「伝統と現代的ニーズから地域固有の文脈価値を発見する・続19
ー地域再生の文脈価値と現代への発展ー」池上惇(市民大学院世話人代表)
前回は、ケインズの景気回復策が実際には失敗に終わったこと。これを批判した、ブキャナンは、ケインズ主義的政策は、理念として掲げた完全雇用政策は評価できるが、実際の景気の先行きや財政状況は、不況継続、赤字財政、慢性的物価上昇であったこと。その理由は、公共投資(これには産業基盤と生活基盤の双方を含みます)が議員の選挙区への集票行動に利用され、議員が競争で、地元に財政資金を配分させる行動をとったためであること。
議員が競争で財政資金を地元に持ち帰ろうとすると、公共投資は、景気がどうなろうと、お構いなしに、増額が続き、赤字財政が継続する。議員は、赤字対策としての税の負担増を地元で主張すれば票が減るので、財政赤字は膨張し通貨の増発やインフレーションが進行する。
これを防止するには、ケインズ主義を放棄し、集票の手段と化した公共事業の財源を縮小するほかない。その手段は「政府の課税権の制限」である。予算規模を国民所得の動向に合わせて法律で上限を定めること。これによって、政府の市場が縮小して、民間企業が経営困難となり、失業などが発生すれば、政府資金ではなくて、民間の資金を生かす起業活動や、NPO活動、フィランソロフィー活動などを振興し、仕事を起こす経済活動を奨励する。これによって、完全雇用を目指すほかはない。経済は、私企業と、政府だけでは成り立たず、第三のセクターとして、非営利組織や社会的な企業、地域を視野に入れた投資基金など、あらたな分野を確立せねばならない。
これが、ブキャナンの主張でした。この主張は、私は、1940年代、イギリスのコーリン・クラークの主張と同じだな、と、思いました。当時は、「揺り篭から墓場まで」の高負担高福祉政策が主流でしたが、クラークは、重税は、市民の活力を奪い、過度に政府財政に依存する市民生活は自立と自助の迫力を奪う、と、考えていました。
私は、ロンドンの古本屋で、彼の著作を見つけ、1980年代前半、『減税と地域福祉の論理』三嶺書房で紹介し、地域の福祉を協同組合や第三セクターなどで充実し、人を育てる教育減税で、福祉を充実するよう主張しました。そして、日本も、クラークの勇気(当時福祉国家を重税体制だと批判することは非常に困難でした)から学ぶべきだと主張しました。が、影響力はなく、お恥ずかしい限りです。
私は、景気政策としてのブキャナン、クラークの主張は、細かいところには、異論もありますが、大筋では、賛成です。日本では、「ブキャナンは市場原理主義者である」かのような紹介を経済学者が行うものですから、非常に誤解されていたと思いますが、今からふりかえりますと、非常に、優れた問題の提起をしていたのではないかと思います(詳しく研究される方は、池上惇『財政学』岩波書店、『財政思想史』有斐閣、をご参照ください。1990ー2000年ごろの著作ですが、増刷されています)。
彼の意見は、アメリカ合衆国では、基本的に受け入れられ、連邦予算には、規模についての法的な規制が加えられました。経済政策も、NPO支援やベンチャー支援策が基軸です。勿論、証券投資などの暴走を許す民間金融システムの不備は、そのままですから、投機活動やバブル崩壊・景気の落ち込みが避けられず、イラク戦争などで浪費を重ねますから赤字解消は非常に困難で、不況時には、GMの国有化など、依然として、民間が政府のお世話になっています。しかし、戦争をやめ、投機を規制してゆけば、慢性的な赤字体質からは、徐々に、脱却できるのではないでしょうか。
日本では、残念ながら、ブキャナンの議論はとりあげられず、新自由主義の主張と、ケインズ主義の形をまねつつ、赤字財政を継続し、赤字を増税で補填する高福祉高負担の「北欧型」と称する「キメラ型」政策(ケインズ+重税国家主義)が採用されてきました。これは、より厳しい状況を招き、不況と慢性赤字財政、高物価社会への道を歩んでいます。
これは、私ども、経済学や財政学を研究する者の責任でもあるわけで、常々、深く反省しております。
