『Sharon Farm Diary』 シャロン農園日記

イダウワーチタバーリ(ようこそ)!ファームの情報、ニュース、舞台裏等・・・独自の感覚的目線で綴ってまいります。。

記憶に残る言葉(地名)

2020年08月22日 | Weblog

この先に4つのマンゴーハウスが並んでいます。

この一帯を昔は「タブクル」と言っていました。5,6枚の水田群があったところです。

 

 

 

いくつかあった作場にそれぞれの名前があった。

現在の「シャロン農園」と「こども園」一帯を「タンブ」と称していた。

そして、何枚かある畑には名前が付いていた。

現在のこども園のグランド辺りが、「イシガマパッタイ(小さい石ころの畑)」

町道をはさんで東側、現在は他人の所有地になっているが、「アガリダフ(ひがしの○○)」

この「ダフ」という言葉を正確に説明できないところが悔しい。

いつか判明させたいところである。

私の父の実家は、「メーダフ」という称号で、

やはり「ダフ」という接尾辞になっている。

なんとなく答えが出てきそうではあるが……。

私の屋号は、「イーメー(西の前側)」。

隣が「イーヌッスー(西の後ろ側)」である。

「アガリ」と「イー」は東と西である。

 

子どもの頃、祖母と一緒にタンブに通った。

私は祖母が大好きで、祖母との思い出が大きい。

畑に通った記憶には母も兄の姿も出てこない。

今では車で5分。1日に何度も往復する場所であるが、

当時、タンブに行くと言えば大きなイベント程の重みがあった。

何となく待ち遠しかった。

 

今のような道は無く、

道といえば現在の県道が、荷馬車の通り道ほどのものである。

私の子ども時代には車が無く、

鹿児島航路の船便で届く荷物を運搬する「クルマピキャー」の荷馬車であった。

その直後に誰かが所有する、ブルーの「オート三輪者」1台があったことを記憶している。

そんな時代なので,

「ハッパ」と言われたダイナマイトでサンゴを砕き、里道を少し広げただけの道であった。

重機の無い時代に出来た公道は、結構な起伏に富んでいた。

 

今の基アパートの付近を「タンブミョーバナ」と言っていた。

そこから細いあぜ道に入り、木々のトンネルをくぐってたどり着くのが、

現在のシャロン農園であり、ハレルヤこども園である。

 

次に畑に行くまでにはそれなりの日数が経っていたのであろう。

徒長したノイバラ(サーラキ)、アダン(アダンニ)、ソテツ(シトゥチ)の葉っぱ等が行くてを塞いでいた。

そのたびに祖母が、カマで道を切り開き、やっとたどり着ける作場でもあった。

「インエー、インエー」と気合をかけて、

行く手を阻む雑木を切り開く祖母の掛け声がいまにも聞こえてくるようだ。

遺しておきたい言葉の一つだ。

エネルギーがほとばしり出る生きた言葉(掛け声)でもある。

これらは子どもの頃の私にとって非日常を味う特別な日であった。

そこら一帯は今でいうムーミン谷であったようだ。

 

広大な(現在の私からみるとそれほどでもないのだが)農地には、

「タブクル(田袋ー水田群)」もあった。

雨期になるとあぜ道が水没して、一帯が湖のようになり、

そこで水につかって自由に遊んでいるうちに時間が経つ。

そのようにして大人の仕事の終わりを待っていた。

そのタブクルが現在のマンゴーハウスの周辺である。

 

幼児期に最も大切な自由遊び、しかもおもちゃといえるものが一つも無い、

自然の中での自由遊び。無限の想像力が発揮される環境である。

そのような貴重な体験ができた思い出の詰まった場所である。

私が今夢中になっている「子どもの環境作り」は、

私の魂にしっかりと根付く、

幼少期の頃の原風景の再現なのかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 


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