最近いただいた本のなかに、腑に落ちる一節がありました。ある聖賢が、次のように言われたそうです。
「世界の平和を祈り、人の幸せを祈ることが、自分の幸福への近道であると、なぜわからないのか」
この文章の尾っぽのほうを切って、つぎのように書いてみると、よく見聞きする教えで、多くの人がよく知っている言葉になるのではないでしょうか。
「世界の平和を祈り、人の幸せを祈ることが、自分の幸福への近道である」
今回読ませていただいた文章の、「~と、なぜわからないのか」というところに、聖賢の肉声を聞く思いがしました。何度言っても、こんなに単純明快、当たり前のことが、なぜお前たちにはわからないのか、という気持ちが、よく出ています。
愚鈍で低レベルな私たちですら、私たちよりさらに愚鈍で低レベルな人に向かって、同じことを何度も繰り返すときは、こういう気持ちになりますね。短気な人は、カンシャクをおこして、怒鳴りつけるかもしれず、私のように気弱な人間は、ため息をついて、情けなさそうに呟くかもしれませんし、冷静沈着な人は、怒鳴りつけもせず、ため息もつかず、淡々と、切々と、しみじみと、おっしゃるかもしれません。
この文章を読んで思ったのは、愚鈍な私たちは、聖賢に手間暇をおかけしないよう、理解した(と思った)ことが活きた知恵になるよう、何度も同じことを教えていただかなくて済むよう、世界の平和を祈り人の幸福を祈ることが、自分の幸福への近道であるという自覚を、瞬々刻々高めていきたいということでした。
「世界の平和を祈り、人の幸せを祈ることが、自分の幸福への近道であると、なぜわからないのか」
この文章の尾っぽのほうを切って、つぎのように書いてみると、よく見聞きする教えで、多くの人がよく知っている言葉になるのではないでしょうか。
「世界の平和を祈り、人の幸せを祈ることが、自分の幸福への近道である」
今回読ませていただいた文章の、「~と、なぜわからないのか」というところに、聖賢の肉声を聞く思いがしました。何度言っても、こんなに単純明快、当たり前のことが、なぜお前たちにはわからないのか、という気持ちが、よく出ています。
愚鈍で低レベルな私たちですら、私たちよりさらに愚鈍で低レベルな人に向かって、同じことを何度も繰り返すときは、こういう気持ちになりますね。短気な人は、カンシャクをおこして、怒鳴りつけるかもしれず、私のように気弱な人間は、ため息をついて、情けなさそうに呟くかもしれませんし、冷静沈着な人は、怒鳴りつけもせず、ため息もつかず、淡々と、切々と、しみじみと、おっしゃるかもしれません。
この文章を読んで思ったのは、愚鈍な私たちは、聖賢に手間暇をおかけしないよう、理解した(と思った)ことが活きた知恵になるよう、何度も同じことを教えていただかなくて済むよう、世界の平和を祈り人の幸福を祈ることが、自分の幸福への近道であるという自覚を、瞬々刻々高めていきたいということでした。