私が死んだあとであなたが読む物語

基本的には「過食症患者の闘病記」、と言っていいでしょう。

まだ続くのか

2011年11月28日 23時47分17秒 | Weblog
倉庫のアルバイト、今月までということになっています。

辞めますって言ったのが先月の終わり頃。

まもなく約束した辞職の日が訪れるに、派遣会社から音沙汰無し。

本当にちゃんと辞められるのか、心配していました。

それが今日、やっと進展がありました。

来月になっても働けないか、とのことです。

ただ、勤務内容が変わります。

最初に一度だけ働いたことのある仕事です。

今の仕事よりだいぶ肉体的には楽になります。

ただ、いつまた過食症が再発するかわからない、そんな中で働き続けられない。

でも、非過食状態に入った今、働くことの有り難味を感じるから、これも何かの縁かってな乗りで、もう少し働いてみようか。

重い荷物を持ったりしないし、お金欲しいし。

でも、辞める日を待ち遠しくしながら働くことになるだろうな。

道路で遊ぶなかれ

2011年11月27日 16時24分55秒 | Weblog
子供が道路で遊ぶ。

道路は子供の遊び場ではない。

他人に迷惑を掛けて自分たちだけが楽しむ。

そんなことが許されるわけがない。

なのに「道路で遊んだっていいじゃないか」っていう人がいる。

いいわけがない。

他人に迷惑を掛ける行為が許されるわけがない。

今日あまりに子供らがうるさいので「やめてくれ」とお願いした。

子供らは「うっとおしい大人やな」みたいな、露骨に嫌な顔をした。

でも、すぐにその場を去らない。

私も彼らがいなくなるまで去るつもりはない。

子供らも観念したか、渋々どこかへ行った。

しかし、しばらくしてまた家の前の道路で子供のやかましい声とボールがバウンドする音が聞こえてきた。

少し我慢する。

しかし、私の家の窓にボールがおもいっきりぶつかった。

たまらず家の外にでる。

家から出てきた私を見て子供らはどこかへ行った。

相手は子供だから、ちょっと言ったくらいじゃなきかない。

一回注意したらもう同じだろう。

今後も子供らの騒音で苦痛を感じたら何度でも注意してやろう。

一番まずいのは注意できないことだろうから。

道路で遊ぶ子供たちを受け入れる人がいても、それはそれでいい。

自分の家の前で大きな音で騒ぎながら遊ばれても別に許せるよって人はそれでいい。

でも世の中、そういった人たちの寛容さに甘えて生きていけるわけがない。

子供たちには子供たちの暮らしがあり、私には私の暮らしがある。

私は私の暮らしを守るために当然のことはする。

子供の遊び場がないとか、そんな社会問題を解決しようだなんて大それた気持ちはない。

当初の予定より早く

2011年11月26日 23時50分51秒 | 過食症
バイトを初めて3週間して再発した過食の発作。

その後、一カ月が経過して、先日ようやく治まった。

元々は治める気なんてありませんでした。

バイトを辞めるまでは続くだろうと思っていました。

勤務を終えてバスに乗る。

バス停に着いたら降りて自転車に乗り換える。

家に帰る途中でコンビニに寄って菓子パンを買う。

人通りの少ない道を選んで自転車を走らせる。

自転車をこぎながら食べて、食べ終えたらまた次のコンビニにへ。

家に帰ったら帰ったでまた過食する。

そんな日々をバイトを辞めるまでは送るつもりでした。

というか、やめられないだろうとすら思うようになっていました。

だから、早くバイトをやめたかった。

バイトをやめれば過食を治めて通常状態を開始できると思ったから。

そしたらこっちのもんだって。

それがまだバイトを辞めてないのに、なぜが今は治まっています。

なんでだろう。

私が普段働いている倉庫とは別の倉庫にて、人手が足りないらしく、急遽私が手伝いに行かされるということがありました。

そこは普段働いている倉庫と違って女の人が多い。

大きな荷物をとり扱わないため女の人は優先的にこちらの倉庫に配属されるのでしょう。

まあ、おばちゃんが多いのですが、なかには若い人もいます。

綺麗な人を一人見つけました。

過食をしていると正面から堂々と挑めない。

負い目がある。

自分を卑下しきっている。

だからやめた。

のかもしれない。

結婚のお知らせ

2011年11月26日 00時42分01秒 | Weblog
今日母から電話があって、兄が結婚することを知りました。

意外と驚きが少なかった。

「ああ、そうなんや」と素っ気ない返事。

実の兄弟が結婚するっていうのに、しかも私にとっても初めてのことなのに、こんなもんなのか。

「おめでとう」って言うべきかとも思いましたが、本人相手ならまだしも、母親に対して言うことでもないしな。

ある程度予想がついていたってのもあるでしょう。

交際してる女性がいるということはもうだいぶ前から知っていました。

同棲してることも。

別れたって知らされた方が驚いただろうと思います。

あるいは子供ができたっていう知らせの方が。

そう、それなら驚く。

というか喜ぶか。

結婚するってことはいつかそうなるんだろうな。

子供か。

甥っ子か。

なんかいいな。

私の過去、学生時代

2011年11月23日 23時02分46秒 | Weblog
朝、自転車に乗って職場へと向かう。

その通勤途中で、学校に登校する学生らの姿を目にする。

道が彼らの通学路と同じなため、毎日確実に彼らと一緒になる。

大きな交差点の信号待ちなんか、待っているのはほとんどが制服を着た高校生らです。


私にはこういった時代がなかった。

まともに学校に行ってなかった。

私は不登校でした。

ちゃんと登校していたのは中一の一学期くらいでした。

不登校でしたが、別に学校でいじめにあっていたわけではありません。

友達がいなかった。

地元の公立の中学ではなく、受験をして通うことになった学校です。

だから、小学校からの友達は一人もいない。

一から友達を作らないといけない。

最初はそんな状況を喜んだものでした。

みんな俺のことを知らないから、今までの自分じゃなく好きな自分で行ける、なんて。

当時、小学校における自分のキャラが気に食わなかったんですね。

でも、結局友達を作ることができず、何ひとつ思い通りにはいかず。

義務教育である中学を不登校したため、学力的にも大きく抜け落ちているわけですが、それ以上に、普通の人が普通に味わうことをスルーした自分はとても欠落した人間だろうと思います。

