日本キリスト教団 聖峰教会

苦しい心が少し楽になるために、聖書、詩、名言を紹介します。

お茶席へようこそ 〜特別な時間初体験〜

2017年02月25日 | こども 子育て支援

子どもたち、ママさんたち、お茶の時間へようこそ

 

 

 

 

2017.2.21 幼児サークル 

(3歳児以下の子育てサークル)

 

「かみさまへ わたしは いま すきなあそびがあります。

それはジャングラミングとフラフープです。

かみさまのすきなあそびは なんですか。

ゆうこ(4さい)」

「ゆうこちゃんへ

あなたが むちゅうになって あそびながらわらいごえを 

あげているのが よくきこえてきます。

わたしのあそびはね、たのしそうに あそんでいる ゆうこちゃんたちを

みているあそび です。」

(『かみさまおてがみよんでね』よこたさちこ編著 コイノニア社より)

 

聖書のみことば

子どもたちをわたしのところに来させなさい。

妨げてはならない。

(マルコによる福音書10:14)


雪の日曜日

2017年01月16日 | 新着情報

 2017.1.15 sun.聖峰教会

雪  道

父とかいた雪道

母とかいた雪道

兄と遊んだ雪道

それらはみんな遠い遠い雪道

今は主イエス様と

今は主イエス様と

ごいっしよの雪道

(水野源三さんの詩より)

 

聖  書

「わたしの父がわたしにくださったものは、すべてのものより偉大であり、だれも父の手から奪うことはできない。わたしと父は一つである。」

(ヨハネによる福音書10:29〜30)

 

  日曜日の朝、関西では珍しく大雪に見舞われ、車を出すこともできず、バスで教会に向おうと思えば、バスも運行停止していました。

なんとか教会にたどり着き、教会を開けました。

そんな大人達の事情は子ども達は気にもとめずに、教会に来るやいなや、雪だるまを作って大はしゃぎでした。

真っ白い雪は子ども達を優しく包み込み、子ども達のこころを解放しました。

そんな子ども達をいつもイエス様が優しく包み込んでいてくださいますように。

雪の日曜日、大人達のこころも少し優しくなった気がしました。


ひとりじゃない

2016年09月05日 | こころ

貧しさにはいろいろあります。

経済的にはうまくいっているように思われる国さえも、

奥深いところに隠された貧しさがあるのです。

それは見捨てられた人々や苦しんでいる人々が

抱えている極めて強烈な寂しさです。

 

「マザー・テレサ 愛と祈りの言葉」(PHP文庫)


聖書のみことば

 そこにザアカイという人がいた。この人は徴税人の頭で、金持ちであった。

イエスがどんな人か見ようとしたが、背が低かったので、群衆に遮られて見ることができなかった。

それで、イエスを見るために、走って先回りし、いちじく桑の木に登った。そこを通り過ぎようとしておられたからである。

イエスはその場所に来ると、上を見上げて言われた。

「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日はぜひあなたの家に泊まりたい。」

ザアカイは急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えた。

これを見た人たちは皆つぶやいた。

「あの人は罪深いところに行って宿をとった。」

しかし、ザアカイは立ち上がって、主に言った。

「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人に施します。また、だれかから何かだましとっていたら、それを4倍にして返します。」

イエスは言われた。

「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。

人の子は、失われたものを捜して救うためにきたのである。」

(新約聖書 ルカによる福音書19章2〜10節)



 子どもたちにとって、夏休みがおわってまた始まる学校生活。ゆるんだ気持ちをキュッと締めると、お腹もなんとなく痛くなるような、心が重い9月の朝を迎えているかもしれません。

