市民大学院ブログ

京都大学名誉教授池上惇が代表となって、地域の固有価値を発見し、交流する場である市民大学院の活動を発信していきます。

今日の話題「文化経済学の学び方(その1)2014年2月27日

2014-02-27 17:30:35 | 文化経済学
「荒廃した地域や都市に眠っている固有価値を発見して文化資本化する道(1)」
                              池上惇(市民大学院世話人代表)

文化と経済の因果関係をめぐって

 昨今、各地の職人や、デザイナー、経営者、企業のCSR部などの各位から、「文化経済学を学びたい」というご要望を承ることが多くなってきた。
 わたくしのように、文化経済学を「人生における幸福を、文化と経済の相互関係から解明する学術」であると、考えている人間にとっては、この上なく、ありがたいことである。
 この世の中には、「文化と経済は、水と油のように交流できない」という人々が多い。そうではなくて、反対に、「文化があってこその経済である」「経済あっての文化である」と、主張される向きもある。
 前者は、文化と経済の間には、因果関係はないという主張である。
 後者は、両者の間に、密接な因果関係があるとの主張に他ならない。
 文化と経済の間に、因果関係があるのか。
 もしも、あるとすれば、どちらが先かは別にして、経済が文化を生み出し、文化が経済を生み出すという関係がなりたつであろう。両者は互いに交流しあい、響きあって、より高い文化、より高い経済を生み出しつづけることになる。
 両者の間に、因果関係がないとなれば、経済は、文化と独立した独自の発展の道をたどることになろう。そして、この道は、無限の可能性があるのか、あるいは、閉塞した袋小路のようなところに行き着くのか。この点は、いつまでも、論争が続いている。
 わたくしは、長らく、経済学・財政学の研究者であったが、経済の歴史を勉強するなかで、経済的な富を最大化しようとする国家は、富の源泉である{地域と人心}を荒廃させて、税収を減少させ、財政危機に直面して自己否定の状況となり、崩壊してゆくとの事実に直面した。
 例えば、日本の古代国家は、貴族に富を集中させる仕組みを生み出して、重課で庶民を苦しめ、納税のための債務を累積させて、農地や土地からの離散を進めた。
 このような「物質的富の上層階級への集中・庶民への重税と過重債務・国家の崩壊」というパタ-ンは、以後、平安時代、武家時代、徳川幕藩体制、明治国家、を通じて、規模や様式は変化するが、根本的な特徴は共通していた。ことによると、今も、このパターンを再生しているのかもしれぬ。
 このパターンは、洋の東西を問わず、古代エジプト、ギリシャ、ローマ、中世社会、資本主義社会、社会主義社会にも、共通していた。どうやら、われわれ、人類は、経済至上主義ともいうべき、富の集中が権力の集中と並行して進む社会を体験し、同じような崩壊の危機を迎えてきたらしいのである。
 これに対して、経済から文化が生まれる社会、文化が経済発展につながる社会などを構想して実践した人々が、「生命生活の再生を基本とする文化社会づくり」に取り組み、大きな成果を上げているのであるが、残念ながら社会の多数派となって、 安定したシステムを構築するに至らず、文化よりも物質的な富を重視する「物質的富の集中派」に支配権を譲ってきた。
 文化を優先する社会を構想すると、その社会は、文化的な社会なので、物質的な富は、私有財産として集中せずに、私有財産でありながら、社会の人々が支援しあうための「みんなの活用できる資金・みんなで生かしあう土地」として、民間主導の社会ファンドとなり、交通インフラや、植林事業、寺社再生などの共通基盤づくりと、人々の経済的な自立や、独立小生産者の共生などの傾向を生み出す。
 日本では、行基、空海、蓮如、尊徳などの実践は、括目すべき成果を上げたので、これを、現代に継承して、「文化が主導する経済社会」を構築できれば、重税と過重債務の体制から脱却できる可能性がある。
 文化経済学は、文化主導の経済が、「文化資本が生み出す‘文化的な財’」というかたちで、永続的に発展するという法則性を、初めて、明らかにした。
 ここでは、文化的な伝統と習慣が文化資本を生み出し、文化資本が「文化的な財」の供給を通じて、新たな文化的伝統と習慣をつくりだす。この文化と経済の因果関係は、常に、開かれていて、永続的な発展が可能である。
これを、世界で最初に明らかにしたのは、二宮尊徳であり、ついで、J.ラスキン、W.モリス、長らくの中断ののちに、W.G.ボウモル、D.スロスビーらによって明らかにされてきた。
 いま、多くの人々、とくに、文化資本を持ちながら、新たな伝統や習慣を生み出す潜在力を持つ人々が、文化経済学に高い関心をもたれるようになった。時代が、いま、かわりつつあるのかもしれない。
©Jun Ikegami

