キーワード: 生駒勘七と御嶽山
11.22の22時台に長野県神城断層地震が発生して、木曽に続いて小谷、小川、白馬の各地を激震が襲った。最近では、これはまだ弱い方で、歪があるために他でも揺れる可能性が高いと専門家が指摘している。今回は、生駒勘七(1919-1987、https://kotobank.jp/word/%E7%94%9F%E9%A7%92%E5%8B%98%E4%B8%83-1052776)という御嶽研究で登場する人物について注目してみたい。
『御嶽の歴史』木曽御岳本教、1966年(非売品、概要はhttp://xkm.cocolog-nifty.com/blog/2010/03/2741315-16f3.htmlなど)、『御嶽の信仰と登山の歴史』第一法規、1988年 をえんぱーくから拝借してきた。生駒先生は郷土研究による社会科教育の充実を唱えて実践されてこられたようである(後者奥付、業績はhttp://webcatplus.nii.ac.jp/webcatplus/details/creator/18285.html)。前者はウェブ情報に譲り、後者の民俗学に絞って検討してみる。
木曽御嶽は、日本の山岳信仰史上、富士と並んで庶民の信仰を集めた霊山(はじめに)。木祖村鳥居峠から御嶽遠景を望む、桧笠の旅人の姿(木曽路名所図会)が描かれている。現代も同様に眺めることが可能と思われる。道者による集団登山の風習は室町時代から行われ、講社の成立を見る。御嶽講は、1806年普寛の高弟金剛院順明によって創立された旧岩郷村を中心とする太元講と、児野嘉左衛門の覚明講再興運動に呼応した旧黒川村の御嶽講が、木曽福島に存続していた(27頁)。
御嶽信仰には霊神碑という何々霊神と自然石に刻んだ石碑を建てる風習と、御座とする神がかりによる病気治療や卜占信仰がある。双方は密接で独自の霊魂観による(84頁)。修験道場は鎌倉時代まで。室町中ごろに修験道と民間信仰と結ぶ御嶽独自の信仰が生まれ、厳しい精進潔斎を経た山麓村落の道者という在俗の人が集団登拝する風習が行われた(95頁)。史料から推測して、生駒先生は毎年30から40名の道者が登山に参加していたものとされる。木曽義昌(1540-1595, http://dic.nicovideo.jp/a/%E6%9C%A8%E6%9B%BD%E7%BE%A9%E6%98%8C)と円空上人(1632-1695, http://www.minami-kanko.com/special/201002/enku.html)の登拝もあるようだ(110頁)。
今年は南木曽町の水害(http://www.nhk.or.jp/sonae/column/20140107.html)も記憶に新しい。その南木曽町にも円空仏があるという(130頁)。外国人では1873年のイギリス人ウィリアム・ガウランド( 1842-1922)とエドワード・デイロン
、74年のイギリス人ワイウイー・ハウス、ドイツ人J・J・ライン(『旅行と日本に基く日本』1886年)、75年アーネスト・サトウが登山しているようだ(207頁)。前回はウェストンをご紹介したのだが、外国人にとっての御嶽の意味は富士山と比較検討する意味があるかもしれない。
画家の谷文晁(1763-1841)『日本名山図会』にも御岳山が描かれている。その姿はかなり尖がった感じの印象を与える形状(224頁)。日本酒醸造法を研究したお雇い外国人アトキンソン(1850- 1929)も1879年7月25日、伊那から権兵衛峠を越えて福島に投宿、翌日オエドから黒沢道をとり、合戸峠で御嶽と駒ヶ岳を望見(226頁)。
信濃の国作詞の浅井冽(1849-1934)『修学旅行にて御嶽に登るの記』で、毎年夏秋には1万人もの信者登山をみたという(244頁)。
古来より御嶽は女人登山をおこなわれるも制限があった。明治になるまでは7号目に上がっているようだ(250頁)。登山者数の変遷は、家高専治氏曰く、王滝口登山は2,3千人。1918-19年には1万人越え。黒沢口は1887年に7,8千人。夏山の統計があるが、冬山は昭和の戦後ので数千人程度いる(258頁)。
生駒先生の好著により、少しでも御嶽噴火の犠牲となられた方々への鎮魂となり、ご遺族の慰めともなれば幸いである。
