万葉から、平安時代へ。日本の言葉を書き表す新たな方法がいよいよ開かれます。905年ごろ成立した(同年に編纂を開始した、ともいわれます)『古今和歌集』にそれが見て取れる。『古今和歌集』とは、最初の勅撰和歌集、天皇の命令によって編まれた歌集ですね。この歌集には、実はちょっと変わった点がありました。いったいそれはなんでしょうか?
『古今和歌集』には序文が2つもついているんです。一つは「真名序(まなじょ)」、真名、漢文で書いた序文です。もう一つが「仮名序」、平仮名だけで書いてある。『古今和歌集』は仮名で書かれたので、通常の漢文のほかに仮名の序文をつけたんですね。つまり、10世紀初頭、新しい仮名フォントが公にも使用されるほど確立したんです。『古今和歌集』の漢字、平仮名の序文は、ほぼ同じ内容ですが、微妙に違っている。じつはこの、漢字と仮名で表すときに生まれる微妙な差こそが、日本に新しい平仮名文化、王朝文化、女房文化を形づくることになっていきます。
ちょっとここで、タカハシ君が詳しく話している『万葉集』の歌の種類の話をぜひ読んでみてください。そこにあるように、五七五・七七の和歌が日本人の心を託す和歌となっていったのですが、奈良時代以降、漢詩におされていったんです。とくに桓武天皇が立つと中国化政策が進められ、宮廷文学の中心が漢詩になってくる。平安京に遷都した直後に『凌雲集』や『文華秀麗集』といった漢詩集が編集されます。官吏の登用試験も漢文になる。いわば政府が使う文字がみんな英語になってしまったようなものですね。
すると、和歌は、この漢化政策に対抗する一種のサロンで歌われたり、あるいは公の場から外れた女性たちや山中の聖(ひじり)たちの文学になっていきます。古今和歌集の仮名序には、「近き世に名の聞こえた歌人」と、優れた和歌の作り手だった6人が挙げられている。後に、六歌仙(ろっかせん)と呼ばれたこの歌人は、僧正遍昭(へんじょう)、在原業平(ありわらのなりひら)、文屋康秀(ふんやのやすひで)、喜撰(きせん)法師、大伴黒主(おおとものくろぬし)、そして、あの小野小町(おののこまち)ですね。
六歌仙が活躍した時代は、藤原良房がライバルを蹴落とし、摂関政治を開始したころです。漢風を重んじたその宮廷の中で、六歌仙の在原業平らのグループが和歌を支えて、和風の文化を育んでいたのです。しかし、いずれも藤原氏の勢力拡大の影で、失意の時代を過ごすことになる。
そこにあらわれたのが宇多天皇と菅原道真ですね。前にお話ししたように、道真は遣唐使の派遣を止め、政治・経済・文化ともに大陸から離れ、独自の道を歩もうとした。中国人が絶賛したほどの漢詩の達人ながら、和歌にも優れていた道真は、宮廷文学を漢詩から和歌へ移す大胆な試みを実践したのです。道真は歌会、歌合(うたあわせ)を催すことで、いがみ合う貴族たちの心をまとめ、和歌を貴族の文学としていこうとします。『新撰万葉集』という和歌集も編集している。道真は左遷されましたが、その意思は、こんな形で残されていくことになります。
和歌の面白いところは、問いと答えの歌とか、お互いのやりとりの歌といった対のメディアでもあることなんですね。これが二首で一対の合わせ、歌合になった。歌合は、「右」と「左」というグループに分かれた歌詠みたちがそれぞれおもしろい歌を出して、判者が優劣を判定するというものです。道真の時代からあと、宮廷はこの歌合にこそ、真に熱中していったんですね。
村上天皇が960年(天徳4年)に開いた天徳内裏歌合などは、まさに絢爛豪華な一大歌合として言い伝えられています。しかし、歌合は、道真の意図を越えて、政治の派閥争いにもなっていった。このとき、左方の公卿が藤原氏、右方の公卿が源氏でした。当時政界で覇権を争っていた両氏の戦いになったのです。負けるわけにいかない両陣営は、最高の歌を作る歌人をそろえます。トリの勝負には、藤原氏は壬生忠見(みぶのただみ)、源氏は平兼盛(かねもり)の歌が登場した。両方とものちに百人一首にも選ばれるほどの出来でした。
左「恋すてふ我が名はまだき立ちにけり 人知れずこそ思いそめしか」(忠見)
右「忍ぶれど色にいでにけり我が恋は ものや思ふと人の問ふまで」(兼盛)
和歌史上に残るこの名勝負は兼盛に軍配が上がり、壬生忠見はそれを苦にして命まで落としてしまったと伝わるほどなんですね。
『古今和歌集』はこういう和歌がもった技法とか仕組みを、非常にうまく生かして編まれていたんです。その編者の中心が紀貫之(きのつらゆき)です。この紀貫之がまさに天才でした。紀貫之こそ日本文化をつくった立役者だとも言えます。それはどんな方法だったのでしょうか?
