市民大学院ブログ

京都大学名誉教授池上惇が代表となって、地域の固有価値を発見し、交流する場である市民大学院の活動を発信していきます。

智恵のクロスロード第19回「9.27御嶽山噴火に思うこと(その2)」古畑浩

2014-11-30 21:34:37 | 市民大学院全般
キーワード: 生駒勘七と御嶽山

 11.22の22時台に長野県神城断層地震が発生して、木曽に続いて小谷、小川、白馬の各地を激震が襲った。最近では、これはまだ弱い方で、歪があるために他でも揺れる可能性が高いと専門家が指摘している。今回は、生駒勘七(1919-1987、https://kotobank.jp/word/%E7%94%9F%E9%A7%92%E5%8B%98%E4%B8%83-1052776)という御嶽研究で登場する人物について注目してみたい。
 『御嶽の歴史』木曽御岳本教、1966年(非売品、概要はhttp://xkm.cocolog-nifty.com/blog/2010/03/2741315-16f3.htmlなど)、『御嶽の信仰と登山の歴史』第一法規、1988年 をえんぱーくから拝借してきた。生駒先生は郷土研究による社会科教育の充実を唱えて実践されてこられたようである(後者奥付、業績はhttp://webcatplus.nii.ac.jp/webcatplus/details/creator/18285.html)。前者はウェブ情報に譲り、後者の民俗学に絞って検討してみる。
 木曽御嶽は、日本の山岳信仰史上、富士と並んで庶民の信仰を集めた霊山(はじめに)。木祖村鳥居峠から御嶽遠景を望む、桧笠の旅人の姿(木曽路名所図会)が描かれている。現代も同様に眺めることが可能と思われる。道者による集団登山の風習は室町時代から行われ、講社の成立を見る。御嶽講は、1806年普寛の高弟金剛院順明によって創立された旧岩郷村を中心とする太元講と、児野嘉左衛門の覚明講再興運動に呼応した旧黒川村の御嶽講が、木曽福島に存続していた(27頁)。
 御嶽信仰には霊神碑という何々霊神と自然石に刻んだ石碑を建てる風習と、御座とする神がかりによる病気治療や卜占信仰がある。双方は密接で独自の霊魂観による(84頁)。修験道場は鎌倉時代まで。室町中ごろに修験道と民間信仰と結ぶ御嶽独自の信仰が生まれ、厳しい精進潔斎を経た山麓村落の道者という在俗の人が集団登拝する風習が行われた(95頁)。史料から推測して、生駒先生は毎年30から40名の道者が登山に参加していたものとされる。木曽義昌(1540-1595, http://dic.nicovideo.jp/a/%E6%9C%A8%E6%9B%BD%E7%BE%A9%E6%98%8C)と円空上人(1632-1695, http://www.minami-kanko.com/special/201002/enku.html)の登拝もあるようだ(110頁)。
 今年は南木曽町の水害(http://www.nhk.or.jp/sonae/column/20140107.html)も記憶に新しい。その南木曽町にも円空仏があるという(130頁)。外国人では1873年のイギリス人ウィリアム・ガウランド( 1842-1922)とエドワード・デイロン
、74年のイギリス人ワイウイー・ハウス、ドイツ人J・J・ライン(『旅行と日本に基く日本』1886年)、75年アーネスト・サトウが登山しているようだ(207頁)。前回はウェストンをご紹介したのだが、外国人にとっての御嶽の意味は富士山と比較検討する意味があるかもしれない。
 画家の谷文晁(1763-1841)『日本名山図会』にも御岳山が描かれている。その姿はかなり尖がった感じの印象を与える形状(224頁)。日本酒醸造法を研究したお雇い外国人アトキンソン(1850- 1929)も1879年7月25日、伊那から権兵衛峠を越えて福島に投宿、翌日オエドから黒沢道をとり、合戸峠で御嶽と駒ヶ岳を望見(226頁)。
 信濃の国作詞の浅井冽(1849-1934)『修学旅行にて御嶽に登るの記』で、毎年夏秋には1万人もの信者登山をみたという(244頁)。
 古来より御嶽は女人登山をおこなわれるも制限があった。明治になるまでは7号目に上がっているようだ(250頁)。登山者数の変遷は、家高専治氏曰く、王滝口登山は2,3千人。1918-19年には1万人越え。黒沢口は1887年に7,8千人。夏山の統計があるが、冬山は昭和の戦後ので数千人程度いる(258頁)。
 生駒先生の好著により、少しでも御嶽噴火の犠牲となられた方々への鎮魂となり、ご遺族の慰めともなれば幸いである。

