日本の国造りのなかばで天智天皇は世を去りました。最初、後継者は天皇の下でながく活躍していた弟の大海人皇子(おおあまのおうじ)と決まっていました。しかし、天智天皇は子である大友皇子(おおとものおうじ)が成人すると、皇位をわが子に継がせたい、と思うようになってきたのですね。
というのも、天智天皇と大海人皇子が描く日本の国のかたちが、かなりちがっていたんです。この確執が、日本を二分する古代最大の内乱のきっかけとなったんですね。
天智天皇の思惑を察し、身の危険を感じた大海人皇子は、近江を離れ、奈良の吉野に籠もっていました。しかし、天智天皇の死後半年、大友皇子が天皇に即位している近江の朝廷に対して、反旗を掲げます。672年6月のことでした。
しかし、大海人皇子は、まっすぐに近江を目指さなかったのですね。なぜでしょうか? 吉野では、大海人皇子はほんのわずかの伴しか連れていなかった。そこで伊賀、伊勢、美濃(みの=岐阜県)へと移動しながら、地域の有力豪族に使者を送って兵を集めるのです。さらに、東海道、東山道(とうさんどう=信州から東北)の豪族にも援助を求め、膨大な軍勢を揃えることに成功します。東国への交通の要衝、美濃の野上(のがみ=岐阜県関ヶ原町)に本拠を置いて、進軍を開始したんですね。
反対に近江朝廷は兵の全国動員に失敗、足並みは大きく乱れます。大海人皇子軍は、朝廷を離れ大和の本拠地に戻っていた豪族大伴氏の協力で、飛鳥を攻略したあと、7月に入って近江、河内で大友皇子が編成した政府軍と激戦を展開、最大の決戦となった琵琶湖畔の瀬田の戦いで勝利を決定します。7月23日、京都・山前(やまさき)の山中で大友皇子は自害、こうして1カ月にわたった壬申(じんしん)の乱は終結したんですね。
この戦いの経過を見てもわかるように、大海人皇子は、天智天皇の中央集権政策に不満を抱く豪族たちの力を結集させた。そこに、天智天皇と後継の大友皇子に対する、大海人皇子の政策の特色があるんです。天智天皇は、天皇主権の下、いわば国際的な、中国的な政治を行おうとしたんです。これに対して大海人皇子は、日本的、国内的な政治で国を統一していくことを主眼にしたんですね。
壬申の乱に勝利を得た大海人皇子は、その年に飛鳥浄御原(あすかきよみはら)の宮をつくり、翌673年に同宮で即位、天武(てんむ)天皇となります。天武天皇は、吉野隠遁のときから従っていた天智天皇の娘、鸕野讃良姫(うののさららひめ)を皇后とした。皇后は天武天皇を補佐し、686年の天武天皇の死後、その意思を継ぐ持統(じとう)天皇となるんですね。この二人が強力に推し進めた政治改革が、天皇の権力を安定させ、律令に基づく国家制度を完成させる大きな一歩となります。
豪族たちの支持と協力を得て乱に勝利した天武天皇は、日本独自の政治体制を築いたんですね。つまり、豪族たちの力を結集する政府を、天皇をトップにした新たな身分秩序の中で構築しようとした。その代表的な政策が八色の姓(やくさのかばね)です。
684年に制定した八色の姓の制度は、皇族を最高位の真人(まひと)に、以下、豪族たちに朝臣(あそみ)、宿禰(すくね)など8姓を与えたものです。天皇以外のすべての豪族を新たな位階序列の中で再編成したんですね。一方で、豪族の勝手な土地人民の所有には強力な統制を敷く。そうして豪族たちを政府の中に取り込んでいったんですね。
豪族たちを組み込み、全国を効率的に治めるための政府のシステムも、天武天皇が大ナタを振るって整備していきます。今の総理大臣にあたる太政官(だじょうかん)をトップに、大臣や大納言らが合議して政策を決定し、その政策を八省といわれる八つの省を中心にした官僚組織や、地方を治める国司が実行するという律令官制でした。
日本で「王政」という場合は、この太政官を中心とした政治体制のことを指します。たとえば明治維新のとき、「王政復古」が起こったのは覚えていますか? そのとき復古したのは、この古代の王政だったのです。明治18年に内閣制度ができるまで、日本は再び太政官をトップとした太政官制を政策の決定機関としたんです。
