松岡正剛のにっぽんXYZ

セイゴオ先生の「にっぽんXYZ」教室と同時進行。濃~い日本史話が満載!

01 東アジアと倭国 (Z=漢字 その2) 日本語を表す漢字の工夫

2004年06月30日 | 01 東アジアと倭国
紀元前1世紀ころから日本に伝わった漢字は、徐々に列島に広まっていきました。しかし、日本は400~500年もの間、漢字をそのまま外国語として使っていたのですね。

5世紀、古墳時代中期になると、日本の各地に巨大な古墳が出現します。「倭の五王」と呼ばれた、強大な力をもつ王たちの時代です。彼らは中国とさかんに交流し、日本への漢字導入を加速させていく。そこに「日本語を表す漢字」が生まれる第一歩がありました。

埼玉県行田市の稲荷山古墳から見つかった、長さ73.5センチメートル、幅3.15センチメートルの鉄剣には、115文字の漢字が刻まれていました。その解読は、古代史に新たな光を当てる大発見となったんです。5世紀に書かれたと思われる漢字は、ヲワケ臣(おみ)という近畿の衛兵の一族が、東国(関東)に進出したことを記していた。実は、ここで注目されるのが、その漢字の使い方なんですね。

たとえば、「獲加多支鹵」という5文字があります。「ワカタケル」と読むんですね。ワカタケルは、5世紀に活躍した倭の五王のひとり「倭王 武」(雄略天皇)と考えられています。「武」は、中国式の表記ですが、「ワカタケル」は日本で呼ばれていた名前です。つまり日本語ですね。さあ、何がおこっているんでしょうか?

この「獲加多支鹵」という表記は、日本の名前に漢字をあてたものなんですね。外国語だった漢字を、日本語の音にあてはめて使っている。日本語を漢字で表そうとする独自の工夫が、このころはじまっていたんですね。

この日本語と漢字をあわせるやり方が、おもしろい。まったく独特です。
たとえば、「生」という漢字がありますね。英語でいえば「live」になる、中国でのもともとの意味を持っています。そこで日本語でも近い意味の言葉をあわせた。つまり「いきる」とか、「なま」との音で読んだのですね。さらに「き」とも読みます。「生そば」とかいいますよね。
また、中国での漢字の読み方も取り入れています。ただし、中国の北方と南方で読みが違い、時代によっても変化する。その多様な読み方も取り入れたんですね。「生」は、「ショウ」(呉音、5~6世紀ごろの南方呉地方の音)とも、「セイ」(漢音、唐代の洛陽(らくよう)、長安の標準音)とも読む。

このように、日本では、一字の漢字にたくさんの日本語の意味や、中国のいろんな音が重ね合わせられていったのです。多様な要素を組み合わせていくところが、文字に対する日本独自の方法だったのですね。

日本語の音をあてはめた漢字を、「万葉仮名」(まんようがな)といいます。この先のXYZでは、日本の文字、平仮名や片仮名が出てきますが、この万葉仮名がそのおおもとになります。

さて、6世紀以降になると、日本で書かれた漢字がぞくぞくとあらわれます。古墳に埋葬された人物の行績を書いた碑文、日々の記録を書いた木簡(もっかん)、さらに経典など。

これは日本人が漢字を、情報の記録や伝達に広く使うようになったことを示しています。それまでのオーラル・コミュニケーションでは難しかった遠隔地との通信ばかりでなく、時間をこえて、情報を伝えることもできるようになりました。さらには巻物や書物などに代表されるメディア、すなわち媒体を使ったマス・コミュニケーションといった新しい情報の力を手に入れたのですね。

さあ、第1章「東アジアと倭国」、稲、鉄、漢字のXYZを見てきました。いかがでしたか。
このXYZは、見方を変えると、クニという時空間を確立していく大変な技術、「技」の力だったことがわかります。

稲は、収穫で人々を養うだけでなく、種籾をつかって翌年の新しい稲を再生させる計画的な生産を実現しました。
鉄は、生産力や武力でクニを広げるだけでなく、壊れにくい、けんろうなモノを伝えていける。
文字は、空間をまたいで遠いところに伝えられ、さらに未来に、多くの人々に情報を伝えることができます。

このように「技」の力によって、クニの空間と時間の軸が明確に現れました。でも、それだけで、本当のクニはできたのでしょうか? いいえ、そこにはまだ「心」というものが欠けていたのですね。
ではいったい、このあとに日本はどういう「心」の力をつくっていったんでしょうか?

