松岡正剛のにっぽんXYZ

セイゴオ先生の「にっぽんXYZ」教室と同時進行。濃~い日本史話が満載!

03「日本」の出現 (Y=天武天皇 その1) 壬申の乱と国のかたち

2004年07月29日 | 03 「日本」の出現
日本の国造りのなかばで天智天皇は世を去りました。最初、後継者は天皇の下でながく活躍していた弟の大海人皇子(おおあまのおうじ)と決まっていました。しかし、天智天皇は子である大友皇子(おおとものおうじ)が成人すると、皇位をわが子に継がせたい、と思うようになってきたのですね。
というのも、天智天皇と大海人皇子が描く日本の国のかたちが、かなりちがっていたんです。この確執が、日本を二分する古代最大の内乱のきっかけとなったんですね。

天智天皇の思惑を察し、身の危険を感じた大海人皇子は、近江を離れ、奈良の吉野に籠もっていました。しかし、天智天皇の死後半年、大友皇子が天皇に即位している近江の朝廷に対して、反旗を掲げます。672年6月のことでした。

しかし、大海人皇子は、まっすぐに近江を目指さなかったのですね。なぜでしょうか? 吉野では、大海人皇子はほんのわずかの伴しか連れていなかった。そこで伊賀、伊勢、美濃(みの=岐阜県)へと移動しながら、地域の有力豪族に使者を送って兵を集めるのです。さらに、東海道、東山道(とうさんどう=信州から東北)の豪族にも援助を求め、膨大な軍勢を揃えることに成功します。東国への交通の要衝、美濃の野上(のがみ=岐阜県関ヶ原町)に本拠を置いて、進軍を開始したんですね。

反対に近江朝廷は兵の全国動員に失敗、足並みは大きく乱れます。大海人皇子軍は、朝廷を離れ大和の本拠地に戻っていた豪族大伴氏の協力で、飛鳥を攻略したあと、7月に入って近江、河内で大友皇子が編成した政府軍と激戦を展開、最大の決戦となった琵琶湖畔の瀬田の戦いで勝利を決定します。7月23日、京都・山前(やまさき)の山中で大友皇子は自害、こうして1カ月にわたった壬申(じんしん)の乱は終結したんですね。

この戦いの経過を見てもわかるように、大海人皇子は、天智天皇の中央集権政策に不満を抱く豪族たちの力を結集させた。そこに、天智天皇と後継の大友皇子に対する、大海人皇子の政策の特色があるんです。天智天皇は、天皇主権の下、いわば国際的な、中国的な政治を行おうとしたんです。これに対して大海人皇子は、日本的、国内的な政治で国を統一していくことを主眼にしたんですね。

壬申の乱に勝利を得た大海人皇子は、その年に飛鳥浄御原(あすかきよみはら)の宮をつくり、翌673年に同宮で即位、天武(てんむ)天皇となります。天武天皇は、吉野隠遁のときから従っていた天智天皇の娘、鸕野讃良姫(うののさららひめ)を皇后とした。皇后は天武天皇を補佐し、686年の天武天皇の死後、その意思を継ぐ持統(じとう)天皇となるんですね。この二人が強力に推し進めた政治改革が、天皇の権力を安定させ、律令に基づく国家制度を完成させる大きな一歩となります。

豪族たちの支持と協力を得て乱に勝利した天武天皇は、日本独自の政治体制を築いたんですね。つまり、豪族たちの力を結集する政府を、天皇をトップにした新たな身分秩序の中で構築しようとした。その代表的な政策が八色の姓(やくさのかばね)です。

684年に制定した八色の姓の制度は、皇族を最高位の真人(まひと)に、以下、豪族たちに朝臣(あそみ)、宿禰(すくね)など8姓を与えたものです。天皇以外のすべての豪族を新たな位階序列の中で再編成したんですね。一方で、豪族の勝手な土地人民の所有には強力な統制を敷く。そうして豪族たちを政府の中に取り込んでいったんですね。

豪族たちを組み込み、全国を効率的に治めるための政府のシステムも、天武天皇が大ナタを振るって整備していきます。今の総理大臣にあたる太政官(だじょうかん)をトップに、大臣や大納言らが合議して政策を決定し、その政策を八省といわれる八つの省を中心にした官僚組織や、地方を治める国司が実行するという律令官制でした。

日本で「王政」という場合は、この太政官を中心とした政治体制のことを指します。たとえば明治維新のとき、「王政復古」が起こったのは覚えていますか? そのとき復古したのは、この古代の王政だったのです。明治18年に内閣制度ができるまで、日本は再び太政官をトップとした太政官制を政策の決定機関としたんです。

