松岡正剛のにっぽんXYZ

セイゴオ先生の「にっぽんXYZ」教室と同時進行。濃~い日本史話が満載!

03「日本」の出現 (Z=藤原不比等 その2)  仲麻呂の盛衰と奈良の終焉

2004年08月09日 | 03 「日本」の出現
藤原不比等は、天皇と藤原氏の血縁関係まで編集してしまいます。まず、娘の宮子を文武天皇に嫁がせました。生まれた子どもが、2代あと、東大寺に大仏を建立した聖武(しょうむ)天皇ですね。不比等は天皇の外祖父の地位を得て、大きな影響力を持ちます。

それだけではありません。さらにその聖武天皇にも娘の光明子(こうみょうし)を嫁がせる。光明子はのちに皇族以外からでた初めての皇后、光明皇后となります。不比等は720年に亡くなりますが、4人の息子は光明子の周りを固め、政治の独占を図りました。

4人は、それぞれ藤原四家という藤原一族の主流となります。武智麻呂(むちまろ)は南家、房前(ふささき)は北家、宇合(うまかい)は式家、麻呂(まろ)は京家の始まりですね。

圧倒的な権勢を誇る不比等の息子たちに唯一対抗できたのは、皇族の直系で皇位継承権を持つ長屋王(ながやおう)だけでした。そこで、4人は策略によって長屋王を自害に追い込みます。729年、「長屋王の変」と言われる悲劇ですね。

これで栄華をほしいままにするかのようにみえた藤原四家ですが、8年後の737年、突然の不幸が襲いました。天然痘といわれていますが、4人ともつぎつぎと病没します。では、ここで不比等の系譜が絶えたのでしょうか? そうではなかったんですね。武智麻呂の子で、不比等の孫に当たる仲麻呂(なかまろ)が、叔母である光明皇后の信頼を得て、藤原氏の政治生命を継いでいきます。

749年、聖武天皇は娘の孝謙(こうけん)天皇に譲位します。仲麻呂は「紫微中台(しびちゅうだい)」の長官に就任し、政治の主導権を握りました。「紫微中台」とは、天皇の母となった光明皇太后が、政治を行うために設置した特別機関です。

さらに758年には、義理の息子にあたる大炊王(おおいおう)に孝謙天皇から皇位を譲らせ、淳仁(じゅんにん)天皇とします。これでまた、天皇の外戚となったんですね。反対勢力を抑え、恵美押勝(えみのおしかつ)という特別な名前も得て、政治の実権をすっかり独占しました。

8世紀、日本は律令国家として形づくられてきましたが、実は、列島は、まだ一つの国ではないと見たほうがいいんですね。北方のアイヌをふくめた東北地域と、関東のあたりをさす東国(とうごく)、のちに武士の誕生の地となりますね。それに、朝廷のある近畿地方を中心とする畿内(きない)、そこから西をさす西国(さいごく)、さらに琉球を含めた西南と、それぞれが別の勢力圏にありました。

しかし、朝廷の権力を十全のものとした藤原仲麻呂は、東北の蝦夷(えみし)に対する多賀城を整備し、西では、いつ日本に攻め込んでくるかわからない統一新羅に対して、九州に怡土(いと)城を築きます。つまり仲麻呂の目は、この時期、列島全体を覆うほど拡張していた、と言えるのですね。

ところが、760年、これまで藤原氏の後ろ盾となっていた光明皇太后が世を去ると、仲麻呂のちょう落が始まります。孝謙上皇の病気を秘法によって治した僧りょの道鏡(どうきょう)が台頭してきました。上皇の心は道鏡に移り、やがて、仲麻呂と対立。追いつめられた仲麻呂は764年、反乱を企てますが、敗れて琵琶湖の畔に没します。孝謙上皇は淳仁天皇も廃位させ、再び皇位にもどり、称徳(しょうとく)天皇となりました。