「あんたは失敗作や、あんたが死んでも誰も悲しまない」と怒鳴りながら箒でヒステリックに、布団から出てこない私をぶっていた母親。

あの光景、たぶん一生忘れないんだろうな。

学力が無いので、とうてい高校受験なんてまともにできません。

結局、通信制の高校に入学して、なんとか高卒の資格だけは取った次第です。


朝、登校中の彼らを見て嫉妬する私をお許しください。

泣いてる子供

2011年11月18日 21時52分30秒 | Weblog
今日、泣いてる子供に出会った。

バイトの帰り、自転車を走らせているときのことでした。

角を曲がると、小さな女の子が自転車ごと倒れていました。

倒れているというか、厳密に言うと自転車にまたがったまま片膝をついているような状態でした。

乗っている自転車はもうほとんど倒れています。

女の子の手も、片方だけはハンドルを握っていますが、もう片方の手は地面について体を支えていました。

そんな態勢なので顔も下を向いていました。

だからすれ違うまで、私は彼女が泣いてることに気が付きませんでした。

道幅が狭いところだったので、かなりスレスレの至近距離をすれ違おうとしたとき、女の子がこちらをみました。

泣いていました。

目から涙がこぼれてました。

わりと普通の顔に近い状態で、ただ眼から涙がこぼれてるだけって感じに思えたのですが、私と目が合った瞬間、表情を崩して泣きだしそうになりました。

反射的にブレーキを握りしめ、「大丈夫か」と声を掛けて私は自転車から降りました。

アイポッドのイヤホンを外して近づくと、女の子は自ら立ち上がり、私は彼女の自転車を起こしました。

目が合った瞬間は号泣するかに思われた女の子の表情でしたが、泣きながらも落ち着いた様子で「ありがとうございます」とお礼を言われました。

「怪我してへん?」と訊いてみました。

女の子はズボンの裾をめくって、膝に傷を負っていないことを確認しました。

一応もう一度「大丈夫?」と訊いてみました。

女の子はただ「ありがとうございます」と泣きながら答えます。

「大丈夫?」と訊いて「ありがとうございます」と答えるのだから、もうこれ以上何もすることはないと考えたのか、私は自分の自転車に乗ってその場を去りました。

しかし、そのまま走っているうちにどんどん心配になってきたり後悔したり、いろいろなことを考えました。


角を曲がる直前、私は自転車に乗ったおじさんとすれ違いました。

そのあとで角を曲がって道幅の狭い個所で自転車ごと倒れている女の子に出くわしたわけです。

ひょっとすると、あのおじさんが自転車で女の子を抜かそうとして倒したんじゃないか。

道幅が狭いのに無理に追い抜こうとして、女の子にぶつかったのかもしれない。

それで女の子が倒れたのに、おじさんはそのまま走り去った。

女の子は後ろからやって来た大人の男の人にいきなり倒されて、それで泣いていたんじゃないか。

もしそうなら「なんで倒れたん?」とか、訊いてあげるべきだった。

そして、倒されたと答えたら「悪い奴がいるな、大丈夫やったか」と声を掛けてあげたかった。

そうすることで彼女の悲しい気持ちや悔しい気持ちが少しでも和らぐのなら、そうしてあげたかった。

また、もうひとつ懸念されることがあった。

ひょっとしたら迷子だったかもしれない。