20巻、1100首の歌を、春夏秋冬の並びから、恋、別れ、旅などのテーマ別にまとめた編集構造としたんですね。四季の歌と、恋の歌が中心です。こういう古今集の構成の仕方を部立(ぶだて)と言います。コンテンツをあるインターネット的に言うとポータルにして、その目次を押すと歌が出てくる。それを上手につくったわけですね。このあと勅撰和歌集は21集が編纂されますが、この『古今和歌集』の編集構造が長く規範のスタイルとされたのです。
この『古今和歌集』の特徴を『万葉集』との違いからみると、さらに興味深い。たとえば『万葉集』は「見る」こと、「みゆ」「ながむ」「ながめる」という言葉が多かったんです。対して『古今和歌集』は「思う」「思ほゆ」という言葉が圧倒的に多い。これはつまりイメージの中でこう思った、という歌です。今は冬だけれど春を思うとか、庭で空を見て旅を思う、というような歌が詠まれるようになる。すると、部立の春、旅などのイメージのカテゴリー(範疇)がとても有効になるのですね。
また、和歌には、「枕詞(まくらことば)」がある。たとえば「たらちねの」と読むと「母」が引き出され、「ひさかたの」というと「光」が出てくるという、まるでパスワードのような言葉です。また、歌の末尾について、独特の語感を生みだす「こそ」「けれ」「ぞ」「ぬ」などの「係り結び」という言葉の仕組みもある。イメージを非常に大切にする和歌のこれらの特性は、不思議な言葉のデータベース、日本語の新しいアーカイブをつくりだし、日本語そのものに大きな影響を与えていくんですね。
【次回は9月21日(火)、05 真名から仮名へ、Y=古今和歌集の2回目です】
『古今和歌集』には序文が2つもついているんです。一つは「真名序(まなじょ)」、真名、漢文で書いた序文です。もう一つが「仮名序」、平仮名だけで書いてある。『古今和歌集』は仮名で書かれたので、通常の漢文のほかに仮名の序文をつけたんですね。つまり、10世紀初頭、新しい仮名フォントが公にも使用されるほど確立したんです。『古今和歌集』の漢字、平仮名の序文は、ほぼ同じ内容ですが、微妙に違っている。じつはこの、漢字と仮名で表すときに生まれる微妙な差こそが、日本に新しい平仮名文化、王朝文化、女房文化を形づくることになっていきます。
ちょっとここで、タカハシ君が詳しく話している『万葉集』の歌の種類の話をぜひ読んでみてください。そこにあるように、五七五・七七の和歌が日本人の心を託す和歌となっていったのですが、奈良時代以降、漢詩におされていったんです。とくに桓武天皇が立つと中国化政策が進められ、宮廷文学の中心が漢詩になってくる。平安京に遷都した直後に『凌雲集』や『文華秀麗集』といった漢詩集が編集されます。官吏の登用試験も漢文になる。いわば政府が使う文字がみんな英語になってしまったようなものですね。
すると、和歌は、この漢化政策に対抗する一種のサロンで歌われたり、あるいは公の場から外れた女性たちや山中の聖(ひじり)たちの文学になっていきます。古今和歌集の仮名序には、「近き世に名の聞こえた歌人」と、優れた和歌の作り手だった6人が挙げられている。後に、六歌仙(ろっかせん)と呼ばれたこの歌人は、僧正遍昭(へんじょう)、在原業平(ありわらのなりひら)、文屋康秀(ふんやのやすひで)、喜撰(きせん)法師、大伴黒主(おおとものくろぬし)、そして、あの小野小町(おののこまち)ですね。
六歌仙が活躍した時代は、藤原良房がライバルを蹴落とし、摂関政治を開始したころです。漢風を重んじたその宮廷の中で、六歌仙の在原業平らのグループが和歌を支えて、和風の文化を育んでいたのです。しかし、いずれも藤原氏の勢力拡大の影で、失意の時代を過ごすことになる。
そこにあらわれたのが宇多天皇と菅原道真ですね。前にお話ししたように、道真は遣唐使の派遣を止め、政治・経済・文化ともに大陸から離れ、独自の道を歩もうとした。中国人が絶賛したほどの漢詩の達人ながら、和歌にも優れていた道真は、宮廷文学を漢詩から和歌へ移す大胆な試みを実践したのです。道真は歌会、歌合(うたあわせ)を催すことで、いがみ合う貴族たちの心をまとめ、和歌を貴族の文学としていこうとします。『新撰万葉集』という和歌集も編集している。道真は左遷されましたが、その意思は、こんな形で残されていくことになります。