 知らない人ばかりの中、初めて会う人たちの中、緊張している時に、「◯◯さん」と声を掛けられると緊張がほぐれます。硬くなっている顔もほぐれます。

 「わたし」というたったひとりの存在を見つけ出してくれる方がいるだけで、私たちは変わることができます。

 「急いで降りてきなさい。」

 急ぐのは「わたし」ではなく、急いで来て「わたし」を探し出してくださったのです。

「もう大丈夫、あなたはひとりじゃない」と言うために。

不安の中にいる時、心の中に急いで来てくださるのはイエスさま。


ねがい

2016年06月18日 | こころ

当てはずれ


あなたは私が

考えていたような

方ではなかった


あなたは私が

思っていたほうからは来なかった

私が願ったようには

してくれなかった


しかしあなたは

私が望んだ何倍ものことを

して下さっていた

(星野富弘著『あなたの手のひら』より引用、偕成社)

 

聖書のことば

 それで、そのために思いあがることのないようにと、わたしの身にひとつのトゲがあたえられました。それは思いあがらないように、わたしを痛めつけるために、サタンから送られた使いです。この使いについて、離れ去らせてくださるように、わたしは三度主に願いました。

 すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。

 だからキリストの力がわたしのうちに宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。

 それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜならわたしは弱い時にこそ強いからです。

コリントの信徒への手紙二12章7〜10節


願 い 

 私たちは願い事をします。キリスト教の神さまに祈る人、八百万の神さまに祈る方、仏様に祈る方もいます。願い事が叶えば、ご利益があったということになりますが、祈りが聞き届けられなかったたという時は、どう受け止めるのでしょうか?

 キリスト教では自分の願い事が叶わなかったときも、神様は祈りを聞いてくださったのだと受け止めます。自分の思ったようにはならなくても、神様が私たちに良いと思われたことをしてくださっているのです。

 星野富弘さんは願ったこととは違うけど、結果的に自分にとってよかった、十分に幸せと思えるようになられたのです。神様は自分の祈りを聞いてくれなかったのではなく、自分にとって別の道があることを示して導いてくださったということです。

 自分の思いから自由になることも、気持ちが楽になる生き方なのだと思います。

 


母の生き方

2015年05月01日 | 今月の御言葉・いのり・メッセージ

母が共に

我ひとり悩むのでなく 母が共に

我ひとり聞くのでなく 母が共に

我ひとり信じるのでなく 母が共に

我ひとり祈るのでなく 母が共に

我ひとり喜ぶのでなく 母が共に

我ひとり待つのでなく 母が共に

(水野源三「こんな美しい朝に」より)

 

汝がために 祈る母の いつまで世にあらん

とわに悔ゆる日の 来ぬまに とく神に帰れ

春は軒の雨 秋は庭の露

母は涙乾く間なく 祈ると知らずや

(讃美歌510番4節より)

 

 水野源三さんが小学校4年生のとき、脳性麻痺により体の自由と言語を失ってから、源三の母うめじさんは病気に倒れ60歳で生涯を終えるまで、息子のために手となり足となり口となって生きた方です。水野源三さんは瞬きの詩人と呼ばれるようになったのですが、口から言葉を発することのできない言葉を一文字一文字お母さんが50音をたどり、源三さんが目をつぶることで言葉が生み出されます。聖書を読む源三さんの聖書を1ページずつお母さんがめくります。うめじさんは、肝っ玉母さんで気っぷがよく、愛情深く、周りの人を分け隔てなく愛されました。うめじさんは源三さんより一秒でも長く生きて息子を看取ってから死にたいと言われていたそうです。けれども、うめじさんの願いはかなわず、息子源三さんを残して天国に旅立たれました。

 現代の自立したキャリアウーマンの姿とは違うかもしれませんが、水野源三さんのお母さん、うめじさんは息子に深い愛情をそそぎ、息子のために自分の時間をすべてささげられた母として生きた女性です。源三さんの詩の中にお母さんも生きているのだと感じさせられます。うめじさんの名前は表にはでてこないように、母親の愛とは自分ではなく子どもを生かすのです。愛とはそういうものなのだと教えてくれています。