市民大学院ブログ

京都大学名誉教授池上惇が代表となって、地域の固有価値を発見し、交流する場である市民大学院の活動を発信していきます。

今日の話題「よき伝統を今に生かすには・続2」2014年1月31日

2014-01-31 16:27:26 | 文化経済学
「伝統と現代的ニーズから地域固有の文脈価値を発見する・続19
ー地域再生の文脈価値と現代への発展ー」池上惇(市民大学院世話人代表)

 前回は、ケインズの景気回復策が実際には失敗に終わったこと。これを批判した、ブキャナンは、ケインズ主義的政策は、理念として掲げた完全雇用政策は評価できるが、実際の景気の先行きや財政状況は、不況継続、赤字財政、慢性的物価上昇であったこと。その理由は、公共投資(これには産業基盤と生活基盤の双方を含みます)が議員の選挙区への集票行動に利用され、議員が競争で、地元に財政資金を配分させる行動をとったためであること。
 議員が競争で財政資金を地元に持ち帰ろうとすると、公共投資は、景気がどうなろうと、お構いなしに、増額が続き、赤字財政が継続する。議員は、赤字対策としての税の負担増を地元で主張すれば票が減るので、財政赤字は膨張し通貨の増発やインフレーションが進行する。
 これを防止するには、ケインズ主義を放棄し、集票の手段と化した公共事業の財源を縮小するほかない。その手段は「政府の課税権の制限」である。予算規模を国民所得の動向に合わせて法律で上限を定めること。これによって、政府の市場が縮小して、民間企業が経営困難となり、失業などが発生すれば、政府資金ではなくて、民間の資金を生かす起業活動や、NPO活動、フィランソロフィー活動などを振興し、仕事を起こす経済活動を奨励する。これによって、完全雇用を目指すほかはない。経済は、私企業と、政府だけでは成り立たず、第三のセクターとして、非営利組織や社会的な企業、地域を視野に入れた投資基金など、あらたな分野を確立せねばならない。
 これが、ブキャナンの主張でした。この主張は、私は、1940年代、イギリスのコーリン・クラークの主張と同じだな、と、思いました。当時は、「揺り篭から墓場まで」の高負担高福祉政策が主流でしたが、クラークは、重税は、市民の活力を奪い、過度に政府財政に依存する市民生活は自立と自助の迫力を奪う、と、考えていました。
私は、ロンドンの古本屋で、彼の著作を見つけ、1980年代前半、『減税と地域福祉の論理』三嶺書房で紹介し、地域の福祉を協同組合や第三セクターなどで充実し、人を育てる教育減税で、福祉を充実するよう主張しました。そして、日本も、クラークの勇気(当時福祉国家を重税体制だと批判することは非常に困難でした)から学ぶべきだと主張しました。が、影響力はなく、お恥ずかしい限りです。
 私は、景気政策としてのブキャナン、クラークの主張は、細かいところには、異論もありますが、大筋では、賛成です。日本では、「ブキャナンは市場原理主義者である」かのような紹介を経済学者が行うものですから、非常に誤解されていたと思いますが、今からふりかえりますと、非常に、優れた問題の提起をしていたのではないかと思います(詳しく研究される方は、池上惇『財政学』岩波書店、『財政思想史』有斐閣、をご参照ください。1990ー2000年ごろの著作ですが、増刷されています)。
 彼の意見は、アメリカ合衆国では、基本的に受け入れられ、連邦予算には、規模についての法的な規制が加えられました。経済政策も、NPO支援やベンチャー支援策が基軸です。勿論、証券投資などの暴走を許す民間金融システムの不備は、そのままですから、投機活動やバブル崩壊・景気の落ち込みが避けられず、イラク戦争などで浪費を重ねますから赤字解消は非常に困難で、不況時には、GMの国有化など、依然として、民間が政府のお世話になっています。しかし、戦争をやめ、投機を規制してゆけば、慢性的な赤字体質からは、徐々に、脱却できるのではないでしょうか。
 日本では、残念ながら、ブキャナンの議論はとりあげられず、新自由主義の主張と、ケインズ主義の形をまねつつ、赤字財政を継続し、赤字を増税で補填する高福祉高負担の「北欧型」と称する「キメラ型」政策(ケインズ+重税国家主義)が採用されてきました。これは、より厳しい状況を招き、不況と慢性赤字財政、高物価社会への道を歩んでいます。
 これは、私ども、経済学や財政学を研究する者の責任でもあるわけで、常々、深く反省しております。
©Jun Ikegami

今日の話題「よき伝統を今に生かすには・続」2014年1月30日

2014-01-30 16:26:05 | 文化経済学
「伝統と現代的ニーズから地域固有の文脈価値を発見する・続18
ー地域再生の文脈価値と現代への発展ー」池上惇(市民大学院世話人代表

