東北遠征ツアー二日目は、被災地の見学をさせて頂きました。
みなさんに是非今の現状を知っていただきたくアップ致しますが、写真については
後半よりショッキングなものも含まれる事を、ご了承くださいませ。
写真集はこちらから。
2015年6月19日 被災地を訪れて。
高平小学校で鑑賞授業を終え、バスでまず向かったのは、福島県相馬郡小高町という場所。
山間を両手に見ながら、国道を南に向かいます。
車窓から見る風景は一面の草むら。みな元は畑や田んぼだったところが
放射能汚染によって使えなくなり、今は荒れ放題の草地に。
更地になっている場所では除染作業が行われていました。雨天にも関わらずクレーン車を
使っての除染作業、表土をえぐり取って黒い専用の袋に1t単位で詰めていき、積み重ねて保存。
除染作業現場の傍らには、黒い袋が無数に積み上げられ回収待ち、そんな光景が
いたるところで見られます。ただ感じられるのは、作業の手があまりにも少ない印象。
放射線量の単位は、mSv(マイクロシーベルト)で表記されますが、
日本に住む私たちの日常での数値は、0.08mSv/時間~0.09mSv/時間くらいまで。
これは自然界での一般的な数値だそう。詳しくは、"放射線量と健康"で検索してみてくださいね。
乗車時測定器は、0.3mSvを表しています。移動しているとだんだん上がっていき
0.4…0.6~1.0を超える場所まで。
除染作業が進んでいる場所を通ると、数値が下がります。0.08mSvに落ち着く場所もあります。
福島県は原発から半径20km以内を、警戒区域として指定。国道から見える民家は、
そのほとんどが今は空き家同然。一年間で浴びる放射線量と健康被害を考えると、
一日の半分だけしか家に居てはいけない、そんな地域。
被災して4年が経った今、避難先が現在の生活基盤になってくると職場や学校・日々の買い物等、
整備された場所に変わってしまうのは当然なのでしょう、家はあるが帰る場所ではないといった
状況。家によってはローンだけが残ってなんて悲惨な方も、たくさんいらっしゃるで事しょう。
農家を営んでいた方々にとっては死活問題の大打撃。除染が終わった畑や田んぼでは、作物作り
を始めた農家も見当たります。でも除染が終わり平常数値にになったとしても、福島産という
だけで飼料用でしか売れない上、取引値は他府県産の半値以下って事になってしまいます。
著名な学者が、"除染後の土地で作った作物は大丈夫!"って証明でもしてくれ、それをマスコミが
大々的に言ってくれればもっと復興も進むのに、報道ってのはマイナスな事はどんどん言うけれど、
改善されてきた事に関しては、力を入れてくれない(鑑賞授業に行った小学校の校長先生談)と
嘆いておられました。
小高町に到着後町を散策。このあたりにまでの津波被害はなかったものの、地震被害による爪痕は
いろんな場所で見られました。中にはグチャグチャのまま放置の家も。
時間帯は真っ昼間だってのに、人っ子一人いない。たまに車が通り過ぎるだけで、人が誰もいない。
家はあるが誰も帰って来ない町、そんな"誰もいない町"のスピーカーからエンドレスで流れる
サザンオールスターズ。
普段ならカラオケで、大盛り上がりで楽しむはずの曲、こんなシチュエーションで聴くと、
あまりに突き刺さる。せめて音楽ぐらい流し続けないと、"本物のゴーストタウン"になって
しまうから…、とのことでした。
小高町散策後向かったのは、福島県双葉郡富岡町。
ここで市の職員の方と合流、先々の案内をお願いしました。
向かう途中たくさんの綺麗なお家が。この辺りは言わば"原発で潤った町"。解りやすく言えば、
原発建設の際住民に理解を得る為お金が積まれた、建設後様々な雇用が生れ人が集まり、
流通も盛んに。原発が出来た事によって栄えた町。なのに今は無人、本当に皮肉なものです。
最初に案内していただいたのは工業団地、地元では桜並木で有名な場所。
今は立ち入り禁止区域として閉鎖、警官が通行許可証をチェックしてゲートを通してくれます。
奥へ進んでいくと更にゲートが。そこから先は避難された方が年間の合計、
"50日間しか帰る事を許されない地域"。放射線料50mSv超えの看板が立っています。
さすがにそこから先は立ち入らず(一応訊かれましたが)。
そこからは双葉署横の公園に保存されている、パトカーを見学に。
災害発生時、最後まで市民の誘導を続けた二人の警察官を讃え、無惨な形になったパトカーが
保存されています。詳しくは、"相馬署のパトカー展示"で検索してみてくださいね。
