・ 【結構レトロでマイナー建物ですが有料でした】
最初から造船博物館を建てた訳ではないと思います、多分昔は何かの施設だったと思います、
戸田湾をくるっと取り巻く最奥部で、鳥居や神社が建っていました、堅牢な建物ですから再利用したのではと
勘ぐりたくなりますが、誰も来ません、おそらく本日たった一人の来館者である筈ですが、受付の人の応対は親切でした
博物館ですから学芸員や沼津市の職員も動員されています
・ 【ロシアの難破船デイアナ号の錨です】
何度も聞かされております!
「ディアナ(フリゲート、1853年)富士市でモニュメントとして展示されている錨
1853年建造のロシア軍艦ディアナ号は、フリゲートに分類される帆船である
1854年(安政元年)、日露和親条約締結交渉のためエフィム・プチャーチンの乗艦として
箱館・大坂を経て下田を訪れた際、安政東海地震による津波で大破、宮島村(現、富士市)沖で沈没。
プチャーチンは、乗員の帰国のためアレクサンドル・モジャイスキーらの指導で
日本の造船工により帆船「ヘダ号」を建造。日本の造船工に洋式造船技術が伝わるきっかけとなった。
二つあったの錨のうち、一つは昭和29年に引き上げられ、沼津市立造船郷土資料博物館に
関連資料とともに展示。もう一つは昭和51年に引き上げられ、富士市宮島の緑道公園で
プチャーチン像とともに展示されている。」
僕が間違っておりました、沈んだのは富士市沖で、戸田号を建造したのでした
(戸田村ではなく沼津市戸田地区ですね)
こういうものは掘り下げれば庶民の生活にまでたどり着けます
・ 【色んな年表が表示されています】
展示物が全てガラスショーケースに納まりますが、デジカメで撮影する時は障害にしかなりません
・ 【難破した船の乗組員を漁師の奥様たちが人肌で暖めました】
この事実が本当にあったのか、僕の判断は微妙になっています、記憶というものは
時が経てば帰ってより鮮明に蘇り、悲劇であれば人道上の加工もされて浮かび上がります
(安政の大地震で船が沈んだ記憶が違っております、人肌で暖めたのは別の事件かもしれません)
・ 【和船;弁才船の模型です】
弁才船
「江戸幕府は1635年に500石以上の船を禁止し没収したが、3年後には商船については
例外として許可した。しかしながら鎖国政策の為、外洋航行の必要は無く、内海・沿岸航海用に改良がされた
弁才船の隆盛は18世紀中頃に行われた合理化を要因としている。それまでの廻船は
帆走・櫓漕兼用という中世的な要素を色濃く引きずっていたが、17世紀に入って
幕藩体制の安定化に伴う経済の爆発的な発展はそれまで有力大名と結びついていた
特権豪商を衰退させ、海運にも価格競争を求めるようになった。
その為、廻船業者達は帆走・航海技術を向上による航海の迅速化と帆走専用化による
水主の削減を目的とした改良を弁才船を中心に行った。その結果、18世紀中頃以降には
稼働率が倍になるなど海運の合理化を成し遂げ、近世海運は大きく発展した」
北前船も弁才船なのかしらね!
海運で米は大阪に集荷されて全国に散りましたし、江戸城の石垣まで運びましたから、船の需要は相当あった筈です
・ 【弁才船の説明です】
1枚の固定帆ですから、風に逆らう事はできません、風待ちでやり過ごしてはるばるやって来るのです
・ 【他の和船模型もありました】
今でもそうです、小さい船を何艘も作るより大型の船で輸送を効率良くと考えました
・ 【今回は料金払いましたけれど有料施設としての品位を疑います】
目立ちませんが幕末にはロシアの船も暗躍していました
・ 【さすがにこれだけで有料施設は維持できないと思ってか】
駿河湾は深海生物や深海魚の宝庫です、町には「深海魚にぎり」などの看板もありました
・ 【高橋さんという長年の友人がいます】
彼は沼津にも仕事で行ってましたから、「高足がに」で一杯という約束が未だに実行されていません
「たかはしがに」ではなく「たかあしがに」なんです
最初から造船博物館を建てた訳ではないと思います、多分昔は何かの施設だったと思います、
戸田湾をくるっと取り巻く最奥部で、鳥居や神社が建っていました、堅牢な建物ですから再利用したのではと
勘ぐりたくなりますが、誰も来ません、おそらく本日たった一人の来館者である筈ですが、受付の人の応対は親切でした
博物館ですから学芸員や沼津市の職員も動員されています
・ 【ロシアの難破船デイアナ号の錨です】
何度も聞かされております!