 昨日は、超多忙で、またまた、お休みになりました。反省。今日は、ケインズ経済学が提起した完全雇用政策が成功したのかどうか。もしも、成功していないとすれば、何が完全雇用にとって必要なのかを考えてみます。
 第二次大戦後、ケインズ主義が行き詰まった、と、厳しく批判したのは、アメリカの財政学者、ノーベル賞を受賞した、J.ブキャナンです。
 かれは、1979年に公刊した著書の中で、ケインズの考え方を次のように把握しています。「不況の時には、財政赤字覚悟で、赤字公債を発行し、その資金で公共事業予算を組み、企業が政府市場を念頭に置いて、行動するよう配慮すべきだ。それによって、例えば、地域の河川開発など公共投資は、電力事業、建設事業、水利事業、都市水道事業などのインフラを整備し、関連産業の雇用を拡大して、景気を回復させる。ここで、所得を増やし、税収を挙げて赤字を解消すればよい。不況になれば、また、公債発行と公共投資を始めることになる。いわば、反景気循環政策だ。公共事業は、河川開発のほか、軍事技術の開発のような領域もありうる。」
 ところが、彼によりますと、実際には、公共投資は、地元に、税金を誘導して、票を集める手段となった。このために、税負担を求めることなく、赤字のままで、ひたすら、公共事業を拡大する傾向が生まれた。赤字が継続すると、いつかは、インフレーション、物価の上昇が始まる。物価に連動して賃金が上がれば、利潤が減少し、投資機会は減少する。高コスト・高賃金・高原材料費などの圧力と、市場縮小の狭間で、企業が倒産し、リストラが始まり、失業が増加する。景気は回復しないまま、物価だけが上昇し、失業が慢性化する。」
 「これは、ケインズが、集票の手段としての、公共投資については、全く、気づかず、政治家や官僚の行動様式を研究しなかったためだ。税を公正に活用せず、集票に使うとは、大変なことだが、ケインズ主義は、課税がどのような結果をもたらすかを洞察していない。大きな政府は、大きな債務と、大きな税を必要とする。
民主主義社会は、‘政府の課税権を制限して、不公正な集票のもとを立つべきだ。予算規模を国民所得との比重を配慮して、適切な規模に制限すべき’だ。」と、考えたのです。
 はたして、これでうまくいったのでしょうか。
©Jun Ikegami

今日の話題「よき伝統を今に生かすには」2014年1月28日

2014-01-28 16:21:00 | 文化経済学
「伝統と現代的ニーズから地域固有の文脈価値を発見する・続17
ー地域再生の文脈価値と現代への発展ー」池上惇(市民大学院世話人代表