次回からの第2章のXYZは、古代日本の人々の「心」の秘密を解き明かします。「弥勒」「薬師」「大仏」の3つの仏像の登場です。

【次回は7月2日(金)、02 仏教世界観、X=弥勒の1回目です】



01 東アジアと倭国 (Z=漢字 その1) 漢字にこめられた力

2004年06月28日 | 01 東アジアと倭国
最初のXYZ、3つめのZは「漢字」です。漢字、漢の文字。中国からやってきたものですね。

縄文時代から日本人は、絵や文様でメッセージを伝えはじめました。縄文土器の中には、いろいろな模様や図形がつづけて描かれ、まるで物語をあらわしたようなものもあります。また、弥生時代の銅鐸には、連続的な情景を一種のコマ割りにして描いているものもあるんですね。
これらは文字の遠い祖先です。でも、まだ文字にはなっていなかった。古代の日本は文字がなかったのです。オーラル・コミュニケーションを基本とした社会でした。そこに中国から「目に見える言葉」、つまり「漢字」という文字がやってきたのです。

では、いったいいつごろ漢字は日本に入ってきたのでしょうか。
紀元前2世紀ころから、漢帝国は朝鮮半島に進出し、中国と日本列島の人々の交流が活発になってきました。朝鮮や日本の人々は中国の青銅器にあこがれ、青銅の鏡をたくさん輸入しています。紀元前1世紀ころの前漢(ぜんかん)や、紀元後の後漢(ごかん)の鏡は、日本各地のクニを治める首長の象徴として大事にあつかわれました。その青銅鏡に漢字が書かれていたんですね。

では、漢字はもともと中国でどのように生まれたのか?
中国の文字の歴史は、殷(紀元前11世紀半ばまでつづいた)の甲骨文字にはじまります。最初はほとんど絵のようなものでした。しかし、言葉を支える文法をあらわすことができるところから、文字のはじまりといえるのですね。
「甲骨」とは亀の甲羅や、鹿などの骨のこと。殷の時代には甲骨を焼いて、ひびの入り具合で占(うらな)いをしたんですね。その占いの結果を書いたのがこの甲骨文字です。だから神聖な文字でした。

つづく周の時代には、甲骨文字は金文(きんぶん)という文字に発展します。国の歴史から法律や売買の記録まで、多様な用途に用いられる文字に発展しました。しかし、中国は広い。地域ごとにいろいろなフォント(書体)があらわれてきます。

紀元前3世紀、いよいよファーストエンペラー、秦の始皇帝が登場します。始皇帝は、秦に伝わる伝統的な文字を改良して、「篆書(てんしょ)」と「隷書(れいしょ)」という2つのフォントに統一した。「篆書」は神聖なお祭りなどに、「隷書」は法律や商業などに使い分けた。強大な武力と優れた統治手腕をもって、初めて統一国家を完成し、中国皇帝となった始皇帝は、文字の力をものすごく重視したんですね。

漢の時代には「隷書」が一般的になります。紀元前2世紀、前漢の武帝の時代に、それが整理されて、現在の中国の文字のようになっていった。だから、中国の文字を「漢字」というんですね。これが日本にやってきた。

江戸時代に博多湾で偶然見つかったという、漢字に関わる考古学的な大発見というと… そう、金印(きんいん)ですね。
そこに刻まれた文字は「漢(かん)の委(倭=わ)の奴(な)の国王」。隷書体です。この金印は『後漢書』「東夷伝」に見える建武中元(けんむちゅうげん)2年(西暦57年)に、前漢を受け継いだ後漢の光武帝(こうぶてい)が、北九州の倭人の国、「奴国」の王に贈った金印そのものであるとされているんですね。

