iwackeyの「水に流す日々」

30代編集者(3児の父)の毎日を水に流します。みんな流されろ!

「サマーウォーズ」の志は受け取った。しかし。

2009-08-07 | art & movie & music
まずは「時かけ」観てないので念のため。「ポストジブリ」と評価される割には、濃密な作家性が感じられず、無前提にドメスティックでウェルメイドなのは、まあよしとしよう。作中の巨大SNS「OZ」は現状追認ではなく、来るべきデジタル時代を描いているつもり、という点も見逃そう。家族肯定という「志」も受け取った。

しかし、だ。

お台場メディアージュや新宿バルト9ほか郊外型シネコンの一部でしか上映されていないこの映画。しかもアニメ。「ぼくの夏休み」などと同様、サブカル需要を満たしつつ「田舎」なり「家族」なりを「ネタ」として流通させ、一時的に消費するだけではないのか、という懸念が、まずひとつ。高校の部活の先輩に連れられて…という入り口が、いかにも非現実で弱いのだ。そもそも現代の東京生まれ・東京育ちの東京っ子に「田舎」や「地方」が身近だとすれば、それは、その子の親が地方の農村部出身じゃないと、ほぼムリじゃないだろうか。

ほかにも、東北の農村部に生まれ育った者としては、大いに不満が残る。まず、信州上田あたりだから「真田太平記」的な歴史的リソースが豊富なのであって、そうした古都なり小京都・小江戸・城下町は極めて限られる。つまり作劇が安易な小道具に頼りすぎる。周囲の村落共同体から隔絶して描かれる「旧家」も非現実的。今なお漠然とした敬意(と決して表に出ない反感)を抱く旧小作人層が周囲を取り囲んでいるからこそ旧家は旧家たりえるのだ。「トトロ」の描く村とは大違い!

さらに根本的疑問がひとつ。祖父母は、警視総監と知り合いじゃなければ偉くないのか。父祖は、歴史に名を残したから偉いのか。そうではなくて、時代に翻弄されながらも、自分を育ててくれた親(の親の親の親…)を育ててくれたから偉いんじゃないのか? 必死に発情・交尾し、受精させようとする過去歴代の数億数兆の獣や魚、夏のセミみたいに何百年・何世代も子孫を残してきたから、無条件に偉いんじゃなかろうか?

いや、そうした「家族の歴史」なり「生物の歴史」「宗教的世界観」をリアル&壮大に描く作品ではないということは十分わかっている。この映画にはヒーローの親もヒロインの親もほとんど登場しない。ベタベタした、生身の親子関係を想起させる展開(=観客が自分の親とののっぴきならない利害関係を思い出すこと)を意識的に避けたのだ。現代日本アニメには、「家族・田舎」を遠く離れた観客に「ネタとしての家族・田舎」を思い起こさせるのが精一杯なのだろう。

でも、それにしても、だ(以下ネタばれご容赦!)。

おばあちゃん、殺すなよ。というか、殺すだけかよ。90すぎて完全恍惚の人となってもなお、介護制度や医療技術、年金の「おかげ」で生き延び「させられ」ている…、というのが、ゼロ年代における大半の高齢者とその家族が抱える現実じゃないのか? 少なくとも拙宅はそうだ。親の年金は祖母の介護に消えている。ピンピンコロリが可能なのは、地域医療の全国的先進地域でもある佐久・小県(ちいさがた)地方ぐらいだろう。「サマーウォーズ」は、事前の予想通り、つくづく特権的な作劇アイテムに依存するサブカルオタク&サブカル左翼な映画なのであった。

あと、もうひとつ言わせてくれ。高校の「オタ系」部活動において、美形の先輩女子高生なんて存在は、絶無だ。「なりきり彼氏」のバイト? 数学五輪の日本代表になり損ねた? 一般「非モテ」には、あまりにもツラすぎる主人公の設定。同じ「セカイ系」物語構造にしても、もっとごく普通の「生活世界」レベルでストーリー展開できなかったものか。これなら「ハルヒ」世界のほうが、まだしも純粋に楽しめるよ。