アメリカ制度学派の経済学ー‘伝統と習慣の塊’としての人間―

 またまた、しばらく、お休みとなり申し訳ありません。市民大学院や学校法人づくりの活動をしていますと、多様な団体、とりわけ、企業や経済人との交流が不可欠で、新年のこの時期は、新年会を含めて互いの活動を振り返り、同時に、総括して展望する機会が増えてきます。
 はじめてお目にかかる各位も多いのですが、それぞれに、貴重な文化資本(志・智慧・仕事や職人能力における御実績など)を蓄積しておられて、本当に有難い機会でした。ご参加各位に厚く御礼を申し上げます。このような機会で、元気を頂く一方で、非常に気になりましたのは、不況のとき、契約を打ち切られて苦労されたこと。このお話は切実でした。
 とくに、大手と呼ばれる企業は、市場規模が大きいだけに、急に、打ち切られると、別の市場を短時間で開拓せねばならず、不況の時に、このような打開策は実行が困難です。そのようなとき、頼りになるのは、引退予定であった、ベテランのお持ちになっている、業界での信頼関係や、地域の伝統や習慣のなかで、祭りのときには、ともに、働き、参加し、ともに楽しんだ仲間の存在です。ベテランの存在理由は、新たな市場を紹介してくれるなどの、直接的なお世話ではなくて、相談に乗ってくれて、苦労を分担してくれるかのように、親身に相談に乗って助言してくれることが、一番の、支援だと。
 さらに、このような相談が実際に役立って新たな市場が開拓できて、成果が生まれた時、その歓びを分かち合えることも、大きいそうです。
 このお話をお聞かせいただきながら、「信頼関係を基礎とした仕事の相談、事業発展の構想」と「仕事の成果を、金銭でなく、歓びとして分かち合う」という考え方に興味を持ちました。
 実は、前回、ケインズがベンサムの功利主義を批判したことをご紹介して、人と人の生存競争ではなく、「人と人がそれぞれの才能を開花させて支援しながら共生する道」をケインズが提起していたことをご紹介しました。
 ケインズの、このような思想は、「信頼関係を基礎とした仕事の相談、事業発展の構想」と「仕事の成果を、金銭でなく、歓びとして分かち合う」という考え方と、通じ合うものですね。ケインズは、このような考え方を、どこで発見したのでしょうか。それは、彼の発表した論文からみますと、アメリカの制度学派です。
 アメリカの制度学派の代表的な人物は、ソースタイン・ヴェブレン(1857-1929)です。かれは、「人間は、伝統と習慣の塊である」という有名な言葉を遺していました。
彼によりますと、伝統と習慣には、仕事をおこし技術を高めてゆく本能的な態度と、仕事から離れて、権力や金銭を誇示する顕示欲という二つのものがあります。
 前者が経済活動の主体となりますと、損得勘定で動く「合理的経済人」とは別の人格が登場することになります。その人格とは、製作本能(instinct of workmanship)を先人から継承しつつ、信頼関係を通じて協働し、競争しながら、同時に、製作(仕事)の過程で生み出された智慧や技術、熟練や判断力などの成果を分かち合うことを期待しながら活動する人格です。
端的に言えば、公正な競争の中で、学び合い、育ちあう人間関係でしょう。
 しかし、資本主主義社会においては、権力や金銭欲を顕示する有閑階級が現れます。彼らは金銭的な見栄を追求しつつ、人々の製作本能を利用して金銭を儲け、信頼関係に代わって、生存競争を奨励し、協働の成果を独占して、金銭的富を獲得する。かれらは、有閑階級となる(小原敬士訳『有閑階級の理論』岩波文庫参照)。
 ケインズは、アメリカの制度学派から学んで、イギリスの有産階級を批判しました。当時のイギリスにおける金銭的富の蓄積者が、かれらの財産価値を維持しようとして、投資活動などのリスクを避け、安全に、金を資産として保有するだけの寄生的存在となっていると考えていました。これは、不況と失業の原因にもなり得ます。
 かれは、ベンサムの功利主義が結局は生存競争を呼び起こして、人々の信頼関係や協働による分かちあいのシステム、人間社会の伝統的なシステムを崩壊させていると考えたのです。アメリカの制度学派は、生存競争ではなく、公正競争を主張しました。かれらは、拡大する所得格差を所得の再分配や教育の機会均等などによって是正し、「スタートラインの平等」を確保しながら、信頼関係を共通の基礎として、人々の協働と成果の分かち合いを、社会の制度として、確立しようと努力しました。
 独占禁止法や、公益事業における料金統制の制度、労使関係の調整制度、累進所得税や、所得の再分配、社会保障制度など、世界的に広がっている諸制度は、かれらの思想に負うところが少なくありません。ケインズは、その思想を受容しましたが、かれの打ち出した、完全雇用政策が、はたして、彼の構想したとおりに機能したのでしょうか。
 彼の財政政策なども、ことによると、生存競争や伝統と習慣の崩壊を促進したのではないか。このような主張が、1980年代には、支配的になります。では、伝統と習慣を今にいかすこと、公正競争を実現すること、これらは、どうすれば可能なのでしょうか。次回は、ケインズ批判論とともに検討してみましょう。
©Jun Ikegami

今日の話題「人間経済・範囲の経済・場の経済;続」2014年1月22日

2014-01-22 18:03:16 | 文化経済学
「伝統と現代的ニーズから地域固有の文脈価値を発見する・続16
ー地域再生の文脈価値と現代への発展ー」池上惇(市民大学院世話人代表)