金印の意味は、偉大な中国の皇帝として、あなたを王として認めますというお墨付きです。この印が押してある文書があれば、交易などを許されたんですね。同じような金印が、このころ中国のまわりのいろいろな民族の王にも送られています。

こうして倭人が漢字に接する機会が多くなってきました。
中国はこのあと分裂し、魏、蜀、呉の三国時代になる。前々回、タカハシ君が説明した『三国志』の時代ですね。日本列島にあった100以上のクニを代表する邪馬台国の女王・卑弥呼が「魏志倭人伝」に登場します。この卑弥呼が魏に送った使者は、すでに漢文で書かれた文章をたずさえていました。3世紀半ばのことです。
卑弥呼の時代も中国から鏡をたくさん持ち込んだようです。中国の神仙や神獣とともに、繁栄を願う祈りが漢文で刻まれています。

後に大和朝廷は、このような漢字が書かれた青銅の鏡を、自分たちでもつくるようになります。その鏡を各地の首長に贈ることで、政治的な結びつきを強化しようとしたわけです。

ところが、最初は文字の機能をきちんと理解していなかったようなんですね。中国の鏡をまねてつくったんですが、ちょっといいかげんな文字が並んでたりします。
だんだんときちんとした漢字になりますが、たとえ理解していなくても漢字そのものが、威厳のあるしるし、あるいは呪文のようなものでもあったことがわかりますね。

どうでしょう。漢字、すなわち文字は、どうも不思議な力を持っているようですね。さあ、日本はこれから、漢字をどのように扱っていくのでしょうか。

【次回は6月30日(水)、Z「漢字」の2回目です】

01 東アジアと倭国 (Y=鉄 その2) 鉄の一族の神話と力

2004年06月25日 | 01 東アジアと倭国
みなさんは、丹生の一族って聞いたことがありますか?
「丹生」とは丹(水銀に辰砂、硫黄が化合した赤土)が産出するところ、という意味です。日本各地の水銀鉱脈のある山岳地帯には、辰砂を採掘・精製して、水銀や朱塗りの材料とした古代の技術者たちの一族がいたんですね。

日本の古代には、こうしたさまざまな職能とか技能をもった一族や軍団が各地にいた。土器つくりや墳墓建設など土を使う専門集団、土師(はじ)の一族、麻の糸や織物を中心に神具をつくる忌部(いんべ)、青銅の鏡をつくる鏡作(かがみつくり)などがよく知られています。彼らはまた、丹生一族の丹生都比売(にうつひめ)神をはじめ、それぞれの技術を伝える独自の神を祀っていたんですね。

その中に、鉄をつくる一族もいたんです。日本で採れる砂鉄を材料とし、日本独自の鉄をつくりだした技術者のグループです。「産鉄部族」とか、「たたらの一族」などといいます。「たたら」って何でしょう? 砂鉄から独特の炉の技術を用いて良質の鉄をつくる製鉄法のことです。たたらの一族は、宮崎駿監督の『もののけ姫』にも出てきましたね。

こういう鉄の一族は怖れられていた。何しろ自然界にはない、鉄というとてつもなく力を発揮するものをつくりだすのですから、畏怖されていたわけですね。そこで鉄の神々もとても変わった姿をしていたんです。

実際、日本の製鉄に携わった人々は、天上の神々の国・高天原(たかまのはら)で鉱石を採掘したという天目一箇神(あめのまひとつのかみ)や、天上界から降りてきて製鉄法を伝えたという金屋子神(かなやこかみ)といった特別な神を信仰していました。
これらの神は、神々の武器をつくったギリシャ神話のキュクロプスや、北欧神話のオーディン神と同じで、隻眼(眼が一つ)だったんです。製鉄と鍛冶の神には洋の東西を問わず、一つ目のイメージが投影されているのですね。

