松岡正剛のにっぽんXYZ

セイゴオ先生の「にっぽんXYZ」教室と同時進行。濃~い日本史話が満載!

05 真名から仮名へ(Z=源氏物語 その2) 平安の大ベストセラー『源氏物語』

2004年09月27日 | 05 真名から仮名へ
清少納言のライバル、紫式部は優れた歌人を輩出してきた文人の家系で、学者としても名高い藤原為時(ためとき)の娘として生まれました。母を早く失い、父の影響の下で漢文を早くから読みこなして、家に伝わる歌の本や物語を読みあさったといわれます。一度20歳以上年上の夫と結婚したものの、すぐに死別、物語を書き始めたのは、そのつらい境遇になった直後のようです。その後、宮廷に入り、中宮の彰子に和歌や文学を教えたんですね。

琵琶湖のほとり、滋賀県大津市には、東大寺大仏建立のとき、資金を諸国に求めた僧の良弁(ろうべん)が建てたと伝えられる古刹(こさつ)、石山寺があります。石山寺はその名の通り岩山の上に建つ寺で、風雅なこの地を訪れた王朝人は多く、清少納言や和泉式部などの女性作家たちも作品にその名を記しているんですね。紫式部もその一人でした。

本堂の傍らにある「源氏の間」は、紫式部が『源氏物語』を執筆した部屋と現在まで伝わっています。中宮の彰子に新しい物語を求められた紫式部は、この石山寺で『源氏物語』の着想を得て書き始めたと言われているんですね。物語は、光源氏を主人公に、次々と女性を愛するその一生と、その後の一族の人生という、70年あまりの時間を描いたものです。

大きくは3部に分けられる全54巻の『源氏物語』は、1巻から数巻ずつ出されたのではないかといわれていますが、発表当時から評判がものすごく高かった。それまでの物語とは、格段に違う完成度をもっていたんです。第1部の9巻、「葵(あおい)」はこんな場面があります。

賀茂神社の賀茂祭の行列に、光源氏が参加することを聞いた、かつての愛人である六条御息所(ろくじょうのみやすどころ)は、その姿を見ようと、身分を隠して目立たないように牛車の列に加わった。そこに遅れてやってきたのが源氏の正妻、葵上(あおいのうえ)の牛車です。葵上の従者は源氏の権勢をかさにとって場所を取ろうと大騒動を起こす。あげくに六条御息所の車は押しのけられてしまうんですね。御息所は大恥をかかされ、光源氏にまでその話は伝わってしまう。のちに数々の絵やモチーフに取り上げられた「車争い」ですね。

この事件で御息所は、光源氏と別れる決心をしますが、その恨みは消えない。怨念が生霊(いきりょう)となって葵上にとりついて、男の子を産んだばかりの葵上を殺してしまうんです。『源氏物語』は、このようにきらびやかな貴族文化の姿と、それとは裏腹に無常が漂う悲劇を克明に描き出してみせたのですね。世界文学史上でも特筆すべき傑作です。

この平安の大ベストセラーとなった『源氏物語』と前後して、貴族社会に物語が広がっていきます。継母にいじめられる姫君を主人公にして、勧善懲悪をテーマにした『落窪(おちくぼ)物語』などが広く読まれるのもこのころです。

さらに、日記を女性たちが書き始めます。前に紀貫之の日本語計画、『土佐日記』を話しましたが、それがきっかけとなった。また、女性たちは日記を一日一日のダイアリーとして書いたのではなく、読み物として書いたんですね。藤原道綱母(ふじわらのみちつなのはは)が書いた『蜻蛉(かげろう)日記』は王朝の結婚生活の苦悩や母としての喜びを描いた傑作ですが、自分の人生を日記という形式で書いた回想録になっている。

また、『源氏物語』の約半世紀あとに書かれた菅原孝標女(すがわらのたかすえのむすめ)のこれも有名な日記形式の人生の回想、『更級(さらしな)日記』には、『源氏物語』に夢中になった少女時代が描かれているんです。物語を読み、自らも筆をとって書いていったのは、まさに夢見る少女たちでした。その系譜は明治の与謝野晶子をはじめとする多くの女性作家、さらに現代の女性へと確実に受け継がれているんですね。