まず最初、出会ったときに直感でそう思いました。

だから、第一声に「大丈夫か」と声を掛けたあと、次に「一人?」と訊きました。

さっきすれ違った自転車のおじさんがこの子のお父さんなのかも、とも思いました。

でも違ったようです。

夜の7時半に幼い子供が一人で泣いてる。

私も子供のころ、弟と二人きりで実家から電車に乗っておばあちゃんの家まで行ったとき、駅からおばあちゃんの家までの道に迷ってしまったことがありました。

弟と二人で夜の道を歩きながら心細い想いをしました。

二人でもそうなのだから一人だったらそりゃもう泣きだしたくもなるでしょう。

一人で道に迷って家に帰れなくなって不安になってそれで泣いていたのかもしれない。

それならもっとしてあげられることが一杯あったはずです。

なんで私はあのとき、女の子を置き去りにする形であの場を去ったのでしょうか。

もっとちゃんとするべきだった。

泣いている女の子の涙を拭ってあげたかったけどできませんでした。

号泣しそうになりながらも踏みとどまって冷静にお礼を言う彼女に対して、えらいえらいって頭を撫でてあげたかったのですが、できませんでした。

子供といえども、「対『ひと』」です。

他人の体に触ることに遠慮がありました。

触っていいものかどうかという遠慮が。

また、単純に涙を拭いたりしたら手が汚れるみたいな、そんな危惧を抱いてはしなかっただろうか。

そんなことまで考えたりしました。

もし今度があるのなら、その時は遠慮なく涙を拭い頭を撫でたい。

過去の将来の夢

2011年11月13日 15時24分20秒 | 過食症
もし私が過食症になっていなかったら私の人生はどんなんだったろう。

今頃何をしているんだろう。

私は子供の頃、ミュージシャンになりたかった。

でも、「大人になったら何になりたい?」って訊かれて、堂々と「ミュージシャン!」と答えることができなかった。

子供のころ、新聞の広告欄にとある芸能プロダクションのタレント募集の広告が載っていました。

歌手部門があったので、そこに応募したくて母親に言いました。

そしたら「何バカなこと言ってるの」って怒られました。

それ以来、誰にも自分の夢を語ることができなくなりました。

小学生5年生か6年生のころ、「自分の将来の夢」と題した文章を書くって授業がありました。

そこで私は普通のサラリーマンになりたいと書きました。

他の子たちは総理大臣だとか、宇宙飛行士だとか、そんなことを書いてる中で私は普通のサラリーマンと書きました。

そしたら先生がそのことを心配して親に伝えました。

そんなことがありました。

いつ頃まで本気でミュージシャンになろうと考えていただろうか。

高校を卒業したら、音楽の専門学校に行こうと考えました。

そのことを親に言うのはたいへんでした。

勇気が要りました。

いざ伝えてみたら、お門違いじゃないかと言われました。

うちの家系から音楽の仕事に就いた人なんていない、みたいなことを言われたのも覚えています。

ものの見事に、私の夢を応援してくれる人が私の周りにいなかった。

本当は自分で曲を作り自分で歌うミュージシャンになりたかったのですが、それも堂々とは言えず、とにかく音楽に携わる仕事がしたいと伝えて、一度専門学校の体験入学に行ったことがあります。