話がちょっとそれましたね。日本で最初に製鉄が始まった出雲では、現在でもスサノオノミコトの神楽が伝わります。大変幽玄な神楽です。そこでは日本神話に登場するスサノオが荒れ狂う大蛇・ヤマタノオロチを退治する様子が描かれている。オロチを倒したスサノオが、尻尾から取り出したという天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)は、後に草薙剣(くさなぎのつるぎ)と名前が変わって、三種の神器の一つになった、ともいわれているんですね。

日本神話では、スサノオは天照大神(アマテラスオオミカミ)の弟で、天上の神々の国・高天原で大暴れし、出雲に追放されて地上の支配者となったとなっていますね。実はスサノオ一族の物語は、産鉄部族、たたら一族の物語でもあった。荒ぶる神・スサノオの伝説は、日本各地で産鉄部族を従え、鉄の強大な力をもった集団が、周辺の部族を次々と平らげる物語を描いたものでもあったのです。荒れ狂う大蛇・ヤマタノオロチには、「たたら吹き」で流し出される、赤く燃える製鉄のイメージも重なっているんですね。

特別な「火」と「技」が鉄をつくり出すのです。火を使いこなし、鉄をつくる技を持つことは、すなわち力でした。当時、鉄をつくることは、生産力、造形力、武力、統治力を大きく進展させる、力の増大そのものだった。それによって、古代日本はこの先、列島に広がるたくさんのクニから、ひとつの国家体制へと徐々にまとまっていくのですね。
でも、そこにはさらに必要なものがあるのです。次のZでは、「漢字」という情報メディアをめぐったお話をしましょう。

【次回は6月28日(月)、Z「漢字」の1回目です】

01 東アジアと倭国 (Y=鉄 その1) 自立を促した鉄

2004年06月23日 | 01 東アジアと倭国
XYZの2つ目は、「鉄」です。鉄や青銅器などの金属器は、日本には最初はなかったのですね。では、鉄はいつごろ日本に入ってきたのか?
それは前回お話しした、大陸伝来の稲作技術とほぼ同じ時期でした。青銅器や銅剣なども一緒です。弥生時代の最大級の遺跡、佐賀県東部の吉野ヶ里遺跡にある墳丘墓から、副葬品として十字架形の銅剣が発掘されていますね。
この青銅器や鉄が日本に入ってくると、日本は大きく変わります。さあ、どういうふうに変わったのでしょうか。

まず、金属器は水田耕作に欠かすことのできない道具だったのです。日本には葦が多く、日本神話では、「豊葦原中津国(とよあしはらなかつくに)」が日本を呼ぶ名称なんですね。それまでの木製、あるいは磨製した石の道具では、葦の原を切り開いて田んぼにすることは、かなりたいへんです。また収穫の稲刈りも難しい。使える農具としては、穂の先端の穂を刈りとる石器の穂摘具(ほつみぐ)があったくらいでした。

強いクニ造りのためには、食糧が安定して供給できる効率的な稲作が必要です。つまり、そこに鋭くてよく切れる鉄製の農具が必需品となったのですね。こうして稲作技術とセットのように、輸入された鉄からつくった農具が広まっていきます。

日本の弥生時代の鉄は、朝鮮半島の鉄でした。
鉄の生産は古朝鮮語で、「サ」とか、「ソフ」とかいう名前の場所で、生産されていたんですね。朝鮮半島の古代王朝が首都の京城を「ソフル」とよんだのも、鉄器の産地に由来しています。現在の首都ソウルですね。なかでも洛東江という川の流域の鉄鉱をつかってつくられた鉄が、日本列島に輸入されていたといわれています。
2世紀以降には、日本の稲作の道具はほとんど鉄器化されていきます。日本の稲作は、朝鮮半島の鉄によって支えられ、鉄は国際的な交易の通貨のようにも扱われていた。鉄を通して朝鮮半島と日本列島は、一体になった経済、文化が展開していたんですね。

