市民大学院ブログ

京都大学名誉教授池上惇が代表となって、地域の固有価値を発見し、交流する場である市民大学院の活動を発信していきます。

智恵のクロスロード第20回「日本の文化と人情を愛し続けたジョサイア・コンドル(続2)」近藤太一

2014-12-01 22:59:26 | 市民大学院全般
・J・コンドルの建築的変遷
J・コンドルは、ロマネスク、ベネチアン・ゴシック、ルネサンス、フランス・ゴシックとその場の建築物によって様式を考慮した。ヴィクトリアン・ゴシックの東京大学法文学部校舎(明治17年)など今まで勉強して来た様式を取り入れた。まだ、設計経験も浅く、日本の国情にも疎かった時のJ・コンドルの建築物であったが、一つひとつ違った作品を造り、その立地条件や建物の性格を考慮したのである。あるいは、工部大学校生に自分のレパートリーの全てを示したかったのかもしれない。しかし、工部省の廃止まで、工部省建築の全てを担当した事になる。鹿鳴館は明治16年の関わりであった。
・都市づくりの中期
明治17年5月工部省を解雇されたJ・コンドルは、引き続き3年間、今度は太政官に雇用される。中央官庁集中計画への参画である。この計画は、明治19年2月エンデとベックマン案が主導権を握る。この都市計画は実現せず、臨時建設局は明治23年廃止となり、J・コンドルの13年に渡るお雇い外国人建築家としてここで終わる。
その後は、民間特に三菱財閥の岩崎家に代表される財界関係者の邸宅を多く設計した。三菱1号館(明治27年)、三菱2号館(明治28年)をはじめ、この期間中には住宅、オフィスビル、クラブ、ホール、教会などを多く手掛けた。住宅ではエリザベス式ルネサンスの岩崎彌之助深川別邸(明治22年)、岩崎彌之助邸(明治28年)、岩崎久彌邸(明治29年)がある。教会では、ニコライ聖堂(明治24年)がある。教会では、1909年J・コンドルによって新しい聖堂が建設され、その後聖ジョージ教会と改名され開設されたと小笠原教会にも建築で関与している。ここにもJ・コンドルの日本列島全てへの熱情を感じさせる。
民間建築家として人生の後期を充実させた。富裕階級や政府高官の大規模邸宅、クラブが中心であった。大正9年(1920)6月、67歳で死去するまで、優れた作品がここで作られていく。古河虎之助邸(旧古河邸宅ゴシック様式:現在大谷美術館、1階からはバラ園の西洋庭園、2階からは庭園全体が見渡せ、斜面下の日本庭園を鑑賞できる造り方にはJ・コンドルの日本文化を理解しての設計が垣間見られる)(大正4年)、清泉女子大学本館の島津忠重邸(大正4年)、開東閣(旧岩崎彌之助高輪別邸・明治41年)、綱町三井倶楽部邸(大正2年)などが、今でも維持管理されている。
・画家:河鍋暁斎に入門
J・コンドルは、明治34年4月、48歳の時、第二回目の帰国をする。この時、日本永住を決意したのではないかと推測される。要因の一つは、日本人女性と結婚し、家庭を持ったことである。そのきっかけに、画家河鍋暁斎がいる。
J・コンドルを暁斎に紹介したのは、当時宮内省主馬寮に勤務していた山口融である。彼の姪が、前波くめである。あるJ・コンドル研究家は、J・コンドルが河鍋暁斎を選んだのは、英国時代、サウス・ケンシントン博物館所蔵の暁斎の絵に接していたこと、工部大学校土木学科3期生として在学していた河鍋暁斎の甥香取多喜から、暁斎の評判を耳にしていたからだろうとしている。
 J・コンドルは、明治14年、画家河鍋暁斎に弟子入りする。今では、国際的には狩野芳崖や橋本雅邦よりも評価が高いと言われている。