智恵のクロスロード第18回「私が思う二宮尊徳 その2」中西康信

2014-11-29 11:02:45 | 市民大学院全般
キーワード:尊徳記念館、心田開発

 先月の10月5日(日)、私は知り合いである江口友子さん(平塚市市議)に自動車で案内して頂いて、小田原市にある尊徳記念館と報徳博物館を訪問した。特に、前者の尊徳記念館では、ボランティアで案内係をされている方のご説明に感動しながら、改めて尊徳の生きたプロセス(これを尊徳の言った「徳」と言ってもいいように思う)を感じるがことができた。その案内係の方の活き活きとした表情から、尊徳ファンであることはもちろんのこと、尊徳が活き活きと、いかに生きることを楽しんでいたかをその方を通じて知ることができたような気もした。ぜひ機会があれば、読まれている方々も訪問して頂きたいと願っている。
 通常、尊徳の教えとは、報徳思想で言われる「至誠」、「勤労」、「分度」、「推譲」だとされている。尊徳自身も言ったのであろうから、間違いだとはもちろん思わないが、私はそれらの教えより、もっと大事な尊徳の教えがあると思っている。それは、「心田開発」という教えである。先の四つの教えだけを聞いていると、前回でも書いたが、お説教臭く私には思えてしまう。特に、「至誠」という言葉は、戦前軍国主義の中で悪用されたとしか思えないこともあったので、目上の人の言うことに唯々諾々と従う、そんなイメージを抱いてしまいかねない。
 「心田開発」は造語であるが、困窮する村を目の前にして、「新田開発」よりも先ず人々の「心田開発」が大事だと尊徳は言い切ったのである。ことのことから、この「心田開発」なしに、既述の「至誠」などの四つの教えも意味がないように私は感じている。尊徳の言った「心田開発」とは、端的に言えば、絶望的な状況でも、前を向いて、たとえ小さな一歩でも踏み出して歩む、苦境の中でも生きることを楽しいと思える、そのような心の状態にすることだと私は思うが、そのことが難しいこともまた確かなことだ。ちなみに、尊徳の7代目のご子息である中桐万理子先生は、先生の祖母から「尊徳の銅像で重要なのは、足が一歩前に踏み出していることだよ」と教えられたそうである。
 荒廃した村の再興には、人々の心に僅かでも希望があって、生きる喜びを感じることができる心の状態が必要であり、そうでないと、人々は動き出さない、働き出さないものだと尊徳は考えたのである。尊徳が生きた当時でさえ、言っては悪いが中途半端に学問をした人なら、村の再興は無理と判断するか、再興するとしても、農業における地理的条件、地質、気象条件など客観的な条件だけで村の再興の判断をしたように思う。現代なら、なおさらである。もちろん、そうした客観的条件を尊徳は農業オタクとも思えるほど詳細かつ膨大なメモにとって調べるのだが、同じぐらい大事なこととして、人々の心のあり様も捉えたのである。
 また実際に、尊徳は荒廃した村の人々がたとえ僅かでも希望抱かせるような施策を色々と打って出たのである。尊徳の偉大さを私はこういうところに感じている。(つづく)