今日の話題「よき伝統を今に生かすには・続13」2014年2月23日

2014-02-23 20:56:36 | 文化経済学
「伝統と現代的ニーズから地域固有の文脈価値を発見する・続29
ー地域再生の文脈価値と現代への発展ー」池上惇(市民大学院世話人代表)

「結=ゆい」・知識結(ちしきゆい)・仕法・新しい信託システム

 地域研究や環境研究のなかで、よく活用されている術語に、「社会関係資本」という概念があります。この術語の起源は、「社会関係を人々が共有する資本あるいは資産として把握する」ことから始まっています。例えば、「友人関係は、それぞれの個人にとっての貴重な資産である」という表現は、友人関係という社会関係を、社会関係資本として把握した事例でしょう。
 この概念は、「友愛」など、愛に関する概念と同様に、社会関係を、人と人との間の信頼関係として、愛というキーワードを発展させたものと思われます。愛は、キリスト教の世界では、神の愛を、ひとびとが受け取って、自分のものとしますが、根源が神にある以上は、個人の愛には、「神があってこそ通用する愛」という特徴があります。賛美歌にありますように、「友、みな、汝を去りたる後も」神の愛は、あなたにそそがれる、という趣旨の歌詞があります。愛は、人間関係の孤立を恐れず、神を信じてこそ、意味を持っています。
 ところが、日本の伝統文化である「結=ゆい」は、キリスト教的な愛とは、一味違うものをもっていて、神様は、人手が足りないときには、手を動かし、足を運んでくださいます。つまり、「仕事を実践する神」なのです。人も神にささげる供物の中に、「鏡餅を持ち上げる力」を奉納する習慣があります(醍醐寺)。日常用語でも、「手を貸す」という表現は普通ですね。これは、一種の信託行為です。
 「結=ゆい」の世界では、隣人や友人が「困ったときはおたがいさま」の精神で、ある人が農作業などで、人手が足りなくて困っているとき、神様のように、現れて手を貸してくれます。そして、今度は、別の人が困ったときには、先に支援を受けた人々が、神様のごとく現れて手を貸してくれます。ここでは、「手を貸す」という行為が、まるで、資産であるかのように、他人に信託されます。この資産は、他人に、貸したからと言って、自分の「手のはたらき」がなくなるわけではなく、「手のはたらき」を自らのものとして持ちながら、他人にも貸し出すという「二重の」役割を果たします。
 この信託システムは、現代の金銭信託などとは違っています。現代の金銭信託では、自分の財産を、信託会社に信託すれば、自分の手元には、所有権だけがのこり、金銭活用の権利は残りません。いわば、所有権は形式化しています。
ところが、「結=ゆい」の労働信託は、「手のはたらき」を‘自分のもの’として残したまま、他人が、別の人格から労働を提供されるときには、他人に、「手のはたらき」を信託するのです。これらは、新たな所有論や占有論の可能性を示唆しています。
©Jun Ikegami

今日の話題「よき伝統を今に生かすには・続12」2014年2月22日

2014-02-22 20:53:39 | 文化経済学
「伝統と現代的ニーズから地域固有の文脈価値を発見する・続28
ー地域再生の文脈価値と現代への発展ー」池上惇(市民大学院世話人代表)

