藤原不比等は、天皇と藤原氏の血縁関係まで編集してしまいます。まず、娘の宮子を文武天皇に嫁がせました。生まれた子どもが、2代あと、東大寺に大仏を建立した聖武(しょうむ)天皇ですね。不比等は天皇の外祖父の地位を得て、大きな影響力を持ちます。
それだけではありません。さらにその聖武天皇にも娘の光明子(こうみょうし)を嫁がせる。光明子はのちに皇族以外からでた初めての皇后、光明皇后となります。不比等は720年に亡くなりますが、4人の息子は光明子の周りを固め、政治の独占を図りました。
4人は、それぞれ藤原四家という藤原一族の主流となります。武智麻呂(むちまろ)は南家、房前(ふささき)は北家、宇合(うまかい)は式家、麻呂(まろ)は京家の始まりですね。
圧倒的な権勢を誇る不比等の息子たちに唯一対抗できたのは、皇族の直系で皇位継承権を持つ長屋王(ながやおう)だけでした。そこで、4人は策略によって長屋王を自害に追い込みます。729年、「長屋王の変」と言われる悲劇ですね。
これで栄華をほしいままにするかのようにみえた藤原四家ですが、8年後の737年、突然の不幸が襲いました。天然痘といわれていますが、4人ともつぎつぎと病没します。では、ここで不比等の系譜が絶えたのでしょうか? そうではなかったんですね。武智麻呂の子で、不比等の孫に当たる仲麻呂(なかまろ)が、叔母である光明皇后の信頼を得て、藤原氏の政治生命を継いでいきます。
749年、聖武天皇は娘の孝謙(こうけん)天皇に譲位します。仲麻呂は「紫微中台(しびちゅうだい)」の長官に就任し、政治の主導権を握りました。「紫微中台」とは、天皇の母となった光明皇太后が、政治を行うために設置した特別機関です。
さらに758年には、義理の息子にあたる大炊王(おおいおう)に孝謙天皇から皇位を譲らせ、淳仁(じゅんにん)天皇とします。これでまた、天皇の外戚となったんですね。反対勢力を抑え、恵美押勝(えみのおしかつ)という特別な名前も得て、政治の実権をすっかり独占しました。
8世紀、日本は律令国家として形づくられてきましたが、実は、列島は、まだ一つの国ではないと見たほうがいいんですね。北方のアイヌをふくめた東北地域と、関東のあたりをさす東国(とうごく)、のちに武士の誕生の地となりますね。それに、朝廷のある近畿地方を中心とする畿内(きない)、そこから西をさす西国(さいごく)、さらに琉球を含めた西南と、それぞれが別の勢力圏にありました。
しかし、朝廷の権力を十全のものとした藤原仲麻呂は、東北の蝦夷(えみし)に対する多賀城を整備し、西では、いつ日本に攻め込んでくるかわからない統一新羅に対して、九州に怡土(いと)城を築きます。つまり仲麻呂の目は、この時期、列島全体を覆うほど拡張していた、と言えるのですね。
ところが、760年、これまで藤原氏の後ろ盾となっていた光明皇太后が世を去ると、仲麻呂のちょう落が始まります。孝謙上皇の病気を秘法によって治した僧りょの道鏡(どうきょう)が台頭してきました。上皇の心は道鏡に移り、やがて、仲麻呂と対立。追いつめられた仲麻呂は764年、反乱を企てますが、敗れて琵琶湖の畔に没します。孝謙上皇は淳仁天皇も廃位させ、再び皇位にもどり、称徳(しょうとく)天皇となりました。
称徳天皇の庇護の下、道鏡は太政大臣禅師から法王の位にのぼり、とうとう政権が僧りょの手に握られるという事態にいたったのです。道鏡はさらに、宇佐八幡宮の託宣(たくせん=お告げ)により、天皇の位にまでつこうとしますが、藤原氏や和気氏が阻止します。称徳天皇が亡くなると、道鏡もまた、地方に流されていきました。
聖徳太子が理想としてとり入れた仏教でしたが、奈良の都で盛んになった南都六宗は、道鏡のような怪僧の出現などで乱れてきました。華麗で壮麗な仏教建築や仏像がたくさんつくられた奈良ですが、現実の政治や生活には及ばなかったといえますね。こうして仏教国家と律令国家、仏教制度と律令制度が矛盾したまま、8世紀の最後に奈良時代は終わります。
さあ、これまで3組のXYZを見てきました。いかがでしたか。
稲・鉄・漢字、弥勒・薬師・大仏の仏教、そして天智・天武・藤原不比等という国家づくりのリーダーたち。古代の日本は国家の基礎を完成したけれど、この奈良時代末期に、仏教の低落によって、うまくいかなくなってきた。さあ、日本はいったいこれから、どのように新たな組み替えをしていくかという選択に迫られてくるんです。
ここに登場するのが、平安京という新たな都です。奈良仏教とはまったく違う平安仏教が始まり、新たな経済システムと文化をつくった新しい日本がスタートしていきます。では、次回、新たなXYZは平安王朝の千年の物語についてお話ししましょう。