11.22の22時台に長野県神城断層地震が発生して、木曽に続いて小谷、小川、白馬の各地を激震が襲った。最近では、これはまだ弱い方で、歪があるために他でも揺れる可能性が高いと専門家が指摘している。今回は、生駒勘七(1919-1987、https://kotobank.jp/word/%E7%94%9F%E9%A7%92%E5%8B%98%E4%B8%83-1052776)という御嶽研究で登場する人物について注目してみたい。
『御嶽の歴史』木曽御岳本教、1966年(非売品、概要はhttp://xkm.cocolog-nifty.com/blog/2010/03/2741315-16f3.htmlなど)、『御嶽の信仰と登山の歴史』第一法規、1988年 をえんぱーくから拝借してきた。生駒先生は郷土研究による社会科教育の充実を唱えて実践されてこられたようである(後者奥付、業績はhttp://webcatplus.nii.ac.jp/webcatplus/details/creator/18285.html)。前者はウェブ情報に譲り、後者の民俗学に絞って検討してみる。
木曽御嶽は、日本の山岳信仰史上、富士と並んで庶民の信仰を集めた霊山(はじめに)。木祖村鳥居峠から御嶽遠景を望む、桧笠の旅人の姿(木曽路名所図会)が描かれている。現代も同様に眺めることが可能と思われる。道者による集団登山の風習は室町時代から行われ、講社の成立を見る。御嶽講は、1806年普寛の高弟金剛院順明によって創立された旧岩郷村を中心とする太元講と、児野嘉左衛門の覚明講再興運動に呼応した旧黒川村の御嶽講が、木曽福島に存続していた(27頁)。
御嶽信仰には霊神碑という何々霊神と自然石に刻んだ石碑を建てる風習と、御座とする神がかりによる病気治療や卜占信仰がある。双方は密接で独自の霊魂観による(84頁)。修験道場は鎌倉時代まで。室町中ごろに修験道と民間信仰と結ぶ御嶽独自の信仰が生まれ、厳しい精進潔斎を経た山麓村落の道者という在俗の人が集団登拝する風習が行われた(95頁)。史料から推測して、生駒先生は毎年30から40名の道者が登山に参加していたものとされる。木曽義昌(1540-1595, http://dic.nicovideo.jp/a/%E6%9C%A8%E6%9B%BD%E7%BE%A9%E6%98%8C)と円空上人(1632-1695, http://www.minami-kanko.com/special/201002/enku.html)の登拝もあるようだ(110頁)。
今年は南木曽町の水害(http://www.nhk.or.jp/sonae/column/20140107.html)も記憶に新しい。その南木曽町にも円空仏があるという(130頁)。外国人では1873年のイギリス人ウィリアム・ガウランド( 1842-1922)とエドワード・デイロン
、74年のイギリス人ワイウイー・ハウス、ドイツ人J・J・ライン(『旅行と日本に基く日本』1886年)、75年アーネスト・サトウが登山しているようだ(207頁)。前回はウェストンをご紹介したのだが、外国人にとっての御嶽の意味は富士山と比較検討する意味があるかもしれない。
画家の谷文晁(1763-1841)『日本名山図会』にも御岳山が描かれている。その姿はかなり尖がった感じの印象を与える形状(224頁)。日本酒醸造法を研究したお雇い外国人アトキンソン(1850- 1929)も1879年7月25日、伊那から権兵衛峠を越えて福島に投宿、翌日オエドから黒沢道をとり、合戸峠で御嶽と駒ヶ岳を望見(226頁)。
信濃の国作詞の浅井冽(1849-1934)『修学旅行にて御嶽に登るの記』で、毎年夏秋には1万人もの信者登山をみたという(244頁)。
古来より御嶽は女人登山をおこなわれるも制限があった。明治になるまでは7号目に上がっているようだ(250頁)。登山者数の変遷は、家高専治氏曰く、王滝口登山は2,3千人。1918-19年には1万人越え。黒沢口は1887年に7,8千人。夏山の統計があるが、冬山は昭和の戦後ので数千人程度いる(258頁)。
生駒先生の好著により、少しでも御嶽噴火の犠牲となられた方々への鎮魂となり、ご遺族の慰めともなれば幸いである。