 J・コンドルが入門したのは、29歳の時、暁斎は50歳、晩年の時である。週1回土曜日、暁斎がJ・コンドルの自宅まで出向いての教授であった。裕福な経済環境にあったJ・コンドルは、極貧だった暁斎を厚くもてなした。時には日光や江の島や鎌倉へ2人で旅行している。二人の関係はわずか8年であったが、J・コンドルは多くを学んだ。単なる師弟関係を越えた、心温まる関係で会った。明治16年には、暁斎から暁英という画号を授かる。
 明治44年には、J・コンドルは『河鍋暁斎:本画と画稿』を刊行した。こうした想いを河鍋暁斎に持ち続けていたことになる。J・コンドルにとって暁斎は、建築家コンドルとしてではなく、人間コンドルとしての師匠であった。暁斎再評価が高まるなか、J・コンドルの果たした役割は大きい。暁斎死去に際して、J・コンドルは、日本が一人の偉大な画家、まぎれもなく現代最高の逸材を失った、という心温まる追悼文を残している。
・前波くめとの結婚
 前波くめについては、近藤富枝氏は『鹿鳴館貴婦人考』で書いている。鹿鳴館を巡る政府交換夫人のなかに、踊りの師匠「前波くめ」が章立てで登場するのもおかしなことだが、鹿鳴館が中心となれば、当然J・コンドルの令夫人となって「くめ」も登場してくることになる。
 前波くめは安政3年(1856)12月の生まれで、踊りの名手であった。師匠は菊川金蝶。明治8年発行の『諸芸人人名録』には、金蝶の名は上部にランクされている。「金蝶」の墓は早稲田の宗参寺に在り、そこで金蝶の本名が「前波きん」であったことが判明する。「くめ」は後に前波徳兵衛、梅遊の養女となっているので、師弟以上の関係が前波徳兵衛と金蝶との間にあったとみられる。
 金蝶は日本橋浜町に住んでいたが、J・コンドルへの踊りの稽古は、コンドル自邸への出稽古である。やがて金蝶の代稽古に弟子の「くめ」が通うようになる。J・コンドルが踊りにひときわ熱心なのは、「くめ」の控えめな人柄にもあった。しかしそうはいっても、相手はお雇い外国人である。地位も名誉も高く、一介の踊りの師匠である「くめ」が惚れることはできない。日本文化が好きであったJ・コンドルが、それを身に付けていた「くめ」を見染めたと言える。身振りや言葉や仕種に日本文化が滲みこんでいたのである。
 こうして2人は、明治26年7月結婚する。J・コンドル40歳、「くめ」36歳である。2人の間に子供は生まれなかったが、一人娘ヘレン(日本名ハル、はる、愛子)がいた。彼女の生い立ちは謎に包まれていたが、叔父山口融氏筋から次の情報がもたらされた。
 妻くめは、日本に来た若い頃に芸者との間に出来た娘のことを知り、夫コンドルに引き取るようすすめたという。浅草方面の下町に里子に出されていて、人に頼んでやっと捜し当てた。
しかし、彼女の生みの親については判然としないとされている。河鍋暁斎とJ・コンドルが親しくなった時期と、ヘレンが生まれた時期が重なる。ヘレンは明治13年生まれで、J・コンドルと「くめ」が結婚した時は、13歳である。
・J・コンドルの子供教育
 J・コンドルは前波くめと結婚する時、娘ヘレンを引き取る。ヘレンを名門東京女学館に入学させ、卒業する明治34年の二度目の帰国時、ヘレンを連れて行く。母の墓参もあるが、もう一つはヘレンをブリュッセルの学校に留学させるためである。J・コンドルがベルギーの首都ブリュッセルの学校を選んだのかははっきりしない。しかし、長崎出島では、ベネルクス3国が日本と一番親善な外交関係があっただけに、ブリュッセルを選んだのだろう。日本の船でヨーロッパの港で入港を認めてくれたのは、ベルギーアントワープであった。今でもベルギーの王室との日本の皇室は一番関係が良いとされている。
 ヘレンは4年間の留学を終え、明治38年3月日本へ戻って来る。その帰途の船中でウィリアム・レナードに見初められ、翌39年結婚する。グレートは、スウェーデン海軍中尉のデンマーク人。グレート家は、デンマーク屈指の名門ハンセン家直系の家柄であると言われている。