かくして、問題は「地方&SNSにおいて、青少年の健全な出会いはいかにして可能か?」へと収斂していくが、この難問については、また別項を立てて論じるつもりだ。
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「ヱヴァンゲリヲン新劇場版・破」について1票。

2009-07-10 | art & movie & music
下記、7月10日付の日記エントリで予告したとおり「ヱヴァンゲリヲン新劇場版・破」について。このブログの数少ない読者は、すでに何度もご覧になっているハードコアなオタク様か、今後もけして観ない大人な方々であることが想定されるので、ネタバレご容赦。

クオリティは抜群。ラストもびっくり。涙をぬぐうカタルシスを味わう暇もないほどだった。公開されてだいぶ経つので上映後の会場に拍手はなかったが、客席からは「(あまりの情報量に&驚愕のラストに)いや…はは(苦笑)」みたいな反応。でも、個人的に新キャラの描かれ方とかアスカの扱いには違和感がぬぐえなかった。オレ、実は「アスカ萌え」だったんだな。誰萌えでもないと思ってたけど。14年目にして初めて明らかになるわが欲望。

ところで、涙を流すほどのカタルシスが味わえなかったのは、2次創作だからだろうか、歳をとったからだろうか、観たのが1週間働いて最も疲れが溜まっている金曜夜だったからだろうか。いや、やはり作品がパワーダウンしているからじゃないだろうか。質でも量でもなく構造のレベルで。「翼をください」は無理やり許容するとしても、「今日の日はさようなら」はないだろ、ふつー。どんだけチャイルディッシュだっつーの。

リアルワールドで歴史とか仏教とか一神教の複雑で多様な議論に耽溺し、ヘビーな双子の子育て(年内にはプラス1匹)とか体験しちゃってると、「破」を観ても「もっと薄汚れていて、ものすごく愛おしいものだよ、世界は」という、どす黒く冷めた感情がわき上がってくるのを、正直どうしても覆い隠せない。素晴らしいクオリティについても「デッサンは描きこめばいいってもんじゃない」と思ってしまう。「いじめられっ子の父親にいじめっ子が生まれてくるような不条理なんだよ、世界は(苦笑)」とか「利他行は、想像を絶する過酷なものであり無条件の喜びなんだよ(こんなペースで後半描けるのか?)」とか。

こうした冷笑というか失笑の原因は、「破」には「本当の意味での切迫感が足りない」という言い方なら分かってもらえるだろうか。まったくツマらなかった「序」も今にして思えばずいぶんと窮屈なストーリーだったが、ひるがえってテレビ版や直後の劇場版には「切迫感」があった。いや、だからといって「セカイ系」だから子育て中の親には共感できない、ということが言いたいのではない。オレだって世に出る直前の「セカイ系」的な苦悩は記憶に新しい。原作には破綻も多かったが「セカイ系」なりの切迫感が描かれていた。そこは評価しているし、共感もした。

ああ、だというのに新劇場版には「切迫感」が感じられない。シリアスになれ、と言いたいのではない。90年代には「セカイ系」が切実だったが、ゼロ年代には別の「切実さ」が必要とされている、と言いたいのだ。就職氷河期や9.11を経由し、世界不況を経験しつつあるゼロ年代に「序」や「破」ていどのドラマで納得できるのか。オレはできない。リアルな政治や世界史を論じずに世界を変えることなどできるのか。できないだろう。

もちろん「序」では日本国内各地が点描され「破」でも田園風景やスイカ畑、欧米の国際政治が補足され、テレビ版の不足を補った。しかし、そのていどの補強では足りないほど具体的なリアルポリティクス(「生政治」でもなんでもいいが)をゼロ年代の私たちは日々痛感しているのではないか。フィクションに求めすぎじゃないか、という指摘はあるかもしれない。でも、作画やCGにカネと人手をかける以上に、もっともっと世界観の構築にこそ力を注ぐべきではなかったか。それとも、アニメーターの世界認識は40~50代になっても深まらないということでよろしいか。少なくとも思わせぶりな用語法に振り回されるのはもうこりごりだ。もちろん、ソ連とか中国とか一時期の角川映画みたいに何万人もエキストラ動員したり、CG要員を投入すれば勝ち、で済む訳がない。

