昼から一人で外出。断続的に雨。横浜トリエンナーレと黄金町バザールを一気に回る予定。
先に横浜トリエンナーレを一巡しようと新港ピアへ。海が近いので風雨が強い。靴のなかまで、びしょ濡れに。いい作品と認めるハードルが一気に上がった。まず目に飛び込んできたのは、会場の空間構成の圧倒的な安っぽさ。西沢立衛の事務所らしいが、川俣正や日比野克彦じゃあるまいしベニヤ板に毛の生えた白塗りの衝立はないだろう。悪い予感が。
気を取り直して、いくつか印象に残った作品をメモ。マリオ・ガルシア・トレス。思いつきの域。ウラ・フォン・ブランデンブルク「ラ・メゾン」。布をぶら下げるのもいいけど、シリアスな映像とちぐはぐ。ケリス・ウィン・エヴァンス(とスロビング・グリストル)、銀ピカのスピーカー「あ=ら=わ=れ」は印象的でよろしい。人形劇の予告編を装ったペドロ・レイエス「Baby Marx」も、かなり好感が持てた。あとは無味乾燥。全体に、与えられたスペースのわりに個々の作品や作家の完成度が低く、手抜き感がありありで貧乏くさい。これがメイン会場か。
あと、作家のネームプレートにしか作品名が表示されていないので、見終えて帰宅してからパンフレットやガイドブックを見ても、個々の作家・作品の魅力や展示意図を深く理解しようとしても、まったくできないし、そのうちどんな作品だったかも思い返せなくなってくる。印刷物の資料的価値が薄いうえに、公式ウェブサイトも貧弱。撮影はOKだったみたいだが、作品データは、ひょっとしてメモとれってのか? ひでー。
次に、赤レンガ倉庫1号館へ。移動のあいだに靴の中がぐちょぐちょに。さらに作品評価のハードルが上がったぜ。チェルフィッチュ(岡田利規)、期待してたけど舞台のビデオ上映かよ。灰野敬二もビデオ。大音響じゃないので、つまらん。しかもヘッドフォンが数個しかない。週末の混雑時、どうするつもりか。ハプニング系の戦後日本美術の記録映像を何本も流しているのが玄人好みだけど、いかんせん画質わるすぎ。音もなし。背景音楽に流れるクラシックがミスマッチ。伝説の電気服をちょっとだけ。赤レンガでは唯一、ツァオ・フェイ(曹斐)のアーケードゲーム「プレイ・ウィズ・ユア・トリエンナーレ」が目を引いた。シルバ・グプタは新港ピアにも展示があったけど、こっちの「私たちの生きる時代に」も含めて、インテリ好み狙いのあざとさを感じた。
こうなったら、とことん不満を抱いてやる。さらに足元がびちょびちょになり、寒さと怒りに震えながら、大桟橋の国際客船ターミナルへ。エルメス提供の「H BOX」のキャパが狭すぎて不満。10人も入ったら満員。せっかく雨中を遠くまで歩いてきたので2~3本眺めたけど、何十分も立ったままで見る価値のある映像なんて皆無。もうちょっとカネかけろや。ちなみに、大桟橋には「にっぽん丸」が停泊中。このイギリス人の建築も、雨の日の徒歩客には不親切だなあ。
ほとんど殺意を覚えながら、もうひとつのメイン会場、日本郵船海岸通倉庫へ。一部から雨漏りしているのはご愛敬だが、2階は、とくに名を上げるほどの印象はなし。手間がかかってるのは、ジョーン・ジョナス「物のかたち香り感じ」ぐらいか。小杉武久「レゾナンス」もまあまあ。3階は、マリナ・アブラモヴィッチ(地味)、マシュー・バーニー(過剰で冗長)、ロドニー・グラハム(ケンカ売ってんのか)、といった人気作家が並ぶ。でも、ポール・マッカーシー「カリビアン・パイレーツ・パイレート・パーティー/ハウスボード・パーティー」とヘルマン・ニッチュ「(作品名失念、こういう重要な情報が書けないんだよ!