合理的経済人と「文化的伝統と習慣を体化した人」
―合理的経済人と、ベンサム主義批判―

 昨日は、大論文?になってしまいました。恐縮しております。今日は、「文化的伝統と習慣を‘人に体化された文化資本’として把握する」という新しい経済学の考え方についてご説明します。
 よく知られていますように、従来のミクロ経済学は、「合理的経済人」という大前提を置いてきました。ところが、新しい経済学は、「文化的伝統と習慣を体化した人」を、登場させ、経済活動や経済契約の主体として位置づけてきたのです。これが「人間経済・範囲の経済・場の経済」を人間が発見するきっかけになりました。
 この違いは、経済や経済学の見方、考え方に対して、どのような影響を及ぼすのでしょうか。今日は、この問題を考えてみることにしましょう。多くの経済学の教科書には、「合理的経済人」という考え方は、イギリス人ベンサムによって開発された‘功利主義思想’に基礎を持つと書かれています。
 これは、どのような思想なのでしょうか。ベンサムを批判した、J.M.ケインズによりますと、ベンサムは、自由放任、自由競争社会の熱心な擁護者で、各人が自由にビジネスを展開して、より良い物を、より安価に提供できる「才能のある人」が生き残り、このようなものを提供できないものは敗北して市場から撤退する。そして、生活の糧を得るためには、再度、事業に挑戦し、ビジネスの腕を磨かねばならない。
 ここでは、ビジネスの才能あるものが、自由放任・自由競争の中で生き残り、多くの富を獲得すること。敗者が富を失い、飢えに直面しながら「生き残りをかけて挑戦する」こと。所得や財産の格差は広がるが、その犠牲のうえで経済は「自由に発展する」。格差や貧困を恐れず、完全と、自由競争・自由放任社会に挑戦せよ。どこかで、きいたような話ですが、これは生存競争であるとケインズはよんでいます。そうしますと、「自由放任・自由競争とは生存競争のことである」ということになりますね。
 ケインズは、生存競争は、勝者と敗者を生むだけでなくて、敗者を競争の場から排除し、その結果、敗者は存在そのものを否定されかねない、と、考えました。これは、「人間としての多様な可能性」を奪われて、彼の潜在能力は開花しないままに、しぼんでしまうことになります。かれは、もしも、地域の文化的伝統を継承していて、文化的な人間としての要素を持っていたならば、そして、ビジネス以外にも貴重な才能があることを知っていたならば、多様な可能性に挑戦できたであろうに、むなしく、生存競争の犠牲として散ってゆく。
 これは、人間を、文化的伝統や習慣を体化したものとして把握した場合には、価値のある資源の喪失であり、浪費ではないのか。ケインズは、このように考えて、ベンサム主義から、ケインズ主義への転換を主張し、「失業ではなく、完全雇用を実現する経済」を強く求め、そのために、経済学の枠組みをかえて、完全雇用を実現する財政政策を提言しました。
 それは、「自由放任・自由競争」ではなく、「課税や公債発行によって、自由経済に介入し、総需要が不足するとき」には、政府が公共投資や所得再分配を通じて「経済に介入すること」「これによって完全雇用を実現し、その共通基盤の上でこそ、自由競争が可能になる。」と考えたのです。ケインズは、文化的伝統など、新たな発想をどこから獲得していたのでしょうか。これは、次回の課題です。
©Jun Ikegami

今日の話題「人間経済・範囲の経済・場の経済」2014年1月21日

2014-01-21 17:57:24 | 文化経済学
「伝統と現代的ニーズから地域固有の文脈価値を発見する・続15
ー地域再生の文脈価値と現代への発展ー」池上惇(市民大学院世話人代表

 すこし、欲張った内容にしようとして、四苦八苦。結果として、お休みになり、申し訳ありません。池田清先生からご示唆を頂いた「人間発達の知識結」というアイディアを生かし、以前に書いた論文を再生して、漸く、まとめてみました。ご参考です。