さあ、『万葉集』、『古今和歌集』、『源氏物語』の文学XYZ、いかがでしたか。いずれも日本人の生活の中の美や、美的な表現にとってたいへん大きな影響力をもっていましたね。中心には真名、中国の漢字を中心とした平安時代に、日本的な平仮名が生まれたという事件がありました。もう一つ、ありましたね。

それは、男性的な文化に女性的な文化や考え方が、きっ抗してきたということ。紀貫之が仮託をしていた女性が、仮の姿ではなく、女性その人たちがいよいよ出てきたんです。

では、次のXYZでは、視線を美からもう少し生活そのものに向けてみましょう。不安時代でもある平安時代に人々は何を思い、願っていたのでしょうか。平安京の生と死と、都を離れた諸国に生まれた新たな脈動の話です。

【次回は10月1日(金)、06 生と死の平安京、X=みやびの1回目です】

05 真名から仮名へ(Z=源氏物語 その1) 物語文学をつくった女官たち

2004年09月24日 | 05 真名から仮名へ
ここまで、『万葉集』、『古今和歌集』では、日本語の表記とともに、和歌や日記といった文字が伝えるメディアの形を見てきました。さあ、ここからは「物語」です。古代の日本の氏族社会では、先祖の伝説を神聖な古言(ふること)として口承してきました。氏族の伝統は律令社会の中で消えていきますが、口で伝える文芸は、平安時代の都市生活の中で、仮名の成立とともに「物語」に変わっていったんですね。

物語の祖といわれているのは、ご存じ『竹取物語』、かぐや姫の話です。10世紀前半に書かれ、作者は分かっていません。そのあと、タカハシ君も説明してくれた『伊勢物語』などができてきます。しかし、11世紀初めから以降、物語の書き手は女性になった。Zのタイトルである『源氏物語』は、紫式部が書いた54巻の大長編ですね。この式部をはじめに女性たちが次々に名作を書いていくんです。

そもそも物語は、「モノ・かたり」ですね。では、この「モノ」とは何かというと、物体のモノだけじゃないんです。心や精神、スピリットのことも「モノ」と言います。だから「ものすごい」と言うときのモノは、心のあり方なんですね。「ものさびしい」も「ものがなしい」も気持ちです。

こういう気持ちを書けたのは女性だったのです。仮名を担って文化を変えた女性は、また日本文化を物語などの文章で変えていく。平安王朝とは、どうやら女性がリードする文化だったのですね。

では、物語を書いたのは、どんな女性たちだったのでしょうか? 『源氏物語』のストーリーを絵で表した「源氏物語絵巻」の有名な場面に、絵を見ている姫君のかたわらで、女官がその絵につけられた文章を読み上げているところがあります。耳で聴きながら物語のシーンを眺めるのが、当時の読書スタイルだったんです。

そこで物語を読み、周りで聞き耳を立てる女官たちこそが、物語の書き手だったのです。みやびな空間の中で、さまざまな人間ドラマに満ちた宮廷に生きた女官たちは、現代にも通用する文学作品としての物語を生んでいった。その代表が、紫式部と清少納言の二人でした。しかし、この二人、実は政治的に対立するトップレディに仕えていたライバルだったのです。

ときは藤原道長が政治を席巻する時代です。一条天皇には定子という皇后がいましたが、道長は自分の娘の彰子を天皇に嫁がせた。しかし、正式の后、「皇后」になれるのは一人だけなんですね。道長は彰子を皇后と同じ格にさせたいために、彰子を皇后の別称だった「中宮」としてしまいます。そのとき、彰子に仕えていたのが紫式部で、皇后の定子に仕えていた女官が、清少納言だったのですね。

清少納言の有名な書き出しのフレーズ、「春はあけぼの、」「夏は夜、」「秋は夕暮、」「冬はつとめて、」は、みなさん、知っていますね。『枕草子』です。「草子」はエッセイとか、随筆という意味ですが、清少納言のエッセイは、短い文章で切り出す鮮やかな手際に、ファッショナブルなセンス、世間のものごとを早く大胆に斬るという、現在でも比類する文章がないほど、恐るべきものだったのですね。