 ヘレンは、結婚翌年から10年程で、3男3女をもうける。結婚後、グレートがスウェーデンの駐バンコク総領事になったので、夫妻はバンコクで暮らした。その間、コンドル夫妻は生まれてきた孫達、最初の3人、多い時には6人を自邸に引き取り育てた。孫娘3人は、港区白金4丁目聖心女学院に通わせた。J・コンドルの教育熱心は、くめとの関係で、より高められたのである。
 こうしたことで見えて来るのは、J・コンドルの教育熱心さである。ヘレンの教育にも並々ならぬ努力をし、次の孫達までも育てた。J・コンドルは24歳で来日するまでそうした立場になく、自らが学ぶ側だったから後輩の教育は見たことがない。しかし、J・コンドルの建築修業時代を視て行くと、向学心浴れる若者であったことが知れる。学ぶという事に、人一倍熱心であった。それに素晴らしい師に巡り会うことが出来た。
 来日してすぐに工部大学校で造家科学科を教えた時、第1期生の辰野金吾達とほぼ同年齢である。しかし、J・コンドルの教育熱心さや人格の高さは、J・コンドル死去の追悼文で、弟子達だけでなく、関係者が一様に口をそろえてそのように回顧している。J・コンドルは教えた経験はなかったが、自分が勉強が好きであったから学ぶことの大切さを知ったのである。それを弟子達だけでなく、娘ヘレンにも、孫達にも惜しまなかった。60歳を過ぎての孫達との関係は、真正面から造家学科の学生に教えるのとは違って楽しかった事であろう。
 そうしたJ・コンドルが、学ぶことの大事さを身を持って感じたのは、画家河鍋暁斎に弟子入りした時からであろう。建築の弟子達に教えるのとは立場が逆で、今度は画家から教えを請う立場になった。実力がありながら評価されず、それでも優れた日本画を描き続けた河鍋暁斎から受けた影響は大きい。暁斎の絵日記にJ・コンドルは頻繁に出て来る。
 小冊子になるほど、師弟関係は濃密に描かれた。暁斎の娘などを含め、家族の付き合いだったことがわかる。絵の中のJ・コンドルは、実に伸び伸びとリラックスしている。感情的にも、2人は特に相性が良かったのである。そして師弟を通じて「教育」というジャンルを多角的に学んだのである。
 もともとお雇い外国人として来日したJ・コンドルの目的の一つは、日本人建築家を育てる事である。それが今度は、弟子が弟子を教えるといったように、何代にも亘ってJ・コンドルの教育は続いた。これは、東大構内J・コンドル像・護国寺J・コンドルお墓・日銀本店・JR東京駅・三菱一号館・日比谷公園・上野不忍ヶ池傍の岩崎邸・ニコライ聖堂・霞が関官庁街と関係は深い。筆者がNHK文化センター会員を案内・解説する際に、これら施設特に東大構内ではベルツ博士銅像も関わり、日本政治を担う官僚の霞が関と宗教分野特に教会や個人の邸宅とその分野が広いことも合わさって、J・コンドルの人生観が心に滲みつく。J・コンドルの暖かい妻・子供そして女性への熱情が通り過ぎてゆく。
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当面の予定
12月3日(水) 16時 ラスキン学(内藤先生)
       17時半 文化政策・文化経営学(池上先生)
12月4日(木) 16時 地域生態計画と住民運動(シャピロ先生)
   17時半 都市未来学(シャピロ先生)
12月9日(火) 18時 京都まちづくり学(山田先生)
12月10日(水) 14時 現代観光政策(近藤先生)
16時 文化経済学(中谷先生)
12月11日(木) 16時 中山間マネジメント論(古畑先生)
12月12日(金) 14時 萬生学研究会


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