池上惇「人間発達の知識結(ちしきゆい)・潜在能力の開発と文化経済学」

はじめにー文化経済学の問題提起
―文化的伝統と習慣を文化資本として位置付けるー

 かつて、柳田國男が指摘したように、20世紀の日本社会は、欧米に比して、各地における文化的伝統や習慣が存続し、民話、各地の祭り、民間舞踊、習い事文化、農林漁業の伝統産業文化、工芸文化、建築文化(寺院建築や民家の茅葺等)などが、長きにわたって、変化に応答しながらも、継承されていた。
 また、わが国民は、明治維新以来、和魂洋才の文化を創造し、欧米の芸術文化スポーツ等を、各地において、教育や生活に定着させ、現在では、欧米の本場においても、多くの英才が活動している。和魂洋才の文化的な伝統や習慣も、また、我が国において、継承され、変化に応答しながら発展してきた。
 このような日本社会における和風・洋風の形をとった、2種類の文化的伝統や習慣は、各地において、関連する事業・産業のひろがりやつながり、人的能力における職人性(熟練・技巧・判断力・心技体の総合力、文化的成果を生み出す構想力など)からみて、産業論や地域経済論、人的能力投資論などにおける重要な研究対象であるにもかかわらず、長らく、経済学における学術研究の対象とはされてこなかった。
 しかし、1990年代に、文化経済学会(日本)が創設され、欧米の文化経済学が日本の学術界に導入される過程で、各地の文化的伝統と習慣は、熟練した力量の蓄積を意味する‘人に体化された文化資本’として位置づけられ、学術的なカテゴリーとして確立された。
 このことは、文化的伝統や習慣を経済発展にとっての「古いもの」「自由な経済行動を制約するもの」とみなしてきた従来の常識を根本から覆して、文化的伝統や習慣を、現代の人的能力開発における重要な潜在的要素として、積極的に評価することを意味している。 とりわけ、現代の商品開発においては、「高い品質を持つ‘文化的伝統による品質とデザイン’」を「今の時代の消費者ニーズ」に応答しながら改善することが必要とされている。
 その結果、産業のなかでも、‘文化的伝統を今に生かす文化産業’が今後の経済発展において、大きな役割を果たすものと期待されるようになった。
 例えば}産業政策においても、文化と経済は無関係、ないしは相容れないという従来の考えに代わって、文化{資本を蓄積するための人材への}投資など、芸術文化の育成が、産業政策として社会の発展や経済の成長を呼び起こすと考えられるようになってきた。
「文化産業」立国に向けて:文化産業を21世紀のリーディング産業に」(経済産業省、平成22年)では、新しい経済力、産業力を構築する上で、自動車とエレクトロニクスだけに頼る経済では国際競争に立ち行かないという認識が示され、日本文化そのものを海外に紹介する文化産業の育成をモノづくりと一体化したクール・ジャパン戦略が展開されようとしている。
 文化産業は、情報から知識、そしてコンテンツへと展開するために、芸術や文化を情報化し、産業化していく試みが地域から立ち上がっていくことが期待され、地域の文化資源を活用し、芸術創造活動を盛んにしようとする動きは、「創造都市」や「文化によるまちづくり」の構想に見られるように、今や最先端の地域活性化政策として議論され始めている。
 日本の経済社会全体におけるこれらの変化は、文化経済の時代の到来と呼ぶことができる。文化経済の時代には、国民の価値観の転換を通じて、地域と企業との関係が深化し、新しい社会システムの模索が始まる。
 従来の量産型経済成長だけを目指す開発政策はいずれ成長の壁にぶつかることが不可避であるという反省をもとに、隘路を切り開くには、各地の文化的伝統を踏まえ、現代的なニーズに応答しうる、創造力に溢れる人材が必要となった。彼らは、文化的伝統を踏まえつつ、市場が消費者を始点として求めてくるニーズにこたえ、高品質な商品を合理的な価格で提供しうる。このような意味で、文化と経済の両面に力を発揮することができる人材を育成する教育研究システムをつくることが、社会発展の鍵として、求められているのである。
 このような人材を養成する研究教育システムの特徴は、以下のとおりである。
① 地域固有の文化的伝統を研究し、そのなかに、文化と経済の関係性を発見しうる‘研究者としての力量’を必要とするので、文化的伝統を継承する現場にコミットし、同時に、文化経済学の最先端情報を常に学習しうる位置にあること。
② 各地における研究・学習希望者と積極的に交流し、互いの研究や教育内容から、学びあい、互いの文化資本を育てあって、文化資本から、文化的な財やサービスを生み出す力量を身に着けさせること。
③ 一定の力量、文化資本の蓄積を実現したものは、文化経済学の国際学会の場において、発表しうる力量を身に着けていること。
④ このような研究教育システムは、文化的伝統を研究する現場を持つ社会人を対象とし、通信制の文化経済大学院において、定期的な交流の場を確保させながら、研究能力を身に着けさせ、最先端の文化経済学を学習させる以外にない。

1.大工業文明における生存競争の激化

 現代は、大量生産・大量消費・大量廃棄の大工業文明の繁栄をもたらした。
同時に、この文明は、その対極に、大都市の過密と地域の過疎を生み出し、都市・地域の崩壊や解体の状況を露呈している。年平均所得額の減少と、慢性的で大量の失業・不安定雇用の増大は目を覆うばかりであり、いわゆる格差社会と生存競争の激化が、国際的な規模で進展してきた。
 国際金融に関する国際会議が指摘するように、大規模金融機関の役員報酬の高額な水準は、国際的な規制の対象とさえなり、投機資金の国際的な流れは、各国の財政危機を絶好の利得機会として、金をはじめ、為替や穀物、エネルギー資源などへ事業の対象を拡大している。最高度の文明が国際的投機事業のために活用されているのである。
 これらを制御しうる主体の形成は、世界的な規模での人類の叡智の結集と、自由・平等・博愛・生業の確保・公正な所得の分配・公正競争秩序など、倫理性の高いルールづくりと、それを生活に生かす各個人の力量の進歩に依存している。
 これらの力量の中には、日常的なコミュニティへの参加と自治の力量、納税の責任を果たしつつ主権者として、予算案の内容を熟知し、財政活動全般を投票行動と市民参加制度の活用によって制御する力量などが含まれる。
 しかしながら、現実には、市民の税を支配して危険なエネルギー開発・利用体制を支援し、また、大規模公共事業における官公需・土地買収や地元補償等によって、選挙区の投票行動に影響を与えるなどの事態が発生してきた。これらは公正であるべき財政秩序に私的利益優先の行為を持ち込み、道徳的危険(モラル・ハザード)を生み出している。
 市民の税を財源とする公共支出は予算を通じて市民の生活の質を向上させ倫理的な思想と行動を生み出す基盤となるべきものである。しかし、市民は自分たちの税が自分たちの制御の外にあり、本来のあるべき姿とは反対に、市民の生活に障害を生み出し反道徳的行動を生み出してきたことを深く反省しなければならない。
 いま、日本の各地では、現代の人間疎外といわれる深刻な人格の崩壊現象が表面化しており、制御能力を喪失した人格、さらには、無縁社会、性暴力、自殺、神経症など、「健康やいきがいの喪失」と呼ばれる事態が進行している。現代文明の暴走を制御しうる主体形成の問題を研究しなければならない。
 そして、その原点に「伝統文化の継承と再生。伝統文化を今に生かす」「結=ゆい」の再生と、都市社会や科学技術、国際文化交流を踏まえた生活文化産業ともいうべき「仕事おこし」活動がある。有機農業を始め、多くの地域で、アイターンなどが基軸となって、地域の文化的伝統を継承しながら、都市市民の支援を得て、「結=ゆい」や、新商品の市場を開発する。そして、この過程で、アイターン各位は、「都市で疎外されつつ、生きる手段として身につけた、科学・技術の学習能力、人文科学・社会科学の学習能力、とりわけ、文化経済学における文化資本の研究と学習の能力を通じて、現場と市場の動きに応答する。そして、この過程で、「学び合い育ちあう人間発達の知識結(ちしきゆい)=潜在能力開発過程」を経験する。
 ここにいう「人間発達」概念は、日本の障害者運動における発達保障制度の確立過程で提起されてきた。戦後の日本社会は、一方における高度経済成長と、長期停滞。他方における伝統的なつながりを引き裂く生存競争の激化を特徴とし、そのなかで、障害児・障害者の増加と、少子高齢化社会における問題の深刻化を体験しつつある。