というわけで、群を抜いてクオリティが高い新作だから、じゅうぶんな満足感は味わえるけれど続き2本がとても心配、というのが正直なところだ。
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[11/09]文フリ。六本木ピカソ。新宿ジョット。

2008-11-09 | art & movie & music
昼、ひとりで外出させてもらう。秋葉原の「文学フリマ」へ。7回目にして初めて。何も買わないことに決めていたけど、ゼロアカのコーナーだけすごい熱気だったのには、とにかくびっくり。こりゃいわば「会場ジャック」だな。旧知のKさん、Sさん、Iさん、Hさん、初めてのKさんらにご挨拶。Kさん、Tさんなどもお見かけしたが、お取り込み中のようでスルーしてしまった。出版とか書店の初発の理念を考えさせられる営みだだった。

午後、秋葉原駅前のブックファーストに立ち寄り、六本木へ移動。ピカソ展2つをハシゴ。まずはサントリー美術館「巨匠ピカソ・魂のポートレート」。いつもより「若くていい女」率が高い気がするのは、テーマのせいか、デート客が多いせいか、それとも館内が暗いせいか。教科書にも載ってる「ピエロに扮するパウロ」が見もの。つづいて、国立新美術館「巨匠ピカソ・愛と創造の軌跡」。理解度が深まる展示構成で、初心者から通まで楽しめる。ドラ・マールとマリー=テレーズが並び、「ラ・セレスティーナ」「肘掛け椅子に座るオルガの肖像」もいいが、「朝鮮の虐殺」もいい。ブロンズ像の「雌ヤギ」も。

さらに、新宿へ移動。今日が最終日の損保ジャパン美術館「西洋絵画の父・ジョットとその遺産展」。学生時代に行きそびれたアッシジまだ行けてない。その後、地震で崩落したのもあったけど。一方、パドヴァのスクロヴェーニ礼拝堂は2002年に修復が終わって、短時間の滞在しか許されなくなっているらしい。そうなる前に数時間かけて眺めることができてよかった。で、目玉の「サン・ジョルジョ・アッラ・コスタ聖堂の聖母子」もいいが、「殉教助祭聖人」のステンドグラスも間近で見るとなおきれい。ジョッテスキのひとり、ベルナルド・ダッディ「携帯用三連祭壇画」なんかも豪華。というのに妙齢の知的に見える女性が、「なかなか見れないゴシック絵画が見れてうれしいけど、わたし解説パネルの人名はどうでもいいの!もっと分かりやすく説明してほしい!」と力説していた。ゴシックとルネサンスの関係やビザンチンとの関係とかジョットがどういう位置づけなのかとか、すごく分かりやすいパネルだったと思うんだが…。まあ、100か200の画集をめくり、聖堂と美術館をめぐらないと整理できない世界だからなあ。夕方、渋谷のFoodshowで食材を買い込み、帰宅。
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[10/05]ECHO@ZAIM。中華街。水道橋。副都心線。

2008-10-05 | art & movie & music
昼、外出。MM線で日本大通り下車。ZAIMで横浜トリエンナーレの関連イベント、ECHO展。今日まで、しかもトークイベントがあるらしいけど、そっちはスルー。大庭大介のパールっぽいメタリックな平面、名和晃平のドット柄の動く平面、さわひらきの飛行機が飛ぶモノクロ映像が面白かった。

で、トリエンナーレ本体よりも意欲的で充実しているという世評は分かるし、500円でこれだけの人数の若手有望株が一挙に眺められればいうことはない、というのが前提。だけど、全体的な切実さの欠如という意味では、トリエンナーレ本体と大して違いはない。まあ、現代美術にとっての「切実さ」とは何ぞや?という反論は成り立つと思うけど、のんきな学生あがりが、卒業制作の延長上の手すさびや思いつきでやっているにすぎない、と言いたくなるような、気の抜けた作品が多かったように思った。テクニックた作業量で圧倒的せよ、とは言わないが、美術・芸術だって語源からして「手作業」なんだから、手数の多さと熟練は大事だよ。