称徳天皇の庇護の下、道鏡は太政大臣禅師から法王の位にのぼり、とうとう政権が僧りょの手に握られるという事態にいたったのです。道鏡はさらに、宇佐八幡宮の託宣(たくせん=お告げ)により、天皇の位にまでつこうとしますが、藤原氏や和気氏が阻止します。称徳天皇が亡くなると、道鏡もまた、地方に流されていきました。

聖徳太子が理想としてとり入れた仏教でしたが、奈良の都で盛んになった南都六宗は、道鏡のような怪僧の出現などで乱れてきました。華麗で壮麗な仏教建築や仏像がたくさんつくられた奈良ですが、現実の政治や生活には及ばなかったといえますね。こうして仏教国家と律令国家、仏教制度と律令制度が矛盾したまま、8世紀の最後に奈良時代は終わります。


さあ、これまで3組のXYZを見てきました。いかがでしたか。
稲・鉄・漢字、弥勒・薬師・大仏の仏教、そして天智・天武・藤原不比等という国家づくりのリーダーたち。古代の日本は国家の基礎を完成したけれど、この奈良時代末期に、仏教の低落によって、うまくいかなくなってきた。さあ、日本はいったいこれから、どのように新たな組み替えをしていくかという選択に迫られてくるんです。

ここに登場するのが、平安京という新たな都です。奈良仏教とはまったく違う平安仏教が始まり、新たな経済システムと文化をつくった新しい日本がスタートしていきます。では、次回、新たなXYZは平安王朝の千年の物語についてお話ししましょう。

【次回は8月19日(木)、04 内裏と摂関政治、X=王朝の1回目です】


03「日本」の出現 (Z=藤原不比等 その1) 不比等の国家編集術

2004年08月05日 | 03 「日本」の出現
これまで見てきた飛鳥、奈良時代初期は、天智、天武、持統と天皇一族の政治が進んできましたね。こうして新国家「日本」が確立したとき、君主ではないけれど、強い影響力で国家の舵を取る人物が現れます。藤原不比等(ふじわらのふひと)です。まるで国家のゼネラルマネジャーやプロデューサーのように活躍する藤原氏一族の政治スタイルをつくった人物でした。

もともと天智天皇を支えていた鎌足以降の藤原一族は、国際派の大友皇子の政権にいたので、国内重視の大海人皇子が勝った壬申の乱では、勢力を大きく削がれます。けれども不死鳥のように蘇ったのが、不比等だった。いったいどのように復活したんでしょうか? 不比等は法律に、たいへん強い人物でした。女帝・持統天皇は不比等のその力に着目して取り立てます。701年、不比等は日本で初めて体系的に完成した律令法典「大宝律令(たいほうりつりょう)」をつくったんですね。

前回お話しした飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)などの法典に比べて、なぜ大宝律令は初めての完成版の法律といわれるのか、わかりますか? 浄御原「令」でなく、大宝「律令」と記されています。律令は、中国・唐の法体系をモデルとしたもので、刑罰を定めた「律」と、統治や政治の運用を定めた「令」の二つの法体系からなる法典です。これまでは令しかなかった日本で、新たな令とともに律の法典もつくられた。初めて正式の律令法制が確立したわけです。

大宝律令は成立後約半世紀あとの757年まで施行され、不比等らが718年に細部をバージョンアップしてつくった「養老律令(ようろうりつりょう)」に代わります。大宝、養老律令は初めての律令法典ながら、このあと9世紀にいたるまで用いられた完成度の高いものでした。中世から近世にかけても「天下の大法」とされ、たとえば、夫婦はなるべく一夫一婦制がよいとか、倫理や礼儀をもふくむ基本法として機能したんですね。不比等の功績はそれほど大きかったといえます。

国際的にもそん色ない法体系を構築し、中納言、大納言、さらに右大臣とステップアップした藤原不比等は、新たに国際的な首都建設を図ります。奈良盆地の南の藤原京から北の端につくられた平城京(へいじょうきょう)です。