ヴォケ!)」の強烈な気持ち悪さで、すべてが台無しに。作品の制作意図はあるていどわかるけど、多くの観客にとってはアートの名を冠したテロでしょ、これ。あと中西夏之は大好きだけど、なぜここにこんなにたくさんのスペースと作品が? 他の作家のスカスカさ・手抜き感と比べてアンバランス。オノ・ヨーコも貨車を旧横浜港駅のホーム横に置いた前作「貨物車」はよかったけど、今回は伝説の「カット・ピース」の再演ビデオ上映。手抜きだな。BankARTと同居している1階は、なんといっても勅使河原三郎のガラスの部屋「時間の破片-Fragments of Time」がすばらしかった。でも、ちょっと既視感が。15:00から田中泯のパフォーマンスがあるらしいけどスルー。
今回のトリエンナーレ、全体のメインテーマが「タイム・クレヴァス」ということもあって、映像作品やパフォーマンスが多いようだ。だが、そもそも、大型の液晶テレビがリビングに鎮座し、ネットやケータイでも映像が眺められる時代に、画質や音質以外の面でも完成度の劣るシロウト以下の「できそこない映像」を強制的に限定して見せられるのは、ものすごく腹が立つ。せっかくのマス相手の大きなイベントなのに、せいぜい100人しか見れないパフォーマンスだらけ。ハプニングの一回性とか、クソ食らえ。
ついでに日本郵船歴史博物館そのものも見学。みんな、ほとんどこっちは見に来ていないけど、液晶画面の解説がビジュアルで分かりやすい。展示データも最新のものばかりで丁寧。太平洋戦争でどれだけの船と人員を失ったか、という数字が胸に迫った。それにひきかえ…。ますます怒りが。
再度、赤レンガ倉庫1号館と新港ピアへ。会場案内図が見にくくて見逃していたテレンス・コーとミランダ・ジュライ、フィッシュリ&ヴァイスとインフォメーションセンターをチェック。F&Wは、かわいいけど、カメラアングルがのべつまくなしに回転しているので、ずっと眺めていると気持ち悪くなるのが、作家の意図だとしても、素で不愉快。大巻伸嗣の展示は気がつかなかった。というか、市内各所を移動って「見てくれなくてもいい」というのに等しいよ。珍しく評判のいいらしい三渓園のサテライト展示と、ポスター採用で話題先行のランドマークプラザは後日。
とりあえず、1日歩き回った感想としては、トリエンナーレのすべてが怠慢だとしか思えなかった。ガイドブックを読み込んでみたら、MさんはともかくOさんが事務方の実力者なのか。あまり批判するのも申し訳ないか。いや、クリエーターたちの限界や甘さは忌憚なく指摘すべきだろう。「2008年の」「横浜で」「誰に向けてパフォーマンスなりコンセプチュアルなことをするのか」という切実な問題意識がまるで抜け落ちている展示が多くてがっかりだった。所詮は、現代アートの国際見本市。だが、地域性とグローバル性を両立させつつ、一定のクオリティを満たしたクリエイティブな作家と作品を準備し、現在美術の「今」を提示する責任が、キュレーターなり参加アーティストにはある。ミニマルとかビジュアルとかコンセプチュアルとかノイズとか見飽きたし、聞き飽きたよ。こんなことやってるから、日本の現代美術なんて、マイナーでなんの影響も与えない暇つぶしに終わるのだ。
次に、タクシーで日の出町駅へ。1000円で着いた。で、黄金町バザール。こちらも悪い予感が当たった。スタッフの数のほうが圧倒的に多い。というか雨のせいで、人出がほとんどない。というか、やはり黄金町は怖い、というイメージがまだ残っていて、訪れたい人もしり込みしているのかも。