智恵のクロスロード第17回「モンディアノの地誌的文学 」内藤史朗

2014-11-28 19:52:07 | 市民大学院全般
―ラスキンとノーベル賞作家モンディアノ(承前)―

 パトリック・モンディアノがノーベル文学賞を授与された作品は、”Dora Bruder”(1997年、ガリマール社刊。邦訳では『1041年。パリの尋ね人』となっている)である。この作品が特異なのは、フィクションを殆ど避けた記録文学作品という点にある。ユダヤ人として戦時下パリに生きて、殺された親子3人の生きた痕跡を辿った記録である。彼女が寄宿学校を脱走して数か月間、作家には殆ど彼女の消息が掴めない。しかし、最後は、他のユダヤ人及びユダヤ人の友人達と共にガス室で殺されたことは疑いようがない。(「ユダヤ人の友人達」というのは、たとえアーリア系であっても、ユダヤ人に連帯感を表明し、黄色の星印をユダヤ人と同じように服に着けていた人たちである。)
 作者モンディアノは、記録を発掘し、記憶を辿って、生前の親子の姿を彷彿とさせるのに成功している。
 ラスキンは、19世紀において、ドーヴァ海峡の向こう側、すなわち(ラスキンから見れば)フランス側では、朽ち果て崩壊しかけた灯台にまつわる魅力を書いた。ところが、イギリス側では、邸宅の主人が亡くなると、翌日には、模様替えをして、「邸宅売ります」という札を立て、過去にどんな生の営みがあったかを消し去るのが普通であった。
 フランスでは、革命の頃、農民が地主の門構えの邸宅を襲った痕跡が残っている。子供は遺跡とも知らずに、古い建築物のそばで遊んでいる。ラスキンが古い遺跡である建築物の保存に熱心だったのには、過去と現在を「不連続」にしている近代主義、産業主義、商業主義が人間の立つべき場を喪失させ、「生きがい」「人間らしさ」を奪っていき、遂には、「人間どうし」の絆も奪ってしまい、故郷喪失の人々にしたと警告した。
 この警告は、見事にナチス占領下のフランスにおいて、特にユダヤ人迫害・虐殺で極点に達した。
 ラスキンは、『近代画家論』第4巻において、「ターナーの地誌」という章を設けている。これがモンディアノの受賞作に、重要な手掛かりを与えてくれる。ラスキンは風景画家ターナーの絵画に、描かれた風景の背後にある地誌を読み取ろうとし、地誌的な理解が読者や鑑賞者を啓発すると考えた。生得の能力(構想力)を蘇らせるということであろう。
 ナチス占領下のパリにおける細かな記憶(共同体的記憶)の追跡が、1941年の新聞の尋ね人欄から始まる。そのためパリ市街地の地図入りの描写が出て来て、読者の想像力を刺激する。ヒントだけを与えた推理小説のようである。しかし、人間が、一つの家族が、生きた証しを読み取る読者は、人生とは生きた証しを残す意味があることを知る。記録や記憶は、そのために縦横に駆使されるが、やはり謎が残る。モンディアノはガス室で殺害された人達を想起させる。
 彼等3人のそれぞれが生きた証しを作家は書こうとした。それが地誌的文学となった。
 日本では、縄文時代以来であろうが、村里の畦道に残された石や岩を見かける。このような石・岩が多い遠野(岩手県)では、人型を土や木で造って、祀っている。中には子供に玩ばれて鼻も口も分からなくなったのもある。弄ぶ子供を叱った大人が、病気になると言われている。
 おそらく地蔵菩薩と言われる以前から、存在した民間信仰であろう。それが仏教がもたらした地蔵菩薩道によって、化粧替えして、地蔵菩薩尊と言われて全国の村里に祀られた。
 そもそも釈尊入滅から56億7千万年を経て、弥勒菩薩が下生する。その長い間、地蔵菩薩が人類を救うというのである。人類は六道(りくどう)すなわち、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天の6つに分けられるが、天を除くと、いずれも苦悩が人々を苦しめる。その苦しみから救うのが地蔵菩薩道である。
 人間が誕生するとき、母親の生みの苦しみを救うため、地蔵菩薩真言が唱えられる。
「オンカカカビサンマヤソワカ」
 これは、京都上賀茂の地蔵菩薩像の横に、最初梵字で書かれていたのを、仮名にして掲げている真言である。
 私は、一目見て、「オン」はonneで、「親」の意味のアイヌ語と思った。「ワカ」も「水」の意味のアイヌ語と思って、アイヌ語辞典を引いて読み解いた。
 「onne-kankan-kampe-san-maw-eso(ro)-wakka」()括弧内は省略された。
とすると、完全なアイヌ語の文になり、意味が通る。
 「親の産道を呼気に合わせて、破水した羊水の沿って、後ろから前へ下りてくるように」
という意味になる。(参照『地名アイヌ語小事典』北海道新聞社出版センター刊)
 なお、岩手県遠野には、「カクラ」様という土像・木造が祀られている。
 アイヌ語のkar,kariは「廻る、経めぐる」に意味であり、kariには「通る」の意がある。kurは、「魔物、神」である。Kar(i)-kurが「カクラ」になって伝えられたのであろう。村落を経めぐる巡礼か門付けが居て、地蔵信仰になって行った。仏教の地蔵菩薩道は、仏教伝来によって、仏教以前の民間信仰が、化粧直しをして広まった。上賀茂のアイヌ語安産地蔵真言といい、遠野の「カクラ」様といい、起源が縄文時代に遡る民間信仰の存在を裏づける証拠である。