2.職人技・再生事業における人間発達の課題

 しかしながら、その過程で、厳しい犠牲を払いつつも、解体を結合や統合に向かわせ、その中で、人格の再生を実現する方向も現れてきた。
 この際、注目されるのは、生命や生活に対する厳しい犠牲の中で、生業を求める人間に対する高価な教育サービスや不十分な初等教育、就学、マスメディア、ネット配信等による高価な通信料と引き換えに提供される音楽、美術、景観・観光、ファッション等に関する情報と学習機会、これらと並行して普遍化した学生アルバイトなどの人格形成への影響である。
 受験勉強等、単位取得試験、資格取得試験などで、養われた「抽象化された知識」と、それらとは無関係な「ポピュラー・カルチャー」による独特のしつけは、個性や多様性を表面上は許容しながら、標準的で画一的なライフ・スタイルと、いかなる職業でも所得獲得の手段として受容しうる無個性的な人格を生み出す。
 しかし、この、あらゆる変化に対応しうる柔軟性と、犠牲を払う中で、形成される苦しみへの共感が土壌となって、本来的な伝統文化やその担い手の犠牲や苦労に共感する雰囲気が生まれ始める。
 例えば、若者が観光において、旧炭鉱住宅を訪問し、その生活に共感する。『蟹工船』のような戦前の文学に共感するなどの動きが現れ始める。
 とりわけ、注目されるのは、「人間発達の知識結(ちしきゆい)による仕事おこし・地域づくり」というべき事態である。
る各地に固有の文化的伝統や習慣の担い手が、知識人・経営人・公共人(NPOを含む)、アイターンなどの連携を通じて、結合され、新たな再生の動きを創りだしている。超高齢社会研究の動向も重要な位置を占める。
 文化的伝統や習慣が超高齢者に体化され、地域社会の人々に、ネットワークのなかで、共有される。超高齢者の職人能力が評価され継承されてゆく中で、自然とコミュニティのなかで、自由に生きるノウハウをもつ、次世代が生まれてくる。それらは、各地における文化的な生活の伝統の再生や、農業・地場産業を中心とする生業再生の動きに現れている。祭りや、文化財の再評価や、芸能再生、工芸の再生など、文化的な要素を持つものが多く、また、生活の基礎的な必要から、小売業、交通・運輸業、ガソリン・スタンド、自然エネルギー利用システムなどにも及び始めている。
 その際、注目すべきことは、地域の農業や地場産業、都市(大都市を含む)内の農業・伝統的工芸品に比すべき中小の製造工業など、地域・都市の文化的伝統を担ってきた「地に根差す産業」に再生の動きがみられることである。
 これらの産業の担い手は、営利を目的とするというよりも、非営利的な家業や生業自体の再生や発展を視野に入れ、農林漁業や地場産業再生など「生活文化産業の再生による職人技の再生」「新たな技術や技能を持って経験による人的能力の開発」を行う傾向がみられる。
 そして、この傾向は、伝統的職人・営農専門家や、知識人・高度専門職業人、経営人、公共人(NPO、自治体職員など)の支援を得て、徐々に定着する方向にある。このような仕事起こしの場における人間の人格的な関係は、自分も他人も大事にする信頼関係を持ち、「結い」の伝統などを継承して、コミュニティ再生に資するものも多い。
 したがって、生業を通じての職人技の体得など、職業能力としての人間発達に止まらず、倫理性の高い、コミュニケーション能力を持つ人材が発達する可能性が拓かれてきた。各領域における職人は「技」を持つだけでなく「職人道」というべき人格的な高さを持ち、内発的な良心と公共性によって、場を共にする人々と、多様な文化性を互いに生かしあう。
 この生かしあう関係が、各自のもつ文化資本や実践知の認識につながり、自分で、自分の文化資本を手掛かりに、研究が始まるとき、そこに、後世や次世代に継承可能な知的財産が産まれる。道は、現代社会において、人類共有の資産を形成するのである。
 日本社会においては、農民の職人道については、二宮尊徳の示唆がある。それは、つぎの指摘に、よく示されている。
「(二宮尊徳=引用者)翁のことばに、およそ物のうちで根元となっているものは、かならず卑しい(社会的地位が低い=引用者)ものだ。卑しいからといって根元を軽視するのは誤ちだ。家屋でも、土台があってのちに床も書院もあるようなもので、土台は家の元なのだ。ということは民が国の元だという証拠になる。
 さて、その民のいろいろな職業のうちでも、農業がまた元である。なぜかといえば、みずから作って食い、みずから織って着るという道を勤めているからだ。この道は、一国ことごとくこれに従事してもさしつかえないものだ。こういう大本のわざが卑しいとされるのは、根元であるからだ。およそ物を置くのに、最初に置いた物が必ず下になり、あとから置いたものが必ず上になる道理で、すなわち農民は国の大本であるために卑しいのだ。
