市民大学院ブログ

京都大学名誉教授池上惇が代表となって、地域の固有価値を発見し、交流する場である市民大学院の活動を発信していきます。

智恵のクロスロード第40回「孤児院で開花させた才能 ビバルディ作曲「四季」」近藤太一

2015-07-02 22:15:51 | 市民大学院全般
 四季によって大きく変わる水の都ベネチア。年間2100万人の観光客が押し寄せる。
 小生も2度、随行員としてベネチアを訪ねた。その時は、サンマルコ広場近くのレストランで、バイオリンの生演奏を聴きながらのランチであった。17~18世紀にかけて、このベネチアに生まれ、愛され、そしてウィーンで誰にも見届けられず亡くなった、一人の作曲者がいた。アントニオ・ビバルディ。協奏曲「四季」の作者である。
 小鳥たちが歓び迎える「春」。嵐の荒々しさが印象的な「夏」。豊作の喜びに満ちた「秋」。雪と氷、北風で寒々とした「冬」。バロック音楽の頂点として音楽の授業で聞いた人も多いだろう。
 17世紀半ばまでのベネチア共和国は、大規模な海軍造船所で軍艦や商船を生産し、貿易ルートも独占して巨大な富を得ていた。オペラにカジノ、カーニバル。文化的にも流行の最先端で、あらゆる娯楽と快楽があった。欧州中から金持ちや貴族・土豪などが集まり、愛人や売春婦との間に望まれない子供が、多数生まれたという。孤児院は当事、ベネチアに4つあり、多い時は数万人の子供が預けられた。ビバルディの時代には新たな海路の開通などで国力は落ち、施設の維持のために自助努力が必要になった。そこで生まれたのが、孤児院(ビバルディが関係したピエタ:慈悲孤児院)に付属する音楽院で学ぶ少女たちの演奏会だ。彼は、愛情を持って孤児に接したと言う。『君たちは幸せな出生ではなかったかもしれないが、負けるな。私が音楽という希望を与えよう』と伝えたと、と現地ではいう。そう想像すると、明るい『四季』の旋律も、違って聞こえてくる。演奏会の成功と共にビバルディの名声は広まり、貴族や有力者達と知り合う機会を得た。しかし、ビバルディの生誕1678年の9年前、最後の領土クレタ島を失い、東地中海の属島悉(ことごと)くその手から離れた。孤児院の維持が益々費用の捻出に困ったことになる。ビバルディも新たな職場を求めて、当時神聖ローマ皇帝カール6世の地元、ウィーンへ1740年に入った。カール6世は、文化人で、音楽・建築・美術の愛好、保護をした人物であったが、ビバルディ到着後1年のち、カール6世は死去、ビバルディは、その翌年、1741年にウィーンで没した状況も、殆どわかっていない。市民病院の共同墓地に葬られ、粗末な葬式だったことが教会の記録にあるだけだ。一世を風靡した音楽家としては寂しい最期だった。しかし、ベネチアは、1295年ベネチァ出身マルコ・ポーロが、元のフビライ皇帝に仕え、東方見聞録を口述、これを読んだジェノバ出身のコロンブスをはじめとする冒険家を勇気付け、15世紀以降の大航海時代を湧出させた。主要航路から外されたベネチアの没落を招き、かっての通商大国は今、『観光しか産業がない』都市と化した。しかし、ビバルディの「四季」は、当時の孤児院の子供達と今、現在世界で生きる人々に温かい慈悲の心を投げ続けている。ランチのスパゲティの料理を召し上がりながらの「ひと時」である・・・。音楽の文化遺産である。
               ハルカス近鉄阿倍野百貨店文化サロン講師:近藤太一