©Jun Ikegami
ー地域再生の文脈価値と現代への発展ー」池上惇(市民大学院世話人代表)
前回は、ケインズの景気回復策が実際には失敗に終わったこと。これを批判した、ブキャナンは、ケインズ主義的政策は、理念として掲げた完全雇用政策は評価できるが、実際の景気の先行きや財政状況は、不況継続、赤字財政、慢性的物価上昇であったこと。その理由は、公共投資(これには産業基盤と生活基盤の双方を含みます)が議員の選挙区への集票行動に利用され、議員が競争で、地元に財政資金を配分させる行動をとったためであること。
議員が競争で財政資金を地元に持ち帰ろうとすると、公共投資は、景気がどうなろうと、お構いなしに、増額が続き、赤字財政が継続する。議員は、赤字対策としての税の負担増を地元で主張すれば票が減るので、財政赤字は膨張し通貨の増発やインフレーションが進行する。
これを防止するには、ケインズ主義を放棄し、集票の手段と化した公共事業の財源を縮小するほかない。その手段は「政府の課税権の制限」である。予算規模を国民所得の動向に合わせて法律で上限を定めること。これによって、政府の市場が縮小して、民間企業が経営困難となり、失業などが発生すれば、政府資金ではなくて、民間の資金を生かす起業活動や、NPO活動、フィランソロフィー活動などを振興し、仕事を起こす経済活動を奨励する。これによって、完全雇用を目指すほかはない。経済は、私企業と、政府だけでは成り立たず、第三のセクターとして、非営利組織や社会的な企業、地域を視野に入れた投資基金など、あらたな分野を確立せねばならない。
これが、ブキャナンの主張でした。この主張は、私は、1940年代、イギリスのコーリン・クラークの主張と同じだな、と、思いました。当時は、「揺り篭から墓場まで」の高負担高福祉政策が主流でしたが、クラークは、重税は、市民の活力を奪い、過度に政府財政に依存する市民生活は自立と自助の迫力を奪う、と、考えていました。
私は、ロンドンの古本屋で、彼の著作を見つけ、1980年代前半、『減税と地域福祉の論理』三嶺書房で紹介し、地域の福祉を協同組合や第三セクターなどで充実し、人を育てる教育減税で、福祉を充実するよう主張しました。そして、日本も、クラークの勇気(当時福祉国家を重税体制だと批判することは非常に困難でした)から学ぶべきだと主張しました。が、影響力はなく、お恥ずかしい限りです。
私は、景気政策としてのブキャナン、クラークの主張は、細かいところには、異論もありますが、大筋では、賛成です。日本では、「ブキャナンは市場原理主義者である」かのような紹介を経済学者が行うものですから、非常に誤解されていたと思いますが、今からふりかえりますと、非常に、優れた問題の提起をしていたのではないかと思います(詳しく研究される方は、池上惇『財政学』岩波書店、『財政思想史』有斐閣、をご参照ください。1990ー2000年ごろの著作ですが、増刷されています)。
彼の意見は、アメリカ合衆国では、基本的に受け入れられ、連邦予算には、規模についての法的な規制が加えられました。経済政策も、NPO支援やベンチャー支援策が基軸です。勿論、証券投資などの暴走を許す民間金融システムの不備は、そのままですから、投機活動やバブル崩壊・景気の落ち込みが避けられず、イラク戦争などで浪費を重ねますから赤字解消は非常に困難で、不況時には、GMの国有化など、依然として、民間が政府のお世話になっています。しかし、戦争をやめ、投機を規制してゆけば、慢性的な赤字体質からは、徐々に、脱却できるのではないでしょうか。
日本では、残念ながら、ブキャナンの議論はとりあげられず、新自由主義の主張と、ケインズ主義の形をまねつつ、赤字財政を継続し、赤字を増税で補填する高福祉高負担の「北欧型」と称する「キメラ型」政策(ケインズ+重税国家主義)が採用されてきました。これは、より厳しい状況を招き、不況と慢性赤字財政、高物価社会への道を歩んでいます。
これは、私ども、経済学や財政学を研究する者の責任でもあるわけで、常々、深く反省しております。
©Jun Ikegami