和歌の面白いところは、問いと答えの歌とか、お互いのやりとりの歌といった対のメディアでもあることなんですね。これが二首で一対の合わせ、歌合になった。歌合は、「右」と「左」というグループに分かれた歌詠みたちがそれぞれおもしろい歌を出して、判者が優劣を判定するというものです。道真の時代からあと、宮廷はこの歌合にこそ、真に熱中していったんですね。
村上天皇が960年(天徳4年)に開いた天徳内裏歌合などは、まさに絢爛豪華な一大歌合として言い伝えられています。しかし、歌合は、道真の意図を越えて、政治の派閥争いにもなっていった。このとき、左方の公卿が藤原氏、右方の公卿が源氏でした。当時政界で覇権を争っていた両氏の戦いになったのです。負けるわけにいかない両陣営は、最高の歌を作る歌人をそろえます。トリの勝負には、藤原氏は壬生忠見(みぶのただみ)、源氏は平兼盛(かねもり)の歌が登場した。両方とものちに百人一首にも選ばれるほどの出来でした。
左「恋すてふ我が名はまだき立ちにけり 人知れずこそ思いそめしか」(忠見)
右「忍ぶれど色にいでにけり我が恋は ものや思ふと人の問ふまで」(兼盛)
和歌史上に残るこの名勝負は兼盛に軍配が上がり、壬生忠見はそれを苦にして命まで落としてしまったと伝わるほどなんですね。
『古今和歌集』はこういう和歌がもった技法とか仕組みを、非常にうまく生かして編まれていたんです。その編者の中心が紀貫之(きのつらゆき)です。この紀貫之がまさに天才でした。紀貫之こそ日本文化をつくった立役者だとも言えます。それはどんな方法だったのでしょうか?
20巻、1100首の歌を、春夏秋冬の並びから、恋、別れ、旅などのテーマ別にまとめた編集構造としたんですね。四季の歌と、恋の歌が中心です。こういう古今集の構成の仕方を部立(ぶだて)と言います。コンテンツをあるインターネット的に言うとポータルにして、その目次を押すと歌が出てくる。それを上手につくったわけですね。このあと勅撰和歌集は21集が編纂されますが、この『古今和歌集』の編集構造が長く規範のスタイルとされたのです。
この『古今和歌集』の特徴を『万葉集』との違いからみると、さらに興味深い。たとえば『万葉集』は「見る」こと、「みゆ」「ながむ」「ながめる」という言葉が多かったんです。対して『古今和歌集』は「思う」「思ほゆ」という言葉が圧倒的に多い。これはつまりイメージの中でこう思った、という歌です。今は冬だけれど春を思うとか、庭で空を見て旅を思う、というような歌が詠まれるようになる。すると、部立の春、旅などのイメージのカテゴリー(範疇)がとても有効になるのですね。
また、和歌には、「枕詞(まくらことば)」がある。たとえば「たらちねの」と読むと「母」が引き出され、「ひさかたの」というと「光」が出てくるという、まるでパスワードのような言葉です。また、歌の末尾について、独特の語感を生みだす「こそ」「けれ」「ぞ」「ぬ」などの「係り結び」という言葉の仕組みもある。イメージを非常に大切にする和歌のこれらの特性は、不思議な言葉のデータベース、日本語の新しいアーカイブをつくりだし、日本語そのものに大きな影響を与えていくんですね。
【次回は9月21日(火)、05 真名から仮名へ、Y=古今和歌集の2回目です】
もちろん、小学生で、それほど理解していたと思えないんですけど・・・
絵が上手に描けてたので、校長室に飾ってもらってました。
桜が散ってる絵を描いたんですけど。
小学生の私、なにが心の琴線に引っかかって(笑)
あの絵を描いたのかなって今思います。
何世紀も超えて、小学生に心が
伝わっていたのだとしたら
それはやっぱり凄い力だと思いました。
日本語フォントの力ですね。
日本のうたって、ひらがなと漢字の力によって
イメージが膨らむと思うんやけど
そういう日本語フォントの芸術性って、
このあたりで確立されてきたんやね。
ハー、勉強になりました。
Regards,