710年に遷都した平城京は、藤原京の2倍以上もの規模を誇る新首都でした。中央北部の平城宮から幅80メートル以上の朱雀大路(すざくおおじ)が貫き、17万人以上もの人々が暮らしたと言います。朱で塗られた柱や瓦で葺かれた屋根など、大陸伝来の文化によって、非常に華やいだ雰囲気に包まれた都市空間でした。


歴史を見るとき、どの時代に誰がどのようにその時代の情報を編集したのか、を見ることは、とても大切なことです。藤原不比等は律令を編集したわけですが、ほかにも編集したものがありました。何でしょうか? 
それは歴史の編集でした。不比等の時代に歴史書が二つ成立します。一つは『古事記』、一つは『日本書紀』です。ともに天皇家の国家統治の由来を記すために、天武天皇が命じて始まったものでした。

『古事記』は稗田阿礼(ひえだのあれ)が読み上げた神代(かみよ)、すなわち神話時代から推古天皇までの年代記を、太安万侶(おおのやすまろ)が万葉仮名という日本語で書いた歴史書です。『日本書紀』は舎人(とねり)親王を編集長として、同じく神代から持統天皇までを編年体で記しています。しかし、『日本書紀』は漢文で書かれている。

同じように歴史を記述するにも、日本は和文の歴史書『古事記』と、漢文の『日本書紀』を並立して成立させたんですね。このことはその後の日本を大きく暗示しています。ぜひ覚えておいてほしいことです。

最初に、藤原不比等は藤原氏の政治スタイルとつくったと言いましたね。そのスタイルも藤原氏に特権的地位につける一種の編集、すなわち家系を編集するという手段だったのです。次回に詳しくお話ししましょう。

【次回は8月9日(月)、03 「日本」の出現、Z=藤原不比等の2回目です】


03「日本」の出現 (Y=天武天皇 その2) 「倭国」から「日本」へ

2004年08月02日 | 03 「日本」の出現
律令、すなわち法典に基づく国家体制を構想した天武天皇は、体系的な律令の編さんを開始します。飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)といわれるものです。681年から9年を掛け、全22巻が姿を見せたのは、天武天皇の没後3年たった689年でした。前回説明した官僚制度、位階制度などはこの令の施行によって進められていくんですね。

一方、694年、朝廷は三方を山に囲まれた手狭な飛鳥から、大和の平野部に乗り出します。奈良盆地の南方につくられた藤原京です。天武天皇の亡き後、志を継いだ持統天皇が建設した、日本初の首都の出現ですね。それまでの天皇が所在した飛鳥、難波、近江などは、あくまで天皇の在所、宮(みや)を中心とした空間でした。これがはるかに大規模な都(みやこ)、つまり都市となったのは、この藤原京が最初です。唐の都にならってつくられた碁盤の目のような整然とした都市計画だったんですね。

『日本書紀』には、683年に天武天皇が出した「今より以後、必ず銅銭を用いよ。銀銭を用いることなかれ」という詔(みことのり)があります。「銀銭」とは当時、貨幣のように使われていた無文の銀の地金を指しますが、それを禁じて、「銅銭」使うよう命じた。これが、唐の制度を倣って初めてつくられた日本の貨幣、富本銭(ふほんせん)です。

初めて今の造幣局にあたる鋳銭司(ちゅうせんし)がつくられ、富本銭はそこで鋳造されたんですね。藤原京では、さらに708年(和銅元年)に、有名な「和同開珎」がつくられます。ちなみに和同開珎の銅銭1つで、今のお金にすると7千~8千円の価値だといわれていますね。

ところで、capitalという英語は、知っていますよね? 「首都」という意味と、「資本・資金」という両方の意味があります。天武天皇と持統天皇の国づくりの基本は、まさにcapitalプラン、藤原京という都市づくりと、国家による通貨をもとにした経済制度の構築にあったのですね。こうして日本という国の骨格が浮上してくるのです。

