紀元前1世紀ころから日本に伝わった漢字は、徐々に列島に広まっていきました。しかし、日本は400~500年もの間、漢字をそのまま外国語として使っていたのですね。
5世紀、古墳時代中期になると、日本の各地に巨大な古墳が出現します。「倭の五王」と呼ばれた、強大な力をもつ王たちの時代です。彼らは中国とさかんに交流し、日本への漢字導入を加速させていく。そこに「日本語を表す漢字」が生まれる第一歩がありました。
埼玉県行田市の稲荷山古墳から見つかった、長さ73.5センチメートル、幅3.15センチメートルの鉄剣には、115文字の漢字が刻まれていました。その解読は、古代史に新たな光を当てる大発見となったんです。5世紀に書かれたと思われる漢字は、ヲワケ臣(おみ)という近畿の衛兵の一族が、東国(関東)に進出したことを記していた。実は、ここで注目されるのが、その漢字の使い方なんですね。
たとえば、「獲加多支鹵」という5文字があります。「ワカタケル」と読むんですね。ワカタケルは、5世紀に活躍した倭の五王のひとり「倭王 武」(雄略天皇)と考えられています。「武」は、中国式の表記ですが、「ワカタケル」は日本で呼ばれていた名前です。つまり日本語ですね。さあ、何がおこっているんでしょうか?
この「獲加多支鹵」という表記は、日本の名前に漢字をあてたものなんですね。外国語だった漢字を、日本語の音にあてはめて使っている。日本語を漢字で表そうとする独自の工夫が、このころはじまっていたんですね。
この日本語と漢字をあわせるやり方が、おもしろい。まったく独特です。
たとえば、「生」という漢字がありますね。英語でいえば「live」になる、中国でのもともとの意味を持っています。そこで日本語でも近い意味の言葉をあわせた。つまり「いきる」とか、「なま」との音で読んだのですね。さらに「き」とも読みます。「生そば」とかいいますよね。
また、中国での漢字の読み方も取り入れています。ただし、中国の北方と南方で読みが違い、時代によっても変化する。その多様な読み方も取り入れたんですね。「生」は、「ショウ」(呉音、5~6世紀ごろの南方呉地方の音)とも、「セイ」(漢音、唐代の洛陽(らくよう)、長安の標準音)とも読む。
このように、日本では、一字の漢字にたくさんの日本語の意味や、中国のいろんな音が重ね合わせられていったのです。多様な要素を組み合わせていくところが、文字に対する日本独自の方法だったのですね。
日本語の音をあてはめた漢字を、「万葉仮名」(まんようがな)といいます。この先のXYZでは、日本の文字、平仮名や片仮名が出てきますが、この万葉仮名がそのおおもとになります。
さて、6世紀以降になると、日本で書かれた漢字がぞくぞくとあらわれます。古墳に埋葬された人物の行績を書いた碑文、日々の記録を書いた木簡(もっかん)、さらに経典など。
これは日本人が漢字を、情報の記録や伝達に広く使うようになったことを示しています。それまでのオーラル・コミュニケーションでは難しかった遠隔地との通信ばかりでなく、時間をこえて、情報を伝えることもできるようになりました。さらには巻物や書物などに代表されるメディア、すなわち媒体を使ったマス・コミュニケーションといった新しい情報の力を手に入れたのですね。
さあ、第1章「東アジアと倭国」、稲、鉄、漢字のXYZを見てきました。いかがでしたか。
このXYZは、見方を変えると、クニという時空間を確立していく大変な技術、「技」の力だったことがわかります。
稲は、収穫で人々を養うだけでなく、種籾をつかって翌年の新しい稲を再生させる計画的な生産を実現しました。
鉄は、生産力や武力でクニを広げるだけでなく、壊れにくい、けんろうなモノを伝えていける。
文字は、空間をまたいで遠いところに伝えられ、さらに未来に、多くの人々に情報を伝えることができます。
このように「技」の力によって、クニの空間と時間の軸が明確に現れました。でも、それだけで、本当のクニはできたのでしょうか? いいえ、そこにはまだ「心」というものが欠けていたのですね。
ではいったい、このあとに日本はどういう「心」の力をつくっていったんでしょうか?