こうように、天武天皇の時代に成立した政治体制は、現在の霞ヶ関の省や庁、官僚制度のルーツとなっているわけですね。

【次回は8月2日(月)、03 「日本」の出現、Y=天武天皇の2回目です】


03「日本」の出現 (X=天智天皇 その2) 天智天皇の国防構想

2004年07月26日 | 03 「日本」の出現
乙巳(いっし)の変(=大化改新の始まり)のあと、天皇は斉明天皇という女帝に移ります。斉明天皇は中大兄皇子、すなわち天智天皇の母親で、孝徳天皇に譲位するまで皇極(こうぎょく)天皇として皇位についていたんですね。斉明天皇と中大兄皇子は政治の本拠を飛鳥の地に戻し、壮麗な宮殿をつくったといわれます。

近年発掘された遺跡でも、その不思議な造作が大変注目されていますが、宮殿は水の仕掛けをふんだんに使ったものらしい。このような壮大な建築で天皇家の権威を全国的に広めたのでは、と考えられているんですね。

しかし、ここで唐と高句麗・新羅・百済の三国をめぐって緊張していた朝鮮半島の情勢が一段と複雑に変動します。
唐は新羅と結んで、今度は百済を攻める。百済は倭国との同盟を求めて、以前から王子の余豊璋(よほうしょう)を人質として日本に送っていました。倭国は遣唐使を派遣して唐と調停を図ったりもしますが、660年、百済は突然黄海を渡って現れた唐の水軍によって、あえなく滅ぼされてしまいます。

しかし、唐の統治に対して百済の有力貴族らは反乱軍を結成し、倭国にも王子の送還と救援の軍を要請します。それに答えて中大兄皇子は斉明天皇とともに飛鳥を出て、軍隊を率いて、筑紫(九州)へ移るんですね。

筑紫へは、各地で武器を調達し、兵を集めながらの長旅となりました。同行者には大海人皇子(おおあまのみこ)、額田王(ぬかたのおおきみ)、中臣鎌足ら政界の主要メンバーと多数の従者です。まるで飛鳥から筑紫への遷都とも考えられる大移動となりました。

しかし、福岡県の朝倉宮に来て2カ月後、斉明天皇は68歳で急死してしまいます。中大兄皇子は皇太子として喪(も)に服したまま、戦いの指揮をとり、662年、王子・余豊璋(よほうしょう)に5千人の兵をつけて朝鮮半島へ送りました。
帰国した豊璋は新たな百済王として有利に戦いを進めますが、翌663年、百済軍の内紛により一挙に弱体化し、あせった中大兄皇子は2万7千人の軍を送ります。

こうして倭国・百済連合軍と唐・新羅の連合軍が激突することになりました。白村江(はくそんこう)河口で行われた2日間の海戦で、唐・新羅軍の挟み撃ちにあった倭国・百済軍は軍船400隻を焼失、大敗します。これが古代史に残る白村江の戦いですね。日本の最初の国際戦争は最大の敗戦となったのです。

百済王(豊璋)は逃亡し、ここに百済は完全に滅亡します。倭国が朝鮮半島にもっていたさまざまな拠点からの撤退も余儀なくされた。さらに対馬海峡の対岸まで、唐の領地になってしまった中で、倭国は唐・新羅連合軍の進軍に対して、急きょ防衛体制を整える必要に迫られました。

そこで中大兄皇子は、百済からの亡命者がもたらした技術を用いて、九州から瀬戸内海にかけて、戦略拠点に朝鮮式の山城(やまじろ)をたくさん造ります。また、博多湾からの上陸軍を防止する水城(みずき)を築き、防衛拠点となる大宰府(だざいふ)を整備する。さらにこれらの防備に必要な兵力を確保するため、防人(さきもり)の制度を定めるんですね。

667年には、都を飛鳥から近江大津宮に移しました。日本海、瀬戸内海からの攻撃に備える要衝(ようしょう)です。ここで中大兄皇子は天智天皇に即位するわけです。

天智天皇はこの近江の地で、西国を中心に広い海岸線の防備を固めるという国造りを進めました。そのとき必要になるのは何でしょうか? 多数の人々を組織的に、強力にまとめて国力を増大することですね。大化改新で示された中央集権国家がさらに徹底されることだったのです。