改めて津波被害の恐ろしさに身震いしたのと同時に、お二人の勇気ある職務全うに敬意を表し、
献花させていただきました。
最後は港の方に行ってみましょう、との事で福島第二原発が目と鼻の先の場所へ。
途中車窓から見る光景は、広大な更地。以前は民家が密集していた場所。地震・津波・放射能
という三重苦に増して、塩害も大きな打撃。除染をしても塩分濃度が濃い土壌では何も育たない。
土そのものを入れ替えなければならないような土地が、広大に残っています。
そして"もと港町"に到着。ここは災害当時の状態が、そのまま残っています。
倒壊の恐れがある建物だらけなので、もちろん立ち入り禁止区域。写真をご覧頂ければ壮絶さが
よりお解りいただけます。海の方に移動すると、粉々になったコンクリートの防波堤が。
砕けた防波堤の向こうには太平洋が。
原発の広大な土地には、圏内様々な場所から運び込まれた除染作業によって詰められた"汚染土"が、
大量に積まれています。ここで種分けして、汚染されていないものは消却。
汚染されている土は、施設で永久保存されるとの事。将来は受け入れ先の問題で、揉める事になる
のでしょうね…。一日500tの焼却が可能で、1t詰めの袋が一日500個ずつ処理されていってます。
万が一また大きな津波が来て、これら大量の汚染土が流出でもしないことを祈るばかりです。
除染作業終了後、故郷に帰ってきたいかどうかの住民へのアンケート結果では、
老人のほとんどは帰ってきたい(余生を故郷で送りたい)と答えているのに対し、若者や子育て中の
年代の方々のほとんどは、もう戻らないと答えているそう。このままではたとえ除染が終わっても
悲観的な未来しか想像出来ないところが悲しい。
平成29年、住民が全面的に帰還出来るよう、除染作業が行われているとはいえ、
現在行われているのは居住地区の土地。それを終わらせてから、人が出入りする山林の除染。
でも実際のところ、その山林の面積は広大でとても全てを除染するのが不可能なんてのは明白。
事実上妥協って目に見えてる。市の職員・原発の職員でさえ、子供の頃には学校の課外授業で
原発に見学に来たり、原発って絶対安全だって教えて育てられたので、すべての人にとって
まさに想定外の出来事。
たしかに便利である事には変わりなくても、何か起こったときには取り返しのつかない事になる、
利権者たちの金儲けだけしか頭に無い、バカな大博打はもう止めさせて、全ての原発を廃炉に
する方向で進んでほしいと心から願うばかりです。
今回立ち入り禁止区域も含めた様々な場所を、案内していただき見学できたことは、
本当に貴重な経験です。この事を文章にしているだけで、光景が目に浮かび涙が滲みます。
高平小学校に、鑑賞授業のお話を頂いたのが昨年の事。
関西大学政策創造学部、准教授橋口勝利先生は天満音楽祭の実行委員。ご自身のゼミでの課題で、
毎年復興に向けての調査を続けていらっしゃる関係で、現地の見学にも同行
させていただく事が出来ました。
私は"いちミュージシャン"です。復興への直接的な支援など出来ません。
せめてチャリティコンサートを企画して、みなさんの協力を募ること意外に浮かびません。
今回仮設住宅のおじいちゃん・おばあちゃんや小学校の子供たちから先生まで、
音楽を通して笑顔になっていただき、明日への活力に繋げる"心のお手伝い"をすることが
私の目標でした。可能ならば毎年参加させていただき、出来る事を協力させていただき、
この目で復興を確認しながら体感した事を、遠く離れたこちらで報告していく事が出来ればと
思っています。
音楽の力って大きいです。時には歌詞の内容が人の人生に大きく影響したりもします
(私もその一人です)。作る側・発信する側の人間として、自分の生み出す作品・イベント企画
には、想いと責任を持って取り組みたいと感じ、まずは自分の心の中から!
そんな思いで、今回かなりDEEPな場所まで同行させていただいたのでした。
事故が起こって4年が経ち、遠く離れた場所の人の心からはいつしか過去の出来事として、
印象も薄らいできているのではないでしょうか。自分もその一人でした。でも実際にこの目で見て
体感して、まだまだ全然終わっちゃいない、もっともっといろんな人に知ってもらった方がいい。
引き続き国を挙げての復興支援は、"最優先事項として必要"。そう感じ、今回皆さんの目に触れる
機会を作らせていただきました。今回自分たちの地元発信でお伝えしたい事はありますか?