次回からの第2章のXYZは、古代日本の人々の「心」の秘密を解き明かします。「弥勒」「薬師」「大仏」の3つの仏像の登場です。
【次回は7月2日(金)、02 仏教世界観、X=弥勒の1回目です】
5世紀、古墳時代中期になると、日本の各地に巨大な古墳が出現します。「倭の五王」と呼ばれた、強大な力をもつ王たちの時代です。彼らは中国とさかんに交流し、日本への漢字導入を加速させていく。そこに「日本語を表す漢字」が生まれる第一歩がありました。
埼玉県行田市の稲荷山古墳から見つかった、長さ73.5センチメートル、幅3.15センチメートルの鉄剣には、115文字の漢字が刻まれていました。その解読は、古代史に新たな光を当てる大発見となったんです。5世紀に書かれたと思われる漢字は、ヲワケ臣(おみ)という近畿の衛兵の一族が、東国(関東)に進出したことを記していた。実は、ここで注目されるのが、その漢字の使い方なんですね。
たとえば、「獲加多支鹵」という5文字があります。「ワカタケル」と読むんですね。ワカタケルは、5世紀に活躍した倭の五王のひとり「倭王 武」(雄略天皇)と考えられています。「武」は、中国式の表記ですが、「ワカタケル」は日本で呼ばれていた名前です。つまり日本語ですね。さあ、何がおこっているんでしょうか?
この「獲加多支鹵」という表記は、日本の名前に漢字をあてたものなんですね。外国語だった漢字を、日本語の音にあてはめて使っている。日本語を漢字で表そうとする独自の工夫が、このころはじまっていたんですね。
この日本語と漢字をあわせるやり方が、おもしろい。まったく独特です。
たとえば、「生」という漢字がありますね。英語でいえば「live」になる、中国でのもともとの意味を持っています。そこで日本語でも近い意味の言葉をあわせた。つまり「いきる」とか、「なま」との音で読んだのですね。さらに「き」とも読みます。「生そば」とかいいますよね。
また、中国での漢字の読み方も取り入れています。ただし、中国の北方と南方で読みが違い、時代によっても変化する。その多様な読み方も取り入れたんですね。「生」は、「ショウ」(呉音、5~6世紀ごろの南方呉地方の音)とも、「セイ」(漢音、唐代の洛陽(らくよう)、長安の標準音)とも読む。
このように、日本では、一字の漢字にたくさんの日本語の意味や、中国のいろんな音が重ね合わせられていったのです。多様な要素を組み合わせていくところが、文字に対する日本独自の方法だったのですね。
日本語の音をあてはめた漢字を、「万葉仮名」(まんようがな)といいます。この先のXYZでは、日本の文字、平仮名や片仮名が出てきますが、この万葉仮名がそのおおもとになります。
さて、6世紀以降になると、日本で書かれた漢字がぞくぞくとあらわれます。古墳に埋葬された人物の行績を書いた碑文、日々の記録を書いた木簡(もっかん)、さらに経典など。
これは日本人が漢字を、情報の記録や伝達に広く使うようになったことを示しています。それまでのオーラル・コミュニケーションでは難しかった遠隔地との通信ばかりでなく、時間をこえて、情報を伝えることもできるようになりました。さらには巻物や書物などに代表されるメディア、すなわち媒体を使ったマス・コミュニケーションといった新しい情報の力を手に入れたのですね。
さあ、第1章「東アジアと倭国」、稲、鉄、漢字のXYZを見てきました。いかがでしたか。
このXYZは、見方を変えると、クニという時空間を確立していく大変な技術、「技」の力だったことがわかります。
稲は、収穫で人々を養うだけでなく、種籾をつかって翌年の新しい稲を再生させる計画的な生産を実現しました。
鉄は、生産力や武力でクニを広げるだけでなく、壊れにくい、けんろうなモノを伝えていける。
文字は、空間をまたいで遠いところに伝えられ、さらに未来に、多くの人々に情報を伝えることができます。
このように「技」の力によって、クニの空間と時間の軸が明確に現れました。でも、それだけで、本当のクニはできたのでしょうか? いいえ、そこにはまだ「心」というものが欠けていたのですね。
ではいったい、このあとに日本はどういう「心」の力をつくっていったんでしょうか?
次回からの第2章のXYZは、古代日本の人々の「心」の秘密を解き明かします。「弥勒」「薬師」「大仏」の3つの仏像の登場です。
【次回は7月2日(金)、02 仏教世界観、X=弥勒の1回目です】