ただし、これまで地域の運営主体だった豪族の反発は当然強かった。そこで、近江遷都は豪族たちの勢力が強かった飛鳥の地から離れるという意味もあったのですね。

こうして天智天皇が中央集権国家の象徴的な制度として670年につくったのが、庚午年籍(こうごねんじゃく)です。これはすべての国民を豪族の使役者ではなく、国家の一員として登録する台帳です。現在の戸籍の基礎となりました。大化改新のときに掲げた「公地公民」が形となったんですね。

遺跡の発掘などから、この統一的な戸籍は、少なくとも九州から関東まで実施されていたことがわかってきたようです。戸籍によって村落を把握するためには体系的な法律が必要ですね。それが「近江令(おうみりょう)」であったといわれています。近江令がほんとうに発布されたかは確認されていませんが、実際の戸籍制度施行を支えた統一的な法体系はあったということですね。

遷都から4年後、671年に天智天皇は近江大津宮で病気により没します。天智天皇は国際戦争という場面をへて、国をまとめる方向を探っていたリーダーでしたが、このとき、まだ国の形が完全に定まっていません。そこで中央集権を進めるか、豪族の連合国家の形をのこすかをめぐって、今度は倭国全体が二つに分かれて戦うことになったのです。それが古代最大の内乱、壬申(じんしん)の乱の勃発です。

では、次回、その1カ月にわたる激戦をお話ししましょう。

【次回は7月29日(木)、03 「日本」の出現、Y=天武天皇の1回目です】

03「日本」の出現 (X=天智天皇 その1) 鎌足・天智組の大化改新

2004年07月22日 | 03 「日本」の出現
聖徳太子のころまで、日本は「倭国」と名乗っていましたね。いよいよこれからは「日本」という国の名前、国号が生まれる時代に入ります。そこに登場するXYZは、3つのビッグネーム、天智(てんじ)天皇、天武(てんむ)天皇という二人の兄弟の天皇、そして藤原不比等(ふじわらのふひと)なんですね。

5世紀、倭の五王の時代から6世紀末、聖徳太子の時代が訪れるまで、豪族たちが法律、ルールをばらばらにつくってそれぞれの地域を動かしていたんです。戸籍、土地の所有の方法、税金の取り方、みんな違っていた。そこでどのようにして国内を同じしくみで統一していくか、統一国家をどうつくるのか、という時代に入るのですね。

この大事業に取り組んだのがまず、天智天皇でした。天皇家は大和の中心勢力、大王家の一族ですが、このときはまだ「天皇」という名前ではありません。聖徳太子が没した4年後、626年に生まれた天智天皇は、皇太子、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)の名前で日本の進路を変えていきます。

もうひとり、キーマンがいました。それが中臣鎌足(なかとみのかまたり)、後の藤原(ふじわらの)鎌足です。聖徳太子のときも蘇我馬子がいましたね。太子亡き後は蘇我氏一族が国政の舵をとっていた。中大兄皇子と鎌足は、ある国際的な激動から蘇我氏と対立します。7世紀初め、中国に唐帝国が成立したことがそのきっかけでした。

唐の太宗(たいそう)は、強力な中央集権国家をつくりあげ、隣国の高句麗を攻撃します。高句麗は、戦争にたえる国土を拡大するために、百済、新羅を攻める。日本は当時三韓と呼ばれたこの三国から同盟を求められ、渦中に巻き込まれていきます。この状況の変化は、三韓との関係を重視してきた蘇我氏総帥の蘇我入鹿(いるか)の戦略を狂わせた。中大兄皇子は三韓の上に位置する中国と対等の立場をめざして、立ち上がろうとします。

しかし、倭国の豪族のほとんどがこのとき、蘇我氏の支配下にあります。ただ中大兄皇子の心を見抜いた小さな豪族がありました。それが中臣鎌足です。鎌足にとって、中大兄皇子をもりたてることは、一族の命運をかけたギャンブルでもあった。飛鳥寺の蹴鞠(けまり)の日、皇子の沓(くつ)を拾って近づきます。二人は蘇我入鹿の暗殺を計画、645年、高句麗、百済、新羅の使者が訪れた会場で、中大兄皇子は蘇我入鹿の首をはねた。これが乙巳(いっし)の変、大化改新の始まりですね。

中大兄皇子は、叔父の孝徳天皇を立て、自らは皇太子になり、この645年、年号を「大化」として難波に遷都します。この年号を独自に定めたことは、実は重大な国家的表明なんですね。なぜでしょうか? 