智恵のクロスロード第16回「日本の文化と人情を愛し続けたジョサイア・コンドル(続)」近藤太一

2014-11-26 22:21:23 | 市民大学院全般
・J・コンドル以前のお雇い外国人建築家
 J・コンドル以前に来日し、明治初期に活躍したお雇い外国人の一人に、T・J・ウォートルス(1842~1892)がいる。大阪造幣寮(明治4年1871)、銀座煉瓦街(明治4年~11年)の設計者として知られる。アイルランド生まれで、幕末の慶応元年(1865)年頃、香港から鹿児島に渡り、薩摩藩の紡績所の建設などに携わっている。明治3年(1870)から大蔵省に雇用され、明治7年から明治8年の1年間、工部省営繕課雇用となった。T・J・ウォートレスは、正規の建築教育を受けた建築家ではないが、幕末・明治初年の近代建築揺藍の時代を代表する外国人の一人であった。
 明治8年11月工部大学校造家学科に、予科2年を修めた曽禰達蔵、片山東熊、辰野金吾、佐竹七次郎、宮伝次郎の5名が初めて進学する。この時、曽禰達蔵24歳、片山東熊23歳、辰野金吾22歳、佐竹七次郎20歳。本科は4年である。在学中に病没した宮伝次郎。他の4人が、明治12年11.月に卒業し、造家学科教師J・コンドルの第一期生となる。
 曽根達蔵は、専門紙(『建築雑誌』大正9年7月号)の中で、当時の建築の専門教授がおらず、心中甚だ不満に堪えず、専任教師の着任を熱望して止まなかったとレポートで記述している。ここに着任したJ・コンドルは地質調査や材料・工法や自身の安全性の検討を各所で示し、技術面でもいろいろと重要な側面を発揮した。
・ドイツ人建築家エンデとベックマン
 明治19年(1886)、日本政府は臨時建築局を設け、エンデとベックマンのドイツ人建築家及び技術者を招聘した。来るべき国会開設に備えて議院建築(国会議事堂)、中央官庁街を日比谷・霞が関に建設するために招聘されたのだが、建築局は4年間で終わりとなり、日本政府の国会議事堂建設・官庁街建設の壮大な計画は夢と化した。この情勢は、詳しく旧司法省本館資料展示室(桜田門脇)で、ウィークデイには見学することが出来る。筆者もNHK文化センター会員の現地見学会で国会・憲政記念館・警視庁本部の現場で、この旧司法省展示室に案内し、解説した。
 エンデとベックマンの二人と彼らの事務所員が計画した議院建設は評判が悪かった。特に日本の芸術・美術に理解を持たない外国人に日本政府の計画を依頼したことは、政府に対しても批判となり、またそれを批判した日本人建築家は、工部大学校造家学科でJ・コンドルから建築学について教えを受けた人達で、イギリス流の建築に対する考え方が強かった。当時は、イギリス流・フランス流・ドイツ流など、それぞれのスタイルが混ざり合っていた時代であったといえよう。
 エンデとベックマンの日本の議院建築は不調に終わったが、ベックマンは滞在中に妻木頼黄、渡辺譲、河合浩蔵の3名のドイツ留学を決め、我が国建築界の技術不足のため、監督者職工と共に、これらの事を日本政府と建議し、職工15名も加えてドイツ留学を推し進めた。その内、6名はベックマンの自費で対処している。
 エンデとベックマンの招聘の目的であった議院その他の官庁建設は中止となったが、その後政府の従来の大規模計画を見直し、仮議事堂を建て、第一回の議会に合せた。仮議事堂は、明治23年11月竣工、翌24年に焼失、2か月足らずの生命であった。
J・コンドルは、工部大学校造家学科の第一回卒業生で一番弟子の辰野金吾を、自国イギリスの彼の師であるW・バージェスの許に送り込む。またロンドン大学でも学ぶ機会を与えた。