しかし、3世紀ごろから、日本人はみずから鉄をつくりだそうと試みはじめます。朝鮮半島の鉄鉱石は赤く酸化した赤鉄鉱という鉄鉱石をもちいていましたが、日本に赤鉄鉱はかなり少ないんですね。そこで、新しい鉄鉱石をみつけなくてはならなかった。それは何だったか、わかりますか? 
日本列島に潤沢に存在する「砂鉄」がそうでした。5世紀後半から中国地方を中心に始まった製鉄で、砂鉄はこれまで輸入された鉄とは違った、日本の独自の鉄をつくりだします。これが日本の経済文化圏を朝鮮半島からだんだん自立させていったんですね。

農耕具として大きな力を備えていた鉄製品ですが、また、さまざまな建築物や道具をつくる工具としても必需品だった。あらゆる技術の基本に鉄があったといえます。

でも、それだけじゃないんですね。古墳時代の遺跡からは、トップであるオオキミ(大王)の副葬品として、大太刀が出てきています。
そうです。鉄はさらに、強力な武具、鋭利で硬い剣や槍ともなるのです。つまり、鉄の武具の大きな破壊力や威圧の力から、剣や刀がクニのリーダーの象徴とされるようになっていったのですね。

【次回は6月25日(金)、Y「鉄」の2回目です】

01 東アジアと倭国 (X=稲 その2) 稲作りはクニ造り

2004年06月21日 | 01 東アジアと倭国
さあ、大陸から日本へ稲作が入ってきました。列島各地では、ぞくぞくと水田がつくられます。
稲作の日本最古の遺跡として注目されているのが、佐賀県唐津市の菜畑(なばたけ)遺跡です。約2500~2900年前の縄文晩期ですね。遺跡では、水田が模型で復元されていますが、見ると集落のまわりに用水路をめぐらせて仕切られている。

水を流す水田につくられたこの仕切りのことを、「畦(アゼ)」といい、クネクネしているので、そういう水田の集まりを「クニ」とするようになってきたんです。そう、水田がクニの原型だったんですね。
この菜畑遺跡では、縄文の狩猟採集の集落が稲作をとりいれ、新しい集落に生まれ変わっていった様子がよくわかります。弥生時代がこうして始まったんです。

でも、いったいなぜ、米作りが、「クニ」を形づくるきっかけになるのか、分かりますか? 米作りで安定して食料を得るためには、灌漑用の水路や畔、洪水を防ぐための土手づくりなど土木工事が必要ですね。これは大勢の人が力を合わせなければできない。田植えも収穫も計画的な集団作業です。
つまり、稲作が伝わったことで、人々は植物を栽培し、動物を飼育し、大勢がまとまって暮らして、ともに努力することで成果をあげる道を選んだのです。共同体としてのクニがこうしてできあがっていったんですね。

もうひとつ大事なことがあります。
稲作技術は、伝来した九州から列島中に浸透し、東北まで伝わっていく。しかし、日本列島はいろいろな地形がありますね。
広い平野から海岸沿い、山辺、盆地など、温度湿度の違いも大きい。すると、そこには地形や気候にあわせたいろいろな稲作文化が生まれてきます。
そうです。これが小さな列島の日本に多様なクニ、多様な文化圏を生みだす原因になったんですね。

稲作の技術が伝わり、祭りや儀式が生まれ、日本の各地に広がることで、ちいさな集落単位のクニは結びつき、ネットワークされて、筑紫(つくし)や出雲(いずも)、吉備(きび)といった地域的なクニがあらわれる。
そこにクニ同士の競争が生まれます。戦いも発生します。では、つぎに何に向かっていくのでしょうか。次回のY、「鉄」が大切になってくるのはここからです。

ちなみに、これまでずっと「日本」といってきましたが、この7世紀以前の古代の日本では、まだ「日本人」と言いません。中国を中心とした東アジアの中で、日本と日本人は、倭人(わじん)、倭国と呼ばれていたんですね。

【次回は6月23日(水)、Y「鉄」の1回目です】