 そもそも、天下のすべての者が一様に従事してさしつかえない仕事こそ、大本なのであって、官員が立派だといっても全国民が官員となったらどうか。決してたちゆくはずがない。兵士は貴重なものであるが、国民ことごとく兵士となったら、やはりたちゆかない。工業は欠くことのできない職業だけれども、全国がみんな工業では決してたちゆかない。商業でもおなじことだ。
 ところが農業は大本なのだから、全国の人民がみんな農業になっても、さしつかえなく立ちゆくだろう。こうしてみれば、農業が万業の大本であることは明了だ。
 この道理を悟れば、千古の迷いが破れ、大本が定まって、末業がどうあるべきかおのずから知れよう。天下一般が従事してさしつかえのあるのを末業とし、さしつかえないのを本業とする。公明な議論ではないか。
 このとおり、農は根本であるから、厚く養わねばならぬ。根本を養えば、枝葉が自然と繁栄することは疑いない。枝葉とて、みだりに折ってよいものではないが、根本が衰えた時は、枝葉を切り捨てて根を肥やすのが培養の法なのだ。」(福住正兄原著、佐々木典比古訳注『訳注 二宮翁夜話(上)』現代報徳全書8、一円融合会(報徳文庫)1958年初版、2008年小訂、14刷、145-146ページ)
 この指摘には、生業の本質ともいうべき内容が含まれている。それは「天下のすべての者が一様に従事してさしつかえない仕事」という点であろう。たしかに、農業は「みずから作って食い、みずから織って着るという道を勤めている」。
 営農道ともいうべき、この道は、人間の生命・生活の再生産を自律によって実現する。これは、人間の天職であり、単なる職業ではなくて、みずから勤めて自立し、他人には迷惑をかけない。さらに、ゆとりがあれば、他者を愛し慈しむ媒体ともなりうる。これは、利己が同時に利他となりうる、より高次の統合性を意味する。人間としての、極めて高い倫理性を示しているといえよう。
 現代社会では、農の道が示す高い倫理性を根底から否定する動きが生まれつつあることも、事実である。それは、新たな都市ビジネス・都市再開発の動きの中で、都市農業が衰退し、広域的な経済発展は、近郊の農地を壊滅させる。さらに、過密と過疎の進展は、限界集落を生み出し、農の道を遮る。大手建設・不動産事業者が公共事業の担い手として大規模な地区計画を実行し、商業ビル、大劇場、マンションなどの複合的施設を建築すること。大規模企業が、農業や漁業、あるいは、福祉事業、環境・リサイクル産業などに参入し、伝統的な居住者の退去や、零細規模事業者の退出の傾向も進行している。人々は自立して生活しうる基盤を喪失する。
 このような場合には、不安定雇用増や失業者の発生・滞留が始まり、コミュニティが解体して、いわゆる貧困ビジネスが台頭する。ここでは、一種の労働力流動化の波が高くなる。このような状況の中で、農の道がもつ、倫理性を再生する方向性は何か。生業を農の道から再評価し、現代の市場経済や、分業交換による生命・生活再生産の可能性が拡大してきたことを念頭に置いて、尊徳の言う「農の道」を、ひろく、「職人の道」へと発展させることが必要である。そして、農と職人の道を再生する「生業を通じての人間発達」の動きつくりだすこと。これを踏まえて、「労働力流動化」を直視すること。農・職人道と、流動化された社会層との「社会統合」を構想し、実行することが求められる。この場合には、多様な共通の場(文化施設、福祉施設、教育施設、環境学習施設、防災訓練施設、まちづくり関連施設など)を生み出す努力が必要であろう。
 例えば、文化施設の中に、図書館や芸術訓練センターなどを併設し、低所得層が自由に低価格で、研究や芸術文化活動に参加できること。産業施設の中に、伝統産業や先端産業などの実験場を設けて、生業を自立して営むための学習や訓練の場を創り上げることである。
 現在、創造都市構想として多くの都市・地域で取り組まれている実践活動は、研究・文化・ケアの学習活動を通じて、あらゆる市民に、創造と享受、障害を克服して健康な人間発達を実現するための共通基盤を提供しつつある。これらの動きは、大規模な企業などが活用してきた「規模の経済」「技術の経済」ではなくて、人間自体の総合的な力量を発展させる「人間経済」、情報ネットワークや、高度な小規模利技術を生かした、「範囲の経済」、文化的な土壌や場を生かした「場の経済」などを特徴とする。とりわけ、人間経済は、文化経済学が最も注目した新しい経済であって、例えば、芸術公演において、創造的な表現力を持つ人間は、劇場の中で、人々を感動させるだけでなくて、劇場の外部にまで影響を与え、その地域の魅力を生み出して、人々を、その地に誘い、文化財として劇場の価値を高め、次世代への教育価値をもち、その地のビジネスに共通の基盤を提供する5)。