 辰野金吾は、イギリスで遊学した後、明治16年に帰国して今の東京駅の設計を発表し、実現している(大正3年竣工)。
・日本文化と人情を愛したJ・コンドル
 J・コンドルの英国での修行時代は、ヴィクトリアン・ゴシックの盛んな時代であった。そこでの修行は、来日後、約80件の建築を造る中で、大きな影響力を持ち続けた。
 ヴィクトリア朝の建築家W・バージェスは、19世紀のヴィクトリアン・ゴシックの多大な影響を与えた建築家で、19世紀の建築家達の中で、最も早く日本の美術に興味を持ち、「日本の美術を自らの文化のコンテクスト(context:文脈)の中に置いて、それを中世の精神に満ちたものと評価した」。さらに、1850年代から浮世絵の収集を始めた極めて早い日本美術愛好家であった。
 J・コンドルがこのバージェスの事務所にいたことが、J・コンドルを来日させた大きな機縁となった。つまり、J・コンドルは、「サウス・ケンシントン、R・スミス、W・バージェス」という勉学環境の中で、ゴシック様式及び日本様式に触れながら建築を学んだことになる。このバージェスから建築と芸術の融合を教えられたことになる。
 J・コンドルが、W・バージェスのところを辞めたのは1875年である。そして翌年ソーン賞を受賞する。作品は、バージェス作品に極似したゴシック様式のカントリー・ハウスで、師はすでにJ・コンドルの豊かな才能を見出していたのである。
・J・コンドルのミッション(使命)
 来日前から日本美術に強い関心を示し、日本好きだったJ・コンドルは、来日早々から精力的に日本建築を見て歩き、スケッチをし、論文も書いている。その論文が翌明治11年英国王立建築家協会で朗読されている。ゴシック様式を学び、日本好きだったJ・コンドルは、来日後、生涯に渡って歩いた行動は、彼の人生観を如実に示した。
 明治政府からお雇い外国人に要請したのは、日本の近代化のために、教育者として本格的な西洋建築を学問として教える事、そのことで日本人建築家を養成することである。それを通じて建築の近代化を推し進め、さらには、新政府として明治時代の国家のための世界一流の建築を造ることである。いずれも、きちんと建築学を基礎から学んだ建築家でならなくてはならない仕事である。
 教育者として辰野金吾らをすぐに教え育て、建築家として来日の翌年に工部大学校南門・門衛室や東京大学全体配置図を明治11年に作り、東京帝室博物館も明治14年に建築した。明治17年5月解雇になるまで、矢継ぎ早につくっている。この7年間教育者として建築家として文字通りの出発点となった。明治17年の工部大学校を辞したあとは、官界時代は終わったことになる。明治18年12月工部省も廃止となり、我が国の西洋建築は導入期を終え、発展期へと移って行くのである。

智恵のクロスロード第15回「北村季吟と夏まつり~季語を目印に地域文化を探る~」西端和美

2014-11-25 15:45:48 | 市民大学院全般
キーワード:繁昌文化研究のフィールドワーク

 いわゆる「土地柄」と言われるものの形成には、人や物の流れとそれらの傾向を促した地形的条件が大きな要素となりますが、その地(=地面)が潜在的に備えている目には見えない趣のようなものが関係していると想像するのは、非科学的でしょうか。
 私は、中学校としての永い歴史を閉じた後に社会人教育の学びの場として再生した成徳学舎に何故かそんな因縁じみたものを感じずにはいられません。
 今日は、界隈を舞台に現代日本の俳壇・歌壇の基礎を学術として築いたとも言える北村季吟(きたむらきぎん)のお話を致します。