気を取り直して、日の出スタジオ、黄金町バザールオフィス、初音スタジオ、コガネックス・ラボ、黄金スタジオ、横浜美術館withバザールと回る。点在するギャラリーの集合体なので、ギャラリーに行きなれているオレでも、ものすごく敷居が高い。ほとんど外からのぞくだけ。
どだい、数年前まで「ちょんの間」がずらりと並んでいた風俗の街を、自治体や警察がよってたかって根こそぎにして一度は「死んだ」街に、そういう経緯をまるっきりほっかむりして、自分たちの都合だけでハイセンスなカタギの客を呼び込もうというのには無理がある。ほとんど街を去ってしまったとはいえ、記憶には新しい、在日の人たちやアウトローの人たちの濃密な営みを積極的に取り込んでいるとも思えない。行政や商店街側による「街づくり」の、「つくる」という作為の一方的欺瞞性があらわになったイベントだなこりゃ。美術観、コミュニティ観、街づくり観。すべてにおいて認識が甘いんだよ。
でも、まあ魅力的な展示はいくつかはあって、田宮奈呂+me ISSEY MIYAKEや北川貴好、狩野哲郎、平野薫、壁マンガ「するめちゃん」、中尾宏嗣のゴルフ練習場の写真などは面白かった。縁側というか小上がり、土間のある長屋風スタジオ(みかんぐみ設計)も開放感があった。ぜひ次回は反省して、昼間から酒臭いおっちゃんたちにも分かるゲージツを展開してほしい。
夕方、日の出町でラーメンを食べ、横浜駅西口へ。北口からモアーズ、高島屋、相鉄、ビブレとロケハン。ネットカフェで一服。19:00すぎ帰宅。篤姫。
先に横浜トリエンナーレを一巡しようと新港ピアへ。海が近いので風雨が強い。靴のなかまで、びしょ濡れに。いい作品と認めるハードルが一気に上がった。まず目に飛び込んできたのは、会場の空間構成の圧倒的な安っぽさ。西沢立衛の事務所らしいが、川俣正や日比野克彦じゃあるまいしベニヤ板に毛の生えた白塗りの衝立はないだろう。悪い予感が。
気を取り直して、いくつか印象に残った作品をメモ。マリオ・ガルシア・トレス。思いつきの域。ウラ・フォン・ブランデンブルク「ラ・メゾン」。布をぶら下げるのもいいけど、シリアスな映像とちぐはぐ。ケリス・ウィン・エヴァンス(とスロビング・グリストル)、銀ピカのスピーカー「あ=ら=わ=れ」は印象的でよろしい。人形劇の予告編を装ったペドロ・レイエス「Baby Marx」も、かなり好感が持てた。あとは無味乾燥。全体に、与えられたスペースのわりに個々の作品や作家の完成度が低く、手抜き感がありありで貧乏くさい。これがメイン会場か。
あと、作家のネームプレートにしか作品名が表示されていないので、見終えて帰宅してからパンフレットやガイドブックを見ても、個々の作家・作品の魅力や展示意図を深く理解しようとしても、まったくできないし、そのうちどんな作品だったかも思い返せなくなってくる。印刷物の資料的価値が薄いうえに、公式ウェブサイトも貧弱。撮影はOKだったみたいだが、作品データは、ひょっとしてメモとれってのか? ひでー。