まさに才能のかたまりのようだった清少納言。ちなみに清少納言の父親は歌人の清原元輔です。姓の清原の一字を取った「清」に少納言がついた名前です。だから「せい・しょうなごん」というのが本当なんですね。紫式部はこの才気に満ちた清少納言を批判したりもしている。才能ある女性たちの集まりは、葛藤の場でもあったんですね。その中から、女性たちが日記文学、エッセイ、物語をつくっていくわけです。

【次回は9月27日(月)、05 真名から仮名へ、Z=源氏物語の2回目です】

05 真名から仮名へ(Y=古今和歌集 その2) 紀貫之の驚くべき日本語計画

2004年09月21日 | 05 真名から仮名へ
『古今和歌集』に用いられたのは、新しい日本語フォントである平仮名でした。平仮名とは、日本語の音を表す表音文字ですね。平仮名の五十音が、現在使われている形で整理されたのは、1900年(明治33)の「小学校令施行規則」です。でも、この9世紀末に、それに近い形に日本語の音が整理され、平仮名の表記が確立してきたのですね。

古来からある日本語の音を、この時代に改めてまとめていったという点には、密教僧たちの活躍がありました。以前、空海が字典などをつくったことをお話ししましたが、空海によって始まったインドのサンスクリット語の研究を、のちに密教僧たちが日本語に適用したことが始まりとなったのです。

こうして整理された音に対して、万葉仮名の表記の変化が起こります。万葉仮名では、日本語の一つの音に対して数種類の漢字が対応していましたね。それが一つの音を万葉仮名の中の一つの文字だけで表すようになり、その漢字を崩して書きやすくしたところから、平仮名は生まれてきた。

ちょっと例を挙げましょう。「あいうえお」の漢字からの変化は、それぞれ、安→あ、以→い、宇→う、衣→え、於→お、となります。それぞれ少しずつ形が似ているのが、わかりますか。その漢字を草書的に書いて崩していくうちに、画が単純化され、連続した線の平仮名となっていったんですね。

では、なぜ王朝のこの時代に、仮名が広まっていったんでしょうか? そこにこそ、文字を書く女性の力があったんですね。和歌がひろまっていくと、和歌を書いた手紙が、とくに男女の間で心を伝えるものとして確立します。仮名は、女手(おんなで)とも呼ばれ、女性たちの文字として広く使われていったのです。

この平仮名の発生は、女性によるフォント革命だったのですが、同時に筆で平仮名をどのように書くか、という変化をつくります。漢文を書く書とはまったく違った表現がされていくわけです。そこに日本語の意味や音節によって、絶妙に文字を配置する「分かち書き」とか、「散らし書き」と呼ばれる日本語独特の書き方が生まれてきたんですね。

こういったさまざまな書き分けのデザインを英語で「カリグラフィ」といいます。王朝文化の中で、日本の文字を洗練していった平安のカリグラフィは、その美を極めようとする。書き方だけでなく、墨の色とか筆づかい、さらには、歌を書く料紙(りょうし)というものをいろいろ工夫するようになるんですね。その代表的なものが、「三十六人歌集」。藤原公任(ふじわらのきんとう)が選んだといわれる和歌の名手「三十六歌仙」の歌が、さまざまな文様や風景が描かれ、金銀をちりばめた美しい料紙に、流れるような筆跡で認(したた)められています。まことに目にも綾(あや)な世界で、いま見ていてもため息が出るくらいです。

女性の手によって広まることになった仮名ですが、『古今和歌集』の編者であり、漢文と仮名の二重の序文を構成した紀貫之は、晩年近く、女性を題材にちょっと変なことをするんですね。

紀貫之は、土佐守(とさのかみ)として四国土佐に赴任します。もう70歳近かったとも言います。任期を終え、934年末に船で任地をたち、翌年2月16日に帰京するまで55日間にわたって旅をしますが、その模様を日記の形をした紀行文、『土佐日記』に書いたのです。大変有名な古典です。でも、貫之はここで、世界の文学の歴史でも珍しい実験をしてみせた。

書き出しはこうです。「男もすなる日記といふものを 女もしてみむとて、するなり。」

「男の人が書くと聞いている日記を、女の私も書いてみようと思って、書く」、という意味ですね。紀貫之は男です。なのに自分を女としている。女性に自分を仮に託して、この紀行文を書いたのです。なぜそんなことをしたのでしょうか?