このころ、中国を中心とする国際社会に加わった国は、中国の年号を使っていたのです。現在の欧米が力を持つ社会で西暦を使うのと同じですね。独自の年号を立てたということは、中国を中心とする国際関係の枠組みから独立するという宣言でした。

翌646年、政治改革の基本方針を「改新之詔」(かいしんのみことのり)として発します。そのポイントは、4つ。公地公民と、行政制度の整備、戸籍作成と班田収受法の施行、そして税制統一でした。もちろん、これらの政策をすぐさま実現することは困難でした。しかし、この宣言が、今後の日本の政策を決定づけたのです。

なかでも土地政策は大変に重要視しています。つまり、中大兄皇子は、もともと稲作を国造りの基盤として選んだこの国で、国の運営方針の基礎として土地政策を考えたのですね。班田収受法とは、土地を班田として6歳以上のすべての人に貸与するということ。つまり、それまでの豪族たちによる土地の私有をやめさせ、人と土地が公のものとされたんです。「公地公民」ですね。

これが、名実ともに唐と対等な国をつくる、すなわち、それに必要な中央集権国家をつくるための重要な施策になっていったのです。しかし、その前途には、日本が迎える初めての国際戦争というとてつもない事態が待っていました。

【次回は7月26日(月)、03 「日本」の出現、X=天智天皇の2回目です】

02 仏教世界観 (Z=大仏 その2) 大仏建立は国家プロジェクト

2004年07月20日 | 02 仏教世界観
東大寺には今も、「四聖御影」(ししょうのみえ)という絵が残されています。たいへん有名な絵ですが、ここには大仏建立に携わった4人の中心メンバーが描かれているんですね。その4人とは誰でしょうか? 

それは建立プロジェクトのトップとなった聖武(しょうむ)天皇と、大仏の設計図ともいえる華厳(けごん)経を解釈した僧の良弁(ろうべん)、中国から日本に招かれたインド僧で大仏開眼の導師となった菩提僊那(ぼだいせんな)、そして、民衆の力をまとめて建立に貢献した行基(ぎょうき)の4人です。

行基は法相(ほっそう)宗の僧です。このXYZの「Y=薬師」のところでも話しましたが、この時代、僧たちによる民衆救済の活動がはじまりました。行基はそこに自らの使命を見いだしたのですね。
諸国をめぐり、貧困や病気の人々を助けるだけでなく、貧しさの原因そのものを取り除くために、農業技術の指導、橋や道路の補修など、さまざまな社会事業を成し遂げていった。行基菩薩と呼ばれてたいへんな尊敬を集めました。

ちなみに現存最古の地図といわれる日本列島の地図は、「行基図」と呼ばれています。行基本人の作ではないようですが、江戸初期まで広く使われたといいます。行基がいかに日本中をくまなく歩き、情報を集めようとしたか、よくわかりますね。行基の下には各地の人々が結集し、草の根のネットワークができてきます。

このような民衆のネットワークに今度は上からの動きが重なります。730年頃からたびたび天然痘の大流行がありました。740年には九州で藤原広嗣(ふじわらのひろつぐ)の反乱も起きる。国家を揺るがすこれらの事態に悩んだのが聖武天皇でした。
聖武天皇は、741年に河内(大阪)の仏教信者たちが造営した智識(ちしき)寺を訪れ、本尊の盧舎那仏をみて感激するんですね。

そこで聖武天皇はすぐ、大仏の建立の詔(みことのり)を出します。743年のことでした。疫病や争乱で乱れた国を、智識寺で行われていた人材、資材、知恵、資金を調達するしくみをモデルにして復興しようと考えたのですね。
そのときプロデューサーとして登用されたのが行基だったのです。民衆の組織力に長けた行基が、諸国の信者たちの寄付や労力のまとめ役となります。こうして大仏建立は官民一体の一大国家プロジェクトとして推進されていくんですね。

同時に聖武天皇が行ったことがもうひとつあります。それは日本の各国ごとに国分寺・国分尼寺(こくぶんにじ)を建設することでした。その名称はいまでも各地に残っていますね。全国の国分寺・国分尼寺の中心になったのが、大仏をおさめる奈良の東大寺と聖武天皇の皇后である光明皇后がつくった法華寺でした。
この2寺をセンターとし、各国分寺を通じて、各地に知識や技術をもたらされるしくみです。国分寺ネットワークはそれぞれ、今でいうと、研究所やシンクタンクに、病院や図書館を合わせもったような役割を果たしていたわけですね。