次に、赤レンガ倉庫1号館へ。移動のあいだに靴の中がぐちょぐちょに。さらに作品評価のハードルが上がったぜ。チェルフィッチュ(岡田利規)、期待してたけど舞台のビデオ上映かよ。灰野敬二もビデオ。大音響じゃないので、つまらん。しかもヘッドフォンが数個しかない。週末の混雑時、どうするつもりか。ハプニング系の戦後日本美術の記録映像を何本も流しているのが玄人好みだけど、いかんせん画質わるすぎ。音もなし。背景音楽に流れるクラシックがミスマッチ。伝説の電気服をちょっとだけ。赤レンガでは唯一、ツァオ・フェイ(曹斐)のアーケードゲーム「プレイ・ウィズ・ユア・トリエンナーレ」が目を引いた。シルバ・グプタは新港ピアにも展示があったけど、こっちの「私たちの生きる時代に」も含めて、インテリ好み狙いのあざとさを感じた。
こうなったら、とことん不満を抱いてやる。さらに足元がびちょびちょになり、寒さと怒りに震えながら、大桟橋の国際客船ターミナルへ。エルメス提供の「H BOX」のキャパが狭すぎて不満。10人も入ったら満員。せっかく雨中を遠くまで歩いてきたので2~3本眺めたけど、何十分も立ったままで見る価値のある映像なんて皆無。もうちょっとカネかけろや。ちなみに、大桟橋には「にっぽん丸」が停泊中。このイギリス人の建築も、雨の日の徒歩客には不親切だなあ。
ほとんど殺意を覚えながら、もうひとつのメイン会場、日本郵船海岸通倉庫へ。一部から雨漏りしているのはご愛敬だが、2階は、とくに名を上げるほどの印象はなし。手間がかかってるのは、ジョーン・ジョナス「物のかたち香り感じ」ぐらいか。小杉武久「レゾナンス」もまあまあ。3階は、マリナ・アブラモヴィッチ(地味)、マシュー・バーニー(過剰で冗長)、ロドニー・グラハム(ケンカ売ってんのか)、といった人気作家が並ぶ。でも、ポール・マッカーシー「カリビアン・パイレーツ・パイレート・パーティー/ハウスボード・パーティー」とヘルマン・ニッチュ「(作品名失念、こういう重要な情報が書けないんだよ!ヴォケ!)」の強烈な気持ち悪さで、すべてが台無しに。作品の制作意図はあるていどわかるけど、多くの観客にとってはアートの名を冠したテロでしょ、これ。あと中西夏之は大好きだけど、なぜここにこんなにたくさんのスペースと作品が? 他の作家のスカスカさ・手抜き感と比べてアンバランス。オノ・ヨーコも貨車を旧横浜港駅のホーム横に置いた前作「貨物車」はよかったけど、今回は伝説の「カット・ピース」の再演ビデオ上映。手抜きだな。BankARTと同居している1階は、なんといっても勅使河原三郎のガラスの部屋「時間の破片-Fragments of Time」がすばらしかった。でも、ちょっと既視感が。15:00から田中泯のパフォーマンスがあるらしいけどスルー。
今回のトリエンナーレ、全体のメインテーマが「タイム・クレヴァス」ということもあって、映像作品やパフォーマンスが多いようだ。だが、そもそも、大型の液晶テレビがリビングに鎮座し、ネットやケータイでも映像が眺められる時代に、画質や音質以外の面でも完成度の劣るシロウト以下の「できそこない映像」を強制的に限定して見せられるのは、ものすごく腹が立つ。せっかくのマス相手の大きなイベントなのに、せいぜい100人しか見れないパフォーマンスだらけ。ハプニングの一回性とか、クソ食らえ。
ついでに日本郵船歴史博物館そのものも見学。みんな、ほとんどこっちは見に来ていないけど、液晶画面の解説がビジュアルで分かりやすい。展示データも最新のものばかりで丁寧。太平洋戦争でどれだけの船と人員を失ったか、という数字が胸に迫った。それにひきかえ…。ますます怒りが。