国内に落ち着きと新たな繁栄が見え始め、天皇の権威が高められた藤原京の宮廷には、柿本人麻呂のように天皇を和歌で歌い上げる歌人も登場します。とくに有名な歌があります。
「大君は神にしませば 天雲の雷の上に庵せるかも」
天皇は神であるから天上界の雲上の、雷のその上に、庵を建てることでしょう、という意味です。人麻呂は和歌にひそむ言葉の力をつかって、天皇が神の権威をもっている、と告げているのですね。

もう一つ、大事なことがあります。国内がまとまる一方で、天武天皇や持統天皇は、戦争で緊張した当時の国際関係を緩和させていく。しかし、従来の倭国の国号のままでは、それまで戦ってきた唐や新羅との交渉が難しかった。そこで初めて「日本」を国号とすることを正式に定めたんですね。

702年、実に32年ぶりとなる遣唐使を唐に派遣するんです。そのとき、使者は中国側に、壬申の乱によって唐と戦った倭国は滅び、「日本」という新しい国ができたと主張した、と平安初期の歴史書『続日本紀』が伝えています。唐の歴史を記した中国の『旧唐書(くとうじょ)』東夷伝(とういでん)にも、この時代に初めて「日本国は倭国の別種なり」と「日本」が記されました。こうして東アジアの中で「日本」というものが認められたのです。いよいよ日本国の出発となったんですね。

さあ、ここでもう一人の天才が藤原京に現れます。鎌足からの藤原姓を継いだ最初の世代、次男の藤原不比等(ふじわらのふひと)です。今後、まったく独自なキーマンとして目が離せない存在、藤原氏の活発な国家プランニングが、ここからまさに本格化するんですね。

【次回は8月5日(木)、03 「日本」の出現、Z=藤原不比等の1回目です】

03「日本」の出現 (Y=天武天皇 その1) 壬申の乱と国のかたち

2004年07月29日 | 03 「日本」の出現
日本の国造りのなかばで天智天皇は世を去りました。最初、後継者は天皇の下でながく活躍していた弟の大海人皇子(おおあまのおうじ)と決まっていました。しかし、天智天皇は子である大友皇子(おおとものおうじ)が成人すると、皇位をわが子に継がせたい、と思うようになってきたのですね。
というのも、天智天皇と大海人皇子が描く日本の国のかたちが、かなりちがっていたんです。この確執が、日本を二分する古代最大の内乱のきっかけとなったんですね。

天智天皇の思惑を察し、身の危険を感じた大海人皇子は、近江を離れ、奈良の吉野に籠もっていました。しかし、天智天皇の死後半年、大友皇子が天皇に即位している近江の朝廷に対して、反旗を掲げます。672年6月のことでした。

しかし、大海人皇子は、まっすぐに近江を目指さなかったのですね。なぜでしょうか? 吉野では、大海人皇子はほんのわずかの伴しか連れていなかった。そこで伊賀、伊勢、美濃(みの=岐阜県)へと移動しながら、地域の有力豪族に使者を送って兵を集めるのです。さらに、東海道、東山道(とうさんどう=信州から東北)の豪族にも援助を求め、膨大な軍勢を揃えることに成功します。東国への交通の要衝、美濃の野上(のがみ=岐阜県関ヶ原町)に本拠を置いて、進軍を開始したんですね。

反対に近江朝廷は兵の全国動員に失敗、足並みは大きく乱れます。大海人皇子軍は、朝廷を離れ大和の本拠地に戻っていた豪族大伴氏の協力で、飛鳥を攻略したあと、7月に入って近江、河内で大友皇子が編成した政府軍と激戦を展開、最大の決戦となった琵琶湖畔の瀬田の戦いで勝利を決定します。7月23日、京都・山前(やまさき)の山中で大友皇子は自害、こうして1カ月にわたった壬申(じんしん)の乱は終結したんですね。

この戦いの経過を見てもわかるように、大海人皇子は、天智天皇の中央集権政策に不満を抱く豪族たちの力を結集させた。そこに、天智天皇と後継の大友皇子に対する、大海人皇子の政策の特色があるんです。天智天皇は、天皇主権の下、いわば国際的な、中国的な政治を行おうとしたんです。これに対して大海人皇子は、日本的、国内的な政治で国を統一していくことを主眼にしたんですね。

