懐かしい場所に行ってきた。
それは、僕が小学生時代をすごした町。
そして、僕の小1時代の親友タツヤが、その幼い命を散らした町。
千葉の稲毛という町である。
午後1時半に中野を出発して、東西線&総武線で一路稲毛へ。
稲毛駅は、高架になって初めて降りた。
駅員さんに、震えながら「千葉まで子供1枚」とか言って、
切符を買っていた駅舎は、跡形もなかった。

大人になって、子供時代の道を歩くと、「こんなに狭かったか?」
と思うことがよくあるが、それは自分が大きくなっただけのこと。
思いっ切り曲がり角を間違えながら、住宅地を行くと、
いきなりレトロなアパートが現れた。

築50年は経つであろうこの古びた団地も、
建築当時は、周囲から羨望の眼差しで見られていたらしい。
僕の住んでいたのは、6号棟の3階。…まだ誰か住んでいるらしい。

裏に回ると、ベランダにはエアコンの室外機が。
僕が住んでいた頃は、そういえば、エアコンなるものはなかった(^^;。
僕のよく遊んでいた公園にも、子供の姿はまばら。

よく見ると、その奥の棟には、人っ気が感じられないのだった。
夜になると、ここはゴーストタウン?
団地を抜けると、バス通りに出る。でも、バス停が…なくなっていた。
僕が小1の時に車にはねられたのは、この交差点だ。

道路を渡ると、すぐに例の踏切が現れる。
タツヤが命を落とした踏み切りだ。

一昨日あたりから、妙に胸騒ぎがして、
どうしてもここに来なければならないような気がしていたのだ。
41年ぶりの再会。タツヤ…とうとう来たよ。
僕は、まだこうして漫然と生きている。
君の分まで生きているとは、到底言えないような人生だけれど、
たくさんの人の愛に包まれて、そしてささやかながら人を包みながら。
タツヤは、ずっと僕を守っていてくれた。
君の家はどこなんだろう。もし見つかれば、線香の1本でも…
だが、タツヤの家は見つからなかった。
事故以来、一度も渡らなかったこの踏み切り。
もう、タツヤの両親は、悲しい思い出に耐えれずに、
とうにこの地を去ったのかもしれない。
踏切の近くで撮った写真に、何かが写っているような気がするが、
別段怖くもなかった。

だって、まだタツヤは僕の背中を見ながら歩いているはずなんだから。
また来るよ。と、踏切を後にする。
そのまま、団地を迂回するように、JRの高架に向かうと、通学路だ。
途中振り返ると、小学校からの帰り道に見た懐かしい風景になる。

異様に蒸し暑く、このまま稲毛駅に戻ろうかとも思ったが、
せっかくだからと、谷を降りる。西千葉への道だ。
途中、火遊びをして、燃やしてしまった丘が見える。
乾燥した冬場は、あっという間に火の手が上がる。
あのときは、消防車と逆走して、かなり焦った(^^;。

千葉大学の外周道路に出ると、まもなく附属中学校だ。
でも、数年前に立て直されたらしく、まるで感慨がない。
しばらく歩くと、附属小学校のプールが見えた。
この更衣室。そしてシャワー。
小5まで水泳が大の苦手だった僕にとって、この場所は鬼門だ。

また歩くと、小学校の築山が見える。

ここで、「母艦水雷」をして遊んだな。
え?「母艦水雷」を知らない?どっかのサイトで調べてね(^^;。
ふと見ると、築山の両脇に、電信柱のようなものが…まさか!
その実体を確認するために、千葉大学の構内に潜入。
やはりそうだ!僕たちのトーテムポールだ!
僕の出席番号は7番。上から7番目が僕の顔なんだけれど、イマイチ。

サークル棟の学生に、変な視線で見られていることに気付いて、
外に出ることにした(^^;。
正門から、西千葉駅への道。

この「北京亭」の前で、初めて女の子からプレゼントをもらった。
中2のクリスマスだったな。
西千葉から西船橋へ。
図書館に寄って、タツヤの事故の記事をコピーして帰ろうとしたら、
もう時間は5時。
って、もう閉館かよ~。川越だって7時まではやってるぞ!
社会人は使うなってことか?
と、ふと気がついた。
今日は土曜日だったな。普通の社会人は休みじゃん。
タツヤには会えなかったけれど、何か胸のつかえが取れた感じがした。
とても素敵な土曜の昼下がり。
こんな過ごし方も、たまにはよいかな?と思ったよ。