再度、赤レンガ倉庫1号館と新港ピアへ。会場案内図が見にくくて見逃していたテレンス・コーとミランダ・ジュライ、フィッシュリ&ヴァイスとインフォメーションセンターをチェック。F&Wは、かわいいけど、カメラアングルがのべつまくなしに回転しているので、ずっと眺めていると気持ち悪くなるのが、作家の意図だとしても、素で不愉快。大巻伸嗣の展示は気がつかなかった。というか、市内各所を移動って「見てくれなくてもいい」というのに等しいよ。珍しく評判のいいらしい三渓園のサテライト展示と、ポスター採用で話題先行のランドマークプラザは後日。
とりあえず、1日歩き回った感想としては、トリエンナーレのすべてが怠慢だとしか思えなかった。ガイドブックを読み込んでみたら、MさんはともかくOさんが事務方の実力者なのか。あまり批判するのも申し訳ないか。いや、クリエーターたちの限界や甘さは忌憚なく指摘すべきだろう。「2008年の」「横浜で」「誰に向けてパフォーマンスなりコンセプチュアルなことをするのか」という切実な問題意識がまるで抜け落ちている展示が多くてがっかりだった。所詮は、現代アートの国際見本市。だが、地域性とグローバル性を両立させつつ、一定のクオリティを満たしたクリエイティブな作家と作品を準備し、現在美術の「今」を提示する責任が、キュレーターなり参加アーティストにはある。ミニマルとかビジュアルとかコンセプチュアルとかノイズとか見飽きたし、聞き飽きたよ。こんなことやってるから、日本の現代美術なんて、マイナーでなんの影響も与えない暇つぶしに終わるのだ。
次に、タクシーで日の出町駅へ。1000円で着いた。で、黄金町バザール。こちらも悪い予感が当たった。スタッフの数のほうが圧倒的に多い。というか雨のせいで、人出がほとんどない。というか、やはり黄金町は怖い、というイメージがまだ残っていて、訪れたい人もしり込みしているのかも。
気を取り直して、日の出スタジオ、黄金町バザールオフィス、初音スタジオ、コガネックス・ラボ、黄金スタジオ、横浜美術館withバザールと回る。点在するギャラリーの集合体なので、ギャラリーに行きなれているオレでも、ものすごく敷居が高い。ほとんど外からのぞくだけ。
どだい、数年前まで「ちょんの間」がずらりと並んでいた風俗の街を、自治体や警察がよってたかって根こそぎにして一度は「死んだ」街に、そういう経緯をまるっきりほっかむりして、自分たちの都合だけでハイセンスなカタギの客を呼び込もうというのには無理がある。ほとんど街を去ってしまったとはいえ、記憶には新しい、在日の人たちやアウトローの人たちの濃密な営みを積極的に取り込んでいるとも思えない。行政や商店街側による「街づくり」の、「つくる」という作為の一方的欺瞞性があらわになったイベントだなこりゃ。美術観、コミュニティ観、街づくり観。すべてにおいて認識が甘いんだよ。
でも、まあ魅力的な展示はいくつかはあって、田宮奈呂+me ISSEY MIYAKEや北川貴好、狩野哲郎、平野薫、壁マンガ「するめちゃん」、中尾宏嗣のゴルフ練習場の写真などは面白かった。縁側というか小上がり、土間のある長屋風スタジオ(みかんぐみ設計)も開放感があった。ぜひ次回は反省して、昼間から酒臭いおっちゃんたちにも分かるゲージツを展開してほしい。
夕方、日の出町でラーメンを食べ、横浜駅西口へ。北口からモアーズ、高島屋、相鉄、ビブレとロケハン。ネットカフェで一服。19:00すぎ帰宅。篤姫。