当時、日記というものは男が書くものだったのですね。それも漢文で書くものでした。あの藤原道長が残した『御堂関白記(みどうかんぱくき)』などが有名です。つまり、貫之のころ、女性はまだ日記を書いていなかった。『和泉式部日記』、『蜻蛉日記』などはあとの時代になります。

貫之は、漢文でない和歌や日本語が入った日記を書こうとしたんです。そこで、まず女になった。そして女性でも男性のように日記を書いてみようと思う、と宣言した。女性なので、それを仮名で書いたのです。貫之は、自分の考える新しい仮名を使った日本語をあらわすために、二重、三重の擬装を凝らした。

私はこれを紀貫之の「日本語計画」と名付けていますが、前回、貫之が日本文化の立役者と言ったのは、『古今和歌集』に始まるこれらの大実験こそが、日本語の表記を変え、文学を変え、平安の怒濤のような女流文学の興隆を生んでいったためですね。

そこで、次回は平安の女性の物語をしましょう。仮名を得て、あらたな文学世界を築くことで、平安王朝を日本独自の空間としていった女性たちの言葉の冒険が始まったのです。

【次回は9月24日(金)、05 真名から仮名へ、Z=源氏物語の1回目です】


05 真名から仮名へ(Y=古今和歌集 その1) 日本文化を変えた和歌の力

2004年09月17日 | 05 真名から仮名へ
万葉から、平安時代へ。日本の言葉を書き表す新たな方法がいよいよ開かれます。905年ごろ成立した(同年に編纂を開始した、ともいわれます)『古今和歌集』にそれが見て取れる。『古今和歌集』とは、最初の勅撰和歌集、天皇の命令によって編まれた歌集ですね。この歌集には、実はちょっと変わった点がありました。いったいそれはなんでしょうか?

『古今和歌集』には序文が2つもついているんです。一つは「真名序(まなじょ)」、真名、漢文で書いた序文です。もう一つが「仮名序」、平仮名だけで書いてある。『古今和歌集』は仮名で書かれたので、通常の漢文のほかに仮名の序文をつけたんですね。つまり、10世紀初頭、新しい仮名フォントが公にも使用されるほど確立したんです。『古今和歌集』の漢字、平仮名の序文は、ほぼ同じ内容ですが、微妙に違っている。じつはこの、漢字と仮名で表すときに生まれる微妙な差こそが、日本に新しい平仮名文化、王朝文化、女房文化を形づくることになっていきます。

ちょっとここで、タカハシ君が詳しく話している『万葉集』の歌の種類の話をぜひ読んでみてください。そこにあるように、五七五・七七の和歌が日本人の心を託す和歌となっていったのですが、奈良時代以降、漢詩におされていったんです。とくに桓武天皇が立つと中国化政策が進められ、宮廷文学の中心が漢詩になってくる。平安京に遷都した直後に『凌雲集』や『文華秀麗集』といった漢詩集が編集されます。官吏の登用試験も漢文になる。いわば政府が使う文字がみんな英語になってしまったようなものですね。

すると、和歌は、この漢化政策に対抗する一種のサロンで歌われたり、あるいは公の場から外れた女性たちや山中の聖(ひじり)たちの文学になっていきます。古今和歌集の仮名序には、「近き世に名の聞こえた歌人」と、優れた和歌の作り手だった6人が挙げられている。後に、六歌仙(ろっかせん)と呼ばれたこの歌人は、僧正遍昭(へんじょう)、在原業平(ありわらのなりひら)、文屋康秀(ふんやのやすひで)、喜撰(きせん)法師、大伴黒主(おおとものくろぬし)、そして、あの小野小町(おののこまち)ですね。

六歌仙が活躍した時代は、藤原良房がライバルを蹴落とし、摂関政治を開始したころです。漢風を重んじたその宮廷の中で、六歌仙の在原業平らのグループが和歌を支えて、和風の文化を育んでいたのです。しかし、いずれも藤原氏の勢力拡大の影で、失意の時代を過ごすことになる。