との問いに、私たちは今精一杯頑張っています。見てお感じになった事・体感された事をそのまま
伝えていただければとのことでしたので、思ったまま書かせていただきました。
一日も早く住民の方々が戻って来れて、"普通の当たり前の生活"が出来るようになる事を、
心より願って止みません。
長文にも関わらず、最後まで読んでいただき本当にありがとうございます。
中川誠十郎
写真集はこちらから。
2015年6月19日 被災地を訪れて。
みなさんに是非今の現状を知っていただきたくアップ致しますが、写真については
後半よりショッキングなものも含まれる事を、ご了承くださいませ。
写真集はこちらから。
2015年6月19日 被災地を訪れて。
高平小学校で鑑賞授業を終え、バスでまず向かったのは、福島県相馬郡小高町という場所。
山間を両手に見ながら、国道を南に向かいます。
車窓から見る風景は一面の草むら。みな元は畑や田んぼだったところが
放射能汚染によって使えなくなり、今は荒れ放題の草地に。
更地になっている場所では除染作業が行われていました。雨天にも関わらずクレーン車を
使っての除染作業、表土をえぐり取って黒い専用の袋に1t単位で詰めていき、積み重ねて保存。
除染作業現場の傍らには、黒い袋が無数に積み上げられ回収待ち、そんな光景が
いたるところで見られます。ただ感じられるのは、作業の手があまりにも少ない印象。
放射線量の単位は、mSv(マイクロシーベルト)で表記されますが、
日本に住む私たちの日常での数値は、0.08mSv/時間~0.09mSv/時間くらいまで。
これは自然界での一般的な数値だそう。詳しくは、"放射線量と健康"で検索してみてくださいね。
乗車時測定器は、0.3mSvを表しています。移動しているとだんだん上がっていき
0.4…0.6~1.0を超える場所まで。
除染作業が進んでいる場所を通ると、数値が下がります。0.08mSvに落ち着く場所もあります。
福島県は原発から半径20km以内を、警戒区域として指定。国道から見える民家は、
そのほとんどが今は空き家同然。一年間で浴びる放射線量と健康被害を考えると、
一日の半分だけしか家に居てはいけない、そんな地域。
被災して4年が経った今、避難先が現在の生活基盤になってくると職場や学校・日々の買い物等、
整備された場所に変わってしまうのは当然なのでしょう、家はあるが帰る場所ではないといった
状況。家によってはローンだけが残ってなんて悲惨な方も、たくさんいらっしゃるで事しょう。
農家を営んでいた方々にとっては死活問題の大打撃。除染が終わった畑や田んぼでは、作物作り
を始めた農家も見当たります。でも除染が終わり平常数値にになったとしても、福島産という
だけで飼料用でしか売れない上、取引値は他府県産の半値以下って事になってしまいます。
著名な学者が、"除染後の土地で作った作物は大丈夫!"って証明でもしてくれ、それをマスコミが
大々的に言ってくれればもっと復興も進むのに、報道ってのはマイナスな事はどんどん言うけれど、
改善されてきた事に関しては、力を入れてくれない(鑑賞授業に行った小学校の校長先生談)と
嘆いておられました。
小高町に到着後町を散策。このあたりにまでの津波被害はなかったものの、地震被害による爪痕は
いろんな場所で見られました。中にはグチャグチャのまま放置の家も。
時間帯は真っ昼間だってのに、人っ子一人いない。たまに車が通り過ぎるだけで、人が誰もいない。
家はあるが誰も帰って来ない町、そんな"誰もいない町"のスピーカーからエンドレスで流れる
サザンオールスターズ。
普段ならカラオケで、大盛り上がりで楽しむはずの曲、こんなシチュエーションで聴くと、
あまりに突き刺さる。せめて音楽ぐらい流し続けないと、"本物のゴーストタウン"になって
しまうから…、とのことでした。
小高町散策後向かったのは、福島県双葉郡富岡町。
ここで市の職員の方と合流、先々の案内をお願いしました。
向かう途中たくさんの綺麗なお家が。この辺りは言わば"原発で潤った町"。解りやすく言えば、
原発建設の際住民に理解を得る為お金が積まれた、建設後様々な雇用が生れ人が集まり、
流通も盛んに。原発が出来た事によって栄えた町。なのに今は無人、本当に皮肉なものです。
最初に案内していただいたのは工業団地、地元では桜並木で有名な場所。
今は立ち入り禁止区域として閉鎖、警官が通行許可証をチェックしてゲートを通してくれます。
奥へ進んでいくと更にゲートが。そこから先は避難された方が年間の合計、
"50日間しか帰る事を許されない地域"。放射線料50mSv超えの看板が立っています。
さすがにそこから先は立ち入らず(一応訊かれましたが)。
そこからは双葉署横の公園に保存されている、パトカーを見学に。
災害発生時、最後まで市民の誘導を続けた二人の警察官を讃え、無惨な形になったパトカーが
保存されています。詳しくは、"相馬署のパトカー展示"で検索してみてくださいね。