こうように、天武天皇の時代に成立した政治体制は、現在の霞ヶ関の省や庁、官僚制度のルーツとなっているわけですね。
【次回は8月2日(月)、03 「日本」の出現、Y=天武天皇の2回目です】
というのも、天智天皇と大海人皇子が描く日本の国のかたちが、かなりちがっていたんです。この確執が、日本を二分する古代最大の内乱のきっかけとなったんですね。
天智天皇の思惑を察し、身の危険を感じた大海人皇子は、近江を離れ、奈良の吉野に籠もっていました。しかし、天智天皇の死後半年、大友皇子が天皇に即位している近江の朝廷に対して、反旗を掲げます。672年6月のことでした。
しかし、大海人皇子は、まっすぐに近江を目指さなかったのですね。なぜでしょうか? 吉野では、大海人皇子はほんのわずかの伴しか連れていなかった。そこで伊賀、伊勢、美濃(みの=岐阜県)へと移動しながら、地域の有力豪族に使者を送って兵を集めるのです。さらに、東海道、東山道(とうさんどう=信州から東北)の豪族にも援助を求め、膨大な軍勢を揃えることに成功します。東国への交通の要衝、美濃の野上(のがみ=岐阜県関ヶ原町)に本拠を置いて、進軍を開始したんですね。
反対に近江朝廷は兵の全国動員に失敗、足並みは大きく乱れます。大海人皇子軍は、朝廷を離れ大和の本拠地に戻っていた豪族大伴氏の協力で、飛鳥を攻略したあと、7月に入って近江、河内で大友皇子が編成した政府軍と激戦を展開、最大の決戦となった琵琶湖畔の瀬田の戦いで勝利を決定します。7月23日、京都・山前(やまさき)の山中で大友皇子は自害、こうして1カ月にわたった壬申(じんしん)の乱は終結したんですね。
この戦いの経過を見てもわかるように、大海人皇子は、天智天皇の中央集権政策に不満を抱く豪族たちの力を結集させた。そこに、天智天皇と後継の大友皇子に対する、大海人皇子の政策の特色があるんです。天智天皇は、天皇主権の下、いわば国際的な、中国的な政治を行おうとしたんです。これに対して大海人皇子は、日本的、国内的な政治で国を統一していくことを主眼にしたんですね。
壬申の乱に勝利を得た大海人皇子は、その年に飛鳥浄御原(あすかきよみはら)の宮をつくり、翌673年に同宮で即位、天武(てんむ)天皇となります。天武天皇は、吉野隠遁のときから従っていた天智天皇の娘、鸕野讃良姫(うののさららひめ)を皇后とした。皇后は天武天皇を補佐し、686年の天武天皇の死後、その意思を継ぐ持統(じとう)天皇となるんですね。この二人が強力に推し進めた政治改革が、天皇の権力を安定させ、律令に基づく国家制度を完成させる大きな一歩となります。
豪族たちの支持と協力を得て乱に勝利した天武天皇は、日本独自の政治体制を築いたんですね。つまり、豪族たちの力を結集する政府を、天皇をトップにした新たな身分秩序の中で構築しようとした。その代表的な政策が八色の姓(やくさのかばね)です。
684年に制定した八色の姓の制度は、皇族を最高位の真人(まひと)に、以下、豪族たちに朝臣(あそみ)、宿禰(すくね)など8姓を与えたものです。天皇以外のすべての豪族を新たな位階序列の中で再編成したんですね。一方で、豪族の勝手な土地人民の所有には強力な統制を敷く。そうして豪族たちを政府の中に取り込んでいったんですね。
豪族たちを組み込み、全国を効率的に治めるための政府のシステムも、天武天皇が大ナタを振るって整備していきます。今の総理大臣にあたる太政官(だじょうかん)をトップに、大臣や大納言らが合議して政策を決定し、その政策を八省といわれる八つの省を中心にした官僚組織や、地方を治める国司が実行するという律令官制でした。
日本で「王政」という場合は、この太政官を中心とした政治体制のことを指します。たとえば明治維新のとき、「王政復古」が起こったのは覚えていますか? そのとき復古したのは、この古代の王政だったのです。明治18年に内閣制度ができるまで、日本は再び太政官をトップとした太政官制を政策の決定機関としたんです。
こうように、天武天皇の時代に成立した政治体制は、現在の霞ヶ関の省や庁、官僚制度のルーツとなっているわけですね。
【次回は8月2日(月)、03 「日本」の出現、Y=天武天皇の2回目です】