「ディアナ(フリゲート、1853年)富士市でモニュメントとして展示されている錨
1853年建造のロシア軍艦ディアナ号は、フリゲートに分類される帆船である
1854年(安政元年)、日露和親条約締結交渉のためエフィム・プチャーチンの乗艦として
箱館・大坂を経て下田を訪れた際、安政東海地震による津波で大破、宮島村(現、富士市)沖で沈没。
プチャーチンは、乗員の帰国のためアレクサンドル・モジャイスキーらの指導で
日本の造船工により帆船「ヘダ号」を建造。日本の造船工に洋式造船技術が伝わるきっかけとなった。
二つあったの錨のうち、一つは昭和29年に引き上げられ、沼津市立造船郷土資料博物館に
関連資料とともに展示。もう一つは昭和51年に引き上げられ、富士市宮島の緑道公園で
プチャーチン像とともに展示されている。」
僕が間違っておりました、沈んだのは富士市沖で、戸田号を建造したのでした
(戸田村ではなく沼津市戸田地区ですね)
こういうものは掘り下げれば庶民の生活にまでたどり着けます
・ 【色んな年表が表示されています】
展示物が全てガラスショーケースに納まりますが、デジカメで撮影する時は障害にしかなりません
・ 【難破した船の乗組員を漁師の奥様たちが人肌で暖めました】
この事実が本当にあったのか、僕の判断は微妙になっています、記憶というものは
時が経てば帰ってより鮮明に蘇り、悲劇であれば人道上の加工もされて浮かび上がります
(安政の大地震で船が沈んだ記憶が違っております、人肌で暖めたのは別の事件かもしれません)
・ 【和船;弁才船の模型です】
弁才船
「江戸幕府は1635年に500石以上の船を禁止し没収したが、3年後には商船については
例外として許可した。しかしながら鎖国政策の為、外洋航行の必要は無く、内海・沿岸航海用に改良がされた
弁才船の隆盛は18世紀中頃に行われた合理化を要因としている。それまでの廻船は
帆走・櫓漕兼用という中世的な要素を色濃く引きずっていたが、17世紀に入って
幕藩体制の安定化に伴う経済の爆発的な発展はそれまで有力大名と結びついていた
特権豪商を衰退させ、海運にも価格競争を求めるようになった。
その為、廻船業者達は帆走・航海技術を向上による航海の迅速化と帆走専用化による
水主の削減を目的とした改良を弁才船を中心に行った。その結果、18世紀中頃以降には
稼働率が倍になるなど海運の合理化を成し遂げ、近世海運は大きく発展した」
北前船も弁才船なのかしらね!
海運で米は大阪に集荷されて全国に散りましたし、江戸城の石垣まで運びましたから、船の需要は相当あった筈です
・ 【弁才船の説明です】
1枚の固定帆ですから、風に逆らう事はできません、風待ちでやり過ごしてはるばるやって来るのです
・ 【他の和船模型もありました】
今でもそうです、小さい船を何艘も作るより大型の船で輸送を効率良くと考えました
・ 【今回は料金払いましたけれど有料施設としての品位を疑います】
目立ちませんが幕末にはロシアの船も暗躍していました
・ 【さすがにこれだけで有料施設は維持できないと思ってか】
駿河湾は深海生物や深海魚の宝庫です、町には「深海魚にぎり」などの看板もありました
・ 【高橋さんという長年の友人がいます】
彼は沼津にも仕事で行ってましたから、「高足がに」で一杯という約束が未だに実行されていません
「たかはしがに」ではなく「たかあしがに」なんです
いよいよねぶた&北海道ですね。おおいに楽しんで下さいね。
というわけで今週からねぶた&北の大地を目指して出発、バイクはタイヤ交換と整備は完了しました
昨日は深夜走行で伊豆にやってきましたし、居酒屋で深夜まで少ないお酒で過ごしまして体調も耐えられるようです
青森へ行ったら「灯台」というスナックの3姉妹を訪ねて、乾いた味気ない男旅がロマン溢れる人肌のぬくもりとすべくスタートを切ります
貧乏ライダーだって楽しむ権利はあると思います、僕の理想は初老の二人が行きつりあう「おはら、風の盆」です