改めて津波被害の恐ろしさに身震いしたのと同時に、お二人の勇気ある職務全うに敬意を表し、
献花させていただきました。
最後は港の方に行ってみましょう、との事で福島第二原発が目と鼻の先の場所へ。
途中車窓から見る光景は、広大な更地。以前は民家が密集していた場所。地震・津波・放射能
という三重苦に増して、塩害も大きな打撃。除染をしても塩分濃度が濃い土壌では何も育たない。
土そのものを入れ替えなければならないような土地が、広大に残っています。
そして"もと港町"に到着。ここは災害当時の状態が、そのまま残っています。
倒壊の恐れがある建物だらけなので、もちろん立ち入り禁止区域。写真をご覧頂ければ壮絶さが
よりお解りいただけます。海の方に移動すると、粉々になったコンクリートの防波堤が。
砕けた防波堤の向こうには太平洋が。
原発の広大な土地には、圏内様々な場所から運び込まれた除染作業によって詰められた"汚染土"が、
大量に積まれています。ここで種分けして、汚染されていないものは消却。
汚染されている土は、施設で永久保存されるとの事。将来は受け入れ先の問題で、揉める事になる
のでしょうね…。一日500tの焼却が可能で、1t詰めの袋が一日500個ずつ処理されていってます。
万が一また大きな津波が来て、これら大量の汚染土が流出でもしないことを祈るばかりです。
除染作業終了後、故郷に帰ってきたいかどうかの住民へのアンケート結果では、
老人のほとんどは帰ってきたい(余生を故郷で送りたい)と答えているのに対し、若者や子育て中の
年代の方々のほとんどは、もう戻らないと答えているそう。このままではたとえ除染が終わっても
悲観的な未来しか想像出来ないところが悲しい。
平成29年、住民が全面的に帰還出来るよう、除染作業が行われているとはいえ、
現在行われているのは居住地区の土地。それを終わらせてから、人が出入りする山林の除染。
でも実際のところ、その山林の面積は広大でとても全てを除染するのが不可能なんてのは明白。
事実上妥協って目に見えてる。市の職員・原発の職員でさえ、子供の頃には学校の課外授業で
原発に見学に来たり、原発って絶対安全だって教えて育てられたので、すべての人にとって
まさに想定外の出来事。
たしかに便利である事には変わりなくても、何か起こったときには取り返しのつかない事になる、
利権者たちの金儲けだけしか頭に無い、バカな大博打はもう止めさせて、全ての原発を廃炉に
する方向で進んでほしいと心から願うばかりです。
今回立ち入り禁止区域も含めた様々な場所を、案内していただき見学できたことは、
本当に貴重な経験です。この事を文章にしているだけで、光景が目に浮かび涙が滲みます。
高平小学校に、鑑賞授業のお話を頂いたのが昨年の事。
関西大学政策創造学部、准教授橋口勝利先生は天満音楽祭の実行委員。ご自身のゼミでの課題で、
毎年復興に向けての調査を続けていらっしゃる関係で、現地の見学にも同行
させていただく事が出来ました。
私は"いちミュージシャン"です。復興への直接的な支援など出来ません。
せめてチャリティコンサートを企画して、みなさんの協力を募ること意外に浮かびません。
今回仮設住宅のおじいちゃん・おばあちゃんや小学校の子供たちから先生まで、
音楽を通して笑顔になっていただき、明日への活力に繋げる"心のお手伝い"をすることが
私の目標でした。可能ならば毎年参加させていただき、出来る事を協力させていただき、
この目で復興を確認しながら体感した事を、遠く離れたこちらで報告していく事が出来ればと
思っています。
音楽の力って大きいです。時には歌詞の内容が人の人生に大きく影響したりもします
(私もその一人です)。作る側・発信する側の人間として、自分の生み出す作品・イベント企画
には、想いと責任を持って取り組みたいと感じ、まずは自分の心の中から!
そんな思いで、今回かなりDEEPな場所まで同行させていただいたのでした。
事故が起こって4年が経ち、遠く離れた場所の人の心からはいつしか過去の出来事として、
印象も薄らいできているのではないでしょうか。自分もその一人でした。でも実際にこの目で見て
体感して、まだまだ全然終わっちゃいない、もっともっといろんな人に知ってもらった方がいい。
引き続き国を挙げての復興支援は、"最優先事項として必要"。そう感じ、今回皆さんの目に触れる
機会を作らせていただきました。今回自分たちの地元発信でお伝えしたい事はありますか?
との問いに、私たちは今精一杯頑張っています。見てお感じになった事・体感された事をそのまま
伝えていただければとのことでしたので、思ったまま書かせていただきました。
一日も早く住民の方々が戻って来れて、"普通の当たり前の生活"が出来るようになる事を、
心より願って止みません。
長文にも関わらず、最後まで読んでいただき本当にありがとうございます。
中川誠十郎
写真集はこちらから。
2015年6月19日 被災地を訪れて。