「固有価値」の発見による「文化資本」の自覚と発展
       -固有価値と文化資本の関係性をめぐってー

 前回は、「場(範囲・信頼関係・道徳性)の経済」が「金銭価値優先の経済」を制御するシステムとして形成され発展してゆく過程を研究しました。今日は、これを受けて、文化経済学の根本問題、「固有価値と文化資本の関係」を研究します。
 私は、『文化と固有価値の経済学』(岩波書店)、『文化と固有価値のまちづくり』(水曜社)など、いくつかの、固有価値に関する著作を出版してきました。そのなかで、いつも、次に機会には、本格的に論じてみよう。と、考えていたことがあります。それが、今日の本題、「固有価値と文化資本の関係性」でした。
 固有価値という概念を最初に提起したのは、J.ラスキンです。かれは、自然、または、自然の一部としての生命体(人間の生命を含む)が、なんらかの「形体(形のある物)」をとって、世の中に出てきたとき、その「形体」の背後にあって、それを成り立たせているもの、そのおいたちを推進しているもの、を、固有価値と呼んでいます。
彼が挙げている固有価値の例は、大気が生命体の肺呼吸を通じて、生命体を生かしているとき、一定量の大気が、一定時間、生命体を生かす性質をもっていること、に注目します。そして、大気の、この性質を、「固有価値」と呼んでいます。
 そして、固有価値を現実化するには、生命体、とくに、人間が健全な肺を持っていることが必要です。これを、人間の享受能力と呼びます。大気の固有価値は、健全な肺による享受能力がってこそ、有効価値となる。これが、固有価値と、その享受能力の関係性です。この関係性から有効価値が生まれ、生命体の生活という現実の存在が出てくるのです。これを健康のなかの一つの条件としてあげることもできますし、健康が幸福の一つの条件であるとすれば、幸福の基礎には、大気を正常に保つ自然と、健全な肺をもつ人間との共生関係があるといえるでしょう。
 さて、大気のほかにも、水、をはじめ、土壌だとか、森林とか、草原とか、里山とかいった、多様な自然と生命体があります。このような自然と生命体の間には、固有価値と享受能力の応答関係が発展してゆきます。この応答関係は、人間が成長し、自然と生命体の接点として「美」を位置付け、自然に敬意を払って、人間同士は譲り合う心を持つようになりますと、一定期間は、順調に進むこともあります。
 しかし、自然は災害がつきものであり、生命体は、生存競争がつきものですから、生命体は、常に、生命の危険に直面し、生き残るための身体機能の変化や、DNAの突然変異による適応を余儀なくされます。とくに、人間は、独自の精神生活を持つようになりますから、この変化や適応は、一層、複雑で、困難を伴います。良心や「美」による調和が、嫉妬や「醜」による破壊によって撹乱されることもあります。これを描き出す神話や民話も生まれました。
 そこで、人間は、困難や成功の中で、試行錯誤を繰り返し、精神活動を行うにあたって、過去の経験から、応答に必要と思われるものを、選択して情報として頭脳に蓄積します。また、他人の経験が音声や、文字などの情報として出てきますと、そのなかから、応答に必要なものを選択して、頭脳に蓄積できます。
 そして、それらの蓄積から、必要に応じて、新たな経験に応答しうる記憶を情報として取り出し、過去の行動のパターンを変更しうる、新たな判断を下して実践します。これを「学習」と呼びます。
 このように、人間は、試行錯誤しながら、実践と、記憶の蓄積、応答可能な情報の選択と、新たな実践への応答、新たな判断と、新たな実践を繰り返します。そして、そのうちに、人間は、自分の応答能力を高めるために、貴重な能力を獲得します。それらは、自然の性質を理解して感動し敬意をもって共生する能力、他人と心を通じ合う能力、経験や知識を体得して生かす能力、手仕事における熟練・技巧・的確な判断能力などです。人間は、災害や戦争、復興や平和のうちに、これらの能力を身につけてゆきます。
 このような能力を持ち始めますと、人間は、地域で、集団を形成して、仕事や生活を行うことが出来るようになります。そして、このような集団から、共通の価値観や、文化的伝統・習慣が生み出されてきて、一人一人の生き方の中に、文化的な伝統が個性的に受容される時代が訪れます。かつての時代には、個人が文化的伝統や習慣に呑み込まれがちでした。
 しかし、商品経済や貨幣経済が発展してきますと、一人一人が経済的に自立して、他人との契約関係が成立し始めます。法や制度が整備されてきますと、一人一人の権利や責任が明確となり、個性的な人格の自立が実現してゆきます。人的な能力が「資本」として、あらたな商品やサービスを生み出すという思想(A.スミス)も生まれてきます。
 そうなりますと、地域の文化的伝統を背景に持ちながら、人間は、自分の応答能力を高めるために、自然の性質を理解して感動し敬意をもって共生する能力、他人と心を通じ合う能力、経験や知識を体得して生かす能力、手仕事における熟練・技巧・的確な判断能力などを、身につけて、互いに学び合い、育ちあう。
 そして、これらの能力を、個性的な「文化資本」として、各自が自覚しつつ、交流の場を設けて、学び合い、育ちあう時代が訪れます。
 固有価値は、地域の文化的伝統と、商品・貨幣経済の発展を通じて、個性的な人間が「体化」した文化資本として、姿を現したのです。そして、文化資本を持つ人々は、文明社会や工業社会が、しばしば、荒廃させた地域や都市の自然、生命体のなかから、固有価値を発見し、それを、人間が活用しうる資源に加えて、自然と共生しながら、地域再生の方向を発展させます。いまや、固有価値と文化資本は、地域再生活動の車の両輪ともいえる重要な位置を占めるようになりました。文化経済学は、ここで、新たな発展段階を迎えたのです。
©Jun Ikegami