そこにあらわれたのが宇多天皇と菅原道真ですね。前にお話ししたように、道真は遣唐使の派遣を止め、政治・経済・文化ともに大陸から離れ、独自の道を歩もうとした。中国人が絶賛したほどの漢詩の達人ながら、和歌にも優れていた道真は、宮廷文学を漢詩から和歌へ移す大胆な試みを実践したのです。道真は歌会、歌合(うたあわせ)を催すことで、いがみ合う貴族たちの心をまとめ、和歌を貴族の文学としていこうとします。『新撰万葉集』という和歌集も編集している。道真は左遷されましたが、その意思は、こんな形で残されていくことになります。

和歌の面白いところは、問いと答えの歌とか、お互いのやりとりの歌といった対のメディアでもあることなんですね。これが二首で一対の合わせ、歌合になった。歌合は、「右」と「左」というグループに分かれた歌詠みたちがそれぞれおもしろい歌を出して、判者が優劣を判定するというものです。道真の時代からあと、宮廷はこの歌合にこそ、真に熱中していったんですね。

村上天皇が960年(天徳4年)に開いた天徳内裏歌合などは、まさに絢爛豪華な一大歌合として言い伝えられています。しかし、歌合は、道真の意図を越えて、政治の派閥争いにもなっていった。このとき、左方の公卿が藤原氏、右方の公卿が源氏でした。当時政界で覇権を争っていた両氏の戦いになったのです。負けるわけにいかない両陣営は、最高の歌を作る歌人をそろえます。トリの勝負には、藤原氏は壬生忠見(みぶのただみ)、源氏は平兼盛(かねもり)の歌が登場した。両方とものちに百人一首にも選ばれるほどの出来でした。
左「恋すてふ我が名はまだき立ちにけり 人知れずこそ思いそめしか」(忠見)
右「忍ぶれど色にいでにけり我が恋は ものや思ふと人の問ふまで」(兼盛)

和歌史上に残るこの名勝負は兼盛に軍配が上がり、壬生忠見はそれを苦にして命まで落としてしまったと伝わるほどなんですね。

『古今和歌集』はこういう和歌がもった技法とか仕組みを、非常にうまく生かして編まれていたんです。その編者の中心が紀貫之(きのつらゆき)です。この紀貫之がまさに天才でした。紀貫之こそ日本文化をつくった立役者だとも言えます。それはどんな方法だったのでしょうか?

20巻、1100首の歌を、春夏秋冬の並びから、恋、別れ、旅などのテーマ別にまとめた編集構造としたんですね。四季の歌と、恋の歌が中心です。こういう古今集の構成の仕方を部立(ぶだて)と言います。コンテンツをあるインターネット的に言うとポータルにして、その目次を押すと歌が出てくる。それを上手につくったわけですね。このあと勅撰和歌集は21集が編纂されますが、この『古今和歌集』の編集構造が長く規範のスタイルとされたのです。

この『古今和歌集』の特徴を『万葉集』との違いからみると、さらに興味深い。たとえば『万葉集』は「見る」こと、「みゆ」「ながむ」「ながめる」という言葉が多かったんです。対して『古今和歌集』は「思う」「思ほゆ」という言葉が圧倒的に多い。これはつまりイメージの中でこう思った、という歌です。今は冬だけれど春を思うとか、庭で空を見て旅を思う、というような歌が詠まれるようになる。すると、部立の春、旅などのイメージのカテゴリー(範疇)がとても有効になるのですね。

また、和歌には、「枕詞(まくらことば)」がある。たとえば「たらちねの」と読むと「母」が引き出され、「ひさかたの」というと「光」が出てくるという、まるでパスワードのような言葉です。また、歌の末尾について、独特の語感を生みだす「こそ」「けれ」「ぞ」「ぬ」などの「係り結び」という言葉の仕組みもある。イメージを非常に大切にする和歌のこれらの特性は、不思議な言葉のデータベース、日本語の新しいアーカイブをつくりだし、日本語そのものに大きな影響を与えていくんですね。

【次回は9月21日(火)、05 真名から仮名へ、Y=古今和歌集の2回目です】

05 真名から仮名へ(X=万葉集 その2) 万葉仮名から始まる日本語表記

2004年09月13日 | 05 真名から仮名へ
『万葉集』は、中国の漢字を使って日本の心を歌で残したんですね。さあ、ここで使われた万葉仮名の登場によって、日本人は日本の文字への第一歩を踏み出した。日本語に特有な読み書きの方法は、万葉仮名に始まったわけです。

