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劇団四季への怨念?~「愚者の旅」より

2006年08月04日 15時51分30秒 | 倉本聰さん関連

前回は倉本さんのサラリーマン時代にちらと触れました。今回はそこから学生時代にタイムスリップ。
『倉本聰VS. 浅利慶太氏』がテーマです。(理論社刊「愚者の旅」より抜粋

倉本聰氏本人によると、だいたい中学時代から本格的に演劇にのめり込み、加藤道夫氏(劇作家。昭和二十八年自殺。夫人は女優・加藤治子さん)や、ジャン・ジロドゥに溺れていたそうです。
当時(昭和二十年代中盤?)はシナリオなど一般に売られているはずもなく、西欧の映画から採録したシナリオ(英語と日本語を並べて載せた冊子)を映画館で買い、これを後にテレビ創世記、シナリオのノウハウがない時分に随分役立てたそうで・・・。

さて、学生時代からシナリオを書き続けるも、家は貧窮のどん底(高校生時代に父親が死去)で、原稿用紙など買えるわけもありません。たまに手に入っても升目に書くのが勿体なく、升目を無視してぎっしり、裏にも書く──。どこに発表するわけでもないのに執筆し続け、平行して東大受験、および浪人生活を、やっぱり演劇に費やし、のめり込んでいった様子・・・。

昭和三十年、倉本さんはやっと東大合格(経歴は東京大学文学部美学科卒業)。
この頃、加藤道夫氏の教え子と噂の浅利慶太氏(倉本さんより2歳年上)が劇団「四季」を旗揚げします。舞台を観て感動と嫉妬にかられた倉本さんは
「大学入学後には『四季』に入る!」と決意しました。

大学では一人の親友が出来ます。後に東映・映画監督になる中島貞夫氏。二人はお互いに書いたものを演出しあって、駒場祭で何度も上演していたそうです。
そんな時代のあるエピソード──。

『ある日駒場の大学新聞から、学生三人が集められ「駒場文学を語る」という鼎談(ていだん)をすることになって出かけていったら初めて逢う二人の学生がいた。一人は凄く感じの良い学生で後に芥川賞をとる柏原兵三。もう一人はやたら感じの悪い奴でこれがノーベル賞をとる大江健三郎
。(中略)

いつだったか新幹線の中で大江とばったり逢い久しぶりにしゃべった。彼いわく、「昔大学新聞で鼎談をした。一人が凄く感じの良い奴で柏原兵三、もう一人が凄く感じの悪い奴で倉本聰。って話を講演ですると受けるのよ。」──こっちも思わずアッと驚き、俺も全く同じこと云ってる!  大笑いになった』


・・・なんか文壇のオールスター合戦(後々は業界のオールスターになっていくんだけれど)みたいなことがさらりと書かれています。
(大江さんってやっぱり感じ悪いんだ・・・^_^;)

本題から離れてしまいました。とにかく倉本さんは大学の授業なんてろくに出ず、劇団「四季」に気持ちがまっしぐら。(ひたすら加藤道夫氏にあこがれまくっていた)
そして、誌上かなにかで『劇団四季劇団員募集!』の広告に飛びつきました。
ところが歯車が狂ったというか、ちょっと困ったことが起きてしまいます。文芸部を希望しているのに「演技の試験もします」といわれてしまう。弱ったあげく、思い切って受ける!と決意したのが運のつき・・・。

『最初が筆記試験。これはチョロかった。全問記入して読み返していると隣から袖をつつく奴がいる。見ると隣の青年が見セテヨ見セテヨと囁いている。見せてやった。午後は実地。まず音感テスト。高校でコーラスをかじっていたからこれはまァOK。次にセリフ。「アンチゴーヌ」の一節のやりとり。うまく出来たかどうかは知らないが、出典がはっきり判ったぐらいだからこれもまァ一応余裕で終った。
問題はその後。


「パントマイム」と書かれている。マルセル・マルソーの来日する前でこの言葉を実は知らなかった。蒼くなってさっきの隣の席の青年に「何々コレナニ?」と質問したら、ジェスチュア、ジェスチュア!とそいつが吐きだした。NHKテレビがようやく開局し、ターキー金語楼の「ジェスチュアゲーム」が当時一世を風靡していた。ああジェスチュアかと納得したがその課題たる内容がものすごい。

「あなたは今死の世界にいます。窓の外を見ると一輪の花が咲いています。あなたはそれを摘もうか摘むまいか迷います。摘んだら生の世界へ戻されるかもしれませんし、摘んだことで永久に死の世界から戻れないかもしれません。さて、あなたはどうしますか?

頭に来たから四十余年たった今でも鮮明に覚えている。一体これをマイムでやれとはどういうことであるのか。今の四季の役者はこれが出来るのか。大体、さて、あなたはどうしますか?というフレーズは、マルセル・マルソーにも演じられるのか

怒りが満ち満ちています。・・・なんて、私の意見なんてどうでもいいですね。さっさと続き!

『しかし仕様がない、やったのである。

浅利慶太奴(め)が傲然(ごうぜん)と見る前で、真っ赤になって僕はやったのである。
未だに浅利には殺意を覚える。

その晩やけくそで駅前のバーに入ったらバーテンが「ア!」と僕を指さした。今日試験のとき隣席にいて、カンニングさせてやったあいつである。
「いやぁ本日は大変お世話に!」
青年は柿の種をサービスしてくれた。後にNHKの「事件記者」で名を売ることになる山田吾一である。吾一は受かった。僕は落ちた。
劇団四季の看板を見るたびに、僕の心の古傷が痛む。』
 

──すみません、また笑ってしまいました。
山田吾一さんって倉本さんの作品には出てないのかなぁ。私の記憶にはないんだけれど、知っているかたがいらしたら教えてください。(しかし、バーテンをやっていたとは恐れ入りました)


今回は大失敗ではなく「赤っ恥」ですね。これはさすがに誰しも経験があることではないような・・・(^_^;)。

のちに倉本さんは教授と中村俊一氏(※注1)のつてで「仲間」という劇団に見習い待遇で入り、大学そっちのけで入りびたることになります。
(大学にひょっこり出席したときの青ざめっぷりも結構笑える・・・)

この『劇団四季事件』。またもや他のエッセイにも違う書き方だったけれど記されていました。だからまたこうして目にして、よっぽど腹の立つ出来事だったんだなぁと改めて思ってしまった。

倉本さんに駄目だしされた多くのスタッフ、役者さんたちがこれを読んだらどう思うだろうか・・・?

※注1)俳優座養成所講師から劇団「仲間」結成を主導し、1980 年に急逝。
一貫して劇団の指導にあたり多くの作品を創り出した。幼少期から質の高い演劇に接することによって子どもの感性を高め、成人後も芝居を愛する感覚を──との狙いもあり創立当初から児童・青少年演劇に力を入れた。
代表作:『森は生きている』『モモと時間どろぼう』他


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