今日の話題「よき伝統を今に生かすには・続11」2014年2月21日

2014-02-21 17:10:47 | 文化経済学
「伝統と現代的ニーズから地域固有の文脈価値を発見する・続27」
ー地域再生の文脈価値と現代への発展ー」池上惇(市民大学院世話人代表)

「場(範囲・信頼関係・道徳性)の経済」が「金銭価値優先の経済」を制御するシステム

 金曜日に、東京からの帰りの新幹線で、ブログのつづきを検討しようと、梅棹先生の情報産業論、読み直した。
 ブログで触れたように、先生は、劇場、博物館の類似性に注目しておられた。これを、ボウモルの劇場経済論によって、さらに、深く研究すると、次のような諸点が見えてきた。
 劇場型産業では、地域を基盤として、ひろく、職人能力(文化資本)をネットワーク化できる現代産業が存在する。これは、劇場や音楽ホールなど、実演芸術の領域から始まって、博物館、美術館、観光農園、体験工房、さらには、あらゆる産業が成熟すると、生産手段が小型化して、タテ型管理ではなく、ヨコ型の管理システムが発展し、人間が制御できるようになる。この意味では、すべてが、劇場型の産業となる可能性があること。
 これらの現代産業の姿です。
 そこで、劇場型産業の特徴を改めて整理してみよう。
それらは、
① 文化資本をネットワーク化して、’文化的な財’を供給すること、財には、商品とサービスの双方を含む。
② 財をチケット(入場券、観光などの周遊券など)、すなわち、「場」のサービスを享受しうる情報財として市場化すること、
③ チケットとひきかえに、劇場など「第一の場」で観客・顧客とへの享受機会を提供すること、
④ 立地するコミュニティや関連する地域・都市に、’非市場的な’コミュニケーションの場、つまり、「創造的情報の外部性」による多様な価値(威光価値、遺贈価値、教育価値、ビジネス価値)を人々に提供する「第二の場」を提供すること。
⑤ チケット販売と、文化資本に関する情報が結合されて、地域の場で、文化資本が生み出された文脈が明らかとなり、職人能力や芸術創造能力などの映像情報、静止画像、文字情報、音声情報などがネットなど、情報サービスを通じて配給され、広告や広報事業が発展する。
⑥ 文化資本に関わる、教育価値などを基軸として、各地域の人々に学校や企業などから学習機会が提供されて、現地の文化資本と交流するために、訪問や観光の人流が生み出されること。これによって、「二つの場」における享受、体験学習の機会が提供されて、劇場型産業の次世代への継承(タテ)や、市場の拡充(ヨコ)、人の‘ひろがり’と‘つながり’による市場基盤の拡大が保障されること。
 ここのところ、企業のCSR部の各位から学ぶ機会が多かった。これまで、関西の中小零細企業の経営人から学ぶ機会が多かったが、ここで、お教えいただいたことと、CSR部の各位のお考えとは、共通するものが多い。それは、端的に言えば、「事業活動における倫理性・道徳性の土壌」を、企業内でも、地域においても、確立しようとされていることである。
これらの倫理的な御活動は、金銭的価値を優先している「マネー金融資本」とは、違う、新たな企業風土を形成している。このような土壌形成が、的確なメディアや、学校システムなどを通じて、劇場産業化した、多様な産業の創造的情報とともに、伝達されてゆけば、企業のCSRも、企業のビジネスも、並行して、大きな可能性を持ちうるのではないか。ふと、そう感じた。
©Jun Ikegami

