さとまゆ写真館

伊勢白山紀行と北海道の日常とお馬さんを紹介する写真館。
そして6人の子に囲まれた家族生活からの気づきの日記帳。

古木

2009年01月19日 | 白山ヒメ神社
神社には古木がつき物ですよね。

わたしの生まれた九州の神社では、クスノキとかイチョウの古木が
数本そびえ立っていたのを思い出します。
(秋になるとイチョウの下は銀杏臭かったなあ・・・)

現代人の生活においては自然は一部に残されているもので、
人間が住む(存在する)場所は人工的なものが当たり前になっているように感じます。
マンション、ビルディング、公共施設・・・たいていコンクリートが中心。
自然が当たり前に思える公園でさえ、人工的な景観のための木が植えてある程度。
でも、こういった現在の状況になる前には、神社の周囲にあるような
少なくとも数十年続いたような自然があったものです。

わたしの中では自然とは有機的なものというイメージがあります。
無機質なものでなく、植物や動物など“命”あるものが協調しながら
存在する空間・・・そして何ものの介在もなく継続する空間、時間・・・
それが自然というものなのだろうと思ってきました。
田んぼや畑、ため池や用水路、こんなものも命を育み守る自然の一部と感じます。

この定義に当てはまる自然は、現代人が住み着いた場所には少なくなってきていると感じます。
これは北海道でも同じです。
街中から一歩出れば、まさに「大自然」がたくさん待っていますが、
やはり人がたくさん住む場所は本当の意味の自然は無くなっていってる気がします。

現代人が生きていくということは、自然なことではなくなってきているのでしょうか?
昔の人が生きていくことは自然なことだったのでしょうか?
少なくとも現代のヒトは昔のヒトに比べ、自然から遠くなってきていると思います。
燃料を使い、無駄なものを捨て、重い鉄の塊で踏み荒らし・・・
一人の人間が周囲に撒き散らすものを冷静に考えてみると、
とても自然とのバランスが取れるとは思えません。

しかし、すぐに今のこの生活を変えようと思ってもわたしには無理です。
仕事などの社会的な面でも、個人のエゴという面でも、今の生活を大きく変えることは
とても勇気がいるストレスの大きなものです。。

地球は今、こんな現代人が生きることを許してくれています。
わたしのようなわがままな人間が生きることを容認してくれています。
まさにいかしていただいている状態だと痛感します。
せめて、必要以上の無駄を無くし、すべてのこと(ありとあらゆる全てのこと)に
感謝を感じ、素直にその感謝を表現し、生活の中心とすべきなのではと感じます。

食べる物、嗜好品、趣味の品、自動車、雑貨、家具、ありとあらゆるものの無駄を無くし、
「肉体世界の土台となる地球に掛ける負担を少しでも軽くしていくように・・」
という気持ちをきちんと思い起こせる生活をしていきたいものです。