壬申の乱に勝利を得た大海人皇子は、その年に飛鳥浄御原(あすかきよみはら)の宮をつくり、翌673年に同宮で即位、天武(てんむ)天皇となります。天武天皇は、吉野隠遁のときから従っていた天智天皇の娘、鸕野讃良姫(うののさららひめ)を皇后とした。皇后は天武天皇を補佐し、686年の天武天皇の死後、その意思を継ぐ持統(じとう)天皇となるんですね。この二人が強力に推し進めた政治改革が、天皇の権力を安定させ、律令に基づく国家制度を完成させる大きな一歩となります。

豪族たちの支持と協力を得て乱に勝利した天武天皇は、日本独自の政治体制を築いたんですね。つまり、豪族たちの力を結集する政府を、天皇をトップにした新たな身分秩序の中で構築しようとした。その代表的な政策が八色の姓(やくさのかばね)です。

684年に制定した八色の姓の制度は、皇族を最高位の真人(まひと)に、以下、豪族たちに朝臣(あそみ)、宿禰(すくね)など8姓を与えたものです。天皇以外のすべての豪族を新たな位階序列の中で再編成したんですね。一方で、豪族の勝手な土地人民の所有には強力な統制を敷く。そうして豪族たちを政府の中に取り込んでいったんですね。

豪族たちを組み込み、全国を効率的に治めるための政府のシステムも、天武天皇が大ナタを振るって整備していきます。今の総理大臣にあたる太政官(だじょうかん)をトップに、大臣や大納言らが合議して政策を決定し、その政策を八省といわれる八つの省を中心にした官僚組織や、地方を治める国司が実行するという律令官制でした。

日本で「王政」という場合は、この太政官を中心とした政治体制のことを指します。たとえば明治維新のとき、「王政復古」が起こったのは覚えていますか? そのとき復古したのは、この古代の王政だったのです。明治18年に内閣制度ができるまで、日本は再び太政官をトップとした太政官制を政策の決定機関としたんです。

こうように、天武天皇の時代に成立した政治体制は、現在の霞ヶ関の省や庁、官僚制度のルーツとなっているわけですね。

【次回は8月2日(月)、03 「日本」の出現、Y=天武天皇の2回目です】


03「日本」の出現 (X=天智天皇 その2) 天智天皇の国防構想

2004年07月26日 | 03 「日本」の出現
乙巳(いっし)の変(=大化改新の始まり)のあと、天皇は斉明天皇という女帝に移ります。斉明天皇は中大兄皇子、すなわち天智天皇の母親で、孝徳天皇に譲位するまで皇極(こうぎょく)天皇として皇位についていたんですね。斉明天皇と中大兄皇子は政治の本拠を飛鳥の地に戻し、壮麗な宮殿をつくったといわれます。

近年発掘された遺跡でも、その不思議な造作が大変注目されていますが、宮殿は水の仕掛けをふんだんに使ったものらしい。このような壮大な建築で天皇家の権威を全国的に広めたのでは、と考えられているんですね。

しかし、ここで唐と高句麗・新羅・百済の三国をめぐって緊張していた朝鮮半島の情勢が一段と複雑に変動します。
唐は新羅と結んで、今度は百済を攻める。百済は倭国との同盟を求めて、以前から王子の余豊璋(よほうしょう)を人質として日本に送っていました。倭国は遣唐使を派遣して唐と調停を図ったりもしますが、660年、百済は突然黄海を渡って現れた唐の水軍によって、あえなく滅ぼされてしまいます。

しかし、唐の統治に対して百済の有力貴族らは反乱軍を結成し、倭国にも王子の送還と救援の軍を要請します。それに答えて中大兄皇子は斉明天皇とともに飛鳥を出て、軍隊を率いて、筑紫(九州)へ移るんですね。