つまり、ピカピカに磨かれた玉の鏡面に映りあう華厳のネットワーク・イメージが現実化して、国造りの基盤を担うものとなって現れたわけです。

743年の「大仏建立の詔」から約10年。752年に、いよいよ大仏の開眼供養が盛大に行われました。国内だけでなく、唐、新羅をはじめ、遠くベトナム、インド、ペルシアなどからも人々が招かれ、非常に国際色豊かな祭典でした。参列した聖武太上天皇(譲位した天皇です)はこのとき僧の身分です。すでに行基の元で出家をしていたんですね。

さあ、古代最大のナショナルプロジェクトと言うべき、大仏建立の意義はわかりましたか? こうして仏教は、これまでの氏族仏教、一族の仏教ではなく、国をつくり、守るという考えにもとづいて信仰されるようになります。これを「鎮護(ちんご)国家」の思想といいます。

では、この鎮護国家のトップに立つのはだれでしょうか? 仏でしょうか? 仏は、理想の国の祭主(さいしゅ)なんですね。現実の国のトップ、それは、天皇でした。

初めて人名がキーワードとなる次回のXYZでは、いよいよ日本の進路を左右するダイナミックな政治の動向が明らかになります。登場するのは、二人の天皇と一人の特異な国家マネジャーです。ぜひお楽しみに。

【次回は7月22日(木)、03 「日本」の出現、X=天智天皇の1回目です】


02 仏教世界観 (Z=大仏 その1) 華厳モデルで国づくり

2004年07月15日 | 02 仏教世界観
さあ、古代の日本をつくった3つの仏像、最後のZは奈良・東大寺に鎮座する「大仏」です。いわゆる「奈良の大仏」は通称ですね。本当の名前は知っていますか?

盧舎那仏(るしゃなぶつ)、あるいは、毘盧舎那仏(びるしゃなぶつ)といいます。盧舎那とは、サンスクリット語で、ヴィロチャナー、光を放つもの、という意味なんですね。

世界最大級の木造建築、東大寺大仏殿に収められている盧舎那仏は、高さが約15メートル強。この像全体が、3メートルもの高さがある巨大な蓮弁(れんべん=ハスの花びら)の上に座っているんですね。蓮弁に描かれた模様をよく見ると、これがまったく驚きなんです。

そこには、太陽系のような小宇宙が何億も集まり、銀河系のようなものができている様子がデザイン化され、線刻されています。これはまさしく現代にも通じる宇宙観ですよね。世界の中心にそびえる須弥山(しゅみせん)さえ、はるか下界の小さな宇宙の一つに描かれている。
この図を「蓮華蔵世界海図」といい、あらわされている広大な大宇宙を三千大千世界(さんぜんだいせんせかい)といいますが、この宇宙全体が、盧舎那仏の台座に描かれているんですね。

つまり、人間には計り知ることのできないほどの大いなる世界の上に座り、この世界を体現する仏、それが大仏、盧舎那仏なんですね。仏教がつくりあげた、おそらく最大、最高の仏像です。これが華厳(けごん)の仏なんです。

南都六宗のひとつで、最後にさかんになったのが華厳宗だ、と前回、タカハシ君がうんちくを語ってくれましたね。その中心経典は「華厳経」というたいへんに長いお経です。4世紀ごろからインドで編集されていたこの経典が中国に伝わり、740年ころ、新羅の僧、審祥(しんじょう)が日本に伝えて研究が始まりました。それまでの仏教を総合し、世界像を示しているこの華厳経に、盧舎那仏があらわされている。それは宇宙全体を総合する仏、宇宙的な生きた体として描かれているのですね。

さあ、奈良時代に入り、ひとつの国家として動きはじめた日本では、バラバラな豪族とか地域を、具体的な施策で統合して治める必要が出てきます。ではいったい、どのような方法がいいのでしょうか。
そこに出てきたのが、それぞれが似たようなものを照らし合い、お互いにお互いが映り合い、影響し合うネットワーク、そういう仕組みをつくるというアイデアでした。

つまり、ここで日本が取った政策とは、この盧舎那仏をいただいた華厳経の仕組みを使うことだったのです。華厳経には、それぞれの存在が一種の真珠のように磨かれた鏡の球で、盧舎那仏の光を受けて、お互いにお互いが映り合うような宇宙観が描かれています。日本という国をつくるために、この華厳世界をモデルにしたネットワークが、大仏のつくられた東大寺を中心に展開されていくんですね。

では、その方法は、具体的にはどのようなものだったのでしょうか。次回には、そこをお話ししましょう。

【次回は7月20日(火)、02 仏教世界観、Z=大仏の2回目です】