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『くの一忍法』、日活でポルノの草分けに?!~「愚者の旅」より

2006年09月13日 11時30分59秒 | 倉本聰さん関連

さて、前に予告しましたとおり、中島貞夫氏(親友であり、倉本さんの東大卒業に大いに貢献してくれた人物)が絡んだ一件を書こうと思います。

はちゃめちゃな映画界(当時は既にテレビに押され気味)へ飛び込みつつ、テレビの仕事をしていた倉本さんの、更なる開眼となった出来事と、人との出会いについてです。
理論社刊「愚者の旅」より抜粋

『突然京都撮影所にいる大学時代の親友中島から電話が入った。
「お前、東大時代のこと覚えとるよな」
「勿論憶えてる。お前のおかげで卒業出来た。あの御恩は忘れない」
「その御恩をお返ししたいと思ってるだろ」
「そりゃ思ってる」
「よし。実は今度オレ一本になる。監督昇進だ。ついてはそのホンをお前書け。御恩をお返しする絶好のチャンスだ。京都に来い」

それで京都にのこのこ出かけた。』

なんちゅー会話でしょうか(^_^;)。
まァとにかくこうして倉本さんは京都太秦、東映撮影所へ行ったわけです。倉本さんいわく、撮影所そのものがやくざの世界。撮影所長が岡田茂。その柄の悪さ、体のでかさ、声の大きさ、てっきり本物のやくざだと思った──ってこの人、後に東映会長にまで昇りつめちゃう人です。
その岡田氏の言葉がまた凄い。

『中島(こいつ)は当たる映画がちっとも判っとらん。それで面白い原作をとってきてやった。山田風太郎の“くの一忍法”や。女という字を分解して“くの一”や。女忍者がセックスを武器に男の忍者と闘うんや。エロや!全編これエロ、やりまくりや。うちの女優をバンバン脱がす。全く新しい時代劇や。映倫が目え剥くシナリオ書いたったれ。全国の映画ファンを勃起させるんや。当たるでぇ!これこそヌーベルバーグやでぇ!
(これブログに載せて大丈夫なんだろうか・・・?)

結局中島氏と二人でカンヅメになって「くの一忍法」のシナリオを書いた倉本さん。

『何しろもの凄い原作である。(中略)照れずに書こうぜと励ましあいながら
もしばし中島と溜息をつき合い、東大美科の教授が知ったら何と云うだろうと囁き合ったものだ。

とにもかくにも書き上げると、東映でも何と御前本読み(重役が居並ぶ前で、ライター自身が己の書いたシナリオを全て朗読して聴かせる儀式)があるという。書くには書いたが人前で「忍法筒枯らし!」なんて読めるもんじゃない。ジャンケンで負けた中島が結局“御前”で読むことになったが、岡田茂は一寸見事としか云いようがなかった。
目を閉じ腕組みし、汗を流しながら朗読する中島の本読みをじっと最後まで聞き終わるや、あすこはこうせい、あすこはもっと過激にせい、あすこは“くの一”にヒイヒイ云わせい、ラストのつめは甘すぎるから三分の一位削ってしまえ、と、何とも的確なダメが出るのである。この人の集中力と批評眼は天才であると感嘆したものだ』


結局「くの一忍法」は大ヒット。倉本さんは本邦ポルノの草分けとして、中島氏と一緒に、日本映画史に名を残すことに・・・なったのでしょうか?(詳しい方がいたら教えてくださいm(__)m)

さて、ここで唐突ですが、倉本さんの当時のポリシーらしきものが書かれています。

『シナリオライターとして独立するとき、ひそかに心に決めたことがあった。作家と云われるのはずっと後でいい。とりあえずは右から注文が来ても左から注文が来ても直ちに応じられる能力を持ったシナリオ技術者になろうということであった。
板前にしても植木屋にしても、基礎的技術をマスターする為の長い下積みの期間がある。ところがシナリオを目指すものは、二、三本書いて世に出るといきなり作家になった気になってしまう。アマチュアとしてならそれで済むだろうがプロとしてはそれでは通用しないだろう。
本当に書きたいものは後にとっておき、仕事をしながら技術を磨こう。だからこれらを鍛錬の時間と自分の中で必死に位置づけた。


ということで、加藤道夫氏、ジロドゥの世界に燃えつつ、一方で久保栄のリアリズム、小津安二郎のセリフ術、特に当時弱点であると自覚していた構成力を磨くために、橋本忍氏、菊島隆三氏、あるいは鈴木尚之氏の脚本を読み漁り、分析していたのだそうです。

昭和40年代前半、TBSで向田邦子さんと共作し、親交が深まったのもこの頃。
ただし、このあたりで倉本さんに対し、テレビ界の中で悪評が立ち始めます──。

役者に対し台本の一言一句も直すべからずと、そう命ずるという悪評である。どうもその当時僕という人間は、礼儀知らずで、鼻っ柱が強く確かに困った奴だった気がする。しかしそれはいささか事実に反している。

物事には前後があるもので、間接的に耳にするとき、そのものズバリ“だけ”を妄信してしまうことが多いのは確かです。
つまり倉本さんが言うに、当時は(今も?)役者、演出者が勝手に台本に手を入れ、それを黙認するのが当然に行われていた、ということ。
それはある程度、よしとして、台本の語尾をいじられることは本当に困ることなのだそうで──

『たとえばインタビューを受ける。先輩のことを聞かれて「あの人はすばらしい俳優です」と答えたとする。それを記者はさしたる悪意もなく「あの人はすばらしい俳優だ」と記事にしてしまう。

些細なことと思われるかもしれないが、「です」が「だ」になると何となく僕がその先輩を下に見ている印象になってしまう。語尾は人間の位置関係や性格を表す上で極めて重要なものなのだ。
無神経なインタビューアー、役者たちは平気でその語尾を変えてしまう。それが余りに目にあまったものだから、ある本読みの席で切れてしまった。
その発言が流布されてしまった。若気のいたりと云えなくもない。しかしとにかくその頃僕は、テレビの脚本家の地位の低さに腹を立てていたことはたしかである。


・・・このくすぶった怒りと生真面目さが、後の大事件勃発(NHK事件とでも申しましょうか)の引き金になるのはほぼ間違いないような気がしてきました。

とにかく!
そんな状態でも、倉本さんには仕事が来つづけました。それは本人の分析によると「筆が速い」の一点。それが自分を守ってくれた、と本では書いています。

さて、次はどこへタイムスリップしようか──と思ったのです、が!
私もいい加減この本読了しなきゃな~と、頭を冷やして考えなおしました。
だらだら読んでいるのが、この本に関しては気持ちよかったんだけれど、読書すべき本が本棚で「まだかよ!」って顔をして待ってるような気がする…(-_-;)

でも。
でも、でも!せめて東京脱出(というより、いわゆる都落ち)のあたりまで、書きたかったんですよね…。倉本さんの最大の傷口ですが、ギョーカイの恐ろしさを赤裸々に描いた出来事ですから。それをファンである私が押し拡げてどうする!って気がするんですが・・・。

──余裕があったら、やっぱりチャレンジしたいと思います。

ではでは!またすっかり長文になってしまいましたが、読んでいただいてありがとうございます。
とりあえず、今回はこのへんで・・・m(__)m


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