筑紫へは、各地で武器を調達し、兵を集めながらの長旅となりました。同行者には大海人皇子(おおあまのみこ)、額田王(ぬかたのおおきみ)、中臣鎌足ら政界の主要メンバーと多数の従者です。まるで飛鳥から筑紫への遷都とも考えられる大移動となりました。

しかし、福岡県の朝倉宮に来て2カ月後、斉明天皇は68歳で急死してしまいます。中大兄皇子は皇太子として喪(も)に服したまま、戦いの指揮をとり、662年、王子・余豊璋(よほうしょう)に5千人の兵をつけて朝鮮半島へ送りました。
帰国した豊璋は新たな百済王として有利に戦いを進めますが、翌663年、百済軍の内紛により一挙に弱体化し、あせった中大兄皇子は2万7千人の軍を送ります。

こうして倭国・百済連合軍と唐・新羅の連合軍が激突することになりました。白村江(はくそんこう)河口で行われた2日間の海戦で、唐・新羅軍の挟み撃ちにあった倭国・百済軍は軍船400隻を焼失、大敗します。これが古代史に残る白村江の戦いですね。日本の最初の国際戦争は最大の敗戦となったのです。

百済王(豊璋)は逃亡し、ここに百済は完全に滅亡します。倭国が朝鮮半島にもっていたさまざまな拠点からの撤退も余儀なくされた。さらに対馬海峡の対岸まで、唐の領地になってしまった中で、倭国は唐・新羅連合軍の進軍に対して、急きょ防衛体制を整える必要に迫られました。

そこで中大兄皇子は、百済からの亡命者がもたらした技術を用いて、九州から瀬戸内海にかけて、戦略拠点に朝鮮式の山城(やまじろ)をたくさん造ります。また、博多湾からの上陸軍を防止する水城(みずき)を築き、防衛拠点となる大宰府(だざいふ)を整備する。さらにこれらの防備に必要な兵力を確保するため、防人(さきもり)の制度を定めるんですね。

667年には、都を飛鳥から近江大津宮に移しました。日本海、瀬戸内海からの攻撃に備える要衝(ようしょう)です。ここで中大兄皇子は天智天皇に即位するわけです。

天智天皇はこの近江の地で、西国を中心に広い海岸線の防備を固めるという国造りを進めました。そのとき必要になるのは何でしょうか? 多数の人々を組織的に、強力にまとめて国力を増大することですね。大化改新で示された中央集権国家がさらに徹底されることだったのです。

ただし、これまで地域の運営主体だった豪族の反発は当然強かった。そこで、近江遷都は豪族たちの勢力が強かった飛鳥の地から離れるという意味もあったのですね。

こうして天智天皇が中央集権国家の象徴的な制度として670年につくったのが、庚午年籍(こうごねんじゃく)です。これはすべての国民を豪族の使役者ではなく、国家の一員として登録する台帳です。現在の戸籍の基礎となりました。大化改新のときに掲げた「公地公民」が形となったんですね。

遺跡の発掘などから、この統一的な戸籍は、少なくとも九州から関東まで実施されていたことがわかってきたようです。戸籍によって村落を把握するためには体系的な法律が必要ですね。それが「近江令(おうみりょう)」であったといわれています。近江令がほんとうに発布されたかは確認されていませんが、実際の戸籍制度施行を支えた統一的な法体系はあったということですね。

遷都から4年後、671年に天智天皇は近江大津宮で病気により没します。天智天皇は国際戦争という場面をへて、国をまとめる方向を探っていたリーダーでしたが、このとき、まだ国の形が完全に定まっていません。そこで中央集権を進めるか、豪族の連合国家の形をのこすかをめぐって、今度は倭国全体が二つに分かれて戦うことになったのです。それが古代最大の内乱、壬申(じんしん)の乱の勃発です。

では、次回、その1カ月にわたる激戦をお話ししましょう。

【次回は7月29日(木)、03 「日本」の出現、Y=天武天皇の1回目です】