【次回は8月19日(木)、04 内裏と摂関政治、X=王朝の1回目です】
それだけではありません。さらにその聖武天皇にも娘の光明子(こうみょうし)を嫁がせる。光明子はのちに皇族以外からでた初めての皇后、光明皇后となります。不比等は720年に亡くなりますが、4人の息子は光明子の周りを固め、政治の独占を図りました。
4人は、それぞれ藤原四家という藤原一族の主流となります。武智麻呂(むちまろ)は南家、房前(ふささき)は北家、宇合(うまかい)は式家、麻呂(まろ)は京家の始まりですね。
圧倒的な権勢を誇る不比等の息子たちに唯一対抗できたのは、皇族の直系で皇位継承権を持つ長屋王(ながやおう)だけでした。そこで、4人は策略によって長屋王を自害に追い込みます。729年、「長屋王の変」と言われる悲劇ですね。
これで栄華をほしいままにするかのようにみえた藤原四家ですが、8年後の737年、突然の不幸が襲いました。天然痘といわれていますが、4人ともつぎつぎと病没します。では、ここで不比等の系譜が絶えたのでしょうか? そうではなかったんですね。武智麻呂の子で、不比等の孫に当たる仲麻呂(なかまろ)が、叔母である光明皇后の信頼を得て、藤原氏の政治生命を継いでいきます。
749年、聖武天皇は娘の孝謙(こうけん)天皇に譲位します。仲麻呂は「紫微中台(しびちゅうだい)」の長官に就任し、政治の主導権を握りました。「紫微中台」とは、天皇の母となった光明皇太后が、政治を行うために設置した特別機関です。
さらに758年には、義理の息子にあたる大炊王(おおいおう)に孝謙天皇から皇位を譲らせ、淳仁(じゅんにん)天皇とします。これでまた、天皇の外戚となったんですね。反対勢力を抑え、恵美押勝(えみのおしかつ)という特別な名前も得て、政治の実権をすっかり独占しました。
8世紀、日本は律令国家として形づくられてきましたが、実は、列島は、まだ一つの国ではないと見たほうがいいんですね。北方のアイヌをふくめた東北地域と、関東のあたりをさす東国(とうごく)、のちに武士の誕生の地となりますね。それに、朝廷のある近畿地方を中心とする畿内(きない)、そこから西をさす西国(さいごく)、さらに琉球を含めた西南と、それぞれが別の勢力圏にありました。
しかし、朝廷の権力を十全のものとした藤原仲麻呂は、東北の蝦夷(えみし)に対する多賀城を整備し、西では、いつ日本に攻め込んでくるかわからない統一新羅に対して、九州に怡土(いと)城を築きます。つまり仲麻呂の目は、この時期、列島全体を覆うほど拡張していた、と言えるのですね。
ところが、760年、これまで藤原氏の後ろ盾となっていた光明皇太后が世を去ると、仲麻呂のちょう落が始まります。孝謙上皇の病気を秘法によって治した僧りょの道鏡(どうきょう)が台頭してきました。上皇の心は道鏡に移り、やがて、仲麻呂と対立。追いつめられた仲麻呂は764年、反乱を企てますが、敗れて琵琶湖の畔に没します。孝謙上皇は淳仁天皇も廃位させ、再び皇位にもどり、称徳(しょうとく)天皇となりました。
称徳天皇の庇護の下、道鏡は太政大臣禅師から法王の位にのぼり、とうとう政権が僧りょの手に握られるという事態にいたったのです。道鏡はさらに、宇佐八幡宮の託宣(たくせん=お告げ)により、天皇の位にまでつこうとしますが、藤原氏や和気氏が阻止します。称徳天皇が亡くなると、道鏡もまた、地方に流されていきました。
聖徳太子が理想としてとり入れた仏教でしたが、奈良の都で盛んになった南都六宗は、道鏡のような怪僧の出現などで乱れてきました。華麗で壮麗な仏教建築や仏像がたくさんつくられた奈良ですが、現実の政治や生活には及ばなかったといえますね。こうして仏教国家と律令国家、仏教制度と律令制度が矛盾したまま、8世紀の最後に奈良時代は終わります。
さあ、これまで3組のXYZを見てきました。いかがでしたか。
稲・鉄・漢字、弥勒・薬師・大仏の仏教、そして天智・天武・藤原不比等という国家づくりのリーダーたち。古代の日本は国家の基礎を完成したけれど、この奈良時代末期に、仏教の低落によって、うまくいかなくなってきた。さあ、日本はいったいこれから、どのように新たな組み替えをしていくかという選択に迫られてくるんです。
ここに登場するのが、平安京という新たな都です。奈良仏教とはまったく違う平安仏教が始まり、新たな経済システムと文化をつくった新しい日本がスタートしていきます。では、次回、新たなXYZは平安王朝の千年の物語についてお話ししましょう。
【次回は8月19日(木)、04 内裏と摂関政治、X=王朝の1回目です】