アートってその時代に生きる人よりも半歩先、一歩先、ずっと先を見てくれていて、人々に元気や感動や感銘や共感、心を揺さぶる刺激を与えてくれる崇高なものだと思いたいのです。それはもちろん人によって感性や価値観が異なるので確かにアートに点数をつける意味はないと思います。それにしてもひどいアートが世の中に平気で並んでいるアートマーケットの悲しい現状に歯止めをかけるには、鑑賞する側のこういった歯に衣着せないコメントや残念と感じてる感想のひとつひとつがとても大切なことなんだと思います。
これからもiwackeyさんのブログ拝見させていただきますのでどうぞよろしくお願いいたします。
それに引き換え…、というつもりはないのですが、今回のトリエンナーレは、外国からキュレーターを迎えたせいもあってか、作家のセレクトも作品も高踏的・敷居が高すぎるように思いました。インテリ向けだけで食べていける欧米の現代美術界の価値観や文脈でいえば、それなりのセンスで作家・作品を集めたようにも見えますが、そもそもこのイベントは、「日本の」「横浜で」「おもに日本人を相手に」やるものです。そういう「地べた」から遊離してしまっては、大きなイベントをやる意味がないとさえ思います。三渓園をまだ見ていないので全体をどうこう言うのは早計なのですが、今のところの印象をこのエントリにまとめた次第です。
「自己満足」も、できれば「見る人の満足あっての満足」であってほしい。なのに、つくり込みが足りず、思いつきだけの、でき損ないとしか思えない安易な映像作品ばかりが目につくようでは、川俣さんと同じくらい「一生懸命作品創ってる」と言えるのか。
今回、将来を担う若い美大生とかが、たくさんボランティアで参加していると思います。大半がビンボーで一部がリッチな現代美術の世界にとっては牧歌的・楽観的すぎる見方でしょうが、参加している作家さんも、できればそれなりに一生懸命やっている姿勢を見せてほしいと思います。
今回のように批判が厳しいときもあるかもしれませんが、時々、美術展レポートをアップしていますので、今後ともよろしくお願いいたします。
今回トリエンナーレを巡った時、何人かの外国人に出会ったのですが、「もしも私が海外からわざわざこの展覧会を見る為に来ていたらほんとにがっかりだったろーな」と同情の念で彼らを見てました。でも、もしかしたら、自分の国に帰って「日本のトリエンナーレはすげえレベルだったぜ!」なんて報告するかもしれないってことですよね。。。へえ~ ということは自分が凡人すぎるという見方もできるのですね。誰の作品だか忘れましたが牛解体して内蔵こすりつけあってるような映像見て興奮するお金持ちとかいそうですものね。(笑)
三渓園 中谷芙二子 「霧の彫刻」ぜひご覧ください。
私は今回の入場料1800円をこの人に払ったつもりでがまんしました。(笑)直島に追加してほしい作品だと思いました。
良いアートに出会える機会が少ない中、久々に作品からアーティストを思い描きたくなる作品でした。
またの芸術評論楽しみにしています。
LEIRA
そういう人たちにとっては、恐らく今回の横浜が「すげえレベル」なんてことはなくて、元祖ヴェネチアやドクメンタ、あるいは新興のサンパウロや光州のほうがいいね、といった冷静な評価が下されていそうです。いや、横浜2008の海外出身のキュレーターたちもみんな大物だから、何となくですが…。
内臓・血みどろ系はともかく、三渓園、楽しみにしております。直島、行かれたことがあるんですね。うらやましい! それでは、取り急ぎにて。
過去を消すことってそんなに簡単にできることなんですかね?
