもないし、ヘレンを生んだ女性とも考えにくい。結局絵日記に「メカケ」と描かれている女性との付き合いとヘレンを生んだ女性と3人の女性と付き合ったと考えることが妥当な線である…と専門家は語る。J・コンドルを穏やかな紳士とみるか金時計を持つ傲慢不遜なお雇い外国人と見るかは難しいが、穏やかな紳士とみることが妥当なようである。
 J・コンドルも人間だから、外面的には穏やかでも、内面は違っていたかもしれない。しかし「くめ」と結婚し、娘ヘレンを外国にも留学させ、育て、晩年にはヘレンの子供を育てた。孫達に囲まれて、楽しく生活した。そうしたJ・コンドルを見て行くと、穏やかな紳士的な人間であったように思える。

・お雇い外国人は日本のどの分野の理解が深かったか?
 日本で日本人女性を妻とし、家族を持つとはどういうことだろうか。お雇い外国人ではないが、文久2年(1862)に来日したイギリス外交官アーネスト・サトウ(1843~1829)は晩年、妻子を日本に残してイギリスに帰国した。それどころか、妻子のあることを伏せてきた。
 しかし、妻子を連れて帰国し、生涯を終えたお雇い外国人もいる。医師で『ベルツの日記』を残した東大教授エルヴィン・フォン・ベルツ(1849~1913)である。ベルツは明治9年27歳でJ・コンドルよりも1年早く来日。教師として27年間、滞日29年。日本人女性と結婚、子供をつくった。数度の帰国後、明治38年ドイツへ帰国。最後はシュトゥットガルトにて63歳で死去した。妻子とは最後まで共にした。J・コンドルは、暁斎が胃癌で亡くなる明治22年1月、ベルツに暁斎の診療を依頼している。
 『古事記』の英訳で知られ、『日本事物誌』を残したバジル・ホール・チェンバレン(1850~1935)は、やはりお雇い外国人として来日し、大阪造幣寮化学兼冶金技師ウィリアム・ゴーランドが飛騨山脈等を観察し、日本アルプスと命名した最初の人であるが、このチェンバレンが、書物の中で日本アルプスの言葉を大きく世界に発信した。来日し、海軍兵学寮の英語教師から東京帝国大学日本語及び言語学の最初の教師となる。そして明治44年3月、61歳の時に帰国。最後は84歳で死去するまで、スイスジュネーブで過ごした。チェンバレンとは2歳年下がJ・コンドルである。J・コンドルとチェンバレンは、同じお雇い外国人のサロンやクラブで歓談し、相互の理解は大きかった。チェンバレンは、日本にいる問、何度も帰国している。チェンバレンは典型的なヴィクトリア風英国紳士である。
 その彼は白人の男性が現地女性と結婚することを忌み嫌い、代わりに目本女性との同棲ないしは内縁関係を認めたのである。その際、チェンバレンの念頭には、先例として、先輩のアーネスト・サトウの身の処し方があったに相違ない、という見方が大半を占めている。
 更に、「イギリス人の多くはつい先年まで、同国人が東洋で土地の女と結婚することをgo nativeと呼んで忌み嫌った」とチェンバレンは見ていたとしている。
 サトウもチェンバレンも横浜に本拠地を置いて明治5年に発足した「日本及びアジア研究の拠点日本アジア協会」の中枢メンバーであった。J・コンドルは明治10年来日し、この日本アジア協会で沢山の論文を発表した。「日本の花と生け花の芸術」「日本風景庭園の芸術」などは、出席者に対して高い評価となった。
 一方、チェンバレンもサトウも、J・コンドルが前波くめと結婚していたことは知っていただろうし、ましてや、「くめ」と生活を共にしていたことも知っていただろう。しかし、J・コンドルはチェンバレンの忠告のように、日本人女性をそのように扱おうともしなかった。その意味では、J・コンドルの生涯は、お雇い外国人の中では異例の生涯だった。

・日本近代建築の父
 日本好きだったJ・コンドルの活動は、日本に関する著書や日本画の他に、演劇や落語、歌舞伎、趣味の自転車や写真といったように、建築以外でも幅広い。
 J・コンドルは、大正9年(1920)6月21日生涯を終えた。その11日前の6月10日くめ夫人が亡くなった。すぐにくめの後を追ったことになる。67歳と64歳である。二人の墓は、護国寺にある。この護国寺の墓地は思いのほか広い。それにJ・コンドルの墓は、本堂より一番深いところにある。三条実美や大蔵大臣・現早稲田大学創立者であった大隈重信の本堂前の大きな墓石でもない。しかし、時の護国寺での墓地確保は、容易ではなかったという。後輩や東大卒業者が、意を払ったのであろう。

・終わりに
 後輩がその後輩を教育するシステムを創造し、日銀本店の辰野金吾設計そして今の丸の内界隈でJR東京駅、三菱一号館、日比谷公園、霞が関官庁街の景観としてみることが出来る。次世代の後輩に教育するというJ・コンドルの精神が生きていると見られる。教育の側面ではホスピタリティの巨魁と視る事も出来よう。
 J・コンドルの銅像が東大構内にあり、正門を入り、安田講堂への歩むとすぐ、工学部1号館を背にして立っている。工学部1号館は辰野金吾が設計した工部大学校の本館跡に建てられた。旧館は関東大震災で破損し、解体された。J・コンドルが亡くなって2年後、建築家・建築史家であり、辰野金吾の弟子であった伊東忠太(1867~1954)によってデザインされ、新海竹太郎(1868~1927)によって彫刻された。J・コンドル銅像の台座には2体の怪物が彫刻されている。伊藤忠太は、怪物を得意としていた。築地本願寺にも正面階段や本堂入口左右に怪獣が置かれている。2体は地震とそれを受けたコンドルの耐震建築への貢献を象徴していると言われているが、日本文化を抱擁する美人が常にJ・コンドルに追い迫る…というセリフが、まことであった気もする。この東大正門は伊藤忠太の設計である。校門から入って校内から見ると神社の鳥居を彷彿させる。また、安田講堂を正面に右を観ると東大総合図書館が見える。蔵書880万冊という。イチョウ並木を挟んでJ・コンドルは常に学生や一般の人々に西洋文化と対比しながら日本文化の神髄を探索してみては…と呼びかけている。(完)

参考文献
1.石田繋之介著『ジョサイア。コンドルの綱町三井倶楽部』相模書房平成24年
2.編集港区立港郷土資料館『港区人物誌五ジョサイアコンドル』発行港区教育委員会13ページ
3.岡本哲史監修『三菱一号館からはじまる丸の内の歴史と文化 1丁倫敦と丸の内スタイル』発行人及び発行所三菱地所株式会社平成21年

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