今日の話題「よき伝統を今に生かすには・続10」2014年2月18日

2014-02-18 17:05:44 | 文化経済学
「伝統と現代的ニーズから地域固有の文脈価値を発見する・続26
ー地域再生の文脈価値と現代への発展ー」池上惇(市民大学院世話人代表)

劇場型産業としての文化事業ー他産業と共生できるか

 前回ご紹介したように、梅棹先生は、梅棹先生は、文化経済学事始めとして、博物館建設の産業連関効果に注目された。産業連関効果とは、一口で言えば、社会内の分業による多様な産業の同士のつながり、ひろがりである。例えば、博物館の建設は、建設の素材として鉄材やセメントを必要とし、鉄鋼産業・セメント産業の市場を拡大する。これらの市場が拡大すれば雇用や労働者の所得が増えて、所得が消費にまわれば、消費財市場が大きくなる。梅棹先生は、経済学者の支援を得て、博物館の直接、間接の経済効果は道路投資に匹敵することを証明された。
 これも、博物館事業という文化活動の経済的な側面を社会内の分業システムを研究して解明したことには間違いがない。経済効果が道路投資に匹敵するとなれば、予算を獲得するときに、景気対策上は、博物館も道路も公平に扱うべきだという論拠にはなる。だが、このような意味での経済効果は、文化経済に固有のものではない。それは、博物館が道路とおなじような公共投資の対象でありうることを示すだけである。
 これは、文化経済が、「普通の経済」と共生し、同じスタート・ラインに立ちうることを示すが、スタートしてから、他の産業と並走しながら、公正に競争することができるのか。できるとすれば、どのような条件の下で可能となるのか。この問いには、答えられない。

ボウモルの貢献をめぐって

 そこで、梅棹理論を一歩進めるために、アメリカ人、G.W.ボウモルが提起した文化経済学の枠組みを参考にしてみよう。そこには、この問いに対する答えがあったからだ。
 ボウモルの業績、『舞台芸術ー芸術と経済のジレンマ』MIT出版(W. J. Baumol & W. G. Bowen, Performing Arts -The Economic Dilemma-,MIT Press, by the Twentieth Century Fund. Inc. The MIT Press, Massachusetts, 1966. 池上惇・渡辺守章監修訳『舞台芸術-芸術と経済のジレンマ-』芸団協出版、丸善配本、1993年。)が登場するのは、1960年代である。だが、日本語訳を私たちが出版できたのは、1990年代になってからである。このズレは、私たち経済学者が文化経済学に注目してこなかったことの結果であって、恥ずかしい事であった。
 ボウモルの著作を翻訳してみると、この本は、第一に、劇場や音楽ホールなどの舞台芸術の事業経営を取り上げていて、事業を、経営資源としての俳優など人的資源を基軸として、人を支える建築物としての劇場などの場において、俳優などが演じる舞台芸術サービスの供給システムを研究していた。ここでは、芸術文化サービス事業の「高コスト」体質というべきものが解明されていて、自動車製造事業などと比べると、俳優など、芸術家や職人能力ある人々の報酬が高水準であることが示される。自由放任主義の経済では、人件費が高すぎて公正な競争が出来ないのである。1960年代、ニューヨークのブロードウエイが赤字経営に陥り、報酬が低下して芸術水準そのものへも影響した。これを公正な競争条件とするにはどうすればよいのか。供給面からの課題提起である。
 そして、他方では、舞台芸術サービスをチケット価格と引き換えに享受する消費者の需要構造を研究していた。ここでも、消費者が所得水準に関わらず、公正に芸術文化サービスにアクセスできない状況が発見された。それは、人件費の高さを反映して、チケット価格が高額になるので、低所得層は芸術文化サービスにアクセスできないのである。芸術文化サービスは、卓越した芸術家の演奏・演技などに意味があるので、他の商品のように、似たような製品に選好を変更するのは困難である。それは、誰もが享受してこそ意味があるものだとすれば、需要面からのアクセスの障害を克服するために、チケット価格の引き下げが必要とならざるを得ない。
 芸術文化サービスは、供給面から見ても、需要面から見ても、公正競争のためには、市況の枠組みを超えて「劇場や音楽ホール」などの立地する自治体などからの人件費支援、経常経費支援などによって、コストを引き下げて、チケット価格を低所得層にも通用するよう引き下げる必要がある。ここで、ボウモルが最も期待したのは、地域の企業による「減免税つきの寄付金」である。