こんなふうに感じるのは、自分が置かれた境遇が、月100時間超の残業や、帰宅後の双子の育児に大半のリソースを奪われている現代の平均的30代サラリーマンだからだろうか。それとも、海外も含めて、さんざんアートやそれ以外の創造行為・作品に触れてきて、目が肥えすぎたからだろうか。どっちにしろ、このていどのいち現代美術ファンさえ騙せないようでは、これから食って行けないよ。みんな、社会的ニーズを満たす創作とかマーケとか、ちゃんと考えてるのかな。映像系はアイデア一発でもCFで流されれば一攫千金かもしれないけど、全体的に大丈夫かなと心配になってくる。

ひとつ確実に言えるのは、受け手の持ち時間と労力は限られていて、新作の洪水のなかでは、この作品を見たら、あの作品が見れないということ。さらに、作品が生まれ、作品が残る・作品を残すということは、それだけのスペースと環境資源の浪費を生じるということ。この2つだ。そして今回、そういう排他的選択と歴史的検証に耐えるクリエイティブさを、どの作家・作品にもあまり感じなかった、というのが正直なところ。若き創作者たちよ、厳しいけれど、そういう壁を乗り越えて、強度をもった創作に励んで欲しい。35歳の、いち「おっさん」ファンからの説教でした。

午後、中華街へ。未踏の「瑞雲」でミックスワンタン麺。作りたてだからこその美味。東横線経由で神保町下車。水道橋まで歩く。僅差の巨人戦と競馬のスプリンターズ・ステークス、それにプロレス公演があって、東京ドームシティはどこもかしこも人だかり。MさんやTさんと待ち合わせ、後楽園ホールのレストランで、R社の方々と打ち合わせ。やりとりは微妙な問題を含んでいたけど、大スターの秘話を少し聞くことができて、役得だった。野球体育博物館を一巡、遊園地とラクーアを下見。丸の内線経由で池袋から副都心線を渋谷まで初乗り。渋谷駅が案の定、予想よりもかなりショボい規模のコンクリート打ちっぱなしなのを確認しつつ、東横のれん街で、お弁当とお惣菜、ケーキをゲット。19:00帰宅。
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[09/21]横浜トリエンナーレ。黄金町バザール。

2008-09-21 | art & movie & music
昼から一人で外出。断続的に雨。横浜トリエンナーレと黄金町バザールを一気に回る予定。

先に横浜トリエンナーレを一巡しようと新港ピアへ。海が近いので風雨が強い。靴のなかまで、びしょ濡れに。いい作品と認めるハードルが一気に上がった。まず目に飛び込んできたのは、会場の空間構成の圧倒的な安っぽさ。西沢立衛の事務所らしいが、川俣正や日比野克彦じゃあるまいしベニヤ板に毛の生えた白塗りの衝立はないだろう。悪い予感が。

気を取り直して、いくつか印象に残った作品をメモ。マリオ・ガルシア・トレス。思いつきの域。ウラ・フォン・ブランデンブルク「ラ・メゾン」。布をぶら下げるのもいいけど、シリアスな映像とちぐはぐ。ケリス・ウィン・エヴァンス(とスロビング・グリストル)、銀ピカのスピーカー「あ=ら=わ=れ」は印象的でよろしい。人形劇の予告編を装ったペドロ・レイエス「Baby Marx」も、かなり好感が持てた。あとは無味乾燥。全体に、与えられたスペースのわりに個々の作品や作家の完成度が低く、手抜き感がありありで貧乏くさい。これがメイン会場か。