 市民大学院が面している東西の道・高辻通りの一筋南に、松原通りがあります。今でこそ一方通行の細道となりましたが、元は本来の五条通りにあたります。つまり、あの弁慶と牛若丸が出逢った「京の五条の橋の上」へ続く道なのです。古地図と現行の地名が異なるのは珍しいことではありませんが、松原通りを五条通りに置き換えるだけで、想像し得る風景が一変するのは愉快です。
 この旧五条通り室町東に鎮座する新玉津島神社の駒札には、平安時代末期から鎌倉時代初期の歌人・藤原俊成ゆかりの神社であること、和歌の神様・衣通郎姫(そとおしのいらつめ)が祀られていること、また、これらの由緒から、短歌・俳句・文章の上達祈願の崇敬があることなどが記されています。この宮の神官として七年間(1681~)暮らしたのが、北村季吟(1625~1705)でした。彼は、「土佐日記抄」「伊勢物語拾穂抄」「源氏物語湖月抄」などの注釈書を表し、元禄2年(1689)に歌学方として幕府に召されるまで、京都の様々な階層の人々に古典の講釈や短詩文芸の手ほどきをしました。門人には、松尾芭蕉もその名を連ねています。
 私が季吟に関する文献を調べ始めたきっかけは、「繁昌まつり」が夏(または秋)の季語として歳時記に載っているのを知ったことからでした。繁昌神社に纏わる古事を研究している身には有難い情報でしたが、正直なところ大変驚きました。かつての神社が、その名の通り「繁昌」していたことについてはある程度の研究を進めておりましたが、歳時記に載る祭りとは、いったいどのような規模のあるいはどれ程の知名度の行事であったのでしょう。今で言えば、祇園祭・時代祭・葵祭のような所謂京都三大祭りなどでなければ、皆が認識を共有できる「季語」とは言えません。もちろん、かつてはそのように有名であったものが歳月と共に寂れてしまったと解釈するのも一つの方法ではありますが、季語に選ばれた経緯の方にも何やら理由がありそうです。つまり、繁昌神社や繁昌祭をよく知る人物が季語に推薦したか、歳時記の編集に係わる人との親密な交流があったりしたのではないかと考えたのでした。
 初めの検証は、そもそも「歳時記」とは?です。歳時記(さいじき)は、「歳事記」とも書き、もともとは四季の事物や年中行事などをまとめた書物のことでありました。それが江戸時代になって、俳諧・俳句の季語を集めて分類し、四季ごと(後に新年を加えて五季となる)に解説と例句を加えたものを指すようになります。現存する最古の歳時記は6世紀の中国でまとめられた「荊楚歳時記」でありますが、これが奈良時代に仏教などと共に伝来し「歳時記」という呼称が知られるようになりました。日本独自のものとしては、貝原益軒による「日本歳時記」(1688)が始まりとされています。季語を収集した「季寄せ」や四季別の類題集や句集は連歌隆盛の平安時代末期から存在していましたが、季語とそれを使った俳句の紹介を組み合わせた現在のスタイルのものは、北村季吟の「山の井」(1647)が最初とされている事が分かりました。
 となれば、推薦どころか、季吟率いる京の文人たちがこの地で春夏秋冬を表す風物詩の区分をし、歳時記に収め、自らも五七五の発句に用いて例句を創造していたことになります。果たして、季吟にとってのご近所の祭事「繁昌まつり」の俳句の記録は残っているのでしょうか…。これが見つかれば占めたものです。
 晩年に江戸へ下った季吟の書き物は、永い間、新玉津嶋神社によって保管されていましたが、今は、季吟生誕の地・滋賀県野洲市の歴史民俗博物館に在る他、京都府立総合資料館でも句集を閲覧できるようでした。膨大な資料は、季吟の作品を集めたものというより句会記録の体です。句友の屋敷での集まりであったり、大店主人宅の新築祝いの座であったり、季吟が町衆との句会を通して五七五の「てにをは」を語ったであろう様子が浮かんできます。上座の季吟の立場は、句会の指導者であり、時にオブザーバーであり、カリスマでもあったのだろうかなどと興味は尽きませんが、やっとのことで、季吟の一句を見つけることに成功しました。これは、予め指名を受けた選者が優秀作を吟味し、手本となる季吟の一句が軸吟として最後に披露されたもののようでした。