企業フィランソロフィーのメリットを考える

 企業のフィランソロフィーによって、舞台芸術経営が成り立ってゆくとすれば、他の産業との関係において、公正な競争が成り立つだけでなく、芸術文化サービスに固有の特徴によって、支援企業にも、長期的に見て、いくつかのメリットが発生する。このメリットは、芸術文化サービスの屋内におけるサービスにおいても、屋外における「外部性」と呼ばれる間接的サービスにおいても、人々や企業にとって注目すべきものである。
 まず、卓越した、創造的な芸術文化サービスは、屋内の観客に対して、その場限りではない、鑑賞者自身の文化資本を充実させる方向での影響を与える。いわば、芸術文化サービスは単なる消費でなく、文化資本形成という新たな資産を生み出すのである。この資産は、目に観えないから、評価が困難ではあるが、多くの場合、人の心に快感、感動や希望をもたらして、閉塞状態からの解放を可能にする。さらに、これによって、人格を高め、文化に関する知識を得て、自分で心身を使った芸術的表現を模索することにつながる。演技を試みる、踊る、歌を歌う、などの行為は、人の習慣や、伝統文化の継承についての関心に大きな影響を与える。人格資産、知識資産、経験資産。これらが、それまで、自身で蓄積してきた文化資本と応答しながら、新たな判断や、行動のパターンの変更をもたらす。これを、学習というが、屋内での芸術文化サービスの享受は、観客の学習能力を高めて、コミュニティにおける学び合い育ちあいの力量を高める。
 では、屋外ではどうか。
 芸術文化サービスは、屋外の人々に対して、
① プレスティッジ価値を生む。コミュニティの誇りとなる芸術家の影響力が、コミュニティ全体の人々の誇りとなる。寄付企業も、この誇りを共有できる。
② 卓越した芸術的価値の保存による潜在的な享受の機会をうみだすので、オプション価値を生む。誰もが必要なときに、必要な芸術文化サービスが得られるので、そのたびに、支援者の名が反芻される。
③ 次世代への教育価値を生む。教育の過程で、芸術家とともに、企業の名が言い伝えられる。
④ 地域のビジネスに対して豊かな基盤を提供する。市民と寄付企業との対話が始まり、地域社会のニーズを企業が理解して応答する機会が生まれる。このなかから、地域ブランドの開発など、貴重な商品開発、サービス提供の機会が生まれる。とりわけ、学術交流、文化交流、観光事業とのコラボレーションなどによって、地域外の人々との交流が生まれ、新たな商品・サービス開発の機会が拡大してゆく。

 このブログで注目しているのは、ボウモルが解明した芸術文化事業だけでなく、梅棹先生が指摘されたように、地域固有の伝統文化を保存しつつ、蓄積する博物館などがうまれ、収蔵品や展示品が劇場と同じように、観客を迎える。
 さらには、博物館だけでなく、保存された文化財・文化遺産なども「劇場型」の文化サービスを提供する。視野を広げると、現代の農場は、観光農園となり、地場産業の工房も体験工房となっている。今後、中小零細工業の現場、大企業の産業遺産なども、これに続くであろう。
 以上、地域社会には、地域固有の文化的伝統と、それを個々人が体化するなかで個人の人的能力として個人に蓄積された文化資本がある。そして、文化資本が生み出す、「文化的な財」があるのだ。
 財が屋内と屋外で担う多様な価値に注目しよう。そして、固有価値とは何かを考え、外部性がうみだす価値と、その価値の中の経済価値にも視野を広げようではないか。
 このように見てくると、企業と、地域の人々は、多くの接点を持ちうる。劇場などが生み出す個々人の文化資本こそ、地域と企業、市民が並走しながら発展してゆく潜在力となるであろう。
 欧米の企業フィランソロフィー思想は、ボウモルによって、新たな展開を遂げることができた。では、この思想の意義と限度、日本の社会貢献思想の特徴はどうか。次に、この点を検討しよう。
©Jun Ikegami