あと、作家のネームプレートにしか作品名が表示されていないので、見終えて帰宅してからパンフレットやガイドブックを見ても、個々の作家・作品の魅力や展示意図を深く理解しようとしても、まったくできないし、そのうちどんな作品だったかも思い返せなくなってくる。印刷物の資料的価値が薄いうえに、公式ウェブサイトも貧弱。撮影はOKだったみたいだが、作品データは、ひょっとしてメモとれってのか? ひでー。

次に、赤レンガ倉庫1号館へ。移動のあいだに靴の中がぐちょぐちょに。さらに作品評価のハードルが上がったぜ。チェルフィッチュ(岡田利規)、期待してたけど舞台のビデオ上映かよ。灰野敬二もビデオ。大音響じゃないので、つまらん。しかもヘッドフォンが数個しかない。週末の混雑時、どうするつもりか。ハプニング系の戦後日本美術の記録映像を何本も流しているのが玄人好みだけど、いかんせん画質わるすぎ。音もなし。背景音楽に流れるクラシックがミスマッチ。伝説の電気服をちょっとだけ。赤レンガでは唯一、ツァオ・フェイ(曹斐)のアーケードゲーム「プレイ・ウィズ・ユア・トリエンナーレ」が目を引いた。シルバ・グプタは新港ピアにも展示があったけど、こっちの「私たちの生きる時代に」も含めて、インテリ好み狙いのあざとさを感じた。

こうなったら、とことん不満を抱いてやる。さらに足元がびちょびちょになり、寒さと怒りに震えながら、大桟橋の国際客船ターミナルへ。エルメス提供の「H BOX」のキャパが狭すぎて不満。10人も入ったら満員。せっかく雨中を遠くまで歩いてきたので2~3本眺めたけど、何十分も立ったままで見る価値のある映像なんて皆無。もうちょっとカネかけろや。ちなみに、大桟橋には「にっぽん丸」が停泊中。このイギリス人の建築も、雨の日の徒歩客には不親切だなあ。

ほとんど殺意を覚えながら、もうひとつのメイン会場、日本郵船海岸通倉庫へ。一部から雨漏りしているのはご愛敬だが、2階は、とくに名を上げるほどの印象はなし。手間がかかってるのは、ジョーン・ジョナス「物のかたち香り感じ」ぐらいか。小杉武久「レゾナンス」もまあまあ。3階は、マリナ・アブラモヴィッチ(地味)、マシュー・バーニー(過剰で冗長)、ロドニー・グラハム(ケンカ売ってんのか)、といった人気作家が並ぶ。でも、ポール・マッカーシー「カリビアン・パイレーツ・パイレート・パーティー/ハウスボード・パーティー」とヘルマン・ニッチュ「(作品名失念、こういう重要な情報が書けないんだよ!ヴォケ!)」の強烈な気持ち悪さで、すべてが台無しに。作品の制作意図はあるていどわかるけど、多くの観客にとってはアートの名を冠したテロでしょ、これ。あと中西夏之は大好きだけど、なぜここにこんなにたくさんのスペースと作品が? 他の作家のスカスカさ・手抜き感と比べてアンバランス。オノ・ヨーコも貨車を旧横浜港駅のホーム横に置いた前作「貨物車」はよかったけど、今回は伝説の「カット・ピース」の再演ビデオ上映。手抜きだな。BankARTと同居している1階は、なんといっても勅使河原三郎のガラスの部屋「時間の破片-Fragments of Time」がすばらしかった。でも、ちょっと既視感が。15:00から田中泯のパフォーマンスがあるらしいけどスルー。

今回のトリエンナーレ、全体のメインテーマが「タイム・クレヴァス」ということもあって、映像作品やパフォーマンスが多いようだ。だが、そもそも、大型の液晶テレビがリビングに鎮座し、ネットやケータイでも映像が眺められる時代に、画質や音質以外の面でも完成度の劣るシロウト以下の「できそこない映像」を強制的に限定して見せられるのは、ものすごく腹が立つ。せっかくのマス相手の大きなイベントなのに、せいぜい100人しか見れないパフォーマンスだらけ。ハプニングの一回性とか、クソ食らえ。