みんなそれぞれ頑張っているんでしょうが、なんでこんなことになってしまうんでしょうね・・・うーん、なんかうまく言葉にできないなぁ。
必ずしも、昔と寸分たがわぬアナーキーでデンジャラスでイリーガルな黄金町に戻れ、とは思いませんが、そういう部分に魅力があったから人が集まったのかもしれません。
もちろん、ガード下の建築は意欲的だったし、個別に面白い作品はあったのですが、街の核になるものを失ってしまった気がして、こんなエントリを書いてみました。
実際に参加して感じた、ばらぼらさんの違和感こそ貴重かと。機会があれば、ぜひ詳しく伺ってみたいです。
トリエンナーレでレポート課題が出ていまして、資料集めの最中です。ブランデンブルクについて調べています。
…ウラ・フォン・ブランデンブルク「ラ・メゾン」。布をぶら下げるのもいいけど、シリアスな映像とちぐはぐ。…あの布は一種何かの効果を狙ったものではないかと考えます。まぁ映像がモノクロなので違和感はありますが、やはり何かしらの意図はあるのでしょう。
…「2008年の」「横浜で」「誰に向けてパフォーマンスなりコンセプチュアルなことをするのか」という切実な問題意識がまるで抜け落ちている展示が多くてがっかりだった。…とありましたが、それは果たして重要な問題でしょうか?確かに観覧者は高い入場料を払って見ているわけですが、どうにも入場料の分を元を取ろうとしていませんか?確かに展示会やイベントではコンセプトは大切ですが、現代美術においてそれを求めるのは難しいと思いますし、現代美術の本質ではないと考えます。
…所詮は、現代アートの国際見本市。だが、地域性とグローバル性を両立させつつ、一定のクオリティを満たしたクリエイティブな作家と作品を準備し、現在美術の「今」を提示する責任が、キュレーターなり参加アーティストにはある。…これもまた「今」のあり方なのではないのでしょうか。
…ミニマルとかビジュアルとかコンセプチュアルとかノイズとか見飽きたし、聞き飽きたよ。…個人的には好きだったので残念な意見です。
…こんなことやってるから、日本の現代美術なんて、マイナーでなんの影響も与えない暇つぶしに終わるのだ。…批判は大事だと思います。しかし自分のお子さんらにこのように伝えてゆくおつもりなら、現代美術のみならず美術全体はつまらないものになってしまうように感じます。
そもそも現代美術とはどうあるべきなのでしょうか?面白ければよい、というものではないと思いますし、また過度に期待をかけるものでもないように思います。
ウラ・フォン・ブランデンブルクの布の意味、できれば当方も知りたいし、理解したいと思いますが、会場でボランティアの解説の人に聞く「しか」知る「すべ」がないことを当方は問題視しています。ウェブや公式本や会場に解説がなければ、直感で見た限りでは違和感がある、という反応が大半でしょう。そういう展示態勢は、観客のみならず作品や作者にも失礼ではないでしょうか?
また「2008年の」「横浜で」「誰に向けて」という要素が現代美術なり今回のトリエンナーレにとって重要ではない、とのご発言。とても大胆ですね。ゲージツはそれ自体として自立していなくてはならない、という「現代美術の純文学宣言」なのでしょうが、パフォーマティブとかコンセプチュアルという言葉の意味を(辞書的にせよ現代美術的にせよ)、学生さんならもういちど考え直されてはいかがでしょうか。とりあえず今回は「公的資金の説明責任がある」などと野暮なことは言いませんので。
横トリの「これもまた『今』のあり方」とのこと。ある一面ではその通りです。でも日本の現代美術の発信力なり構成力が「このていど」でいいんですか…マヂで? 「み」さんは、ずいぶんと志が低いんですね。前回、前々回はご覧になりましたか?
「現代美術のみならず美術全体はつまらないものになってしまうように感じます」とのこと。そっくりそのままお返ししたくなるお言葉です。ちなみに、拙宅では、「美術だからといって無条件にありがたがるのではなくホンモノとニセモノ、一流とそうでないもの、自分が本当に好きなものを見極めよ」というのが育児の方針です。まだ1歳児ですけど(苦笑)。
上のエントリ、イチゲンさん「にも」何らかの楽しさを味わってもらうこと「も」というか「こそ」重要だ、というのが当方の趣旨ですが、要は、ご自身が楽しめたのに当方が違う反応を示したのが気に食わない、ということでしょうか。それとも「現代美術とやら」は一様な楽しみ方しか許さない貧しいものなのでしょうか。
以上、若者に対して大人げない厳しい返事かもしれませんが、いい機会なので、ほかの方の異論・反論も含めて応答を歓迎します。