 「 繁昌の和訓や宮の夏木立  ~季吟~ 」とあります。
 さすがに、他者の情景描写とはひと味もふた味も違う秀句であると私には思えました。祭りの賑やかさを言葉にするのではなく、季吟の視線は繁昌宮にあった神木の雄々しさに向けられています。木立の枝が豊かに張る様子をもって、栄えるとはこのような事だと説いているのです。そこには代々の氏子が守って繋いだ歴史と大木の樹齢とを重ね合わせる神官ならではの感性が満ちています。また、季語である「繁昌まつり」の「まつり」を取り除いて、下五の「夏木立」との季重ね(一つの句に季語を複数回使うことを言い、これは発句に禁じられている)を避ける技も巧みです。おそらく、この句会の参加者たちも大きく頷き合ったことでありましょう。
 かくして、「繁昌まつり」はその後も京都人の間で、季語として数多俳句に使われていたことが次第に分かってきました。もののついでに、もう少し有名処をあたって参りましょう。実は、この一時代後の界隈にはもう一人の天才・与謝蕪村(俳人・歌人・絵師)の面影が残っているのです。
 与謝蕪村(1716~1784)の俳句集はさらに膨大でした。これも後世の研究者によって年代別に整理され、有難いことに活字の書籍になって図書館に整えられていました。しかしながら、該当句があるのかどうかの答えはありません。そんな中で、私の目に留まったのは次の句でした。
 「 はだか身に 神うつりませ 夏神楽  ~蕪村~ 」
 これが、繁昌神社を詠んでいるのかどうかは確定出来ませんが、いくつかのヒントらしきものに着目してみました。
 明治以前の繁昌祭りの神輿渡御が、「深夜に全裸の男子によって担がれる奇祭であった」という記録と照合しますと、この「夏神楽」は、繁昌宮の神楽を指しているものとも考えられるからです。特に、祭りの行列は、蕪村の居宅跡(烏丸仏光寺西入)の至近を通過していることから、固有名詞を与えずに日常の日記的な「雑吟」として書き留めた一句のように思えるのです。見慣れた例祭の模様について、はだか身の荒々しさや神事の色彩を切り取るのではなく、担ぎ手の裸体と神威が一体となった時空間を描写しているのは、祭りの夜や宮の成り立ちをよく知る人の視座とは言えないでしょうか。私の仮説の信憑性は兎も角も、少なくとも、蕪村が祭りをまったく知らずにこの街で過ごすことは難しそうです。蕪村が見た繁昌祭りはどのようなものだったのでしょう。いつか私の研究が進んで、当時の風情がつまびらかになった暁には、一度墓参など致してみましょうか。この地で68年の生涯を終えた蕪村は左京区一乗寺の金福寺(こんぷくじ)に眠ります。
 さて、都の俳人達の心に京都文芸の風雅を根付かせた本日の主人公・北村季吟に話を戻します。彼は、64歳で江戸幕府への出向を命じられた時、あっさりと京の地を離れたと言います。おそらく国文学者としての強い志は、住み慣れた地に執着するよりも、更なる高みを目指すことを選んだのでありましょう。共に歌学方の要職に就いた子息の湖春に先立たれる(1697)不幸はあったものの、江戸での功績は評価され、以後、北村家は代々歌学方を世襲し、幕臣の文化圏の中心的地位を確立することとなりました。82年の生涯を終える頃、季吟は、後を継いだ孫の湖元に次の歌を贈っています。
 「 飛ぶ蛍 窓にあつめて敷島の 道の光を世々に照らせや ~季吟~ 」
 学問を志し、新たな道を拓き、その指導者として生きた季吟の真摯な想いが響きます。江戸での多忙な暮らしには、都で興じた和やかな句会や町衆との交流は無かったことでしょう。季吟にとっての松原五条は、地域に溶け込みながら民衆の為の教育の重要性を心に刻んだ季節であったことと思います。
 時代を経て、何度も何度も当地界隈に蘇る学術・文化の息吹…。
やはり、冒頭に述べた「地の気配」「地の趣」の因果を感じてしまう私であります。