3.「伝統と習慣を今に生かす力量」としての文化資本

 このような人間が持つ創造性や蓄積された体得知、判断力、熟練、技巧などは、「人に体化された文化資本」と呼ばれる。かかる文化資本は、情報ネットワークなどを活用した学習によって、さらに、力量を増進することができる。また、「場の経済」においては、「場の文化資本」と呼ばれる地域固有の文化的伝統や習慣が資本として把握される。このような伝統などは、その場の人々にも大きな影響があり、「人は習慣と伝統の塊」ともいえる。このような視点からみると、「人・場の文化資本」は一体のものともいえよう。
 従来の大規模開発は、文化的伝統や習慣の担い手を離散させ、習慣や伝統を金銭関係に置き換え、あるいは、破壊し、祭りや地場の産業を解体して、文化資源を遊休させ、荒廃させてきた。しかし、生業を再生して、等身大の世界ではあるが、‘ひろがり’と‘つながり’を国際的な規模で、拡充し、狭い排他的な「利己」の世界に閉じこもることなく、ひろい「利他」の世界に飛躍しようとする動きが現れる。
 これらは、荒廃の中から、その中から「文化資本」を通じて、蘇生する文化経済があり、文化産業がある。人間の地域に根差した生業の再生を基礎に、耐え難い犠牲の苦しみから学習して、「文化資本化」し、各地の人間ネットワークや、‘ひろがり’と‘つながり’を生み出しながら発展する。

4.職人技の再生事業と「人間復興・文化による‘まちづくり’」

 このような状況の中で、分散化・離散させられた地元の職人技に注目し、これを、失われた「絆」を再生する第一歩として位置付けるNPO活動や公共政策が登場した。
ここでは、どのように人を集め、再教育し、後継者を獲得するのか。
 これが、まず、切実に問われている。
 地域であれば、都市の知識人や経済人と結合し、資金や知識、技術を学び、職人を核としたネットワークによって、各地の文化的伝統を再生し、祭りの再生や、複数の文化拠点を持つ、人間復興・‘文化によるまちづくり’の構想が浮上する。ここでは、街並み再生を担う「知識人・経済人・公共人などのネットワーク」が重要な役割を果たす。かれらが、地域の多様な文化資源を発見し、結合して、地図を作り、交流拠点をつくる。それらと連携する建築家、大工、医者、宗教家、商人、投資家などの動き。
 人々は、「互いに持ち寄った、文化資本」を生かし合って、より質の高い文化や生活の質を実現しようとする。ここで、「今の地域に必要であるが、欠けているもの」を見出す。それは、震災で失われた漁船であろうか。障害者のための住居であろうか。それとも、急増する「買い物難民のための売店」であろうか。あるいは、ガソリンスタンドか。それとも、放置された農地を耕す若者であろうか。食文化の質を上げる料理人であろうか。あるいは、人々が学習し合う塾や、高等教育機関であろうか。塾や教育機関がつくりだす「実験場」であろうか。
 「民間主導の知識人・経営人・公共人ネットワーク」は、生業における「仕事おこし、まちづくり、人づくり、文化再生・創造」を通じて、人間発達を実現しようとする。文化経済と産業は、荒廃した土壌の上で、新たな発展の方向を模索している。


*本稿は、池田清教授の提起された「人間発達の知識結(ちしきゆい)」に関する文化資本論からの接近である。この課題を提起された池田教授に厚く御礼を申し上げたい。
©Jun Ikegami