では、万葉仮名はどのように使われたのでしょうか? 『万葉集』初期に作品が残る、とても有名な歌人に額田王(ぬかたのおおきみ)という女性がいます。天智天皇に召された歌人で、天智の弟の天武天皇(大海人皇子)との間に十市(とおち)皇女を生んだ人ですが、こんな歌が残されている。
茜草指(あかねさす) 武良前野(むらさきの)逝(ゆき) 標野行(しめのゆき)
野守者(のもりは)不見(みず)哉(や) 君之袖(きみのそで)布流(ふる)

有名な標野行という歌です。あかね色に輝く天智天皇御領地の標野(しめの)で、遠くから額田王に袖を振って合図する馬上の大海人皇子に、そんなに袖を振ったら、番人の野守りが見ますよ、と女性らしくはにかんで相手をいさめる歌ですね。

この「武良前野」というところを見てください。「武良(むら)」は漢字の音読みです。「前(さき)」というのは訓読み、つまり、漢字をその意味にあった日本語の読み方で読む方法が取られているのがわかりますね。「袖布流」のところも同じで、袖(そで)は訓読み、「布流(ふる)」は音読みです。万葉仮名は、日本語の読み方と中国語の読み方を組み合わせて、日本語を表記しているんです。

もうひとつ、おもしろいことがあります。さきほどの「布流(ふる)」では、「ふる」という言葉を伝えるために、同じ音を持つ何種類かの漢字の中から、大海人皇子が大きく手を振って袖の「布が流れる」イメージを生かした、「布」と「流」の2つの漢字が選ばれて、表記されているんですね。

このように奈良時代末期の万葉仮名は、一つの音を表すときに、複数の漢字の候補がありました。たとえば同じ「い」の音でも、「伊」、「怡」、「以」、「異」など数種類の漢字があり、表したい内容で文字を選んでいたんですね。一番最初のXYZの漢字でも言いましたが、日本が取り入れた漢字の読み方は、中国の呉音、漢音、さらには唐朝や宋朝の音まである。その中で、『万葉集』で使われている中国の音は、5~6世紀ごろの呉音が中心となっていたのです。ところが、中国を忠実に引き写した国家体制を目指した桓武天皇は、漢字の読み方も、当時の唐で中心となっていた漢音に統一しようとします。

呉音を中心に使っていた仏教の僧りょらにも、漢音を使うことを命じます。漢字で書かれたお経の読み方から変わったんです。それが平安仏教でした。僧りょだけではありません。国を動かす官庁や役職、法律の読み方も変わってしまう。これは大変なことで、唐音が普及した平安時代初期には、呉音で書かれた『万葉集』は“読めない歌集”となってしまったんですね。

しかし、そこで『万葉集』が歴史からは消え去らなかった。日本では、呉音が完全に消滅しなかったからです。平安時代初期、呉音はマイナーにこそなったが、仏教で言えば南都六宗では使われ続けたんですね。そこが、王朝が変わるたびに、以前の音を捨てて新しい音に入れ替えることが多かった中国と、大きく違ったところなんです。

手元の漢和辞典を開いてみてください。例えば「行」の文字には、「いく」、「ゆく」、「おこなう」などの訓のほか、漢音で「こう」とありますが、呉音の「ぎょう」「ごう」、唐音の「あん」もあって、そのすべてが現在の私たちの発音になっている。つまり、日本では、中国で変化した新しい音もとり入れますが、前の古い音も捨てずに残しているんですね。新たな組み合わせを恐れずに、要素を豊かにしていく、日本独自の言葉の編集がここにはあるんです。

さあ、このように、半分中国、半分日本という不思議な万葉仮名を使って、日本の文字の表現が始まったわけですが、平安時代に入るとさらに、日本人は新手段を手にすることになります。主役を担ったのは、平安京の女性たち。王朝の女性の文字から、新しい日本語、日本文化が形づくられていくのです。

【次回は9月17日(金)、05 真名から仮名へ、Y=古今和歌集の1回目です】