でも結局入学はできませんでした。

音楽の専門学校って、学費がすごく高いんですよね。

それに、私の描くミュージシャンが必ずしも音楽の専門学校に行かなければなれないわけでもないことを、私自身も知っていたので強く押しきることもできませんでした。

その後、ネットで知り合った人たちとバンドを組んだりしましたが、実力が伴わないためか、いつしか呼ばれなくなりました。

過食症になるまで3年以上働いていたアルバイトで、勤務歴が長いからか新人を教える立場にならないかと上司から持ちかけられたことがありました。

この職場で腰を落ちつかせて働かないか、という話でした。

私はそれを断りました。

それは私があの頃まだミュージシャンになる夢を諦めていなかった証だと思います。

その後まもなくして過食症が発症しました。

いったい私はいつごろまでミュージシャンになろうとしてたんだろう。

いったいいつその夢を放棄したんだろう。

心の炎はいつ消えたんだろう。

夕刻の虚

2011年11月12日 17時18分48秒 | 過食症
夕刻、案の定子供たちがうるさくて目が覚めた。

注意しようかなと思いながら何もできない。

一人じゃどうしようもなくただただ困っているだけだから、自分の親に電話して相談でもしてみようかな、なんて考えた。

昔から困ったら親に泣きついている気がする。

子供たちがいなくなってから家の外に出てみた。

私の家の前はそんなに遊びやすいのだろうか。

しばらくして家の中に戻り、玄関のところで座り込みました。

夕刻、日が沈む空、飛行機の轟音が轟く。

理由もわからず涙を流しました。

何もない。

楽しいことなんて何もない。

死ねたらいいのだけど、死ぬ勇気もない。

生きようと思うと人生は短いけれど、死のうと思うと人生は長い。

私が彼らのように無邪気だった子供の頃、大人になったら玄関先で独りぼっちで泣くような人生を送っているなんて思ってもみなかっただろうな。

そして今日、私の家の前で散々わめき散らして遊んだ子供たちも、きっと私よりずっと素晴らしい人生を送る。

なんで楽に死ねないようになってるんだろ。

どうせ明日も

2011年11月11日 23時52分39秒 | 過食症
これほどまでに頻繁にカレンダーを見たことは、未だかつてない。

昔はカレンダーを敢えて避けていました。

目に触れないようにしていました。

時の流れを感じたくないというか、貴重な時間が失われているのを感じたくないというか。

だから私の家には昔からカレンダーがありません。

それはいまもそうです。

でもケータイがあるから、見ようと思えばどこにいてもカレンダーを見ることができます。

毎日カレンダーを見て確認してしまう。

11月が終われば今の派遣のバイトを辞めることができます。

3分の1が過ぎました。

まだまだ先は長いです。

一日一日がゆっくりに感じる。

過食は続いています。

バイトから解放されたところで何がどうなるってわけでもない気がします。

なんせここの家の住みにくさはどうしようもない。

なんとなく、12月に入ってバイトから解放されたらまたFF11でもするのかなって思います。

あるいは非過食の通常状態への憧れも生まれつつあります。

過食状態に入って3週間ほど経ちましたが、あの頃が懐かしいです。

過食せずに勤務できていた頃が。

ただあの頃は体がろくに動かず、そういった意味では今の方が仕事の能力としては上がってるようにも思いますが、それでもしんどいしんどいと言いながら、体もろくに動かずに働いていたあの頃はよかったと思います。

その反面、過食を治めようという意志はいまのところない。

嗚呼、明日明後日と休みなんだけど、どうせ子供らがうるさくて不愉快でストレスたまるんだろうな。

ケータイ見つかる

2011年11月07日 23時59分45秒 | 過食症
先日お伝えした失くしたケータイ電話ですが、結局職場のロッカーの中で見つけました。


ちなみに、今日も過食しました。


それはそうと、相変わらずここの家は住みにくい。

平日の昼間は家にいませんが、土日は一日中家にいます。

子供らが外で遊んでいます。

一日中わーきゃー言って遊んでます。

子供の声が酷く耳障りでどうもまともに生活できない。

それでもこの時期は早く日が沈むのでまだましです。

バイトを辞めて非過食に入っても、ここの住みにくさはどうしようもない。

衣食住と言われるほど重要なもののひとつ「住」が侵されている状況で、いったいどう生きたらいいのか。

おもいっきりシバきたい。