ついでに日本郵船歴史博物館そのものも見学。みんな、ほとんどこっちは見に来ていないけど、液晶画面の解説がビジュアルで分かりやすい。展示データも最新のものばかりで丁寧。太平洋戦争でどれだけの船と人員を失ったか、という数字が胸に迫った。それにひきかえ…。ますます怒りが。

再度、赤レンガ倉庫1号館と新港ピアへ。会場案内図が見にくくて見逃していたテレンス・コーとミランダ・ジュライ、フィッシュリ&ヴァイスとインフォメーションセンターをチェック。F&Wは、かわいいけど、カメラアングルがのべつまくなしに回転しているので、ずっと眺めていると気持ち悪くなるのが、作家の意図だとしても、素で不愉快。大巻伸嗣の展示は気がつかなかった。というか、市内各所を移動って「見てくれなくてもいい」というのに等しいよ。珍しく評判のいいらしい三渓園のサテライト展示と、ポスター採用で話題先行のランドマークプラザは後日。

とりあえず、1日歩き回った感想としては、トリエンナーレのすべてが怠慢だとしか思えなかった。ガイドブックを読み込んでみたら、MさんはともかくOさんが事務方の実力者なのか。あまり批判するのも申し訳ないか。いや、クリエーターたちの限界や甘さは忌憚なく指摘すべきだろう。「2008年の」「横浜で」「誰に向けてパフォーマンスなりコンセプチュアルなことをするのか」という切実な問題意識がまるで抜け落ちている展示が多くてがっかりだった。所詮は、現代アートの国際見本市。だが、地域性とグローバル性を両立させつつ、一定のクオリティを満たしたクリエイティブな作家と作品を準備し、現在美術の「今」を提示する責任が、キュレーターなり参加アーティストにはある。ミニマルとかビジュアルとかコンセプチュアルとかノイズとか見飽きたし、聞き飽きたよ。こんなことやってるから、日本の現代美術なんて、マイナーでなんの影響も与えない暇つぶしに終わるのだ。

次に、タクシーで日の出町駅へ。1000円で着いた。で、黄金町バザール。こちらも悪い予感が当たった。スタッフの数のほうが圧倒的に多い。というか雨のせいで、人出がほとんどない。というか、やはり黄金町は怖い、というイメージがまだ残っていて、訪れたい人もしり込みしているのかも。

気を取り直して、日の出スタジオ、黄金町バザールオフィス、初音スタジオ、コガネックス・ラボ、黄金スタジオ、横浜美術館withバザールと回る。点在するギャラリーの集合体なので、ギャラリーに行きなれているオレでも、ものすごく敷居が高い。ほとんど外からのぞくだけ。

どだい、数年前まで「ちょんの間」がずらりと並んでいた風俗の街を、自治体や警察がよってたかって根こそぎにして一度は「死んだ」街に、そういう経緯をまるっきりほっかむりして、自分たちの都合だけでハイセンスなカタギの客を呼び込もうというのには無理がある。ほとんど街を去ってしまったとはいえ、記憶には新しい、在日の人たちやアウトローの人たちの濃密な営みを積極的に取り込んでいるとも思えない。行政や商店街側による「街づくり」の、「つくる」という作為の一方的欺瞞性があらわになったイベントだなこりゃ。美術観、コミュニティ観、街づくり観。すべてにおいて認識が甘いんだよ。

でも、まあ魅力的な展示はいくつかはあって、田宮奈呂+me ISSEY MIYAKEや北川貴好、狩野哲郎、平野薫、壁マンガ「するめちゃん」、中尾宏嗣のゴルフ練習場の写真などは面白かった。縁側というか小上がり、土間のある長屋風スタジオ(みかんぐみ設計)も開放感があった。ぜひ次回は反省して、昼間から酒臭いおっちゃんたちにも分かるゲージツを展開してほしい。

夕方、日の出町でラーメンを食べ、横浜駅西口へ。北口からモアーズ、高島屋、相鉄、ビブレとロケハン。ネットカフェで一服。19:00すぎ帰宅。篤姫。
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